国立歴史民俗博物館

1月18日、野田ガーデニングクラブ会長の肥後さんと佐倉にある国立歴史民俗館に行きました。
肥後さんも歴史好きで以前歴史民俗博物館の会員になっていました。私は暗くなっての運転が得意でないため、東武線の川間駅まで行き、そこか運転の得意な肥後さんの車で佐倉に向かいました。歴史民俗博物館には昨年初めて肥後さんと同道して行きましたが、時間が足らず途中で切り上げたこともあり、今回はその続きになりました。

私は千葉県の交通事情に疎く、野田から佐倉まで結構距離がありますが、肥後さんは混雑する国道16号を使用しないで、印旛沼の近くを通り、直接佐倉に向かいました。

佐倉に行く前に肥後さん宅に寄りました。薔薇の冬の剪定を終えてガーデンはすっきりしています。肥後さんはまた別な場所に100坪の土地を借りて、様々な果樹を楽しんでいますが、地主の都合で別な場所に移動することになり、一部は庭に植えたものの大半の果樹は移動する必要があり、根が抜けないので機械を持っている人に依頼して木を掘り上げています。

ガーデン作業は些細な事でも変化を行うと物凄い手間がかかりますが、肥後さんは持ち前のパワーで挑戦している最中でしたが、本日は多忙の中の休暇の1日です。

知らない道を辿って佐倉の歴史民俗博物館に着きました。肥後さんは私と大して年齢は変わらないのに、四駆を駆使して昨年は九州や北海道まで出かけています。

肥後さんは九州男児で我が国を代表する鉱業会社で前半は各地の鉱山で勤務してきました。私は鉱石や鉱山について全く知識が無いので、肥後さんのうんちくはとても貴重です。

昼食には少し早いのですが、館内のレストランで事前に食事を採りました。前回、料理がとてもおいしい印象があったので、昼食は最初から館内のレストランと決めていました。このレストランのお米は古代米を使用しています。ここのハンバーグは絶品でした。

また歴博はミュージアムショップと書籍売り場が充実しています。書籍売り場では歴史関連書がまとまって揃えており、各地の博物館が発行した図録も購入することもできます。不思議なことに図録は、やはり現地の博物館で購入する方が一期一会の楽しみがあるように想います。

歴博は企画展を除いて下記の6つのスペースに分かれています。

前回は、第1展示室の先史古代、第2の中世、第3の近世と回って中断したので、今回は明治以降の第4展示室から近代、現代と見学します。

第4展示室の民俗はディスプレイ中心の展示のため、時間はかからず、第5の明治からの近代、第6の戦前戦後の現代は、おおよそ頭に入っている歴史のため時間はかかりませんでした。

ただ子供の頃接した漫画や書籍や絵に出会い、とても懐かしく感じました。

人は誰でも歳をとると子供の頃が懐かしくなるものです。亡くなった高校の恩師が歳をとると子供の時好きだった趣味に還ると良く言っていました。

私は小学校低学年頃から西部劇と戦争映画が大好きでした。今でも新聞一面に時々掲載される古い映画のDVD広告を見ると、ジャンルとして古い西部劇と戦争映画が必ず掲載されており、私と同じく子供の頃これらが好きだった人がたくさんいるのだなと想います。

私は小さい頃から隣のお兄さんに連れられて当時の西部劇や戦争映画はことごとく見ました。小学校3年になると1人でこれらの映画を見ましたが、それが中学生になって新たに日活映画が加わり、洋画の3本立を見る習慣は高校の中頃まで続きました。

上の絵は第2次上海事変の空中戦で、日本側の戦闘機は海軍90式艦上戦闘機で、勇敢に戦う中国側戦闘機は調べてみたけれど不明です。この色使いの絵がとても懐かしいです。

小学生時代、年上のいとこから戦時中の少年向けの雑誌を50冊ほど貰いました。毎号粗悪な紙に印刷した口絵が掲載され、陸軍重爆撃機「呑龍」や97式中戦車、さらには一式陸上攻撃機の編隊が「皇軍の行く所敵なし」のタイトルで描かれていました。口絵を見ながらいくら勇ましいことを言っても負けてしまったこれらの絵を見ながら、勇ましいながらも、子供心に一種の哀切を感じながら眺めていました。

粗悪な紙で粗悪な絵の具で描かれた絵は、クリヤな部分が一つもありませんが、かえって全体に色あせたような独特の味合いを感じていたのです。また雑誌の内容も濃く、毎号模型飛行機の図面が掲載されていましたが、制作がとても難しく、戦前の子供はレベルが高いなと子供心に感じていました。

しかし趣味が変わる時は恐ろしいもので、中学生時代に全て廃棄してしまいました。単行本は復刊されることもありますが、雑誌の復刊は皆無です。ですから雑誌との出会いは一期一会の世界です。このことに深く悔いているため息子には、過ぎ去った趣味の雑誌は捨てるなと言っていって、今でも納戸にプロレスの雑誌など保管しています。

博物館でこれら懐かしい絵と出会うとは全く思いませんでした。

懐かしい口絵画家の小松崎茂はプラモの箱絵を描いていましたが、人気があるので後刻画集が出版されましたが、つるつるの紙で印刷されると小松崎茂の雰囲気が感じられませんでした。氏はこれらの雑誌の絵を、机がないので裸電球の下でミカン箱の上で描いていたそうです。小松崎茂の絵は戦記物より大平原児の西部劇ものが好きでした。

子供の頃、キャラメルの箱に内蔵してあるカードを集め、景品と交換してもらう仕組みがあり、その中でも紅梅キャラメルとカバヤが双璧でした。右上の児童文庫はその景品でした。カバヤは景品本を1回交換しただけなのでカバヤの仕組みは憶えてなく、カバヤ本の粗悪な紙に印刷され字がよく読めなかったことだけを憶えています。粗悪な紙と言っても当時は紙の品質は悪いのが普通で良質な紙は新聞紙位で、一般家庭では便所紙に使われていました。カバヤ製菓では当時カバの形をした自動車が拡声器を慣らしながら走り回って宣伝をしていた記憶があります。

紅梅キャラメルはどういう人が考案したか知りませんが、当時の野球好きな少年たちを熱狂させました。

キャラメルの中のカードを集めてジャイアンツのチームを作り、出来上がったら市内にある交換所でボールやグローブなど野球用品と交換するしくみです。またチームメンバーの他、たまに箱の中に本塁打、三塁打、二塁打などのカードが入っていて、塁打の数だけ新しいキャラメル箱を貰えました。

しかしチームメンバーで水原監督のカードがめったに出てきません。出てくるのはピッチャーばかりで、とうとう1チームしか集まらず、スポンジボールと交換したことを覚えています。また赤いキャラメルの箱の印刷の色が霞んでいたら本塁打のカードが入っていると信じて、駄菓子屋の店頭で仲間と箱選びから熱中したものです。しかしあれだけ熱狂させてた紅梅キャラメルもカバヤも急速に人気が衰え消えて行ってしまいました。

上と下の画像はそんな時代に読んでいた本すが、これらを眺めていると、こずかいを貰うと直ぐに向かった、市内の火の見やぐらの下にある駄菓子屋さんとおじさんを想い出してしまいました。たわいのないことで夢中になった子供時代でした。

山川惣治の少年ケニアは読んだことはなく、むしろ雑誌連載の「砂漠の魔王」を愛読していました。「砂漠の魔王」の山川惣治の絵はもっと緻密だったような気がします。

右の児童文庫はあまり読んだことはありませんが、潜血のモヒカン族の画像を見て、杉浦茂の「モヒカン族の最後」の漫画を想い出しました。杉浦茂は大好きな漫画家でフアンも多かったのでしょう.私が20代の時に「モヒカン族の最後」は復刻されて購入した記憶があります。

少年雑誌では主に「少年」を愛読していましたが、「冒険王」の画像の「いがくりくん」のタイトルを見つけ、冒険王も読んでいたことを想い出しました。

タイトルに新年号12大付録とあるように、当時は付録が豪華で魅力的でした。漫画「いがくりくん」は付録になった記憶がなく、多分この号辺りには既に購読を止めていたかも知れません。

柔道漫画「いがくりくん」は当時私たち少年を熱狂させました。今でも覚えているのは全国中学校柔道選手権で、「いがくりくん」の強烈なライバルである北海中学の「熊川」との対決がトーナメントで近づいてきました。そして両者順調に勝ち進み決勝の相手が「熊川」と決まり、仲間も皆、次号の発売を心待ちしていましたが、突然作者の福井栄一が亡くなるといった稀有の事態が発生し「いがくりくん」雑誌そのものも中断されてしまいました。

皆、今か今かと新しい号の発売を心待ちしていましたが、やがて新しい作者が引き継ぎました。早速購入して読んでみると、今一でがっかりして、私は少年雑誌の購読事態も止めてしまいました。その頃が私の少年雑誌から離れる頃合いだったのでしょう。

その後「冒険王」は急速に人気がなくなったような気がします。歴博の展示で大昔の出来事を突然想い出してしまいました。

再び、先史、古代の世界へ

歴博の内容で圧倒的な展示は、やはり先史・古代、から中世、そして江戸時代の近世です。

特に縄文時代から弥生時代、古墳時代、そして大和朝廷の成立、仏教の受容、律令制までが、展示も新鮮です。私の興味も、新しい研究によって従来の弥生時代の解釈から米作り、地方の国づくりにいたる弥生時代、その延長での古墳時代、そして中央政権が始まる纏向遺跡あたりまでの歴史に変わっているため、改めて歴博の展示は得るところがありました。 

歴博の縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良の区分

歴博の図録による先史・古代の分類は1万年以上前から紀元前8世紀頃まで縄文文化、これと重なりますが紀元前10世紀ごろから水稲耕作が始まり紀元1から2世紀までが弥生文化、その中でも紀元前1世記頃から倭が登場し2世紀後半から6世紀まで古墳文化、7世紀は飛鳥時代、8世紀は奈良時代、9,10世紀は平安時代と区分しています。

近年の炭素測定の進化によって、我が国における水田稲作が紀元前10世紀頃から始まったことが判明し、水稲開始時期が約1千年も早まり、紀元前4世紀には国内各地に浸透し、従って弥生の文化の時代が、縄文晩期と重なって1,000年も長くなりました。

私が子供時代から学んできた弥生時代は、渡来人によって水稲耕作技術がもたらされ、縄文人たちに変わって本格的な水稲耕作が開始された前1世紀から3世紀の半ばまでの約400年間とされてきました。

そして弥生時代末期に邪馬台国の卑弥呼が登場し、日本が統一されそこから古墳時代を経て飛鳥時代になり文字が伴った歴史の時代になったとされてきました。

しかし個人的に先進的な古代史の著作に親しみながら、いろいろ古代史を想像して楽しんでみると、縄文文化が渡来人によって駆逐され、弥生の稲作集団組織文化に急速に変化したわけでなく、縄文の先住人と縄文海退によって新たに耕地を求めて移住してきた海人族との長い間融合の結果、列島内で熟成されて縄文文化に、新たに灌漑式稲作技術を持った渡来人たちに刺激を受けて弥生文化が始まったのでしょう。

従来の古代の歴史観は西洋の弱肉強食の歴史観が前提になっていたように感じます。西洋の歴史は、ある民族がより良い土地を目指して侵入したり移動して、そこで平和に暮らしていた先住民が追い出され、或いはある民族が各地を統合し従来の氏族はその傘下に入り従属されるという歴史観です。確かに広大な大陸の歴史は、海上より陸上の方が侵略や移動が容易なため弱肉強食が当てはまります。しかし国土の70%が森林=山地の我が国の風土を見渡すと、大平原は少なくあっても河口の氾濫原であったりし、古来人々が暮らしたのは盆地や山襞の扇状地であり、深い尾根の隣は別世界の世界です。これは現代の山間部の地図を見ても、或いは現地に行っても、尾根の峠を越えなければ隣の谷には行けません。河口近くの平野で稲作を始めたのは、治水がある程度完了し埋め立てが出来始めた江戸期以降です。

高温多湿の我が国は大陸のように水の確保の心配もなく、山の裾野で山から流れ落ちる沢が開けた扇状地で水稲耕作を行い、尾根を隔てた隣の谷との水争いは生じません。

たとえば扇状地から平野に開発が変化していく歴史で見た場合、埼玉県に例にとると、埼玉西部の山裾を通る所沢から本庄、深谷の鎌倉街道本線(旧中つ道)の西寄りに連なる山裾の扇状地が、鎌倉、室町時代後期までの埼玉の先進地でした。

開発の流れが変わるのは室町後期に足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し初代古河公方となってからです。古河は利根川水系の下河辺荘を基盤とした幕府の御料所で相模と並ぶ関東における室町幕府の経済的基盤でした。この後、戦国の草分けとなった両上杉と古河公方との三つ巴の戦いが繰り広げられますが、家臣団の確保や各地の城づくりなどで河川氾濫地帯であった埼玉東部は急速に開発されたのです。

ヨーロッパの歴史を見ると、最新鋭のローマの文化がどこの地域から浸透して行ったか、そしてローマがほろんでしまって直接ローマ化が行われなかった地域が存在し、そのごのヨーロッパ全体の歴史に大きく影響を及ぼしています。

たとえばローマ化の機会がなかったドナウ川以北のヨーロッパ、キリスト教がイングランドを飛び越えて先に入ったアイルランド、西欧でローマ化が行われなかった地域で神聖ローマ帝国発生した歴史、などを時々考えます。

我が国の歴史において、古代、新しい文物は中国や半島から導入されたと一言でかたずけられ曖昧にしています。

ヨーロッパでローマ化した地域と同じように、東アジアの先端文化は紀元前1,2世紀の漢帝国から始まり、前漢の武帝によって西方の進出完了後、興味は東方に向い前1世紀には衛氏朝鮮を滅ぼし半島最南部を除き進出し楽浪郡他4郡を設置しました。しかし楽浪郡以外の3郡は直ぐ廃止し、半島北半分の楽浪郡だけが3世紀初め高句麗に滅ぼされるまで設置されました。この前漢による楽浪郡の設置こそが東アジアのローマ化と想います。

2世紀には後漢が楽浪郡の南に帯方郡を設置し半島は最南部を除いて東半分は漢帝国になりました。

しかし半島北部はもともとツングースの騎馬民族の影響が強く、漢帝国も後の高句麗に対して半島の拠点確保に苦労しますが、半島のローマ化された楽浪郡や帯方郡は、東シナ海を隔てた遠い世界でなく、半島に渡れば漢帝国は直ぐ近くでした。

3世紀になると半島北部の高句麗の他に南部に馬韓、辰韓、弁韓が成立し、後にそれぞれ百済、新羅、伽耶になり、3世紀初頭には高句麗が楽浪郡を滅ぼし、半島各国はそれぞれ独自の道を歩み始め、半島南部に拠点に近い深いかかわりを持った倭国は、半島の情勢に巻き込まれ、再三の出兵を余儀なくされました。


歴博の図録では、前漢の楽浪郡の設置によって、ここから倭人は中国との本格的な交流を行うようになり、楽浪郡を通した漢王朝の交流には外交文書をかわすために文字や印鑑が必要になり、ここで倭人は東アジアの文明社会の一員になったと記されています。

倭の対外交流は朝鮮半島南部を越えて広がり、日本列島各地の様子と関係を変えて行ったとあります。

弥生文化初期の時代は九州北部や日本海沿岸地域が先進地でした。弥生後期1,2世紀には鉄器などは東海や関東に移動しました。

一昨年三輪山から山の辺の道を歩き、纏向遺跡や箸墓古墳に行きました。

纏向遺跡は山の辺の道したに拡がる広大な遺跡で、広大すぎるため調査済は2%で、未だ発掘中です。発掘の成果は余り公表されていませんが、大阪湾から大和川を遡って三輪山にどん詰まり地域で、この遺跡から日本各地の土器も発掘されており、水運の盛んな我が国初めての統一王朝の首都だと言われています。

私にとって我が国の古代史の大きな謎が2つあります。1つは鉄製造、2つ目は古代舟の全貌です。

我が国のあらゆる歴史書や歴博も鉄の製造は5、6世紀という説を唱えています。その理由は5,6世紀になるまで古代の製鉄遺跡は発見されてないことです。

半島や大陸と異なり、アジアモンスーン地帯の高温多湿な我が国において鉄は土壌に還ってしまい、土中に埋もれる以外現代では発見できません。山を崩し沢から水路を引き水田をつくる灌漑式稲作では鉄器の使用が不可欠です。更に3世紀中ごろからの巨大古墳の造営にも鉄が無かったら不可能です。これらの鉄は全て半島から輸入していたと言われていますがどうでしょうか。

我が国では江戸時代末まで、砂鉄を集めて鉄を生産してきました。砂鉄は日本中どこにでもある資源です。それより鉄を作るためには1000℃を軽く越える高温で原料を溶かさねばできません。高温多湿の我が国では木材が豊富で、山中でも風の通る野たたらを利用すれば、鉄づくりは可能と想います。


もう一つ古代史の大きな謎は舟です。

右上の舟は古墳の副葬品の埴輪を基にして拡大した模型です。楠の巨大な丸木舟をくりぬいた上に、板を張り合わせて装着した準構造船です。右は国立博物館の「出雲・大和」展の図録から掲載させていただいた、奈良巣山古墳から出土した準構造船の板の模造です。楠の胸板と杉板の舷側板が組み合わされていて板の長さから推測すると舟の全長8mです。

また崇神天皇14年に伊豆より大船を献納すと史書にあり、軽野船と呼ばれ長さ30mあったと言われています。伊豆狩野は足柄山の木を使った造船の拠点であったと言われています。

縄文海進によって三内丸山に集落ができたように、海人族は舟で川を遡り内陸に居住し、海退期には海が引いた内陸の小さな平野に居住し稲作を始めたと想像します。縄文から弥生にかけて神津島の黒曜石が伊豆をはじめ関東各地で使われた痕跡があり、どのような舟で交通していたか、謎だらけです。

国立歴史民俗博物館は展示物も時々取り換えられ、飽きない博物館です。これからもたまに行こうと肥後さんと話しています。