信州の旅3、松本市街
信州の旅、3日目は長い間行っていない松本の街が気になり、市街を散策しました。
近年、数回松本の駅に降り立ちましたが、駅前の賑わいは昔日にほど遠く寂しいものでした。
若い頃からアルプスの玄関口松本には数え切れないくらい寄りました。町中を歩くわけでも無く、駅近くをうろつくだけですが、他の多くの岳人たちと共に松本の街には深く心を寄せて来た記憶があります。
学生時代は、毎年4~5回は松本に寄っていたと思うし、特に4年生の後半は、5月の穂高、8月の涸沢岩登り、9月の横尾尾根冬山偵察、10月涸沢岩登り、12月冬山横尾尾根から槍というように、毎月松本に降り立っていました。当時は鈍行の夜行では松本~新宿まで学割で500円で帰れたため、下山して夕方松本に着くと、夜行の出発の12時近くまで、各自500円だけを残し有り金を全て出し合い、4回戦位まで飲み食いを行っていました。4回飲み食いしても当時は物価が安く僅かしかお金はかかりませんでした。また山行の費用は交通費を除くと1日当たり燃料と食料で夏は150円、雪山は200円で、下宿している人間は山の方がお金がかからずに暮らせるために好んで山に向かいました。
山の食事は、ご飯の上にシチューやカレーをかけるどんぶり飯のため、下山すると一番食べたかったのはご飯とおかずが分けられている洋食でした。まず名前を忘れましたが、駅近くの洋食屋でカツライスを堪能し、次に養老の滝で安酒と馬刺しを味わい安いつまみで腹を満たし、その近くのお茶漬け屋で仕上げを行い、最後は多分山小屋という名の喫茶店で、出発迄の時間調整を行いました。全て駅周辺でしたが、当時の松本は物価も安く食べ物もおいしく、登山客や地元の勤め客で活気に溢れていて、アルプスの登山基地らしい独特な雰囲気がありました。夏になると深夜には駅構内では寝る登山者たちを見かけたり、松本城で寝袋で寝る登山者たちもいるという話も聞きました。
松本駅前が寂れたのは、主に長野新幹線が完成しオリンピック道路で白馬八方方面や黒部アルペンルート方面の急行バスが運行されたこと。登山口まで乗り換えなしで運行する高速バスが広まったこと。平湯トンネルの開通で宿泊の拠点が信州側から飛騨側に移ったことなどが挙げられます。
旅の前に、ネットで松本の街を見ていたらコミュニティバスが緻密に運行され、駅前の寂しさに反して、駅から離れた市街は活気があるようなので、久しぶりに松本の街を歩くことに決めました。
柏矢町駅(はくやちょう)
この駅の名前は読めませんでした。かしわやちょうと読んだりしましたが宿の受付の人がハクヤチョウと改めてくれました。
ネットで調べると、この駅名は合成語で駅の地元の柏原(カシワバラ)と矢原(ヤバラ)を併せて柏矢町(ハクヤチョウ)としたそうです。
心配していたタクシーは宿まで来てくれたので、時間通リ列車に乗れました。白馬山麓や安曇野は他の地方に比べるとタクシーはひっ迫していませんでした。
大糸線は大町~松本間は30分間隔で運行しており、発車時刻になると、乗客が2両連結のホームいっぱいに集まりました。ここまでの乗客は少なく、この駅から松本郊外のエリアが始まるような感じです。
松本駅に着きました。大糸線と同じホームに松本電鉄の上高地線が停まっています。上高地線を見ると心がときめいてきます。
松本で思い出すのは、大学4年生の夏8月の中旬、夏合宿の北アルプスの縦走を終えた仲間たちが、涸沢で岩登りの山行を行うために上高地で待機していました。電話の無い時代なので日にちを決めて、縦走に行かず岩登りにのみに参加する4年の私が1人で、15人分の1週間の食料を買い付けて上高地に運びました。当時スーパーが無い時代だったので、方法は松本の駅近くの米屋、八百屋、肉屋、パン屋、菓子屋、雑貨屋、燃料屋でそれぞれ調達し、時間を決めて松本駅前に同時に運んでもらい、それをタクシーに積み込んで上高地入りしたのです。夏の縦走は30人近くが4~5パーティに分かれて、劔や白馬、或いは笠からなど10日から2週間に亙って行い、半数が岩登りのために上高地に残り再び入山するのです。上高地では事前に日時と時間を告げていたので、皆が新鮮な食料を心待ちして待っていました。松本にはそんな思い出もありました。
松本市内にはタウンスニーカーというコミュニティバスが3コース20~30分間隔で運行されていて1日乗車券は500円です。神戸で2両連結の不安定な運航で苦労したためか、この松本の小型コミュティバスは、市電が運行していない地方都市のモデルになるように感じました。
松本駅構内の観光案内所に行き、市街の地図を頂きながら、予定している開智学校、松本城、松本市博物館、蔵通リ、旧制松本高校訪問を相談したところ、コミュニテイバスを勧められ、コース取りを教えていただきました。
旅に行くと必ず観光案内所により観光案内図を貰います。自家用車だと駅に近づけないので、これは都市交通機関を利用する旅人の特権です。
開智学校
国宝、旧開智学校です。事前にネットで知っていましたが残念ながら耐震工事でリニューアル中でした。
この開智学校は教育県である長野県の象徴となっていますが、この長野県そのものが当初から教育県と言われた訳ではありませんでした。
教育県と言われる誉れ高い長野県は、現在の県庁所在地の長野市で生じたのでなく、教育方針は筑摩県の県都松本から生じ、それが長野県全体に波及しました。
明治維新の廃藩置県によって現在の長野県は、北部の水内、高井、埴科、更科、小県郡などが長野県、南部の筑摩、安曇、諏訪、伊那と飛騨三郡が筑摩県となり、明治9年飛騨三郡を除いて長野県と筑摩県が合併して長野県となりました。
当初の長野県の県庁は中野に置かれましたが、一揆のため善光寺の門前町であった寒村の長野に移転しました。一方筑摩県の県庁は松本城内に置かれましたが、明治9年合併の際、火災で焼けたこともあり長野村に県庁が統合され、現在の長野が県庁所在地になりましたが、善光寺の門前町であった寒村が人工的な県庁所在地となったのです。これには背景として、新政府側に戊辰戦争で新政府軍側に組したとは言え譜代の松本藩に、他の有力な藩もある長野県の県都を置く気持ちは無かったのでしょう。
長野県は江戸時代から私塾や寺子屋が多く、医師、僧、神職、文人、村三役、商人たちの学芸が盛んな土地でした。
明治4年新たに筑摩県権令の永山盛輝は教育に積極的だったことから教育権令と呼ばれ「邑に不学の戸なく、家に不学の人なしを掲げて学校開設に大号令をかけました。学制発布によって設置された小学校は筑摩県656校、長野県339校に及び、就学率は筑摩県7割、長野県は5割を越え(全国平均35%)設置校数、就学率ともに筑摩県が全国一位長野県が全校二位を記録し、名実ともに教育県として、明治の世に新しいのろしを挙げたのです。
松本市旧司祭館です。明治22年フランス人のクレマン神父により建築され、以後100年近く松本市のカトリック宣教師の住居として使用されました。
明治34年司祭に就任したセスラン神父は和仏大辞典の編纂に取り組みました。館内に展示してあります。NHKBSTVで舟を編む10回シリーズを見ていたので、辞典を感慨深く拝見しました。
こういう建物を見ると地方都市にやって来たという感慨がわいてきます。現在の箱型の現代住宅は、我が国の住宅デザインについて何ら検討されずに普及してしまいました。
松本神社
明治元年の新政府の神仏分離令によって廃仏毀釈が行われましたが、全国の各藩で最も廃仏毀釈が激しく行われたのは、松本藩、水戸藩、苗木藩、富山藩、津和野藩、薩摩藩でした。藩主は自ら見本を示すべく菩提寺や墓所の寺院を廃し、藩士には仏式を改め神葬祭を命じました。松本市内にはいたるところに破壊された寺院の古材や墓地のみが残り寺院は廃墟と化しました。
このような状況を憂いた町方名主たちから寺社処分法について問い合わせが殺到し、そのまま学舎にしてもよいと布告がだされました。
旧開智学校は戸田氏の菩提寺全久院跡に町民たちが資金を出し合って建築したものです。
国宝松本城
国宝松本城です。乾小天守、渡櫓、大天守です。中学の時から全国歩いている旅好きな息子に名城を3つ問うたら、松江城、松本城、岡城、熊本城を挙げていました。その時松江城はまだ見ていなかったので、昨秋に行き、岡城、熊本城は同感でしたが、松本城は意外でした。最も松本城は学生時代に行った記憶があるだけで、その後は記憶はありません。たしか学生時代おとずれた松本城はあまり整備されていない天守だけが立派な風采の無い城のような気がしていました。
松本城は国宝でもありTV番組でもよく取り上げられています。そんなこともあり今回の松本散策には、松本城の私なりの確認の意味もありました。
乾小天守、大天守、辰巳附櫓、です。
赤い欄干の櫓が月見櫓、その横は辰巳附櫓、そして大天守です。
黒門です。元々松本には信濃守護小笠原氏の林城がありました。武田信玄は信濃守護の座を奪おうと諏訪氏討伐後は小笠原長時と抗争を繰り返し塩尻峠の合戦など小笠原長時を敗退させて林城から小笠原氏を追い出してしまいました。そして盆地の中心の現在の松本城付近の深志城を改築し、松本平の拠点とし、甲斐守護に加えて信濃守護に就任しました。
現在の松本城を築いたのは秀吉傘下の石川数正です。石川数正は私の好きな庭の京都の詩仙堂を作庭した当代きっての教養人でしたが、武人の貌と文人の貌の両方を持つ謎の多い人物です。
広大な本丸ではたくさんの牡丹が植えられています。
松本藩はその後、小笠原氏、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏と変遷し最後の戸田氏9代が1726年から明治4年まで6万石を領しました。
松本城は観光客にとても人気があり、城内は列を作って天守に登る順番を待っています。
二の丸御殿入り口です。
巨大な太鼓門です。
この門の梁を分解した丸太です。城の建築を見ると我が国の木造建築技術は飛鳥時代から培われており、世界に比類のない技術です。やはり鍛造技術の刃物が優秀だったのでしょう。飛鳥や奈良の寺院建築を見ると、その木材の加工技術には眼を見張るものがあります。考古学者たちは我が国の製鉄技術は5~6世紀から始まったと言っていますが、飛鳥時代が既に6世紀です。製鉄技術が開始されてまもなく法隆寺ができるでしょうか?
松本市立博物館
松本市市立博物館です。全てが新しくピカピカです。街の一等地に建築されており、松本市の郷土の歴史に対する意気込みを感じます。
常設展は3階、特別展は2階、1階はユーテリティスペースです。
常設展の江戸期の松本城下の模型のスケールに驚かされました。家内はいつまでもここを離れようとしません。
松本藩砲術師範役の秘伝書のようなマニアックなものまで展示しています。
江戸期の藩士たちの学問や武道の傾向が良く判る珍しい展示です。松本藩士の数は1000名で江戸詰を除く藩士が900人としても、その子弟まで入れても大した人数で無いのに、重複して武術を励む藩士の延べ人数は相当なものです。江戸時代の藩士たちは遊んでいたのでは無かったのですね。遊んでいたのは徳川旗本ぐらいでしょうか。
この博物館は新しいせいか展示品の図録を発行していません。面白いのにとても残念です。
3年前、ほぼ廃道に近い保福寺峠を越えました。この峠は古代幹線の東山道です。東山道が開かれた頃の信濃国の国府は上田でした。やがて国府は松本に移されました。
この地図を見ると五千石街道という見慣れない街道が記しています。後で調べたくなりました。現在の長野市は川中島の湿地帯で、信濃国の郡の中でも古代から人口が少ない地域でした。
島根の歴史博物館で感銘を受けましたが、ここ松本市立博物館は産業史に力点が置かれています。従来の歴史博物館は人文科学中心の展示でしたが、地域で人々がどのように暮らしていたか、藩がどの産業で成り立っていたか社会科学の視点が求められています。松本市立博物館はそんな社会要請に応えた展示を行っています。
木造家屋ばかりの江戸時代は火災が一番の問題でした。江戸期は火消しが重く用いられ、藩士たちの火消し隊も盛んに組織されました。その名残で明治になっても消防団は立派な消防車を所持していました。
明治13年の明治天皇の巡幸ずです。維新から13年、松本市内も洋風建築が増えてきました。その草分けは開智学校でした。
松本には陸軍第50連隊が置かれました。山国松本の連隊は山岳連隊として乗鞍岳や槍ヶ岳を訓練の場としていました。
松本には江戸時代から作られた押絵雛がありました。松本藩では武家の女性のたしなみや習い事や内職として押絵雛が盛んになり松本藩の産業として奨励され藩外に出荷されていました。こういう展示があると家内は喜ぶのです。
2階では戸田家臣団という名で特別企画展が開催されていました。武具や刀剣とともに珍しい展示もありました。
江戸期の多くの各藩と同様松本藩の財政も万年赤字でした。藩主は藩士たちに俸禄削減や倹約を命じ、藩主自ら平時の食を汁、香物、冷や飯とし模範を示しました。
下駄は履きつぶすまで使い、茶碗は割れても継いで使用しました。
灯油は受け皿を2重にして垂れた油も無駄にはしませんでした。一人鍋もアイデアです。土瓶を温める七輪は小型のものがあったのでしょう。
戸田家臣団の中から多くの偉人が生まれました。藩校崇教館の成果です。
市街の蔵通リ
博物館の受付の人においしい昼食屋さんを訪ねたら、普段館員たちが良く利用している中華屋さんを教えてくれました。昼食後雨が降って来たので蔵町の散策はあきらめバスで旧制松本高校に向かいました。
旧制松本高等学校跡
戦前の旧制高等学校は3年制で、旧制中学5年制が終わると18歳で進学し21歳で卒業します。学科は全て教養科目で、専門科目は旧帝国大学3年制に行ってから学びます。
全国の旧制高等学校の卒業生と、旧帝国大学の入学生は同数のためほぼ無試験で帝大に入学出来ました。そのため旧制高校性は受験の心配なしに、めい一杯青春を謳歌することができました。この旧制高等学校の3年間は専門科目や実学と離れた教養科目のみを学ぶため、真のリベラルアーツを学ぶ場として今日でも評価が高い教育制度でした。
当時は多くは尋常小学校や高等小学校を出ると直ぐ働くため、更に5年の旧制中学を経て旧制高校に進学するのはホンの一握りのエリートでした。
松本高等学校敷地には記念館がありました。
旧制高等学校の記念館は珍しく、地元の浦和高校に記念館があるのは聞いたことがありません。多分旧制高校は戦後各県ごとにある国立大が継承しているので、浦和高校が埼玉大学文理学部として戦後継承しましたが、記念館はもしかしたらあるのかも知れません
旧制高校一覧です。一高東京、二高仙台、三高京都、四高金沢、五高熊本、六高岡山、七高鹿児島、八高名古屋です。私学でも学習院、武蔵、甲南、成蹊、成城には旧制高校が設置されていました。
旧制松本高校山岳部は穂高のバリエーションルートの開拓者です。特に前穂高奥又白を重点とし数々の未踏ルートを開拓しました。特に松高の名が残されているのは奥又白の登路である松高ルンゼ、前穂北壁の松高カミン、4峰正面の松高ルートの名が残っています。特に奥又の入門ルートの前穂東壁A、B、Cフェースや北壁の初登攀が松高山岳部であることは、滝谷と並ぶ穂高の代表的な岩場の開拓者だったことがよく示しています。
今回の旧制松本高校記念館にいけば、もしかしたら松高山岳部の業績が見られるかもしれないと想って行きましたが期待以上でした。昔の松高山岳部の記録を読むと北アルプスに登りたいから松本高校に入学したという例が多かったです。
これらの装備を見ていると私が学生時代に使用していたものと変わりありません。ザイルも途中からナイロンに変わりましたが、未だゲレンデでは麻製を使用していました。スキーと締め具、靴はこれらも学生時代と変わりません。
松本の市街は観光客で溢れとても活気がありました。コミュニティバスの車窓から蔵通リの賑やかな街並みや、イオンモール、あがたの森公園、松本市美術館など、落ち着いた美しい街並みの中に溶け込んで、それぞれが調和し美しい落ち着いた景観をつくっていて、小澤征爾がサイトウ記念オーケストラの本拠をこの街に置いていた意味が解ります。
それでも駅のショッピングセンターのお店の女将は、テナントのシャッターを見ながら、老舗の井上デパートもパルコまでも来年閉店が発表されていると嘆いていました。
人の流れが変わり商業施設の立地の変化はよくあることですが、消費の構造的な地盤低下が松本の街にあるのかないのかよく分かりません。しかし松本の街には、昔日と比べて今まで駅前の寂しさを強く感じていましたが、今回市街を散策していて、今後の地方中核都市の可能性をかなり秘めているように感じ、かっての愛すべき松本の街が未だ健在だったことを感じましたが、それでも広島とか岡山、熊本や浜松などの中核都市と比較すると、イメージとして官が強く民が弱い印象を感じます。民の要素は観光、商業、工業、物流、農業で、特に商業、工業が活性化しないと雇用が生まれません。安曇野を含めて松本は工業が弱いような印象があり、官が主導する観光だけでは都市としての産業パワーが弱く、若い世代の雇用機会が少ないような印象がありました。これは松江も同じです。