四国の旅その2、高松城祉、香川県立ミュージアム、栗林公園

四国の旅、初日の5月30日は、高松市内の観光です。高松城址、隣に県立ミュージアムがあるので、讃岐の歴史を学び、金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三大庭園といわれる栗林公園を鑑賞し、ローカル線の琴平電鉄に乗って今宵の宿の琴平に向かいました。

もうアチコチ短時間で観光で覗くのも煩わしいので、息子がゆったりとした行程を組みました。息子は子供の時から物見遊山だけの旅は好きでないことは分かっているので、行く先は全て任せました。

高松城址

高松城は別名玉藻城といい、城址のある公園を玉藻公園と言っています。
玉藻という美しい言葉は、柿本人麻呂が万葉集で讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことにちなんでいます。当時この辺りの海が玉藻の海と呼ばれていたそうです。


高松城の隣に屋島が位置します。白村江の戦いで唐新羅の連合軍に敗れ両軍の侵攻に備えた天智天皇は、大宰府に水城をつくり瀬戸内沿岸の山に朝鮮式山城を築き四国も屋島に山城を築きました。

讃岐国は、長曾我部氏を滅ぼし四国を平定した秀吉が、家臣の生駒親正を播磨国赤穂から瀬戸内交通の要衝讃岐国統治のために送り込みました。
生駒親正は丸亀に城を築き、次いで瀬戸内の要衝である屋島に隣接した寂しい玉藻ヶ原を高松と名を変え水城を築き、この地を政治と経済の中心地とすべく城下町づくりに着手しました。それが現在の高松城とその城下です。

瀬戸内の水を引いた城の縄張りは黒田如水や細川忠興が行ったとも言われ、高松城は今治城と中津城とともに日本三大水城と言われています。

江戸期になり家康の孫の水戸光圀の兄に当たる松平頼重が高松藩主になり、明治まで松平家が11代228年間存続しました。

高松城は駅の直ぐ傍にあり、高松駅に到着した時に、荷物はコインロッカーに預けているので、手ぶらで歩きます。

さすが黒田如水や細川忠興など戦国の智将が縄張りを行ったと言われた風格のある名城の雰囲気を漂わせています。

明治になり陸軍に接収され廃城になり天守は壊されてしまいました。それでも古い石垣は残っていて中々雰囲気はあります。

私は城址になまじ復元された鉄筋コンクリートの観光天守があるより、櫓の一つや大手門でも残っていればそれで十分と想っています。
むしろあっただろう姿を想像しながら城址を辿る方が好きです。

高松城址は海に突き出た水城です。浪速から瀬戸内航路で、淡路島の南を辿っても北を辿っても必ず四国から突き出た屋島に向かう最重要拠点にあります。
平氏は一谷の合戦に敗れ須磨の浜を追われ屋島に逃れましたが、義経は屋島を攻めたので、平氏は遠く壇ノ浦まで逃げざるを得ませんでした。
平氏は四国に拠点でも作っておけば、壇ノ浦まで逃げなくても良かったかも知れません。

天守台跡です。

天守台跡から瀬戸内の海を望みます。もし五層の天守の最上階からは、瀬戸内の海が良く見えたことでしょう。
堀には海の魚も泳いでいます。

高松城址のパンフから転載させて頂きました。かなり埋め立てられていますが、それでも水城という雰囲気です。

月見櫓は海に最も近い位置に立てられています。手前の門は水手御門で城主が参勤交代の際、ここから舟に乗ります。
そういえば熊本の人吉城址にも水門があり、城主が参勤交代の際、球磨川を下って有明海に出て玄界灘を回り瀬戸内海に入りました。


城内御殿の披雲閣です。江戸時代の披雲閣は現在の2倍の広さで、藩の政庁と藩主の住居として存在していました。

明治になり高松城が廃城になり披雲閣も老朽化して取り壊されました。一方藩主は明治時代の末に高松城を払下げられたことを機に、3年をかけて披雲閣の再建に着手し大正6年に完成しました。

披雲閣は142畳敷の大書院を始め、茶人として雅致に富んだ部屋を揃えて讃岐唯一の迎賓館として使用されました。大正時代の善通寺における陸軍大演習の際は、天皇の大本営としてこの披雲閣が使われました。太平洋戦争後には占領軍に摂取されました。

披雲閣の庭の敷石や灯篭の巨大さにも目を見張りました。これらは江戸時代の屋敷にあったものを大正時代の再建築の際利用したのか、新たに調達したのか分かりませんが、廃城の際は全てかたずけて更地にするのが普通で、現在の披雲閣の巨石は大正時代に新たに調達したものと想います。


巨大な2段の沓脱石です。今までこんな巨大な沓脱石を見たことがありません。

このつくばいの巨大さにも圧倒されます。3,000貫、11トンもあるそうです。石の産地瀬戸内だからこそ、なせる業です。
迎賓館に来館した人たちは、この石の巨大さに感嘆しさぞかし会話が弾んだことでしょう。

藩主は迎賓館の何たるかを良く知っていて、明治新政府が作った新しい世に江戸の讃岐文化の片鱗を見せたのだと勝手に想像します。既に藩主の権力も無い世に、15万円かけて披雲閣を建築し、それに加え単なる余興や思い付きでこれだけの巨石を集めることは不可能です。

この巨大なつくばいも、固く巨大な石に穴を空け石を削る、石工の手工業時代の記念碑的な作品です。

律令時代に復帰し中央集権の権力で徴税によって全国民を巻き込み富国強兵の工業化を推進した明治新政府に対して、徳川御家門大名として会津、桑名、松山、忍松平家と共に、苦悩しながら幕藩体制を支えて来た松平高松藩主の巨石に込めた想いを感じるのは私だけでしょうか?

15万円の巨費をかけた披雲閣でも、玄関は御殿づくりにはできませんでした。職人がいなかったのか、費用が足りなかったのか、或いは藩主が巨石のように玄関の見てくれに執着を示さなかったのか謎です。

香川県立ミュージアム

旅に出かけると、全国の県庁所在地に行くことが多いですが、ほとんどの県庁所在地の中心部には博物館、美術館、コンサートホールがあります。

先日、ロバート・レッドフォードの古い映画「モンタナの風に吹かれて」を見ていたら、ニューヨークに住む主婦であり子持ちのキャリアウーマンの女性が、事故によって娘と乗馬の心の傷を治しに行くために、トレーラーを曳いてモンタナの馬のセラピストのロバート・レッドフォードを訪ねます。やがて2人は恋仲になりますが、女性はモンタナには雄大な自然があるけれど、ニューヨークのように店舗、美術館、コンサートホールなど無く、都会の文化的な暮らしから離れられないと言って恋は破れてしまいます。


美術館、博物館、コンサートホールなど、都市に住む人々の大半が、日常に利用しているわけではありません。しかし日常利用していなくてもその存在は心の留め置かれます。
私の記憶では、浦和の中心街に多目的な県立の埼玉会館があり、子供の時から何回となく学校で、映画会、音楽会、演劇会、コンサートなどで利用されました。ディズニーの映画を見たのもここで初めてであり、大人になって家族を持つようになってから、著名なソリストでも市の補助で家族4人揃っても高額にならないコンサートには良く出かけました。

現代は、経済効率一辺倒の社会が益々進展し、社会の価値観が一層経済効率の尺度に置き換えられて、コスパ、タイパなどの尺度でものや行為の価値を決めようとする時代になりつつあるようですが、都市の美術館、博物館、コンサートホールなどの文化施設は目先の経済効率の対極にあります。
しかし江戸初期に作られた各地の城址は、今や地域の文化施設の象徴で、多くの外国人も訪れていますが、最初に経済効率だけで築城したのでしょうか?経済効率だけで築城しなかったからこそ長い歴史に耐え、地域の象徴として天守が無くても多くの人たちが訪れます。


改めて博物館、美術館、コンサートホールの存在はその都市の文化の象徴と想います。先日久しぶりに松本を訪ねて、小澤征爾がなぜサイトウキネン・オーケストラの拠点を松本に置いたか良く判りました。

地域の人々にとって、命の拠り所は基幹病院、心の拠り所は鎮守の森や神社仏閣そして城址、文化の拠り所は博物館、美術館、コンサートホール、公園や図書館そして書店なのでしょうか。

昨年松江の新しい歴史博物館を見て、5月初めには松本市立博物館を見ました。

この2館は従来の博物館の縄文や弥生の土器ばかりを並べた博物館と異なり、その地域の人たちがどのような歴史の歩みの中で生きて来たか、どちらかといえば政治権力変遷史というより、生活史、社会史、産業史の側面が高くとても有意義でした。

讃岐の歴史には全く疎い私にとって、香川県立ミュージアムに期待を込めて入りました。

さすが空海のふるさと讃岐国です。常設の空海展を行っています。

讃岐国の歴史の勉強

関西人にとって、四国が故郷である人が多いかもしれませんが、関東人にとって四国は山陰地方と共に、九州、北海道より遠く感じる国です。
娘が使っていた高校日本史地図を眺めていたら四国では讃岐が圧倒的に古墳の数が多く、その数は対岸の吉備に遜色ありません。讃岐は古代から開けていた地だったのでしょう。

四国は南海道に属していることは知っていましたが、南海道は和歌山県の紀伊国から始まり淡路島の淡路国、そして四国徳島の阿波国、香川県の讃岐国、愛媛県の伊予国、高知県の土佐国となります。

また律令時代の讃岐国の国府は、高松でなく坂出でした。

讃岐国の名を高めたのは空海の存在です。

空海は郡司佐伯氏の子として現在の善通寺で生まれました。善通寺は佐伯氏の氏寺であると言われています。
また日本一の溜池の満濃池が水害で荒れその改修が上手くいかない状況になり、空海の懸命の読経によりたった2ヶ月で完成したとの伝説があります。

保元の乱で敗れた讃岐国に流された崇徳天皇の墓所が坂出の白峰寺にあります。かって北面の武士であった西行は清盛と親交があり、清盛に敗れた崇徳天皇を慕って白峯陵を詣で、善通寺で空海を偲び数年庵を結んだと言われています。

室町時代に入ると讃岐国は、幕府創設に功労があった管領細川氏の8ヶ国守護の1国となりました。細川氏は阿波国、土佐国も領有していました。

室町時代は応仁の乱が勃発し、これが長期化し京での乱の当事者の細川氏が衰退したため、讃岐国では国人たちが自立割拠し三好氏、十河氏が台頭し守護代の香川氏と抗争を繰り返しました。

戦国時代に入ると土佐国を統一した長曾我部元親が讃岐国に侵攻し香川氏と結び十河氏を滅ぼして讃岐国を領有しました。

しかし豊臣秀吉の四国攻めにより長曾我部元親は讃岐国から撤退し、秀吉の家臣仙石秀久が讃岐国を領有しました。


四国は長曾我部氏が滅び、豊臣政権の元生駒親正が讃岐国領主になり、高松と丸亀に城を築き讃岐国発展に大きく貢献しました。

生駒氏は関ヶ原以降も家康側に付いたため、引き続き讃岐国支配を認められ、高松に城下町が形成し高松が政治経済の中心地となりました。

しかし生駒氏もお家騒動によって高松は水戸徳川家と関係の深い高松松平家が東讃岐11万石の藩主となりました。

高松松平家は明治まで11代228年間存続しました。

讃岐国は高松松平家の高松藩、京極氏の丸亀藩とその支藩の多度津藩の三藩体制となり、それぞれ幕末まで続きました

江戸時代には四国八十八ヶ所巡礼や金毘羅詣りなどで讃岐国は本州からの旅人も多く街道が発達しました。

また船乗りで名高い塩飽列島、直島や小豆島は幕府直轄地でありこの周辺の船の往来は活発でした。

航海技術に優れた塩飽、小豆島、直島など幕府領の廻船は全国に回りましたが、彼らの海の守護神である金毘羅さまは、全国の海で働く人々の信仰の対象になりました。

咸臨丸が初めて米国に向かう航海では、水夫の大半が塩飽諸島の水夫でした。

幕末徳川将軍家の世継ぎを巡って南紀派と一橋派が影の抗争を行いました。実際は世継ぎの問題になりましたが、徳川将軍家と譜代家臣団による政治体制の維持と
諸侯合議の政治体制への変革の争いでした。

高松松平家は御家門の家のため会津、桑名、松山、忍、などの御家門、長岡、酒井家などの譜代大名と共に必死に幕府を支えたあため佐幕派大名と見られ、幕末明治では苦労しました。

この争いは水戸浪士による大老井伊直弼の暗殺により、日本国中無政府主義が横行し、長州藩士と七卿によるクーデター計画が敗れたことから、幕府の長州征伐、その巻き返しの鳥羽伏見の戦い、そして戊辰戦争と日本中が内乱状態になりました。

明治の世は上の2つの派の政局から、全然別な方向に向いて走りました。

5代藩主松平頼恭公の「高松松平家植物図譜」

学芸大名だった5代藩主松平頼恭公は、魚類を描いた衆鱗図4帖、鳥類の衆禽画譜2帖、植物の衆芳画譜4帖などの図譜を平賀源内に絵師など陣頭指揮を執らせて制作しました。
宝暦年代(1760年頃)の制作ですが、18世紀から19世紀にかけて西欧は博物学の世紀と言われ、分類法を基礎とした近代科学が発達し、世界中のものを何でも見てみようという機運が高まり、探検が活発になった時代です。まだ写真術が無い時代、詳細な絵によって記録しました。



香川県立ミュージアムでは今回展示はありませんでしたが、常設展で時々展示しているようです。下記図譜はミュージアム館内配布パンフから引用させて頂きました。


平戸の松浦資料館で、学芸大名の多くを輩出した藩主松浦家が収集したオランダの薔薇図鑑を見て驚きました。

江戸時代は本草学が発達して、医師たちが薬草採取のため山に分け入りあらゆる植物を採集し、絵に描いた数多くの本草図鑑が残されています。

植物学の牧野富太郎は、明治になりこれら本草図鑑の植物を西欧流の分類学で分類しましたが、私たちは明治以来の教育で近代科学は明治の時代になり初めて我が国に導入されたと教えを受けましたが、実は江戸時代に我が国も西欧と同じ時代に、博物学の時代に入ってたようです。

江戸時代は多くの藩で学芸大名が輩出し、参勤交代の折江戸で学芸大名たちのそれぞれ成果を見せ合う交流がありました。

江戸時代は島原の乱以降、幕府は武断政治から文治政治に転換し、政治をリードする老中や若年寄りも文治を重んじる人物が登用され、国全体が急速に文治政治に移行して行きました。この決断が徳川の250年も続く幕藩体制を維持した根本でした。

藩主が学問や芸術に興味を示し行動すると家老はじめ家臣たちも、そのように行動します。かっては倭寇の末裔と言われ水軍藩の平戸松浦家も多くの学芸大名を輩出、学芸大名の筆頭だった老中松平定信家と婚姻関係を結んでいます。これは白河松平資料館と平戸松浦資料館の両方行って分かったことです。

学芸大名については日本美術史の専門家の息子が詳しいいため、解説してくれました。

岡山宇野港と結ぶ連絡船の高松港はフェリーも見かけず閑散としています。昔の風景ととてつもなく変わっています。

栗林公園

栗林公園は栗の木の公園と名が付いていますが、実際は1000本の形の優れた松が林立する公園で、金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三大名園と呼ばれていますが、雰囲気、スケール、松と池の見事さなど、他の2園を遥かに凌駕しているように感じました。
ちなみに金沢の兼六園がなぜ3大名園に入っているか分かりません。家内と話すのですが、古今伝授の間が移設されている熊本の水前寺成趣園の方が、遥かに上だと思うのですが。

栗林公園は高松駅から歩いては距離がありJR、琴電、バスなどアクセスは良いのですが、4人のためタクシーを利用しました。

公園は目の前の小山、紫雲山をバックにした広い庭園で、ミシュラングリーンガイドで三ツ星の評価が与えられていると栗林公園パンフには記載してありました。

栗林公園の歴史は古く16世紀後半当地の国人佐藤氏によって西南地区に築堤され、1625年頃新たに讃岐国領主になった秀吉家臣の生駒氏が、高松城を築城し城下町を形成しましたが、その城下の紫雲山を背景に南湖一帯を造園しました。

1642年高松松平氏が玉松藩藩主になり、庭園は引き継がれ1745年学芸大名であった5代藩主頼恭によって園内60景が命名され完成しました。またこの庭園は高松松平家の下屋敷として使用されました。

園内に入ると最初に花菖蒲園が広がります。

こちらの池には亀が遊弋し人が近ずくと寄って来て岸辺に顔を出します。鯉がいる庭園はどこにもありますが、なぜか亀がいる庭園というのは奥ゆかしさを感じます。

美しい緑の風景です。この緑の風景は和風でもないし洋風でもなく、作庭の意思を入れない空間なのでしょうか。

亀が遊弋し樹々の緑を映し、固有の池の緑と合わさってしかも亀が遊弋する幻想的な空間です。

途中で庭園の雰囲気は一変し松の庭園に変わります。

朝、駅前で讃岐うどんの朝食を食べましたが、お昼もかなり回っていたので、ここでカフェに出会ったのは幸運でした。

ガーデンカフェ栗林というお店で、創作メニューのおしゃれなカフェで、なぜかオーソドックスな栗林庭園とぴったりで、気分的にゆったりと寛ぐことができました。

いよいよ栗林庭園の本領発揮の場が近づいてきました。物凄い松です。

水辺ギリギリで踊っているような松

サポートが無いと倒れるだろう松。

おおきな松を自在に仕立てた松。

これら庭園の松を見ていると、地元大宮にある盆栽美術館に行っても、私があまり感動しない意味が解りました。

わたしは山で岳樺などの自然に抗って幹を異様にくねらせている巨木を見てきました。盆栽はその自然の巨木を小さな盆に写し取った小宇宙にした芸術ですが、こうやって巨木の数々を見ているとその迫力に圧倒されてしまい、それを盆栽にして身近に置こうとする欲は湧きません。

四方正面の数寄屋造りの掬月亭は栗林公園の中心的な建物で、歴代藩主は大茶家と呼びこよなく愛してきました。

この芙蓉峰を登り庭園を一望すれば、庭園の散策は終わりに近づきます。

私は和洋問わずどんな庭園でも、あるいは個人の庭でも、一番気にしている事があります。それは年季が入っているかどうか?です。
年季とはただ古さの概念ではなく、放置せずどれくらい庭に手を入れて維持しているか、庭に関する時間と手間の概念です。
庭園は莫大なお金をかけて豪華に作ってもそれは年季の入った庭とは言えません。

栗林公園は、16世紀初めて作庭した国人佐藤氏から始まって秀吉家臣の生駒氏、そして高松松平家11代の同じ思想のプロデューサーによって維持管理されてきた我が国を代表する年季の入った庭園と想います。

琴平電鉄で琴平まで

地方に行くと私鉄のローカル線があります。松江と出雲を結ぶ一畑電鉄、昨年乗った天竜浜名湖鉄道、遠州鉄道、以前に乗った郡上八幡への長良川鉄道、五所ヶ原の津軽鉄道などローカル鉄道は雰囲気があります。

琴平電鉄は高松と金毘羅さまに参拝のための鉄道ですが、高松から3本ぐらい派線があり、運行本数も多く高松周辺の通学、通勤の足になっています。

琴平電鉄の駅、一駅ずつと乗降客をぼんやり眺めながら乗っていたら、初めて見る土地の光景に旅情を感じてしまいました。このルートは息子が計画しましたが、夕食の時、琴電が話題になり娘も旅情を感じたといっていました。

ことでん琴平駅です。風情があります。琴平駅はもう一つ多度津や善通寺から高知に向かうJRの土讃線の駅があり、こちらは明日祖谷温泉に行くために乗車する予定です。

このような駅にも外国人が1人で旅する時代になってきました。

ホテルは琴平閣という外見を見て大きなホテルだったので大味な宿を覚悟していたら、ロビーに入り印象が一変し、女将が挨拶にくるようなきめ細かさの宿で、地場の素材中心の食事も見事で、遠い四国の金毘羅詣に来たなという印象を強く抱いた食事でした。旅は宿によってでも作られるものだと本当に想いました。