四国の旅その3、金刀比羅宮、旧金毘羅大芝居金丸座

埼玉生まれの私にとって讃岐の金毘羅さまは余りにも遠く、地元でも江戸の昔からのお伊勢参りや大山詣り、冨士講、三峰講などの神社詣りは聞いていましたが、金毘羅詣りの風習は聞いたことがなくなじみのない神様でした。
また子供の時代、時々ラジオから流れていた「こんぴら船々追い手に帆をかけしゅらしゅつつ」の座敷歌によって金毘羅さんは物見遊山のイメージがとても強く、それほど行ってみたいと思いませんでした。

さらに神社の名前も金毘羅さん、金刀比羅宮、琴平神社などさまざまで、どれが正式名なのかはっきりしないことも、関東での印象を弱めていた要因になったのかも知れません。
これは金毘羅宮が江戸時代まで神様仏様が一体となった神仏習合だったため呼び名がいろいろで、関西では金毘羅さまと呼ばずこんぴらさんと呼ばれ、親しまれているようですが、レースが行われる長い階段以外はよくわからない神社でした。

今回の旅で、食わず嫌いの私が金毘羅さんに関心のないことを知っている息子が、ついでに金毘羅さんも入れておくよとTELで言ったのを聞き、今回は全てお任せなのでその通リ了解したのです。

しかし旅の直前、大手海運会社で生涯船乗りだったクラスメイトと会った時、金毘羅さんに行くよと言ったら、彼曰く我が国の海運の世界では金毘羅さんの信仰が篤く、日本中の商船の全ての神棚には金毘羅さまが祀ってあり、船会社のトップも交代したらお詣りしていると聞きました。奈良の大神神社の摂社狭井神社に製薬会社が、京都の松尾神社に酒造メーカーが参拝に訪れるのと同じだなと想いました。

金毘羅さんが海運の守護神と聞いた時から、私の金毘羅さまのイメージは「しゅらしゅつつ」の座敷歌のイメージから一変して、海無県の埼玉生まれの私の海への憧れも加わって、急に金毘羅詣での期待が高まって来たのです。

琴平温泉市街

ブログではよほど気に入った宿以外は掲載しません。この宿は巨大なホテルの割にはきめ細かな対応でとても満足しました。温泉の元湯も兼ねているのでしょう。
いよいよ金毘羅詣りに出かけます。

金毘羅さんの参道は、表参道と裏参道があります。琴平そのものが小さい街のため、繁華街は表参道に集中しています。

古い門前町のためいろいろな建物や看板が林立し興味が尽きません。

温泉街独特の雰囲気は良いものです。日本中東京都心のようなオシャレな雰囲気の店ばかりになったら、旅の趣は無くなってしまうでしょう。

右折していよいよ表参道に入りました。前方に象の頭の形をした象頭山が見えてきました。
この象頭山の中腹に金毘羅宮があるのです。

象の眼の笑いかけたり山桜  与謝蕪村  江戸時代、蕪村が金毘羅詣での際詠んだ有名な句が残っています。





息子は帰りに寄る店をチェックしながら歩いています。

古い門前町の気分を盛り上げる旅館の意匠です。

看板を見ただけでは何屋だか分かりません。

参拝の帰りに寄る昼食の店をチェックしながら歩きます。

昼飯は讃岐うどんの食べ納めになりそうです。

いよいよここから785段の階段が始まります。今まで登った長い階段は山形の山寺の900段、室生寺の850段がありますが、それに比べると785段は短いですが、予定にない奥社まで入れると1368段になります。

金毘羅さんの階段往復レースですが、ネットを見ると、コロナでしばらく中止していたレースも、今年は再開され全国から700名以上が参加し、トップは高校生で、785段の階段往復の所要時間は16分だったそうです。

息子は昔、私が羽黒山の階段でバテたことを覚えていました。息子が中学1年の夏休みに一人で10日間の東北一周に出かけましたが、その時の終点の鶴岡で落ちあい湯田川温泉に泊まり、翌日は修験の宿を味わおうと翌羽黒山山頂の宿坊に向かいました。

羽黒山山頂へは調べてみると何と2446段の階段があり、当時はビデオカメラに凝っていたため、カメラと重いバッテリーを背負いひたすら階段を登りましたが、余りの単調な登りのためすっかりバテテしまったことがあります。
もうすっかり忘れていましたが、息子は憶えていました。多分登山をしている割には弱いと想ったのでしょう。山道と階段上りは性格が異なるのです。

このような土産物屋は旅の気分を盛り上げます。
40年前ニューヨークに初めて行った時、エンパイア・ステートビルに登りました。ゴジラならぬ私たち世代はキングコングが登世界一の高さのエンパイア・ステートビルは子供の頃からの憧れでした。
ビルの展望台の売店で、超先進国のアメリカでも、ピカピカにメッキを施したビルのミニュチュアの土産品がたくさん並んでいるのを見て、その地に行って来た証となる土産物を求める心は世界共通なのだなと想いました。

歴史が古い金毘羅さんの参道には他では見かけない店もたくさんありました。

平成13年に掃海殉職者顕彰碑が建立されその由来を記したボードです。

太平洋戦争末期米軍と日本軍は、攻撃用と防御のために、瀬戸内始め日本近海に67,000発の機雷を敷設しました。戦後その機雷を除去する掃海で79名の殉職者が生じ、関係者によって金毘羅宮で慰霊が行われてきました。

いかにも海運の神社らしい顕彰碑で、ボードを前にすると我が国が紛れもない海洋国家であることを改めて認識します。

ちなみに帝国海軍の掃海隊は、戦後も旧海軍掃海隊の組織を維持しながら日本近海の掃海に務めました。やがて組織名は海上保安庁に変わりましたが、朝鮮戦争の際には、米軍は掃海隊の優秀さに目を付け、海上保安庁に半島の掃海に従事するよう命じました。掃海隊は熟練を保持するために海上保安庁所属でしたが指揮官はじめ組織は帝国海軍を継承しました。

365段を登り大門までやってきました。ここで半分です。これまで参道の両側には、いろいろな店が軒を連ねており、それらを覗いたり横目で見たりしてきたので疲れはほとんど感じませんでした。

大門は高松初代藩主松平頼重から寄進されました。大門から先は神域になり、門前町の店舗はありません。

大門を潜ると平らになります。参道の両側で、道中疲れを癒す金毘羅飴を販売しています。
日本の街道という集英社の街道シリーズが本棚にありますが、金毘羅宮の項に天保4年の造営に力を尽くした5人の功績により、その子孫に神域ですが、境内で特別に営業が許されているそうです。今は営業というより参拝の儀式参加のようです。

ここから約150mの平らな参道が続き、桜の名所のため桜馬場と呼ばれています。

左右に寄進された石碑と灯篭が並んでいます。年末に奈良信貴山に行った時、奉納された灯篭の数に驚きました。
関東ではこのような光景は余り見ることはなく、関西圏の人々の方が神社仏閣に対する信仰が篤いような気がします。

こちらは寄進された灯篭です。

平地が終わりこの鳥居をくぐり階段を上ると、御本宮を始め金刀比羅宮の様々な社殿が現れます。
船会社の人たちらしい一団が参拝を済ませて階段を降りてきました。

この鳥居の横に、道産子の神馬がいます。大祭で活躍する神馬です。

我が国の船主と造船は今治に集約され大きなウエイトを占めています。今治造船からスクリューが奉納されています。

階段を上ると社務所を兼ねた書院があり、この表書院の五間の障壁画が円山応挙の作品で、全て国重文の一流美術品です。

表書院鶴の間の17枚の障壁画、遊鶴図、虎の間の24枚の遊虎図、七賢の間の16枚の七賢図、山水の間、上段の間の33枚の瀑布及山水図、まさに圧巻です。

江戸期に描かれた普通の障壁画は見ることができますが、重文、国宝級の障壁画は、狩野派の南禅寺や等伯の智積院以外で中々見ることはできません。四国の金刀比羅宮で円山応挙の全て重文のこれだけの障壁画を見ることは全く予想もしていませんでした。これだけの作品で拝観料は800円です。
江戸期における金刀比羅宮の財力と霊力の凄さを改めて感じました。

日本美術史の専門家の息子が私たちに応挙の障壁画を見せたいこともあって、金刀比羅宮参拝のプランを組み入れたのでしょうか。


書院の入り口から門を振り返ります。

拝観者はまばらで静寂な書院です。廊下の右側が表書院の各間で、応挙の素晴らしい障壁画が広がっています。当然撮影は禁止です。

円山応挙を堪能し再び階段を登り始めます。

旭社です。40年の歳月をかけて弘下2年(1845)完成しました。旭社は国中の国津神、八百万神を祭神として建てられ、社殿には各種彫刻や装飾が施されており、天保時代の芸術の精華を集めた建築です。

賢木門です。その昔逆下門と書き、長曾我部元親寄進の門ですが、1本の柱が逆さにつけられたことから逆下門となずけられました。明治12年改築の際、名は賢木門と改められました。
長曾我部元親は四国の覇者でしたが、信長、秀吉に滅ぼされてから、四国では長曾我部の功績を語らないようにする風潮が定着したそうです。最初は別な名があったものを、わざと逆下門にした呼び名もその現れと言われています。

賢木門を潜ってしばらくトラバースする平らな参道を辿ると、いよいよ最後のフィニッシュで、御前四段坂に差し掛かります。この最後の133段を登れば御本宮です。

御本宮に着きました。御本宮の祭神は大物主神と崇徳天皇です。

御本宮の創建はいつか分かっていません。神社ご由緒によれば長保3年(1001)一条天皇が藤原氏に命じて社殿を改築したことまで分かっているそうです。一条天皇と言えば大河ドラマ光る君に登場しています。

その後は長曾我部元親による再営に続いて、高松初代藩主松平頼重によって改築され、明治11年(1878)の改築で現在の社殿になりました。

改築の歴史を見ていると出雲大社に似ています。出雲大社も出雲国を中心に覇を唱えた伯耆の尼子氏が出雲大社を改修して大社の守護を任じたように、金毘羅大権現も讃岐国に覇を唱えた長曾我部元親が仏殿を改修し守護を任じ、讃岐国の国人や住民に尊敬の念を与えました。高松初代藩主松平頼重もそうです。

守護を任じた訳ではありませんが、保元の乱で敗れて讃岐国に流された崇徳天皇も、自身の住まいの近くに霊験あらたかな金毘羅大権現を勧請し、その信仰故に今では、大物主神と共に金刀比羅宮の祭神の1人となられています。

御本宮の階段を見下ろします。急です。

明治の廃仏毀釈以前、金毘羅さんは真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合の金毘羅大権現を祀っていましたが、足利時代や戦国時代、江戸時代になって、日本国中海運が盛んになり、金毘羅大権現の航海安全信仰が、瀬戸内の塩飽諸島の船乗りによって全国規模で広まり、その霊験から金毘羅詣りの歌に歌われるほど隆盛を究めました。

金毘羅は梵語のクンピーラをあてたもので、インドのガンジス川のワニの化身が神格化され、音記して金毘羅の字を当てたと言われています。そのため仏教ではクンパーラは竜王とか海神といい、雨乞いや海難除けの祈願の対象となりました。

金刀比羅宮の最初は、象の頭の形をした象頭山の琴平神社で自然を司る神、大物主神が祀られていましたが、15世紀頃から金毘羅大権現を祀るようになってから、海神というところから船乗りの信仰を集めたのです。権現とは本地垂迹説により本来は仏で、仏が仮に姿を変え神様になることで、古い神社が仏の化身の権現となることから、神仏習合が始まりました。権現はよくできた概念で家康の東照大権現のように、神になることもできました。


また神代では琴平神社の象頭山は海の中の島とも言われていますが、この伝説から推測するとおそらく縄文海進時代には象頭山の麓まで海だったのではと想います。
その後約3000年前頃からの縄文海退が始まり、象頭山の麓は陸地の湿地帯になりましたが、象頭山の頂上に水源の神様が祀られやがて琴平神社になったものと想像します。時代は下がり初期仏教の浸透と共に、天竺の須弥山に似せて宮島の弥山、大三島の大山と同じように象頭山も須弥山として崇められたのでしょう。
更に象の形をした天竺の山須弥山、天竺の海の神、金毘羅大権現と連想は続きました。

瀬戸内のど真ん中に位置する大三島の大山祇神社のように、海辺の象頭山は吉備から四国に渡る格好のランドマークであり、宮島の弥山信仰のように航海や漁にでるための安全神になったとも想像できるかもしれません。

ヤマトが開発される以前は北九州と並んで吉備が我が国の最先進地であり、その対岸の琴平は四国の玄関口として紀元前の遥か昔、弥生時代から重要拠点だったのかも知れません。しかしヤマト王権が確立し、大和朝廷による律令国家が確立すると讃岐国は和歌山を起点とする南海道に組み込まれ、和泉、淡路、阿波がメインの街道となり、讃岐国国府坂出は阿波経由になりました。
また讃岐国は雨量が少なく、有力な河川が無く水不足でいつも悩まされてきました。空海の満濃池伝説も慢性的な水不足がもたらしました。水不足のため米に変わって、小麦栽培が盛んになり、名物讃岐うどんが生まれました。


各地を旅し、とてつもない古い神社に出会うと、神社のご由緒の時代を遥かに遡る弥生時代の頃を想像してしまう癖がついています。

御本宮は海抜251mの位置にあります。御本宮の前は展望台があり讃岐富士が望まれます。

立派な舞殿のある神社はさすがと想います。

神札授与所です。神事なので午前中は賑わうのでしょうか。午後は一段落です。

一生懸命携帯でお札の数を確認している参拝者がいました。東北のある漁協の人が傘下の漁船のお札を代表して求めに来ているのでしょう。

御本宮の階段は登りで、こちらは下りの階段です。奈落に沈むような深さです。

ようやく緩やかな傾斜になりました。

行きに寄らなかった宝物館を見学します。この宝物館の内容も物凄く、名刀、仏像、書画、盛りだくさんです。驚きの連続です。
この中で元禄15年に描かれた象頭山社頭並大祭行列図屏風が特に面白かったです。

金毘羅宮がいかに繁栄し、多くの寄進を受けていたか良く判ります。この建物も重文級です。

途中雨に降られ結構濡れました。私は傘が嫌いなのでホテルに置いてきてしまいましたが、さすが傘が必要な降りでした。麓に戻ってきました。

旧金毘羅大芝居(金丸座)国指定重要文化財

旧金毘羅大芝居は天保6年(1835)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋です。

江戸時代中頃から金毘羅信仰の全国的な高まりに従って年3回(3,6,10月)の市立ちの度に仮設小屋で歌舞伎などの興行を行って来ましたが、だんだん門前町の形態が整って来るにつれて常小屋の必要性が高まり、高松藩の許可を元に大阪浪花座を模して常設の芝居小屋が建てられました。

芝居小屋の名は何回か変わり明治33年金丸座と改名した後は、その愛称で親しまれています。

昭和60年から四国こんぴら歌舞伎大芝居が開催され、四国路に春を告げる風物詩になっているようです。

昭和45年に国の重文に指定されてから、近くの場所から駐車場のある現在の場所に4年かけて復元移設しました。

昔の芝居小屋の独特の造りで夢のような空間です。直径4間の大きな廻り舞台とセリが設置してあります。

電灯の無い時代蝋燭を灯していたでしょうが、蝋燭と提灯の数と火事にならないか、主催者は胃が痛くなったでしょう。

竹で編んだブドウ棚と呼ばれた天井です。舞台の天井もブドウ棚で花吹雪を飛ばすことができました。

客席のブドウ棚の天井は明り取りに使ったのではと想います。

顔見世提灯。興業の際役者の番付を表示する役割を果たしていたと言います。

貴賓席でしょうか。障子の明り取りが有効です。

お囃子か役者の控室か説明を忘れてしまいましたが、舞台裏の中2階です。

奈落です。舞台や花道の床下の総称で地獄の奈落を連想して名づけられました。

廻り舞台やセリ、妖怪や忍者がセリあがるすっぽん、役者の出入りや早変わりのための奈落につうじる仕掛けの空井戸、そんな装置は地下の奈落で人力で作動させました。これは今の公演でも人力だそうです。

讃岐うどんの食べ納めの昼食を採ってから、造り酒屋金陵に寄り酒好きの3人がそれぞれ利き酒を楽しみました。

ホテルの昨晩の地酒もこの金陵の酒で、余り酒好きでない私でもおいしい地酒を楽しめました。

江戸時代から、金毘羅さんに流し樽という風習があるそうです。
金毘羅詣りが出来ない人が航海の安全を願って船から樽を海に流し、それを拾った人が金毘羅さんに代参し酒樽を奉納します。流した人も奉納したひとも神のご加護があると言われています。

また金毘羅さんにお詣りが出来ない人は犬に託して代わりにお詣りする風習もあったと言われています。