四国の旅その3、土讃線、新祖谷温泉、かずら橋、大歩危峡。

四国の旅、2日目は前夜泊った琴平温泉から金毘羅宮を参拝してからホテルに預けた荷を取りに戻ってから、次の目的地で今宵の宿となる阿波国の新祖谷温泉に向かいました。
祖谷温泉は、吉野川の支流、四国第2の高峰剣山を水源とした深さ200mの急峻な祖谷渓の谷筋の僅かな平地を利用し何軒か旅館が点在します。

今回の旅は全て息子まかせだったため、大歩危、小歩危の名だけを聞いたことがありますが、祖谷渓や祖谷温泉は、どこにあるか知らず、大歩危の近くの山深い地にありそうだと想っていましたが、事前に地図で確認もしませんでした。まして宿に着くまで祖谷温泉の名前も「いやおんせん」と呼べず、自信がないので頭の中では「そやおんせん」と呼んでいました。

私の四国の経験は高松周辺と徳島に限られ、四国内陸深くは全くどのような場所か想像できず、無防備のまま土讃線に乗り込みました。

いつものことですが、昔から私の旅は行先と寄り先だけを決めて、旅先の地形とか歴史などは調べず、現地に行って印象に残った事項を帰宅してから調べます。

前日の金毘羅さんに引き続いて、事前知識なしに初めて訪れた祖谷渓については、興味深かった事項が多く調べることが豊富でした。

旅から帰っても、まだ現地の情景を頭の中にうかべながら、現地で手に入れたパンフを元に本棚から街道や地域の歴史本を取り出して、あれこれ反芻するのはこの上ない楽しみです。
こうして今まで知らなかった旅先の地理や歴史を新たに知った所で、これから先長くない人生に何の役にも立ちませんが、生きている間に知り得た喜びが沸々と湧いてくるのです。
生きる上でとうに欲得はありませんが、今の私にとって生きている間に知り得た喜びが欲なのかもしれません。


JR土讃線

琴平には琴平電鉄の琴平駅と、JR土讃線の琴平駅があります。土讃線は讃岐国高松と土佐国高知を結ぶ鉄道です。

クラシックな駅舎でとても雰囲気があります。さまざまな伝説を持つ金毘羅さんそのものがクラシックな雰囲気な神社で、門前町のにぎわいや、航海や漁船の神の信仰、
丸山応挙の障壁画が連なる書院、江戸時代上方歌舞伎の名優が演じる華麗な芝居小屋の金丸座など、それぞれが異質であるけれど、江戸、明治、大正時代それぞれの気分が合体した不思議な空間でした。

琴平電鉄の琴平駅やこのJR琴平駅も金毘羅さんにぴったりな空間で、良く調和しています。
改めて考えてみたら、金毘羅さんは江戸、明治、大正時代、西日本随一のモダニズムの空間だったような気がしてきました。その背景には、モダニズムの象徴だった海の存在があったように感じます。
「こんぴら舟々追い手(追い風)に帆をあげ、しゅらしゅつつ」の歌も改めて考えてみると、熟練した船頭や水手たちの技術によって海という異空間に、浪速の湊から海上を万帆にしてスピード上げて帆走し、象頭山の金毘羅大権現という日本らしくない神様詣でを行いがてら、門前町で遊興に浸り華麗な芝居小屋で異世界を楽しむことが、その時代、上方の人々の最新のモダニズムだったように思えます。

その意味でJR琴平駅の意匠は、金毘羅さんに別れを告げるにはよく合っていました。

高知行の列車は一路香川県を越えて徳島県に入り、大河吉野川に沿って進みます。

土讃線は吉野川の上流に沿って進みます。吉野川の源流は高知県ですが、その支流の祖谷川は徳島県と高知県の国境の剣山が源流で、この水量の多い2つの河川が、左右から深い谷を刻んで阿波池田の手前で合流します。
大歩危、小歩危と祖谷渓が、間に短い距離の山地を挟んで、深い谷を刻んでいる地形を理解しないとこの辺りの概念は分かりません。

私も現地では良く分かりませんでしたが、帰宅して仔細に次図を眺めて初めてこの辺りの地形の概念が判りました。

要は南アルプスの深い谷が、2本並んでいて片方の谷には鉄道が通っていて、その鉄道の駅から車で15分程度でもう片方の谷に移動できるイメージです。この谷の全体の深さは南アルプスに比べると浅いですが、人の手による農耕を拒否する谷の急峻さでは引けを取りません。

大歩危の駅に着きました。大歩危、小歩危の意味は、この谷道が大股で歩いても、小股で歩いても危険は変わらないという意味だそうです。よくこの谷筋に鉄道を敷設したものです。

大歩危駅の祖谷渓側の駅前広場の狭さに驚きました。画像の屋根の上のように、目の前に斜面が広がっていて広場という概念はなく、ただ小さなバスが1台泊まれるスペースがあるだけです。
駅にた国際色豊かな若い人たちが、荷物も持たず日常着で何組もたむろしていましたが、彼らが何しに来ているのか、想像も尽きません。不思議な所です。想像がつかない理由は私がこの辺りの事を良く判らないからだと思います。

祖谷渓への歴史

今回連れられて来た旅のため、冒頭に触れたように祖谷温泉の祖谷という字が読めない程度の知識できてしまいました。しかし祖谷渓や大歩危の紀行を書くにつれて、最も重大な事を発見したのです。

帰宅して祖谷渓の歴史に触れて行くと、現地でもそうでしたが、私たちが祖谷渓の位置を見ている視点が、鉄道の土讃線の大歩危駅や大歩危の谷を走る国道からのアプローチでした。

しかし大歩危小歩危の谷を走る土讃線が開通したのは昭和10年で、土讃線に沿って走る国道32号線は明治19年になって起工され、それまでの琴平と土佐に結ぶ土佐街道は大歩危の谷の遥か西側、今の高知自動車道付近を走っていたのです。

という事は、昭和10年まで、阿波の白地と呼ばれた煙草の産地で吉野川奥の唯一の文明地池田盆地(かって高校野球で有名な池田高校の所在地)から鉄道では祖谷渓に行くことはできなかったのです。
祖谷渓が文明世界に開かれたのは、大正9年祖谷渓の深い谷の斜面に、下図の黄色の祖谷街道が開通してからです。多分この道も幅3m程度の山道だったと思います。

祖谷街道が開かれるまでは、下図右の黄色い丸の小島峠(1320m)落合峠(1519m)水ノ口峠(1116m)の険しい山道を辿り、峠を越えないと祖谷渓には入れなかったのです。標高1300m以上の峠は通常の街道の高さでなく多分山道だったと思います。

大正時代までは、これらの急峻な山道の峠によって、吉野川沿いの街や村と僅かに結ばれていた雪解けの峠道に行商人の姿が見える頃、祖谷渓にも遅い春が訪れたといわれています。

いずれにしても吉野川の渓谷に沿って走る土讃線や国道32号線の大歩危から祖谷渓に行けるようになったのは、昭和、特に戦後になってからでした。




新祖谷温泉へ

駅前からバスに乗ると、直ぐ急坂を登ります。しかしバスのジーゼルエンジンは悲鳴をあげずに粘り強く登って行きます。途中祖谷トンネルを潜ると、祖谷渓に出て決ますが全く平地が見当たりません。斜面を切り開いた家がありますが、車道はあるのでしょうか。家ごとに細い車道があるのでしょう。

少し平らな場所に来たなと想ったらホテル前の停留所に着きました。目の前がタクシー会社で、その隣が製材所です。

深い谷の中の古い温泉宿を予想していたら、ホテルは狭い場所に少人数の泊り客対象で建てられた近代的なコンパクトなホテルでした。

古い方の祖谷温泉は斜面に建てられた宿からケーブルカーで祖谷渓の縁にある野天風呂に行くことが売り物でTVで見たことがあります。
この宿は新祖谷温泉となづけ、祖谷渓の谷底でなく谷の上部に通る県道沿いに建てました。簡易ケーブルカーで山上に上がり、天空の野天風呂を売り物にした比較的新しいホテルです。元湯新祖谷温泉と名付けられているので新たに温泉を掘ったのでしょう。

早速ロープウエイに乗って天空の露天風呂に行きます。簡易ケーブルは定員4人ですが、団体客の宿でないため十分で、終点には茶室や足湯、有料の五右衛門風呂がありました。

かずら橋ナイトツアー

ホテルは以前四国交通が使用していたボンネットバスを購入し、宿泊客サービスでかずら橋とびわの滝のナイトツアーを行っています。

ライトアップされたかずら橋です。びわの滝もライトアップで美しかったのですが、写真が良く撮れませんでした。

少人数の食事間に若い女将や挨拶に見えて、祖谷の粉挽き節を唄ってくれました。哀感あふれる歌と歌唱にとても感動しました。歌詞はホテルの箸袋に印刷してあるものをコピーしました。15年ほど前、同期の山仲間と共に3月の未だ雪の中の季節、山形の銀山温泉に泊まり雪の最上川船下りに行きましたが、その時船頭になったばかりの新婚の女性船頭さんの最上川舟歌を聞き一挙に旅情が深まってきたことを思い出しました。

祖谷谷は米が採れないので粟やソバ、ジャガイモの古種ゴウシュウイモなどが主食でした。ソバやゴウシュウイモの粉挽きが主婦の日常作業だったのでしょう。近年発掘された民謡らしく、ほとんど知られていませんが印象に残る歌でした。

小さな小皿に少量の山菜が出て、その一つがイタドリと説明を受けました。毎年北アルプスの双六方面にいきますが、その基地となる鏡平山荘に行く手前にイタドリ原というイタドリが群生している斜面があります。イタドリは夏山の草いきれの象徴としてよく出会う植物ですが、イタドリを山菜として出されたのは初めてでした。それだけ祖谷渓の人々は大変な食の歴史の中で生きて来たと想いました。

少人数の食事の間でしたが、グループごとに、掘りごたつ状の囲炉裏のテーブルを囲み食事しますが、大きな鮎の串刺しを炭火で焼いていました。隣のテーブルにオーストラリア人らしい大男のグループが、遅れてやってきました。私たち家族はお酒や食事もかなり進み談笑していましたが、囲炉裏の炭火で焼いている鮎や小さな器に盛られた山の珍味に、なぜか日本の古い伝統にダイレクトに触れた想いと、伝統料理にリスペクトしている様子で、とても緊張している姿を眼にしました。

都会の田舎風の居酒屋と異なり、山また山が連なる日本の秘境のど真ん中で、シュチエーションが整い過ぎていたのでしょう。

数年前から旅している外国人を見て感じるのは、日本的な景色や食事など物見遊山の外国人は多いですが、欧米人やアジア人の一部の人たちは、もう少し哲学的な興味で我が国の旅を行っているように見受けられます。

先進国の一部のの人々は、先進科学と古い伝統やしきたり、そして自然が、矛盾なく共生している姿に接し、しかも経済成長が鈍化しながらも、米国のように階層社会化が進行せず社会が安定しいる我が国に来日し、古い伝統文化が維持されている土地を旅しながら、自分たちの近未来の文明社会の在り方を模索しているように想います。これは私の我が国の古い文化と、ヒステリックでない自然との共生感覚に対する買いかぶりでしょうか。

ボンネットバスは私たちがナイトツアーを終わるまで待っていてくれます。

宿の露天風呂ケーブル乗り場に掲出してあった各地のボンネットバスの数々。

翌朝

ホテル露天風呂付近から祖谷の村を望みます。平地が全くなく家の周りに僅かな畑が望まれます。

こちらの方角には少しまとまった集落が望めます。

祖谷渓は平家の落人伝説があります。関東など東日本の山奥に平家落人伝説の温泉がいくつかありますが、坂東八平氏は頼朝の御家人となって鎌倉幕府樹立に貢献したため落人になることはありません。

しかし祖谷渓の平家落人伝説は本当の様です。本棚から集英社街道シリーズの四国編を取り出して見ていたら、落人伝説は2通りあり1つは屋島の合戦で敗れた清盛の弟の門脇中納言教盛の第2子の従四位越後の守国盛が32人を率いて讃岐の水主荘に逃れ、阿波に入り吉野川を遡り東祖谷の大枝にたどりつき、大枝の名主を討って所領を奪い、その南の阿佐名に移り阿佐氏を名乗りました。今でも阿佐氏の子孫は存続しているようであり平家の赤旗を所有しているようです。

もう1件は入水しなかった安徳天皇を奉じた80人が、讃岐から上陸し祖谷山の山中に入り京柱峠を越えて吉野の山中から土佐に入り横倉山を越えて山中に移り住んだという伝説もあります。かずら橋は追手が来たら直ぐ切れる様にかずらで橋をつくったという伝説もあります。

木のツルで祖谷渓に架けられたかずら橋

駅への送迎の代わりのサービスで、9:00に宿の車で昨夜と同じかずら橋まで行ってくれました。

オーストラリア人グループと私たち以外の宿泊客は、自家用車で来ている人たちが多く、まだ宿に居るのでしょう。

夜ではよく構造が見えませんでしたが、なるほど豪快な構造です。以前TVでかずら橋の手入れを放映していましたが、遠くて行くことは無いだろうと想いあまり真剣に見ていませんでした。

料金所で1人550円を払って渡ります。この橋の価値を考えると安いぐらいでしょう。

左右手すりがあり転落することはありませんが、左右に揺れるので捕まらないと渡れません。

下を覗くと迫力があります。高さ14メートルです。3~4階建ての建物に匹敵します。

真下の祖谷渓を望みます。美しい流れです。

かずら橋は吊り橋ですから、主要な吊りワイヤーはかずらを巻いてカバーしていますが太い鋼線ですが、他は全て昔と同じようにかずらで組み立てられています。

かずらの材料は太さ約2㎝のシラクチカズラのツルを採集し5~10mの長さに切って組上げます。橋に使うかずらの総重量は6トンにもなるそうです。
3年おきの頻度で架け替えます。膨大な手間がかかりますが、もしこのかずら橋が無かったら観光地の祖谷渓の魅力は、半減してしまうでしょう。

晩秋にかずらを採集し乾燥させ真冬に作業に取り掛かります。橋のたもとで大釜で湯を沸騰させ、かずらのツルを柔らかく巻きやすくします。多分乾燥させたままだと、ツルに粘りがなく場合によってはポキッ!と折れてしまうかもしれません。

シラクチカズラのツルは太くなるまで、30年かかると宿の運転手さんは言っていました。更に山中でもシラクチカズラの自生を見つけるのが大変なので、近年では香川大学の協力で、繁殖しているそうです。

堂々たるびわの滝です。滝つぼが無く近くまで近寄れます。

祖谷渓の河原からかずら橋を眺めます。我々が渡った際はほとんど観光客はいませんが、観光バスが2台到着したばかりで、橋を渡る多くの人が見えますが、比較的難易度が高く、怖がる人もいるため皆が渡る訳ではありません。

大歩危やかずら橋は韓国の旅行者に人気があるようです。

平地の無い祖谷渓に観光用として巨費をかけて人口の駐車場をつくりました。かずら橋夢舞台と称し食堂や売店も併設されています。
四国は山中は道が狭いため、観光バスや自家用車で大歩危や祖谷渓に来るためには、吉野川に沿って走る徳島自動車道から井川、池田ICで降り、国道32号線を吉野川に沿って南下し、帰りはまた井川、池田ICに戻り、徳島自動車道でそのまま高知に向かうか、松山自動車で松山に行くか、高松自動車道で坂出から瀬戸大橋で岡山に行くか、高松に出るか、いずれも高速道を利用して移動します。

車を使用する場合、路線バスかタクシーを利用しますが、小さなタクシー会社が比較的多いので、料金はかかりますが移動は楽です。

大歩危峡の遊覧船

ホテルの車でかずら橋を見学した後ホテルに戻り、タクシーで大歩危の船着き場を目指します。

あいにく船着き場には観光バスが2台到着したばかりで、団体優先で全くツイていません。

遊覧船は4台で運行しているようですが、観光バスの韓国人、台湾人、中国人の3団体観光客が、優先的に乗船し、長い間待たされました。

暇だから大歩危の様子を見ていましたが、この遊覧船の乗り場は川にせり出しているため、乗り場の手前まで波が渦巻いていますが、遊覧船の乗り場から下流は流れが穏やかです。

櫓は回転するとき必要ですが、遊覧船はエンジンで進みます。我々は舟は個人客ばかりですが、出航し船着き場を見ると次の団体が列を作っています。さきほどかずら橋にいた韓国人の団体客でしょうか。或いは今日は土曜日のため個人の観光客も多いのでしょう。

大歩危峡は幅が広く波静かです。逆に安全のために幅が広く流れが緩やかな場所に遊覧船の遊覧場所をつくったのでしょう。

左右は海の底から隆起した古成岩の展覧会で奇岩を見ていると飽きません。

有名な獅子岩です。ライオンズのレオに似ています。

良くこの厳しい渓谷に鉄道を通したなという気がします。山地でここしか通せなかったから仕方が無かったのでしょう。

ちなみにこの渓谷沿いを走る国道32号線がいつ大歩危小歩危の渓谷を開通させたか