四国の旅その5、徳島、淡路島経由、神戸
いよいよ四国の旅の最終日になりました。
今回の旅では、高速バスで淡路島に移動し伊弉諾神宮を計画しましたが交通アクセスが悪いため断念し、淡路島に下りずに直接神戸に出て、前回リニューアル中で見られなかった神戸市立博物館をメインにして新幹線で帰宅する予定です。
新神戸行のJR高速バスは日曜日なのに徳島駅発車時には乗客が少なく、これでは赤字路線だなと想っていたら、徳島市内や鳴門市の停留所に止まる毎に乗客が乗って来て、鳴門市を過ぎる時には満員となりました。
中央高速や九州自動車道など高速道のバス停留所には、広い駐車場があることが多く、そこに自家用車を置いて高速バスに乗り換えるスタイルが定着しているようです。
今回の新神戸行のJR高速バスには、若いカップルや年配の御婦人方の友人同士の乗客が多く、多分神戸に遊びに行くのだろうと想像していたら、案の定ほとんどの乗客が三宮で降りてしまいました。
徳島の繁華街は歩いて5~6分もすると直ぐ街外れになり、街歩きをしている人が少ないのは、こうして三宮の繁華街まで日帰りで出かけてしまう人がいるせいもあるのかも知れません。
片道2,700円、往復5,500円の交通費は高いですが、神戸の都市の魅力には叶わず、オシャレに興味のある人は行ってしまうのでしょう。
鳴門市を過ぎて
鳴門市を過ぎていよいよ四国を後にします。車窓の景色を眺めながら、昨夕、土曜の夜なのに、徳島の街の寂しさを思い出してしまいました。
徳島市のような地域の中核都市の役割を果たすべき県庁所在地が、活気がなくなっているのを見ると、とても寂しくなります。徳島市は神戸市の広域都市圏に飲み込まれ衛星都市のようになる恐れが出ています。瀬戸大橋や鳴門大橋、明石大橋が架橋された時から、そのような運命になることは予想されていたことなのかもしれません。
徳島市と違って高松市周辺地域は本州からの観光客の来入も多く、瀬戸内を挟んで共に岡山、倉敷と広域都市圏が構成されるような兆しを感じます。なぜなら香川県の高松市や丸亀、善通寺近辺には岡山、倉敷に拮抗する自立した文化圏の存在を感じるからです。また瀬戸大橋の道路だけでなく鉄道の存在も大きく、倉敷、岡山だけでなく関西圏全体やサンライズ瀬戸のように首都圏からも1本で駅が通じています。
逆に鳴門市と徳島市は香川県の都市と比べると江戸時代から培われた文化の独自性が薄く、淡路島を挟んで巨大な神戸都市圏に組み込まれていくことが予想されるというより、既に組み込まれているように感じます。
徳島にとって一番残念なことは、祖谷渓に代表される人気観光地西阿波への交通アクセスの窓口が、香川県側に移っていて、この結果祖谷や金毘羅観光の後は高知か松山方面に行き徳島を経由することは少ないことです。
私たちもトロッコ列車で徳島に行きましたが、もしトロッコ列車が無かったら高知に行っていたかも知れません。旅に行く前から高知や松山に比べて徳島市にはぜひ行ってみたい魅力は無かったからです。
徳島へは45年前1度訪れたことはあり、高松には数度訪れたことがあり、いずれも40年以上前のことで、こうして旅でたった一日訪れただけで、その街の印象を語るには余りも不遜すぎると想うのですが正直な感想です。
鳴門海峡
鳴門海峡を渡り神戸までの道すがら、今回旅した香川県と徳島県の違いについて漠然と想いを馳せていました。
江戸時代高松藩は徳川御家門でありながら石高は12万石であり、幕末江戸湾警備、長州征伐など数々の幕府の要請で軍を派遣してきました。
一方徳島藩の石高は27万5千石もあったことは今回初めて知りましたが、米以外に藍や煙草、塩の収入も併せると実質40数万石に上がったと言われています。
戦国時代も終わり、秀吉は讃岐国の領有に老中格の生駒親正を送り込みました。親正は、丸亀城の他に寂れた寒村の高松に城を築いて城下町を作り、更に以前の領主が手掛けた栗林公園を完成させました。
家康の時代になると讃岐国は分断され、丸亀城には京極氏が入り支藩の多度津藩を設け、生駒氏は領土を半分に削られ高松藩主となり、讃岐国は丸亀、多度津藩、高松藩に3分割されました。生駒氏改易後高松藩主には御家門の松平氏が就任し、丸亀藩の京極氏と共に明治まで存続しました。
一方徳島藩の蜂須賀家は、秀吉の出世前からの股肱之臣でありながらも、家康に認められ淡路島も含めて阿波、淡路2国を領有する大大名となり、これまた明治まで存続しました。
淡路島
淡路島が見えてきました。
地域の街を旅していると、今でも江戸時代の藩風が風土となって生き続け、藩の雰囲気が残っていることを強く感じます。その意味で高松と徳島の印象は異なりました。
香川県は高松藩、丸亀藩、多度津藩と3藩体制となり、今でも高松、坂出、丸亀、善通寺、琴平と独自の文化を持った都市が林立し、対岸の岡山、倉敷と文化で負けずに対峙しています。
一方徳島県は、徳島藩の1藩体制で、内陸の独自の文化を持った阿波池田の衰退もあって、独自の文化の香りの薄い徳島市に教育、文化、経済が一極集中しています。しかし徳島市そのものに阿波踊り以外、文化の香りが漂っていないため、文化面でも経済面でも神戸に拮抗できずにいます。
このことを考えてみると、讃岐、阿波両国は守護細川氏が領有していた時代までは文化の差は無く、戦国終了後、讃岐に入国した生駒親正と、阿波に入国した蜂須賀父子の文化への取り組みの差が、今日の讃岐と阿波の文化イメージの相違となったように想えます。
生駒親正は尾張の商人武家で一説には信長の従姉妹に当たり、商人文化の気風を持っていた事に反し、蜂須賀小六は野武士の大将で奪い取ることと、目先の利益に目ざといため藍や煙草などの産業はつくりましたが、文化をつくるのは不得手だったようです。
生駒氏を継いだ高松松平氏は、茶道はじめ歌道など文化の発展に心を尽くし、初代から金毘羅さんに寄進を続け、5代藩主には学芸大名頼恭を生み、栗林公園を中国の故事に倣って作庭し、その結果ミュシュランガイドで選定される我が国代表的な大名庭園になりました。
阿波には阿波踊り、人形浄瑠璃、村芝居などが興隆しましたが、それは民衆の間に起った文化で、蜂須賀家が興隆した文化事業では無いようです。
今回旅していて、徳島県の魅力はつるぎ高校の生徒たちがPRしていた西阿波と吉野川流域にありました。
世界農業遺産認定でSDGsのリアルな拠点、西阿波と吉野川流域こそが、徳島県の魅力です。総合的な魅力を発するために、江戸時代白地と言われ四国内陸の交通の要衝である愛すべき阿波池田の再生こそ大事なことのように想います。
山中の街道と入り口の街との関係はとても重要です。その街の存在は街道全体の文明の可能性も形成してしまうからです。
例えば島崎藤村の夜明け前を読むと、街道と街の関係が良く判ります。木曽の街道の人たちは、文化、教育、信仰など全て街道の入り口の街、中津川の存在を意識して暮らしていることが判りました。木曽の人たちは、中津川に行けば何でも手に入るとか、山の暮らしの不便さと山にない文明を中津川に託していたのでしょう。
祖谷渓の文明の拠点は阿波池田だったと想います。秋葉街道の文明の拠点は天竜二股で、三州街道の文明の起点は足助でした。
昨日のトロッコ列車の光景を思い出しながら、池田高校の高校野球三連覇は西阿波の人々に大いなる喜びを与えたと想いますが、あの偉業は江戸300年の白地の人々の鍛えた足腰のDNAの偉業でもありました。
明石大橋
淡路島を過ぎ明石海峡を渡ります。私は20年以上前神戸復興が終わってこの明石海峡が架けられた直後、この橋を渡ったことがあります。
神戸市内から高速道に乗ったら直ぐ明石海峡の橋が現れ、淡路島まで近いことに驚きました。
神戸市立博物館
幕末、長崎、新潟、函館、横浜、兵庫の5カ所の港を開港した中で4カ所の開港博物館を訪問しましたが、ここ神戸が最後の開港博物館でです。4月に神戸に来た時はリニューアル中で、ようやく対面できました。
私が開港博物館に拘るのは、幕末開港した港には、それまでの伝統的な日本と海外からの新しい文明が出会った葛藤の光景が残っているような気がするからです。
私たち日本は島国で、おそらく先祖は航海に長けた海洋民族で、弥生時代それまで国土に無かった灌漑設備を伴った集団的稲作文明を持ち込み、大挙して入植したのだと思います。稲作には大規模な灌漑設備と代掻き技術が必要で、それらは鉄器と製鉄技術を伴って日本各地に入植して行きました。
私たちの血には島国の国土に対して深く根差そうとする意識と、国土に無い海の向こうの文明の憧れが、混ぜ合って生きてきました。遣唐使の時代には新しい中国文明が導入され、室町時代には宋から貨幣と禅の文化と書院づくりと美術がもたらされました。そして大航海時代には鉄砲と大砲、航海術とキリスト教がもたらされました。
そして江戸期鎖国時代には、出島で細々と西欧文明がもたらされ、朝鮮通信使一行を追いかけて新しい中国文化を確認しただけで、海外は想像の世界だけになってしまったのです。
開国は、我々日本人の海外に対する好奇心のマグマが噴き出た事件であり、マグマが噴き出た舞台は全国5ケ所の開港した港町でした。そこには様々な文明と文化の葛藤がありました。
5カ所の開港資料館や開港博物館は、私たち日本人が近代化した西欧文明と初めて出会う文明の葛藤の場の重要な記録の場だと思います。
高速バスは新神戸駅に着きました。荷物をロッカーに入れて三宮から神戸市立博物館に向かいました。
ようやく出会えた神戸市立博物館です。
今まで4カ所の開港博物館を訪れました。
新潟開港博物館 15年11月
12,3年前我が国の北方史に興味が湧いてきて、白村江の戦い前の阿倍比羅夫の渡島遠征から、安部貞任の末裔と言われる安東水軍の十三湊、18世紀ロシア船の南下による海国兵談と赤蝦夷風説孝による我が国の北方への関心と脅威論、近藤重蔵の大日本択捉府の標柱建立、ロシアレザーノフの樺太択捉侵攻、幕府蝦夷地全体を直轄地に移行、東北諸藩による蝦夷地警備、など自分なりに調べていました。
世界の歴史を見ていると、新しく統一した思想で民族をまとめた新興統一国家が、強力な軍備を持ち膨張することが判ります。
19世紀最も若い近代国家になったのはアメリカとロシアでした。
最も若く勢いのあるアメリカは西部を西へと開拓し太平洋に乗り出し、一方広大な国土を背景にした若い国家ロシアはシベリアを東へと開拓し太平洋に乗り出しました。この間英仏は太平洋というより清帝国に興味を抱いていました。
我が国の脅威は北の新興国家帝政ロシアからやって来たのです。このことがその後日本全国を巻き込んだ攘夷論の始まりでした。
幕府はロシアへの脅威に備え、松前藩による単独防備から、幕府主導の蝦夷地防備に切り替え、その結果会津藩は樺太に1000名の藩兵を常駐させ、弘前、南部、秋田、庄内、仙台など東北諸藩は道内に4000人の藩兵で防備を固め、多くの病人と莫大な費用を費やしました。この間西国諸藩は藩の防備のための富国強兵のための戦費を蓄えたのです。その結果は戊辰戦争で現実となりました。
我が国の開国の具体的な圧力は、2つの若い国家、米国使節ペリーと、ロシア使節プチャーチンによってもたらされ、その結果、通商のために5カ所の湊を開港しました。
函館、松前城址、開陽丸 11年11月
北方史に初めて興味を抱いたのは、根室の北方記念館を訪れてからで、その後大雪山登山の折に旭川の北鎮記念館で、開拓地での明治陸軍の歴史を学び、この松前、函館の旅で函館開港の歴史を学びました。
松前城
この時、函館の素晴らしさに驚きました。的確で詳しい説明案内が完備していて、街を旧跡をたどるだけで、函館の歴史が理解できました。
松前城と共に印象的だったのはキリスト教会と修道院でした。開港と同時に各国のキリスト教会が進出しましたが、その人たちは皆教団のエース格で帰国することなく外国人墓地で眠っています。これらの説明パネルを見ていると、映画炎のランナーのスコットランドのラクビーの名ウイングで、伝道のため中国で没した長老派教会のリデルを思い出してしまいました。
新潟開港博物館 15年11月
平安時代最澄と仏教論争を行った会津の徳一と慧日寺の歴史、更に阿賀野川舟運を学ぶ旅の最後に、新潟の開港博物館を訪れました。
新潟港は開港のために開かれた港で、歴史的な遺物は少ないです。
長崎歴史資料館 16年11月
私にとっての2度目の平戸の旅でしたが、この時の出島や歴史資料館の内容が、困ったことに私の博物館を見る目の標準となってしまいました。
近年最も感動した博物館です。全館撮影OKで、資料のバラエティさと中身の濃さはピカ一でした。出島の博物館も優れていて、歴史博物館のモデルのような気がしました。
横浜開港資料館 16年10月
どこにでもある説明パネルも含めて全館撮影禁止という遅れた博物館でした。
著作権など発生しようもない一般的な説明パネルなど全館撮影禁止の今時珍しい資料館です。博物館、資料館は生涯学習の場であるべきなのに、来場客が多いせいか上から目線の強い印象がありました。
函館市立博物館 20年10月
前回開港関連の博物館を訪れなかったので再度函館を旅しました。
函館は博物館の宝庫です。この隣には我が国博物館第1号の建物が並んでいます。資料は第1級で長崎と見事な歴史資料館の両輪です。
横浜、浦賀、など首都圏自治体の博物館は地方に比べると劣ります。首都圏の博物館関係者は地元出身でなく郷土愛が無いのでしょうか。
さすが博物館と公園の発祥の地であり、公園や博物館を見ていると、啄木が函館で生涯を終えたいと言っていた意味がわかりました。
神戸市立博物館
ようやく念願の神戸市立博物館に訪れることができました。展示内容、博物館発行の図録の豊富さ、質の高さは第1級でした。訪れて良かったと想いました。
待望の神戸の歴史に期待が膨らんで来ました。
正面に有名な南蛮屏風が展示しています。気分が盛り上がります。
世界地図展 インドが中心の仏教的世界地図 この地図を見て金毘羅さまの繁栄の謎が私なりに解けました。
地図展には我が国で描かれた江戸時代の世界地図が展示されていましたが、仏教系の世界観が描かれた世界地図を見るのは初めてでした。
江戸時代の人々は世界をどのように捉えていたのか。この地図は宝永7年(1710)日本で最初に出版された仏教系の世界地図で、豊富な情報量のため人気を博し、広く、出版され、当時の多くの人たちに仏教的な世界観を与えました。
作者は京都華厳寺の鳳譚で、華厳的な宇宙観の基世界が描かれています。
地図にはインドを中央に右に中国、そして朝鮮半島、海に中には日本が描かれています。地図の左上のヨーロッパ方面には、実際にイギリス、オランダ、イタリー、エウレパ、トルコなどの文字も見えます。
仏教的世界観では世界は天竺(インド)朝鮮を含む中国、日本の3つからなり、世界の中心は天竺で、そのまた中心はヒマラヤ近くにある須弥山でした。
我が国における水源の山信仰は、須弥山信仰の代わりでもあり、宮島信仰は実際は今でも弥山の信仰です。
金毘羅さんはインドのヒンズーの海神クンピーラから、航海の安全を願う金毘羅大権現の信仰が生まれました。しかも天竺にいる象の形をした象頭山は、宮島の弥山、大三島の大山に劣らず須弥山として航海の神の聖地にふさわしい山でした。
この天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の3国による世界観が、ヒンズーの海神クンピーラが前身の金毘羅大権現の信仰を生んだのだと想いました。
天竺の図
寛延2年(1749)作成の図、世界は天竺(インド)、震旦(中国)本町(日本)の3国で構成されているとの世界観。
この図は法隆寺に伝来する「五天竺図」を江戸時代に模写したものです。
聖徳太子の時代、仏教を国教としてから、天竺は世界の中心であるという世界観が生まれ近世まで継続していました。
安部文殊院の善財童子に曳かれた象に乗る渡海文殊、三蔵法師の物語、西方浄土、補陀落渡海、など天竺のヒマラヤ近くの聖地須弥山が憧れの地でした。
江戸時代はまたオランダから西欧の様々な情報が入り、現在のような世界地図も出版されていて多くの知識人は見ていたと想います。
文化11年(1828)頃、江戸期の末期になると、このようなメルカトール技法の世界地図が一般的でした。
西欧の18世紀(1700年代)中盤から博物学の世紀が始まり、石版画技術が発達し多色刷りができるようになり、博物学の成果はその多くが出版されました。
我が国では西欧と同じ18世紀中頃から学芸大名による博物学と本草学者による植物学研究が盛んになりましたが石版画技術はなく、代わりに版画技術が発展しました。
神戸の歴史
元禄9年(1696)現存する最古の兵庫津の絵図、神戸市立博物館図録「特別展よみがえる兵庫津」より転載。
古代から浪速の対岸にある兵庫津は、大和と西国を結ぶ瀬戸内の交通の要衝でした。清盛は宋貿易の国際港として津を整備しました。その後港としての地位は低下しましたが織田信長や秀吉の時代になり畿内と西国を結ぶ要衝として再び繫栄しました。
江戸時代は私たちが戦後教育で学んだレベルを遥かに超えた海運の時代でした。江戸期は石高制の農本制の時代と見られがちですが、農業、漁業、鉱業、繊維産業、為替、河川舟運、近航海運、物産商人、旅行業などが発達した資本主義社会が発展しました。特に各藩の名産物を売りさばく大阪の商機能と金融機能、海運機能が異様に発達し
北前船、尾州廻船の根拠地として兵庫津は大いに発展しました。
4月に松江を訪れた際、新設された松江歴史資料館で、松江藩の各種産業の展示を見た際、改めて北前船と大阪の重要性を知りました。当時西国各藩は資本主義社会に転じていましたが、東日本特に東北諸藩は大阪という商都の存在がなく、農本主義の形態で幕末を迎えてしまいました。また冒頭触れたように外国の脅威が北から来たことも、歴史を変えてしまいました。
1868年3月28日イラストレイテッド・ロンドンニュースの銅版画神戸開港図、神戸市立博物館図録「神戸開港150周年記念特別展図録」より
転載。外国船は整列し祝砲が打たれたのでしょう。
明治時代中期、神戸写真帳より 神戸市立博物館図録「神戸開港150周年記念特別展図録」より転載。
以後館内撮影画像
明治7年、大阪、神戸鉄道開通、明治10年京都、神戸が開通しました。
これは横浜の絵図です。当時我が国には桟橋の概念がありませんでした。岸近くに停泊して積み荷や人は小舟で岸を往復したのです。当時我が国はワークシェアリング社会で作業効率よりも、いかに多くの人たちが仕事にありつけるか重視した幸せな社会でした。産業効率と競争の概念は明治新政府の富国強兵思想の背景になり急速に社会に浸透して行きました。。
桟橋第1号はオランダ人によって三国湊に作られました。三国湊で見学しました。
こちらも横浜の絵図です。当時の人々は舶来品に対する好奇心が強いですね。
変な機関車も走っています。
開港じの神戸港です。
何もない寒村に無理やり開港した横浜港と異なって神戸港は中世以来の国際港で、江戸時代から大きな街でした。
多分、港の街の機能の幅が広く深いほど、居留するには外国人にはありがたい港だったのでしょう。
話は飛びますが、狭い趣味であった登山の分野で、日本で初めての舶来登山用具店が開店したのも神戸でしたし、日本で初めてのロッククライミングクラブが誕生したのも六甲のロックガーデンでした。
神戸に行くと横浜がまだ叶いそうにもない舶来の先進性というか専門性の雰囲気があるような気がしています。それは歴史の重みなのでしょう。
昭和の神戸です。港正面は税関でしょう。
横浜の開港博物館で、開港した明治初期に外国人向けに販売していた日本の陶器、漆器、調度品など工芸品の展示があり、それを見ていたらモース展で展示されていた手芸品や長崎の歴史資料館展示の工芸品に比べて余りに質が悪く、気分が悪くなりました。当時それらを誰が集めたか、誰が工房に作らせたのか分かりませんが、安かろう悪かろうの見本ばかりでした。
歴史の無い寒村の横浜にはそういう商人たちが横行していたのでしょう。
神戸市立博物館の図録
博物館や美術館が好きな人はミュージアムショップを訪れることも楽しみの一つと想います。大昔訪れたメトロポリタンミュージァムの印象は忘れられません。
神戸市立博物館のミュージアムショップの博物館発行の図録の豊富さ、質の良さも、来てよかったと想わせる内容でした。
欲しいものだらけの図録でしたが、中世からの兵庫津の歴史、開国関連の神戸港の歴史、明治に導入された石版画集が気に入りましたが、1冊1800円するので、全部の購入を迷っていたら、娘が父の日近いためプレゼントしてくれました。しかし全冊在庫が無く手配してくれたため、後日到着しましたが、荷物にならずに済みました。
神戸の公園の植栽
前回に引き続いて神戸市内の植栽の見事さに感心しました。前回は六甲のハーブ園を堪能し、その足で北野異人館界隈の植栽に感心しましたが、今回は博物館を出て、老舗らしい落ち着いた雰囲気の中華料理店で遅い昼食を採り、東公園の方を散策しました。
業者の植栽でも植物のトレンドを良く知っている業者の様です。
宿根草は直ぐ草姿が乱れるし、中々大変ですがよくまとまっています。
東遊園地でしょうか。都市の空間の中にこのような公園があります。きっと震災の教訓を生かしているのでしょうか。
浦和の街の市街にもこのような空間があったら、と想ってしまいます。
この辺り一帯はボランティアによるガーデンのようです。
公園づくりを利用して震災のための広い空間を作りました。
ここもボランティアガーデンの一部です。ここから三宮まで所々に花の寄せ植えがいくつもありましたが、繁華街のため人物も撮影してしまうため、写真は記録していません。
1868年3月28日イラストレイテッド・ロンドンニュースの銅版画神戸開港、神戸市立博物館図録「神戸開港150周年記念特別展図録」より
これで四国4日間の旅が終わりました。山陰は四国は九州や北海道に比べあまりに遠く感じるため今まで避けてきましたが、建て続けて山陰に2回行き、その後瀬戸内も行ったため四国はそんな遠い地だと思わなくなりました。
実際四国を旅して見るととても興味深い地であることが分かり、今までの旅の履歴に花を添えることができました。
私はお酒もそれほど好きでなく舌も肥えていませんが、出雲で食べた出雲蕎麦(つけ麺の出雲蕎麦でない)のだし汁の味に感動し、だしは宍道湖のしじみとじゃこなど小魚からできているのではと想いましたが、今回讃岐の旅ではしょっぱな讃岐うどんのぶっかけのだし汁に感動し、その後琴平の宿でも新祖谷温泉の宿の食事でもだしの味に魅了しました。多分、だしは瀬戸内のじゃこや小魚だろうと確信しました。
食べ物の記録を撮ることは行いませんが、出雲のこの時の蕎麦は2割ほど食べてから、余りにおいしく感じたため慌てて記録に残しました。
高価な京料理のように、利尻昆布とか羅臼昆布など高価な昆布から採るだしもありますが、近海の静かな海だったらいくらでも採れるじゃこなどを活用したおいしい地方料理なら、各地にあることに気が付きました。舌が肥えていない私でも料理がおいしいかどうかは分かります。
料理のことはよく分かりませんが、料理のおいしさは女将が目を配って洗練した料理の体制をつくり、それに応えて料理長が気合を入れるかどうかにかかっているような気がします。
旅の記憶は、どうしても食べ物の印象の強さに左右されることが多いです。
徳島の夜、家内と娘はネットで探して小さなお寿司屋さんに行きました。そこでのお寿司が安くておいしくて、先日家内が娘と会った時、また行ってみたいと言いあったそうです。彼女たちの徳島の印象は、私の文化云々でなく、この小さなお寿司屋さんの新鮮なお寿司のおいしさに集約されています。
旅は、普段日常で味わえないことを体験する場のため、残る印象は人それぞれなのでしょう。それが旅の楽しい要素と思います。
もう一つ旅の成果があります。
大学の校歌の2番に「東西古今の文化の潮、一つに渦巻く大島国の 大なる使命を担いて立てる 我らが行く手は極まり知らず。」という詩があります。
50歳を過ぎるまでこの詩は意識しなかったのですが、毎年クラブの新年会の最後に歌詞を吟味しながら校歌を唄っていると、改めて私たち日本人は「東西古今の文化の潮、一つに渦巻く大島国」にしばられ生きていることに気が付きました。
文化とは普遍性がなくその民族固有の思考やしきたり習慣を表します。逆に文明は、民族固有のものでなく機械文明とか人類の共通する事項です。
文化というと何故か高尚な事を連想しますが、私たち日常は和食、洋食、中華料理を食し、どこの家でも和食器、洋食器、中華どんぶりなど常備し、和食文化、洋食文化、中華文化を楽しんでいます。
私たちは、日常東西古今の文化に触れて生きていますが、その東西古今の文化に深く触れようとすると容易でなく努力が必要です。それでも生きている間に、全てでは無くその僅かでも深く触れることができれば、望外の喜びになることも解ってきました。
私にとって今回の旅は、またまた知らない文化に触れることができました。
旅から帰って、友から松本駅前の寂しさのメールがありました。
山仲間から上田、霊泉寺温泉から松本への信州の旅を終えて、その印象のメールがありました。
彼は上田の鯉西に鮎を食べに行き、いつもの定宿の霊泉寺温泉に泊まり、ふと思い立って松本に寄ってみようと鹿教湯経由で松本に行ったそうです。
そこで改めて見たのは、7月の観光シーズンたけなわの松本駅前のうらさびた雰囲気について、活気が無くくたびれた都市だとがっかりした様子を具体的に書かれていました。
松本はかって若き時代や、或いはその後も私たち山仲間にとっては聖地です。コロナ前の北アルプスの飛騨側の山行でも、平湯に下山してからそのまま直通バスで帰京するのでなく、松本で下車し駅前の蕎麦屋榑木野で諏訪の地酒を飲みながら蕎麦を食べゆっくりと中央線でアルプスの余韻を楽しみながら帰京する楽しみがありました。
彼のメールでは、いつも必ず寄る榑木野もガサガサして以前のゆったりしたイメージは無かったようです。榑木野に初めて寄った時、入り口で席を待つている人と話したら、駅前なので観光客相手の店かと想ったら、地元の人に愛用されている店と知りました。
仲間のメールは続きます。彼は土産を買うのが好きで、一緒に旅すると必ず土地の名物を求めて土産物屋にかなり時間を当てます。
松本駅前の一刻者のような土産物屋の親父さんが「漬物を作る店が減った」「わさびを売る店も無くなった」「大王わさびの駅前店も閉店した」とかそんなことばかり言うので気分が悪くなって、お城の方に行かず、暑い東京に舞い戻ったとありました。
松本の市内は結構賑やかです。
アルプスの玄関口というより北アルプスの一部と感じていた我々山仲間にとって、松本の寂れた様子を見るのが何よりも辛いのです。
近年彼とも何度も松本に寄り、長野新幹線によって近年のアルプスの玄関口が長野の方にかなり傾斜していることは、判っていましたが、そうだからといって長野が繫栄しているとは、とても思えません。
5月のブログにも記しましたが、松本駅前は寂れているけれど市内はそれほども無く、上の画像のようにむしろにぎやかで、松本は街全体が衰退しているわけではありませんでした。
地方中枢都市の駅前の寂しさ
旅に出て帰宅してからブログに旅の印象をしたためますが、地方の都市、特に県庁所在地やそれに類する中枢都市の寂しい風景に出会います。
友のメールのように、これらの街の寂しさを感じているのは私だけではありません。15年ほど前までは、郊外に巨大なシッピングセンターが誕生し、駐車場を持たない駅前立地の商店が寂れ、シャッター通りが進んでいると言われていました。しかし旅していると駅前立地の商店だけが寂れているのではなく、バス路線や運行も大幅に少なくなり、それより鉄道の本数も大幅に少なくなっていて、駅構内に人が見かけなくなりました。
逆に車で街道を走り駅近くになると、街道沿いに新しい店が林立し、地方は完全に車社会に変わっていることを感じました。
20年ほど前、東北北部を旅して、車社会に変わってしまったことを目の当たりに見て驚いたことがありました。レンタカーで行けども行けども人家の見当たらない下北半島を走っていたら、突然、首都圏のロードサイドにある店のサインポールが現れたと思ったら、次から次へと首都圏のチェーン店が現れ、そこから直ぐに大湊の街でした。大湊のあるむつ市は青森湾の野辺地から大湊線が通じており、ローカル線とはいえ広大な下北半島にを結ぶ唯一の幹線鉄道です。
しかし日本中車社会に変わってしまったと言え、高校生、中学生、或いはおばあさんはたちは電車、バスなど交通機関を利用しないと移動できませんが、先に触れたように地方では電車やバスの運行が減少したり廃止になったりしているのは、人口減の結果ですが、地方都市において、この2~30年間で何の理由もなく減ったわけではありません。
長野駅
長野オリンピックは華やかでしたが、その後以前の地味な長野市に戻ってしまったように感じます。
松江駅
地元の一畑電鉄が経営する一畑デパートの閉店直近に訪れてしまいました。みなさん寂しそうでした。
米子駅
米子は鳥取県の東の要衝に位置する鳥取県唯一の商業都市です。勝手な感想ですが、松江と県をまたいで広域都市にならないと山陰は取り残されてしまうような気がします。
各県の中枢となる地方県庁所在地や地方中枢都市を良く訪れますが、駅前の閑散とした様子や繁華街のシャッター通リに出会う度に、胸が痛んで来ます。
なぜなら地方中枢都市の駅前や繁華街は、その地方の文化のみならず経済活動の中心でもあり、それが寂れているという事は、固有の地方文化が寂れて行くことを意味し、
商業が成り立たないのは、購買客が減ったことで、地域の商業活動が停滞もしくは、減退を意味し、その原因は地域の人口減や購買顧客層の減少によって、商業のみならず、
地域全体の経済活動の低下によるものです。経済活動の低下は、飲食、各種サービスなどサービス業の低下は、塾、習い事、スポーツを含む教育活動まで影響を及ぼします。
地方都市の衰退は人口減、特に人口の都市集中によって地方の人口減が著しく、出生率の低下もこれに拍車をかけて、これが衰退の主たる原因と大方合意が出来ています。
しかしなぜ出生率が低下したかという議論はあまり深まっておらず、人文的な観点からの議論が中心のような気がします。
胸が痛くなる光景です。誰が望むでしょう。
30数年前、我が国にバブル崩壊と金融のグローバル主義が同時に押し寄せました。銀行のBIS規制とか企業決算の四半期開示制とか、基本的な経済を規制するものが欧米主導のグローバルの名のもとに国際的に統一されました。
この頃から日本の産業は、バブル後のデフレ社会になり、商品は高くては売れなくなり、低価格を維持するために国内で製品を作るより、人件費の安い発展途上国に工場を移転したり、技術指導による製品輸入など大転換が行われました。更にデフレ下で低価格を維持するために、人件費の維持が必要化され、政府の法律改正によって雇用の流動化や非正社員化が維持可能になりました。結果30年間平均賃金が全く上がらないという珍しい事態が続いたのです。
また日本全体もかっての輸出大国から、資源や農産物など効率の良い輸入大国化が図られましたが、工業、鉱業、農業、漁業、など人手のかかるものは全て海外から購入するという産業形態は、深刻な産業の空洞化を招き、地方に雇用が喪失してしまいました。要は地方に働き先が無くなってしまったのです。
雇用が無くなると、人材は地方から大都市に流入し地方は少子化が進行し購買力は減少し、都市は都市で雇用の流動化と生活コストによって少子化も地方以上に進行します。
5月に安曇野から松本を訪れましたが、街を見ると役所が主導でまた公務員OBたちが一生懸命文化的な街起こしをしていますが、民の力が弱すぎるように感じます。安曇野で感じましたが、観光と農業だけで工業が無く、これだけでは雇用は生まれず、松本の街の購買力は上がりません。
眩いばかりの浜松 浜松には世界企業の本社がありま。
浜松は天竜川流域の木材で世界に冠たるピアノ産業が生まれ、織物が盛んな事から織機工業が発達し、それが世界に冠たるオートバイと自動車産業を生みました。
下請けに甘んじることなく自主独立の風土が、世界に冠たる産業を誕生させました。
近年TSMC半導体熊本工場や宮城工場、ラピダスの千歳工場、他続々と政府補助事業で、半導体の大型工場が新設、および計画が進んでおり、熊本や千歳は地域経済が活況を呈し始めています。
思い起こせば、米国は日米繊維交渉で、或いは日米半導体交渉で、我が国を世界一の座から引ずり降ろされました。繊維は時代の流れで仕方がありませんが、半導体の交渉は内容も分かりませんので、なぜ我が国が全面撤退したか理由はわかりません。現在のように外国企業に補助金を出すぐらいなら、国内企業経営維持のために国家もかかわる必要があったように想いますが、国民には謎のままです。
私はトランプは野卑で好みませんが、米国はグローバル経済をリードしながらも、トランプの国民の雇用を守るというポリシーには見るべきものがあると想います。USスチールの買収阻止は選挙対策で、軍需産業は日本の高品質な鉄鋼や特殊鋼をだれよりも望んでいる筈のため条件交渉のような気がします。
ヨーロッパも中国のEVに高関税を検討しているようです。
松本の寂しさのメールから、思わぬ方向に行ってしまいました。旅にに出て、頭の中で浦和の街と比較しながら県庁所在地の衰退を眼にするのも嫌ですし、その様子をブログに書くのも嫌でした。原因は行政や街の人々のせいでなく我が国全体のせいだと分かっているからです。