大宮氷川神社と大宮公園
目黒に住む山仲間の太郎良兄が大宮の氷川神社に行った事がないとのことで案内しました。
しかしそういう私も、子供たちの七五三のお詣りに行って以来と、20年ほど前初詣に訪れて以来、行った事はありませんでした。
私の場合、30年来初詣は近くの氷川女体神社に行くため、大宮の氷川神社にすっかりご無沙汰しています。また繁華街も浦和が主で大宮に行くことも無くなりました。
しかし私の場合、独身時代の方が高校時代やその後も大宮の友人たちが多かった関係で、大宮の繁華街や氷川神社や大宮公園には、今よりずっと縁が深かったような気がしました。
そんなことで氷川神社を初めて訪れる太郎良兄とは、案内すると言っても大して知っているわけではありませんが、自分でも久しぶりで確認の意味もありました。。
氷川神社の参道は長く、大宮の2つ前の駅から続いています。
高校時代まで、旧中山道から氷川神社の参道が分岐する手前の旧中山道沿いには、江戸時代の街外れの刑場跡と言われている松並木があり、とても寂しい所でした。
高校生の時、大宮から北浦和まで自転車で通学する級友は暗くなって自転車を漕いでいる時、自転車の後ろの荷台にチンピラが乗って来て、恐喝を受けたこともありました。
この参道は、今では広くすっきりしていますが、戦後左右家が立ち並びとても狭くて有名な参道でした。
緑の間から木漏れ日が差し込む美しい参道です。大宮駅から触接神社近くに行く道もありますが、大宮駅から繁華街を適当にすり抜ければこの長い参道を味わうことができます。
明治天皇の氷川神社行幸図が長いパネルになって掲出されており壮観です。
明治天皇は明治元年(1878)10月13日江戸城に入城し東京城と名を改め、そのわずか半月後の10月27日に東京城を出発し翌28日に氷川神社をご参拝されました。
京都から東京に都を移して、直ぐに氷川神社に参拝された理由は、平安京遷都の故事にあります。桓武天皇が山城国の平安京に遷都した際、最初に皇城鎮護のため山城国一宮であった上賀茂神社に行幸奉幣祈願を行った例に基づき、東京皇城の所在国武蔵国一宮の氷川神社に皇城鎮護のために祈願を行ったのです。
氷川神社行幸は、鳳輦に乗られた天皇に、明治新政府の重臣たち大久保利通や西郷隆盛や御親兵1個大隊も随行し大変な行列であったようです。
氷川神社はスサノオヲミコトなど出雲系の神を祀る神社ですが、氷川神社が氷川女体神社とともに、平安時代律令の施行細則であった延喜式神名帳において武蔵国一宮であったことと、京都から関東の地に初めて遷都することの魂鎮め意味もあったように想います。
氷川神社の境内図です。昔に比べて立派になったような気がします。
額殿の隣に武州の名酒の奉納酒樽がありました。酒好きはたまらないでしょう。
深い木立の向こうに楼門が望まれます。昔はこんな深い木立でなく楼門が見えましたが、年月のもと、樹々も成長したのでしょう。
昔は左右の神池が、樹に覆われていなく明るいような氷川神社の印象でした。この神池のほとりで七五三の記念写真を撮った記憶があります。
氷川神社の社伝によると今から2千年前第5代考昭天皇の時代創建され、第12代景行天皇の時代大和武尊の東日本鎮定の際、祈願されたと伝えられています。
第13代成務天皇の時代、出雲族の兄多毛比命が武蔵国造になってから出雲神の氷川神社を尊崇しました。
第45代聖武天皇の時代、武蔵一宮と定められ、第60代醍醐天皇の時代制定された全国の神様の格付けを定めた延喜式神名帳には、最高の格式を誇る明神大社となり、朝廷の神祇官からから直接幣を預かる官幣大社となりました。
立派な手水舎。昔は素朴だったような気もしますが。記憶はあてになりません。
氷川神社、氷川女体神社、諏訪大社、香取、鹿島神宮など古い神社の創建は、神社が公表している社伝よりはるかに古いと想っています。
神社の由緒は、ヤマト朝廷時代になってから創建されていると言いますが、おそらくヤマト王権が、ヤマトの地に誕生するはるか以前の以前の弥生時代から祀られているような気がします。
全国各地の古い神社を訪れると、大抵は平野近くの水田のための水源の山の頂上に奥宮があり、麓に本格的な社が設けられており、多分弥生時代の集団で稲作を行う上で豊作を願った神様が多かったと感じます。
古い神様の多くは、最初は山の中の磐座に祀られ、現在のような社を建てた神社の形態になったのは、仏教が導入されて刺激を受け古代の高床の蔵など模した神社が建てられたようです。
しかし氷川神社、氷川女体神社、諏訪大社、香取、鹿島神宮などの形態をみると、諏訪大社を除いて、なぜか大規模稲作のための水源に水神を祀った神様ではなさそうです。
私は6千年前縄文海進期の際、日本海岸の海人族とは別に、太平洋岸の黒潮に乗り、熊野、伊勢、尾張、伊豆、そして氷川女体神社と日本の真東の香取、鹿島に古い太陽神を祀ったのかとたわいのない勝手な空想を楽しんでいます。更に今回の四国の旅で、宮島、大三島、琴平の象頭山も入るのではと想像しています。
楼門を入ると正面に見事な舞殿があります。ここは記憶はありません。近年各地の神社を訪れる際、なぜか舞殿を意識しています。
氷川神社、氷川女体神社が、諏訪大社と共に東日本で数少ない出雲系の神社ですが、氷川神社が、第13代成務天皇の時代、出雲族の兄多毛比命が武蔵国造になって出雲神を祀ったとされていますが、第13代成務天皇の時代は日本武尊が活躍したと言われる時代でまだ神話の世界です。
出雲の大国主命が天津神への国譲り神話では、なかなか国を譲ろうとしない大国主命に対して、天津神の天照大神がタケミカズチとフツヌシノオオカミを派遣し、稲佐の浜で大国主命に国譲りを迫りました。大国主命は息子たちが同意するならと国譲りを承諾しましたが、弟のタケミナカタが反対し、タケミカズチと力比べを行いましたが、タケミナカタは完敗してしまいました。
タケミナカタは諏訪に逃げましたが、そこでタケミカズチに捕えられ恭順し、タケミナカタは敗れましたが武神として長らく信濃武士、頼朝、鎌倉武士、武田信玄によって尊崇を受けました。勝ったタケミカズチも最高の武神として鹿島神宮に祀られ、行を共にしたフツヌシノオオカミは香取神宮に祀られました。両者とも神武天皇の創建とされています。
出雲神話から何が想像できるかというと、諏訪地方は弥生時代から出雲王朝の東国一の拠点であり、武蔵の地も同じく出雲王朝の地でしたが、ヤマト王権によって諏訪が滅び、ついでに武蔵がヤマト王権に恭順し、国府は未開の府中に移動しました。一方ヤマト王権は下総、常陸を抑え香取、鹿島が東北への最前線になりました。平城京遷都の際、大化の改新で活躍した神祇官中臣氏の末裔である藤原氏が由緒ある鹿島、香取神宮を氏寺にしました。
何千年と続く悠久の歴史の中で、出雲の斐川の名を採った氷川神社は、氷川女体神社と共に官幣の明神大社の伝統を守り武蔵国一宮として、多くの信仰を集めながら誇り高く続いています。
拝殿の横に広大なお札取り扱い所が設置しています。金毘羅さまより大きい感じがします。人口が多いから交通安全などお札の需要が多いのでしょう。
歴史を感じさせる重厚な拝殿です。しかし拝殿の位置も低く威圧感はありません。庶民的な神社なのでしょう。
御祭神は須佐之男命、稲田姫命と大巳貴神(おおなむちのかみ)の三神です。
出雲神話で須佐之男命(すさのおのみこと)ヤマタノオロチに食べられそうになった稲田姫命を助けて夫婦になり、その子が大巳貴神【大国主命)です。
出雲の神様以外お祀りしていないことが、特徴です。
出雲大社や諏訪大社の出雲系の神社のような豪快なしめ縄はありません。出雲大社はしめ縄をつくる特別な町が存在しますが、あれは特別なのでしょう。
氷川神社と池、隣接した大宮公園と池はつきものです。氷川神社は古代見沼田んぼと同じく奥東京湾に面していました。
見沼の氷川女体神社、中間にある中山神社、大宮氷川神社はセットの神様でした。
大宮公園に日本庭園がありました。大宮公園は県営ですが、手入れが悪く県都の公園として恥ずかしいです。
i入間県や岩槻県など小県が統合されて今の埼玉県になってからの第2代県令の白根多助のモニュメントです。
県令白根多助は長州藩士の財務官僚畑を歩んできた人物で、多分位で言えば本省の課長クラスではないかと想います。財政の知識で地租改正時、強引な制度は避けたため名県令と言われています。
革命は勝ったった方が魅力的なもので、経験が浅くても県の警察力、租税徴収力全て手にできる大統領的権限が与えられてしまいます。よほど人の意見を聞くような人でないと失敗するでしょう。また若さは、コンプレックスの裏返しで人の意見を聞くことを良しとしません。権限の行使は難しいものでなく容易なので、要は包容力があるかどうかです。白根多助はそれ故名県令と言われたのでしょう。
公園は設備と環境が半分、そこで憩うたちの雰囲気が半分だといつも想っています。良い雰囲気の公園はこの2つがバランスがとれており、印象深くなります。
友人の評では、駄目な公園の一つだという事でした。理由は手入れが悪く、公園で憩う人や散策を楽しんでいる人たちが見当たらないとのことでした。
ここでおしゃべりをしていたら公園の奥まで行く気にならず、街に出てスパゲッティの伯爵邸で名物ナポリタンを楽しみました。