立山登山と黒部の旅1、室堂

7月28日から8月1日までの5日間、山の会の仲間たちと、立山登山と黒部の旅を行いました。
昨夏北アルプス双六の稜線迄荷物を担いで上がりましたが、もうそれは辛くて不可能なため、今夏は室堂の温泉から3千m峰がピストンできる立山雄山山行を計画し、合わせて富山の街に降りておいしい魚を食べ、更に黒部の温泉を楽しむ山旅を計画しました。

首都圏は連日38度の猛暑で、午後になると猛烈なゲリラ豪雨が続いていました。一方日本列島をそれた強力台風の前線が日本列島北部に停滞し、そこに線状降雨帯が発生し山形、秋田に大雨災害が生じました。台風到来までは、関東甲信と共に梅雨明けの好天を期待していましたが、この前線の影響で北陸地方は梅雨が明けず、梅雨末期の豪雨に見舞われ、本来は容易であるべく選択した立山が最悪の天候になってしまいました。

立山室堂へは通常長野県側から黒部アルペンルートを使用しますが、長野新幹線、大町バス、扇沢トロリーバス、ケーブル、室堂バスと5つの交通機関を乗り継いでいかなければならず面倒です。また富山からは北陸新幹線、富山地鉄、美女平ケーブル、弥陀ヶ原バスと乗り継いでも、室堂までは面倒です。

ということで前夜発毎日アルペン号で新宿から北陸道経由、室堂までの直通バスを選択しましたが、予想に反しハイシーズン価格は以前に比べると料金が上がっていて、しかも3列乗車でなく普通の観光バスだったのでがっかりしてしまいました。運転手も2人の交代制になり、北陸まで行くには高速代が高く山岳地帯も走るため、個人旅行料金は割高になるのはやむを得ないのでしょう。

立山や剱岳にはたくさんの想い出があります。若い時と異なり、登山や旅は現在の瞬間を楽しむこともありますが、景色を見ながら、あの時はこうだった、あの時は辛かった、
あの時は若かったなどなど、同行した友との思い出が次から次へとよぎってきます。それが歳を重ねた時の山旅の特徴のような気がします。


今回の立山の旅では、そんな思い出も記して見ました。

立山・剱岳の想い出

学生時代から立山・剱岳は何回も来ました。20代の中盤に黒部アルペンルートが開通するまでは、立山・剱岳は北陸に位置しているため、信州側に比べると遠く時間を要しました。
上野から富山まで列車は急行しか運航していないため10時間は要し、昼間の移動は出来ず、夜行で行きました。またその夜行列車も、上野18:30発と20:30発の2本しか運航されておらず、乗客が殺到するため大混雑になり、乗客の半分は立ったまま富山まで行きました。


夏合宿の北アルプス縦走では1年の時は中房温泉から湯俣尾根、雲ノ平、黒部川、薬師沢遡行し北アルプスを横断して薬師岳から有峰に降りましたが、2年時は黒部川から仙人池、劔定着、立山、五色が原、黒部の平の渡し、針ノ木、鹿島槍、五竜、唐松への縦走、3年時は劔、立山、五色ヶ原、薬師岳、薬師沢下降、雲ノ平、三俣蓮華、双六、槍、涸沢定着を行いましたが、いずれも合宿初日の重荷による劔沢への入山の苦しい思い出が残っています。

初めての剱岳(大学1年)

大学1年の夏合宿前、浦高ワンゲルの後輩2人とワンゲル同期の4人で剱岳に行きました。写真は写真部にも兼部していた藤井兄が採りました。

当時は立山のバスの終点は弥陀ヶ原で、そこから歩いて天狗平山荘に行き、そこから室堂コースと地獄谷経由雷鳥坂、劔御前、劔沢コースと別れました。

富山地方鉄道の終点千寿ケ原から美女平へは道路は無く、美女平、弥陀ヶ原間の運行バスは、シーズン初めケーブルカーでボンネットバスで運びました。従って輸送力は少なく美女平のケーブルカーに乗るために1時間以上は待たされました。従って夜行列車で18時過ぎに上野を出ても、天狗原に着くのは昼近くになりました。

天狗原から、雷鳥坂に向かうには今は立ち入り禁止の地獄谷を経由します。雷鳥坂を経由していよいよ劔御前の稜線鞍部への上りはたっぷり2時間を要します。当時は雷鳥坂の上りに差し掛かるのは午後2時頃でした。高校生の楊兄と同期の亀井兄です。亀井兄はこの山行後山学同志会に入会し岩登りに精進しました。

手前に源次郎尾根、奥に八つ峰を従えた剱岳です。この山行では、本峰の他、八つ峰にも登りました。連日長次郎谷をグリセードで下り、大分上手くなりました。
浦高ワンゲルの楊と藤井兄は、学校規則で岩登り、ピッケル、アイゼンの山行を禁じられているために、会報の紀行は別山乗越までしか書きませんでした。

剱岳の登路、雷鳥沢と雷鳥坂、劔御前の上り、稜線の別山の奥に剱岳が鎮座しています。

劔御前から立山三山に続く稜線です。立山三山とは富士ノ折立、大汝山、雄山のことです。稜線は雄山から一気に一ノ越に下り、また浄土山から龍王岳、鬼岳、獅子岳、ザラ峠を経て五色ヶ原に至ります。

夏の縦走で辛いのは入山初日に次いで、剣沢から別山、立山三山、龍王、鬼、獅子から五色ヶ原までの縦走コースです。縦走初期のため荷物は重く、朝5時に剣沢を出発して、劔御前から真砂岳付近で、8時半ごろですが第1回目の昼食を採ります。そこから立山三山の縦走の核心部に入りますが、雄山は登山者が多く雑踏しますが、登山者たちは我々の巌のような荷を背負った集団を見ると道を開けてくれます。重荷は上りより下りの方が辛いのです。下りの場合片足に3倍の重量がかかると言いますが、私の場合当時体重は55kgでしたからザックの荷50kgと合わせると100kgの3倍の300kgが瞬間に片足にかかります。

一ノ越に下って昼食です。しかしそこから鬼、獅子、龍王の稜線が一筋縄に行かない細かな登り下りが続きます。この稜線は登山者はほとんど見かけず、静かな岩の道ですが、
新人にとって体験したことの無い辛さであり、某大学山岳部の新人は休憩中、余りの辛さにザックを放り出して黒部の谷に下って逃げてしまった事件がありました。

私は2年時と3年時の2回、夏の縦走でこの稜線を通過しました。

立山から五色ヶ原の稜線は、画像のように岩がゴロゴロした登山道で、重荷の場合はいやになります。

3年時の夏の縦走はリーダーを務め、荷は共同装備を持たなかったため、重くはありませんでしたが、1,2年が重荷にあえいでいると体調や事故など気遣いながら通過するのも疲れるものです。

我々が2年生までは、無雪期、積雪期共に共同装備は1,2年が持ちましたが、3年のリーダークラスになった時、積雪期は1年から4年まで共同装備は均等に背負う体制としたため、行動力が大幅に向上し、縦走形式でサポートを入れながら、27日間かけて光岳から甲斐駒まで3月の南アルプス全山縦走を成功することができました。

2年生の時の夏の縦走です。この時は黒部の阿曽原から入山し、初日仙人池下に幕営し、2日目仙人尾根を下り真砂沢出会い付近を登っている画像です。

この山行では前日から新人がバテテ、仙人尾根の下りでは小窓雪渓に転落を繰り返したため二股から空身にして、彼の荷を新人、2年の5人で分け合いました。多分荷は60kgを越えていたでしょう。この真砂沢出会いは既に16:30を過ぎており、剣沢天場に到着したのは20:30を回って真っ暗でした。当時私の体重は55kgのため、自分の体重を越えた荷は、わが生涯で最も重かったと想います。

腕を組んだり垂らしたりしているのは、荷が極端に重いため肩の血行を維持するためであり、普段は登りで腰に手を添えることもありますが、当時はストックの習慣は無く、両手は基本的にフリーです。TVの山番組や山で行きかう登山者で、荷が軽いのに腕を組んで登っている人を見かけますが、登りにくいのにどうして腕を組むのかなと思います。

卒業後20代の中頃、黒部アルペンルートが開通したので、雄山スキー登山の目的で立山にやってきました。雪の北アルプスを知っているだけに、自然に対して文明の力は大したものだと実感しました。

20代の後半、会社の友人たちと劔に行きました。悪天で酷い目にあいました。まだゴアテックスの雨具が無い時代です。ザックカバーの概念もなくウエアは防水が効いていないためびちょびょです。

40代の中盤、会社のスキー仲間とキャンプに行こうと話が進み、どうせなら標高が高く虫がいない剱岳を選択しました。
当時登山を長らく中断していたので装備は20代の頃のままで、トレッキングシューズと靴下だけを購入し出かけました。ピッケルは昔の重いピッケルだったので持参しませんでした。7月中旬で思いのほか雪が多く、ステップ歩行は慣れているので、試みたらステップが効きません。不思議に想って靴底を見たらジョギングタイプのかかとが斜めにカットされていました。ブランドはザンバランでしたが、雪の上を歩くと想定していなかったのでしょう。当時中高年の登山者は皆無で、布のトレッキングシューズはザンバランしか無かったので仕方がありません。

当時は登山者の少ない時代で、雷鳥沢に着いたら関西の某国立大学山岳部のパーティだけが休んでいました。雷鳥沢の登りを確認したら、浄土沢を渡る橋が雪の下に隠れてしまっていて、渡るためには雪壁にステップを切らないと渡れません。これまたピッケルが必需になりました。内心動揺が広がってきました。

荷を降ろし、ピッケル無しでどうやって浄土沢を渡ろうか思案していたら、某国立大学山岳部のリーダーがやってきて、先に行ってくれませんか?と言ってきました。20代後半から山を止めていても装備が貧弱でも、自分には若い人から見たらキャリアを感じさせたに違いないと思い、とても嬉しくなりました。

某国立大学山岳部パーティは浄土沢を渡り始めましたが先頭の2年生はゆっくりと雪壁にステップを刻んで降りて行きましたが、2番目に新人が雪壁を下って行きましたが、突然頭が雪壁の影から見えなくなり、慌ててリーダーが雪壁を下って行きました。幸い足を滑らし橋に着いたらしく、やがて全員が渡り切りました。

剣沢の天場の背後の斜面では、各大学の山岳部が雪上訓練を行っていて、たくさんの黒い点が動いていました。驚いたことに全員ゴアの上下を着ていて皆10本や12本のアイゼンを履いている事でした。
我々の時代は夏山にはアイゼンを持参したことはなく、長次郎郎谷でも平蔵谷でもアイゼンなしでグリセードで下りましたが、時代は変わって夏でも剣の沢はアイゼンを使って投降するようで驚きました。

60近くなって登山を再開した時は、積雪期では登山口からアイゼンを着用するようになりました。これも時代の変遷です。

40代の後半、秋の立山を楽しみました。私が40代の時は中高年登山者はまだ皆無で、若い人たちも少なく、剣沢でビールが270円でした。北穂小屋でもラーメンが350円ぐらいだったと想います。週末に関わらずこの広い立山山塊で動いているのは我々だけでした。

60過ぎて立山には何回も行きました。08年には家内と息子を連れて雄山や室堂見晴らし台に登りました。

立山室堂バス停


初日は宿までだったので朝立ちで十分良かったのですが、途中の乗り換えが面倒で夜行バスを選択してしまいました。案の定、美女平から弥陀ヶ原に入っても、濃いガスで何も見えず、室堂に着いたら小雨も降っており、周りは何も見えませんでした。
晴れたら浄土山の麓の室堂見晴らし台に行き、五色が原や薬師岳を展望しようと考えていましたが、それも叶わず宿に直接入ることにし、チェックインの時間まで荷物を預かってもらうことにしました。

朝飯を持ってきたのですが、ホテル立山が経営している立ち食い蕎麦の味が抜群という島田兄の勧めで、まずは絶品の蕎麦を食べる事にしました。

富山名物白エビかき揚げ蕎麦です。1300円と立ち食いそばにしては高価ですが、出汁、蕎麦、白エビのかき揚げは絶品でした。四国の旅で素晴らしい出汁を味わって来たので、出汁の味には口が肥えてきましたが、この汁も1滴残らず飲み干してしまいました。おいしいものを食べると、とても良い気分です。

みくりが池

蕎麦を食べてからまずは今宵の宿みくりが池温泉に向かいます。みくりが池温泉は、このみくりが池の畔にあり、室堂バス停からやや近い位置にあります。

現在は温泉の噴煙を上げている地獄谷が立ち入り禁止のため、一般観光客の立山室堂観光は、黒部ダムを見学し黒部アルペンルートを乗り継いで、室堂に降り立ち、この池の1周コースを楽しんでから、室堂からバスで弥陀ヶ原、場合によって称名の滝、美女平、富山地鉄から富山に出るのが普通のため、このみくりが池が重要な拠点なのです。

みくりが池温泉

これは翌日の雨が上がった時のみくりが池温泉の画像です。学生時代以降、何回も立山に来ていますが、みくりが池温泉は収容人員が少ないので、中々予約は取れず、泊ることは今回で2回目です。

雷鳥荘

この画像は以前のものですが、みくりが池温泉から雷鳥沢に下った場所に、より大型の小屋の雷鳥荘があり、毎回ここが常宿でした。ただし雷鳥荘から室堂まではやや距離があるため、みくりが池温泉の方に人気があるのでしょう。

ただしみくりが池温泉は、日帰り湯で人気があるので、日曜日は家族連れで温泉は混んでいます。温泉に入って遅い昼飯を楽しんで下山するパターンが多いように見受けられます。

55年前のみくりが池温泉

黒部アルペンルートの全線開通は1971年6月でした。その翌年の5月山の会の仲間たちと、初めてアルペンルートを辿りみくりが池温泉に泊まり雪の立山を楽しみました。

室堂散策

雨が小やみになったので付近を散策します。

静かな山稜は除いて、雷鳥は天敵が怖いので、登山者の多い山は、ガスに包まれた時以外、余り姿を現しません。

立山の名水

立山の名水です。40代の頃は下山の際水筒に入れて持ち帰り、家でコーヒーを沸かした思い出があります。

みくりが池温泉の食事

山の中の温泉としてはみくりが池温泉の食事は定評があります。毎日メニューが変わるため連泊も楽しいのです。
みくりが池温泉は近くまでトラックが横づけできるため、輸送が容易なためでしょう。雷鳥荘は室堂近辺までブルトーザーが運んでいます。

この晩のメニューです。富山は魚がおいしい所で魚を主体とした料理です。

朝はバイキングですが、その種類は通常の倍ぐらいのアイテムがあります。そのすべてが手をかけています。

時間があるのでカフェにはなんかいも利用しました。朝のモーニングコーヒーから濃厚なココア、餅入りぜんざい、友はビールとてもリラックスできます。また図書の蔵書が多く、静かに紐解いている滞在客も多いです。