立山登山と黒部の旅2、一ノ越で撤退

2日目、立山の天気予報はA、B、CのCで、午後まで風雨が強く登山に不適当の予報でした。しかし朝起きて窓を開けてみると大日岳や奥大日岳には雲がかかっておらず、天気予報は間違っているのではないかと想いました。
結果的に、風雨が強く登山に不適当なCの予報は、雨だけでなく強風だけでもCの予報になることが分かりました。結果的には立山の稜線は風速20mに近い風が吹き荒れ、一ノ越の登りでは、帽子のバンドをきつく締めてもツバが風にあおられ飛ばされそうになり、時々帽子を脱いで手に持ったり、ツバを後ろ側にして風にあおられないようにしながら登りました。
関東はとっくに梅雨明けしているのに、中国大陸に向かった台風の前線が山形、秋田に豪雨を降らせ、その影響で新潟、富山は昨日は終日雨、そして本日は雨が降っていないものの、登るに従って強風が吹き溢れました。

登山から戻るとオリンピックが始まり、夜中に録画した試合を昼間再生することが日課となりました。早朝ウオーキングの帰宅後、水やりを行い、薔薇の花柄積みや伸びた枝などの手入れを手早く済ませ、朝飯後から気になった録画を再生します。オリンピックも以前のように日本選手を熱狂的に応援することから、試合を楽しむ方に気持ちが移ってきました。
各国の選手たちは国の威信を背負い戦っているようにみえますが、新しい種目の若い選手たちは国の威信というより、個人の自信や楽しみのために競技を行っているように見かけます。だから負けても淡々としているようにも思えます。国の威信のための五輪はそろそろ下火になるのではとも思います。

突然南海トラフに繋がるかも知れない地震が発生し、また神奈川でももしやという地震も続けて発生しました。地震で家が倒壊したTVの画像を見ると、呑気にブログなど書いていても良いのかなという気分にもなります。


歳を取ると私自身の未来は無く、あるのは今日という日と過ぎ去った過去の日々だけです。ただ私には未来は無くても社会には未来があり、これから世の中どういう風に変わっていくのかとても興味がありますが、その時は見ることはできません。

以前は、日々日常を意識することはありませんでしたが、ガーデニングを行うようになって30年、私が手を放したら薔薇や草花は枯れてしまうため、日々の水やりや手入れが当たり前となりました。それでも水やりは面倒でしたが、近年は薔薇や草花に水をあげることも、なぜか掛け替えのない時間と想うようになりました。

そして過ぎ去った過去の日々です。日常生活では過ぎ去った過去の日々を追憶することはありませんが、山に行った時は、その山塊の景色を眺めていると友と行った数々の山行が映像と共に蘇ってきます。

今回の立山紀行もよそうと想っていても過去の懐かしい映像が蘇ってきました。ハードディスクに20年の山行の画像を記録してあるために直ぐに取り出せるのです。

雄山登山に出発

朝食を済ませていよいよ出発します。この時は天気予報がCですが、観望天気を重視する我々にとって本日の登山はルンルンの日和でした。

みくりが池から室堂方面は距離は近いものの多少の上り下りがあります。

みくりが池の先にはみどり池があります。室堂のバスターミナルに寄らずまっすぐ一ノ越に向かいます。

地獄谷に噴煙が上がっています。かっては立山登山バスは弥陀ヶ原が終点で、剱岳に行くのは天狗平を過ぎて、この地獄谷の中の道を辿り、雷鳥沢、雷鳥坂に向かいました。
かって夏の縦走の12日分の荷を担いでこの地獄谷を通過した入山初日を想い出します。

劔、立山の周りの山にも数々の想い出が詰まっています。左の彼方に見える雷鳥坂は、天場となる劒沢に入るためには避けられない登りでした。
この雷鳥坂の登りでは重荷に慣れない新人の1人は必ずダウンします。山は非常なもので同時に複数の人員がダウンすることはありません。最初にダウンした新人がいれば他の新人は必ず生き返るのです。
夏のシーズンには剱岳での各大学山岳部の入山はかち合うことが多く、この雷鳥坂の登りでは各パーティとも一人もダウンせず登りきることは皆無で、どのパーティもダウンした新人を奮い起こそうとしたり、ダウンさせまいと掛け声を唱和したり必死です。各山岳部の掛け声は雷鳥坂中にこだましてにぎやかですが、どのパーティもダウンした新人の荷を減らすことなく自力で登り、またパーティも分けることなく一蓮托生です。

この夏合宿が最初の試練で、この関門を通過しないと、その後の積雪期の登山はできません。新人はその関門の通過に自己の体力の限界に挑戦し、2年生は彼らに気合を入れながら、一年前のじこの経験を想い出し、何とか耐えさせようとします。3年生のリーダー、サブリーダーは槍穂までの長い縦走に対して新人たちの体力、2年生の上級生としての動き新人へのフォローを見定めます。こうして夏の合宿が終わると、体力の極限を体験した同士、独特の連帯感が生まれます。この連帯感がないとより危険な積雪期の山行は不可能なのです。

雪の奥大日岳の想い出

14年前の2010年、同期の中間4人と5月の奥大日岳を登りました。当時私たちは60代中盤でしたので、大きく雪庇が張り出した未知の山稜を、ルートを探しながらトレースの全くない山を登ることができました。同行した杉村兄は既に病気で亡くなり、斎藤、稲吉兄もその3年後に山を止めてしまいました。

富山平野の麓から劔、立山連峰を望むと、大日如来の名を冠した大日岳が一番大きく、奥大日岳はその奥に座していますが、室堂から眺めると近い位置に奥大日岳がありそこから麓に向かって大日岳があります。
剱岳へと続く稜線の末端にある劔御前から一本の長い稜線が降りて来て、その降りたところが室堂乗越です。この乗越の北側は立山川で剱岳早月尾根の馬場島に通じています。現在は道もなく行き交う人は皆無ですが、明治大正時代は田部重治は案内人長次郎と共にこの立山川を使用しています。この立山川と早月川の出会いの馬場島は今でこそバスが通じていますが、20代の頃早月尾根から剱岳に行った際は、途中乗せてもらった大型ダンプの荷台の縁にしがみついて走った想い出があります。

雪の室堂乗越へのルートです。室堂乗越には誰も行かないのでトレースはありません。
映画「剱岳点の記」で度々立山の美しいアングルが登場しますが、どこで撮影したか気になっていましたが、この室堂乗越に立った時,ここだと思いました。

室堂乗越は幅も広く多数の撮影隊が、様々なカットを長時間撮影するには、立山周辺では最適な地と分かりました。

室堂乗越から雪稜の背後を振り替えると劔御前に至る稜線が、デコボコと伸びています。奥に連なるのは別山、真砂岳、立山三山です。

ズームを効かせると東大谷を従えた劔岳が迫ります。

室堂乗越のなだらかな稜線を辿ると、ここから急峻な奥大日岳の雪稜が始まります。ストックをピッケルに持ち替え、最初のピークの急峻な無名峰に取り掛かります。
多分昨秋の新雪以来、奥大日の山域に足を踏み入れた登山者は皆無で、今シーズンは私たちが最初の登山者のためトレースはありません。

この奥大日岳、大日岳の山稜が我が国の山岳で最も巨大な雪庇が張り出します。大日岳ピークでは最大40mの雪庇が張り出します。平成12年の文部省登山研修所が主催する大学山岳部リーダー研修会で、大日岳頂上に張り出した雪庇の内側で、雪庇が崩壊し11名が転落し内2名が亡くなりました。

冬に日本海の季節風が最も強く当たり、巨大な雪庇を形成するため、大日岳や奥大日岳の積雪期の登山者は極端に少ないのです。

最初の無名峰を越えて辿って来たルートを振り返ります。
立山川と称名川が流れる左右の谷は急峻で深く、滑落すれば1000mは流されるだろうと想いながら雪稜を辿りました。

このルートは稜線上に雪が溶けた大きなギャップがいくつも立ちはだかり
その都度越えて行かなければなりません。

急峻な下りもありますがザイルを出すまでもありません。

画面の右側には雪庇の亀裂が顔を覗かせており、これを避けて這松に近寄って内側を行くと、這松の根元の雪を踏み抜いて這松の枝の間に落ちてしまいます。

とても神経が疲れるルートです。

いよいよ奥大日岳の最後の登りです。雪庇と這松の間を登ります。画面に見える筋はトレースでなく雪のギャップです。

ようやくピークに着きました。奥大日岳の三角点は、剱岳点の記時代に埋め込まれた古いものです。

背後から我々のトレースを追って山岳スキーを担いだ単独の登山者が上がってきました。

聞くと東京農大山岳部OBの方で、山で暮らすために大阪の会社を早期退職してホテル立山に勤務しているそうです。ピークでしばし歓談します。

一人ひとり剱岳をバックにして記念写真を撮ります。

下りには登りで無かった深いギャップが口を広げていました。農大山岳部OBの方も、斜面のギャップが見えないので、途中までは本格的な滑降はできませんでした。
画像は今は亡き杉村兄と私です。

今は亡き友を偲びながら、早いものでもう15年も経った奥大日岳の山行を想い出しながら、室堂の道を辿っていました。
山に行くと学生時代から言っていた亡き友杉村兄の名言が必ず記憶に蘇ってきます。

「山は暑いか、寒いかどちらかだ。」確かに彼が言う通リ、真夏でも朝晩や雨天、強風の日は凍えそうな寒さになることが多いし、反対に真冬で下着にびっしょり汗をかくラッセルや重荷での登り、天幕内でホエーブスを3台燃焼させて食事を作る時など、暑い方が多く、結果的に山行中は快適な気温の状態が少ないことを良く言い表しています。

一ノ越の登り

60代に共に登った同期たちとの山行を想い出しながら、一ノ越への道を辿ります。同期たちとは04年度の今から20年前、皆60歳の定年になったころ、登山を再開しました。私はまだ仕事をしていましたが、再び厳しい山に登りたくなっていたし、特に再び雪山に挑戦したくなりました。
雪山は自己責任の世界で、参加者の技量を熟知していないと不安です。40代まで会社の仲間と登山を行っていましたが、どうしても共に雪山には行けませんでした。

雪山の基本は雪稜の登攀と滑落停止技術が必須です。滑落停止技術は、技術書を読んで形だけ理解しても、身体で覚えなければ身に付きません。身体で覚えるためには、倒れたら必ず滑る急峻な斜面を使いながら、頭から落ちたり或いはザイルを張ったりして何回も繰り返し訓練をしない身に着かないのです。

現在は、個人の登山者が積雪期の八ヶ岳や北アルプスの雪稜に行きます。5月のGWのシーズンには滑落遭難のニュースがTVやネットのニュースを賑わしますが、恐らく訓練を受ける機会のないままに仲間同士で山行を行い、事故に会って場合によっては遭難死しています。

その点学生時代、積雪期に同じ釜の飯を食べた仲間と登ると、お互いの技量を知っているため安心なのです。同期の仲間たちとは70歳近くなると登山より山の峠の街道歩きに移りましたが、それでも60代の10年間に、80回以上は山に行を共にしていました。

60代の後半になると、同期は山に行かなくなり、代わってOB会の役員をやっていたため、クラブの年下の仲間や学生との山行や懇親ハイキングが多くなってきました。
画像の新井兄は5代下の仲間で、学生時代は4年間なので学生時代は山行は共にしたことはありません。奥にいる吉田先輩は私の4代上の先輩です。

一の越への登山路の雪渓は2カ所あり、手前は直ぐ溶けますが、この雪渓は万年雪となります。夏のシーズンには毎日山小屋の人がスコップで登りやすいように整備しています。

一ノ越での撤退

一ノ越に近ずくに連れて、強風が舞い、バンドを強く締めた帽子が飛ばされそうになり、帽子の鍔を後ろ側にして風にあおられないようにして登りました。

ここから雄山のピークまでは約1時間の登りですが、3000mの風も遮るものが無い稜線で、ガスに巻かれて視界もない状態で、2、3時間行動するには得策でないため、登頂を中止することにしました。
一ノ越小屋でしばし熱い甘酒を飲み、休憩しました。

小屋の中では小学生連れの登山者が、登るか中止にするか悩んでいました。小学生は行きたいと主張し、親は当然中止にすべきなのに決断を鈍っていました。
登山での勇気とは何か?前に進もうとする勇ましさは勇気なのか?撤退したり中止にしたりする格好悪さを受け入れるのも勇気なのか?

今まで60年の登山経験で、この葛藤を何度か味わって来ました。観光旅行と違って、登山はある面で自然との調和でなく格闘する場面も生じます。自然との格闘は決して勝ち負けの世界ではありません。若い時はこのことを中々理解できませんでした。

登山を強行するツアー団体の人たちです。ツアーは中々予定変更はできません。

この画像は2013年の5月GWの一ノ越小屋です。この時、一ノ越にいたのは、黒部のケーブル駅まで滑るスノーボーダーのパーティと我々だけでした。雄山登頂を目的としていましたが風雪で視界が悪く、ここで撤退しました。この時が同期の斎藤、稲吉、杉村兄たちとの最後の雪山になりました。思い出の一枚です。

のんびりした下山

一ノ越から下って祓堂付近に来るとガスは上がり、風は弱くなりました。やはり風は稜線とコルの下の風の通り路に強く吹くようです。

風も弱まったのでここで一息です。時間はたっぷりあるので、温泉への帰途、昔家族で行った室堂の玉殿岩屋や江戸時代の室堂小屋でも散策しようと話し合いました。

剱岳が見えてきました。新井兄がめいいっぱいズームを効かせて撮りました。

立山の斜面にはメインでありませんが、何本か登山道が通じています。一ノ越を直ぐ下ったところから雄山の山腹を巻いて雷鳥沢に直接行く登山道があります。

左の小屋は雷鳥荘ですが、雷鳥沢のキャンプ地を遠望します。この雷鳥沢のキャンプ地は気持ちの良い場所です。左に雷鳥沢の真ん中に、劔に行く別山乗越への登路、雷鳥坂が見えます。

玉殿岩屋は洞穴の中から正面に雄山を望める岩屋で、古来修験僧が修行をしていたところです。映画「剱岳点の記」では重要な場面を提供していました。

今回訪ねようとしたら、岩殿までの道が崩れていることで通行止めになっていました。

国重文の江戸時代の室堂小屋です。今は補強されて通期建築ですが、江戸時代は夏の雄山参拝の季節が終わると分解され横たえます。幕末明治の英国外交官アーネスト・サトウの旅行記に、この室堂小屋宿泊の記事がありました。当時100数十人が泊まり、小屋内の土間の竃でお湯を沸かしたりしていました。内部は当時の立山参拝の博物館になっています。
当時立山参拝は麓のガイドの里、芦峅寺や岩峅寺に泊り立山カルデラ内の立山温泉に宿泊、そこから松尾峠を越えて弥陀ヶ原に登り、室堂小屋に泊ります。ここを拠点として雄山を参拝し、もう1泊この室堂小屋に泊り、立山温泉で疲れを癒し、芦峅寺に降りて精進落しをして帰宅しました。雄山参拝は最低でも6泊7日の行程で大変だったと想います。

室堂お花畑

室堂山荘の前で、高山植物のガイドさんが、珍しいタテヤマチングルマがあるというので、生えている場所を案内して貰いました。

室堂のお花畑が左右に広がります。立山は高山植物の種類が少ない山だと想っていましたが、アチコチ丹念に調べるとたくさんの高山植物があることが分かりました。

立山高山図鑑(島田兄撮影)

左、イワイチョウ 岩銀杏 ミツガシワ科 指の先ほどの小さな花で岩陰に目立たなく咲いています。 
右、イワキキョウ 岩桔梗 キキョウ科 登山道の端でよく見かけます。チシマキキョウと共にこの紫のラッパ系の花と出会うとなぜか不思議に安らぎます。

左、ウサギギク 兎菊 キク科  キク科の花はどれも安定していて大好きです。ウサギギクも珍しい高山植物ではありませんが、はっきりとした花形がとてもよく目立ちます。  右、カラマツソウ 唐松草 キンポゲ科 この時期北アルプスの稜線ではよく見かけます。双六岳の稜線ではこの花が目立ちました。

左、キレハハクサンボウフウ 切葉白山防風 セリ科 ミヤマシシウドやミヤマトウキなどセリ科の散形花序の花は種類が多く見分け方が難しいのです。
右、ハクサンボウフウ 白山防風 セリ科白山防風は白山では勿論のこと北アルプス北部ではよく見かけます。背丈が高いので比較的高度の低い場所に生息しています。

左、クルマユリ 車百合 ユリ科 山の中で百合は多く見かけますが、やはり車百合はよく目立ちます。  
右、コバイケイソウ 小梅恵草 ユリ科 私はコバイケイソウがあまり好きではありません。北アルプスの縦走路でも標高の低い新越乗越でトップを歩いている時、灌木が密集した縦走路で突然お化けみたいなコバイケイソウに出会い、びっくりしました。以来この大味な植物は嫌いになってしまいました。

左、シナノキンバイ 信濃金梅 キンポウゲ科 北アルプスでこのシナノキンバイやキンポウゲの黄色の小花の群落に出会うとアルプスに来たなという感慨が湧いてきます。
右、シロバナタテヤマリンドウ 白花立山竜胆 リンドウ科 リンドウですからラッパ形ですが、真上から撮影しているためラッパに見えません。白花の珍しいリンドウです。
リンドウの語源は本草の竜胆です。薬草なのでしょう。

左、タカネニガナ 高嶺苦菜 キク科 苦菜という名ですから薬草でなく菜として食用にしていたのでしょうか。
右<タテヤマチングルマ 立山稚児車 バラ科 室堂の高山植物のガイドの方から教えてもらいました。チングルマの突然変異種です。

左、タテヤマリンドウ 立山竜胆 リンドウ科  これが有名なタテヤマリンドウです。横から見るとラッパ形です。
右、チングルマ 稚児車 バラ科  チングルマも最も高山植物らしい花です。シナノキンバイと同じく標高の高い場所に群落を形成します。

左、ツガザクラ 栂桜 ツツジ科 大雪山では一面ツガザクラのカーペットが広がっていました。
右、ハクサンフウロ 白山風露 フウロソウ科 ハクサンフウロのフウロは風露と風炉の2通リあります。私は茶をたしなむ本草学者が風炉と名付けたと想っています。

左、ヒメイワカガミ 姫岩鏡 イワウメ科  植物には小さい花を姫と名付け、鬼百合など大きい花を鬼と呼ぶ風習があります。
右、ヨツバシオガマ 四葉塩竈 ゴマノハグサ科 本草学者たちは植物名を想像力豊かに名づけました。カタカナのヨツバシオガマだと意味が分かりませんが四葉塩竈だと意味がが通ります。塩竈は仙台の浜の名所塩釜のことです。四葉は葉の形態です。この意味は、花だけでなく塩釜のように葉(浜)まで美しい、植物の意味です。江戸時代塩釜に行った人は稀で、塩釜の浜を想像して名づけたのでしょう。

以前、我が国の植物は牧野富太郎らの努力で植物学が完成したと想っていましたが、明治の植物学者で登山家の武田久吉や木暮理太郎の紀行文を読むと、現在の高山植物は全て江戸時代に発見され和名が付けられていたことが分かりました。

江戸時代、日本中の山村の医者たちが山に分け入り、既に図解した本草学図鑑を作成していました。明治の分類学はその基礎の上で成り立っていることを知りました。

左、ホソバツメクサ 細葉爪草 ナデシコ科 高山植物や山野草を理解するには和名が欠かせません。ホソバツメクサも細葉爪草だと理解できるのです。
右、ミヤマダイモンジソウ 深山大文字草 ユキノシタ科 山野草で人気の大文字草の仲間です。

左、ミヤマアキノキリンソウ 深山秋野麒麟草 夏から秋にかけてどこの山でもこの秋野麒麟草を見かけます。
右、キク科 ヤマハハコ 山母子 キク科 母子草は平地では雑草の代表ですが、高山では高貴な身分を与えられています。

雷鳥沢までトレッキングを行ったのでしょうか、小学生の一団が下ってきました。

立山は富山県の小学生登山が盛んです。室堂にも大勢の団体を見かけました。

みくりが池温泉に帰還

みくりが池温泉に戻り、カフェで飲み物を注文しながら持参の登山用の昼食を採りました。

2番前の夕飯も中々です。朝のヴァイキングも佃煮など宿で料理したアイテムが豊富に並びます。

今宵も温泉にたっぷりと浸かり夕食を採りました。登山でなく完全な山旅です。