立山登山と黒部の旅3、立山カルデラ砂防博物館、富山

7月29日、朝から叩きつけるような雨です。本日の予定は14:30室生堂発富山行きの直通バスを予約しており、下山して富山に泊るだけですから、大雨でも別に行動に差し支えありません。

朝食後、用事で帰京する吉田さんの出発を見送ります。宿の玄関の入り口の戸を開けただけでも、強い雨が吹き込んで来ます。

以前同期の仲間全員と9月に雷鳥荘に泊った時、台風襲来で直ぐ下山することになりました。宿泊客はそれほど多くはいなかったけれど、宿泊客全員が下山することになり、強風で豪雨の中、雷鳥荘の従業員が前後について室堂のバス停まで下山しました。我々も若い時は山の暴風雨に慣れていましたが、歳を取るとさすが昔の経験の記憶は薄くなり、暴風雨の中下から、横から上から同時に吹き付ける防風雨に尾根の上から飛ばされないように必死に歩きました。

普段、楽園のような立山でも台風の暴風雨は別格でした。今回は西日本を真っすぐ半島に突き抜けた大型台風が、いつまでも日本列島上に前線を引きずって秋田、山形に豪雨をもたらした後も、消えずに居座っているために北陸地方は梅雨が空けず、立山、劔、白馬方面は連日雨が続いています。おそらく本日の雨が梅雨末期の最後の豪雨なのでしょう。

みくりが池温泉


想い出すと、過去この梅雨末期の最後の豪雨と梅雨明けを山中で3回経験したことがありました。20年前の2泊3日の白馬、蓮華温泉の山行、翌年7月中旬の3連休を使った大雪渓・白馬・雪倉・朝日岳、蓮華温泉の山行で、やはり梅雨末期の悪天で三国境で縦走を迷い大池に下山しましたが、大池で梅雨が空けました。もう一回は唐松の日帰りピストンの際、八方の下りで八方池で梅雨が空け、しばらく梅雨明けの雲の動きを見ていた記憶があります。

外は大雨で散歩に出かけられないまま、事前予約していた14:30の室堂発のバス富山直通バスまでカフェで時間をつぶしていたら直ぐに昼になり、食堂でおいしそうなラーメンを食べて一息入れていたら、突然島田兄宛に予約したバスが急に運航中止になったと連絡がありました。

バス会社の名は書きませんが、予約して前金まで払って急に運航中止の連絡でした。大雨で他の路線バスの運行も中止しているならともかく、路線バスは正常運行いるのに、いい加減な対応には呆れてモノが言えません。まして中止の連絡をもっと早くくれれば温泉で半日以上もやることもなく過ごす必要はなかった筈です。

急遽雨具を着用し大雨の中、室堂バスターミナルまで行きました。バスターミナルは意外に空いていて、美女平行きの路線バスに乗り込みました。

立山ケーブルカー

美女平から富山地方鉄道立山駅まではケーブルカーに乗ります。立山駅は昔は千寿ケ原駅と言い、ここから美女平まで急こう配のため、昭和29年ケーブルカーが敷設されました。このケーブルカーは標高977mの美女平から標高475mの立山駅までの標高差500mを7分で下ります。平均斜度29°の急こう配です。

昭和38年の私の学生時代には既に開通していましたが、このケーブルカーの収容能力が少なく乗車に1時間は待たされました。また大きな秤があり重量によって荷物代を払いました。この秤は便利で夏山縦走の荷を正確に測ることができたのです。

車内は昔と変わっていません。

このケーブルカーの特徴は巨大な荷台が付属されていることです。学生時代の荷は巨大なためこの荷台を使用しました。また学生時代には、立山駅(千寿ケ原)から美女平間のバス道路は急こう配のため建設されておらず、美女平から弥陀ヶ原間の高原バスのシーズン最初と終わりにはこの荷台に乗せて運搬しました。

ちなみに美女平(977m)から室堂(2450m)まで標高差は1500mもありますが、ここを一気に登る高原バスはありがたい存在です。

昔千寿ケ原と言っていた、富山地方鉄道終点の立山駅に降りてきました。

立山カルデラ砂防博物館

駅の傍に立山カルデラ砂防博物館があり、以前から寄りたかった博物館に寄りました。

立山カルデラとは北アルプスの立山周辺地図にも、登山道が無いために表示されていない巨大なカルデラです。カルデラとは火山の噴火でできた巨大な窪地のことで、この巨大な立山カルデラは富山市内の中心部を経て富山湾に注ぐ常願寺川の源流に当たります。立山カルデラは江戸時代カルデラ内の2つの峰が崩壊したほど、土砂の崩壊が激しい谷です。この谷の砂防工事を一瞬でも緩めると、常願寺川の濁流は富山市内を襲い、市内は土砂で埋まってしまうほど危険な谷なのです。

立山カルデラ砂防博物館は、この立山カルデラの自然と、人類がある限り続く砂防工事の様子を紹介する博物館です。

立山カルデラの全貌

立山カルデラの全貌です。上の青の線は北アルプスの稜線です。幕末右の緑の山が2つ崩壊崩壊しました。
現在、立山カルデラは砂防工事のため入山禁止区域ですが、かってはカルデラの中心部に立山温泉があり、そこからオレンジ色の道を登り松尾峠を越えてると弥陀ヶ原に出ます。現在の立山高原バス道は旧登山道と平行して走っていますが、オレンジ色の登山道はやがて室堂に着きます。室堂には夏期のみ組み立てる室堂小屋があり、ここに泊って翌日は一の越を経由して立山雄山を参拝します。

現在はケーブルカー左の台地状の弥陀ヶ原から室堂が、黒部アルペンルートになり登山者や観光客は100%この弥陀ヶ原ルートを通るので、巨大な立山カルデラは入山禁止のため見ることもできません。この立山カルデラ内には無雪期、砂防工事のトロッコ列車が、18段スイッチバック方式などで、谷のかなり上部まで運航されていることや、このカルデラの奥に、砂防工事のための大規模な村があることも誰も知りません。


この立山カルデラの真ん中を通って、戦国時代秀吉、前田と敵対し加賀からのルートを塞がれた富山城主の佐々成政は、秀吉に屈するのを拒み浜松の家康に会おうと、冬の12月富山からザラ峠、針ノ木峠を越えて松本に出て伊奈街道を南下し浜松に行ったという雪のサラサラ越えの伝説があります。

このサラサラ越えの道を、明治初期、塩の高騰に悩んだ信濃豪農と加賀藩士が共同で開通社を設立し、大町から針ノ木峠、黒部の平の渡し、ザラ峠、立山温泉を結ぶ信越連帯新道(立山新道)を整備しましたが、開通後メンテナンスなど採算が合わず廃止されました。


立山周辺の登山地図

立山周辺の登山地図です。オレンジの線が北アルプスの主稜線で、グレーで囲んだ地域が立山カルデラです。立山カルデラの内部は、現在は工事用軌道だけで一般登山道はありません。
紺色の線が現在の黒部アルペンルートで、青の線がサラサラ越えの北ア横断ルートです。アルペンルートに平行した緑の線は江戸時代からの参詣道の概念ですが正確ではありません。立山カルデラの中の緑の線は立山温泉が健在だった明治、大正までの登山道です。

佐々成政が越えたという青の線のサラサラ越えの推定ルートは、明治初期に開通した信越連帯新道(立山新道)もこのルートを通っています。立山川のザラ峠までの道は廃道ですが、北アルプス主稜線のザラ峠から信州側に至る登山道は通る人は少ないものの健在です。私は大学2年の夏合宿では欅平、阿曽原、仙人谷、劒沢、立山三山、ザラ峠、五色ヶ原から昔のサラサラ越えの道に入り、黒部の平の渡しに降り南沢から針ノ木峠に登り、種池、鹿島槍、五竜、唐松と縦走したことがあります。それまでの稜線の涼しさから一変して暑かったことを覚えています。

立山カルデラ砂防博物館の図録

立山カルデラ砂防博物館は、さまざまな意欲的な企画展を行ってきて、その際作成した興味ある図録がいくつかありました。博物館の実力を知るには優れた図録が多いこともそのバロメータだと想っています。また図録は一期一会です。街の書店では売っていませんから、その時決断して購入しないと永久に手に入りません。そうした出会いも博物館を、美術館を訪れる楽しみの一つです。

カルデラの砂防を紹介する博物館で、上記の企画展は異質だと思われますが、立山カルデラの構造や自然に対する砂防という人間の活動ばかりでなく、自然と人とのかかわりあいの歴史の一断面の企画は、立山カルデラ砂防博物館の幅を広げるために素晴らしい企画だったと想います。芦峅寺に県立富山博物館があり行った事はありませんが、立山登山関係はそちらが専門なのでしょうか。

立山参詣案内図(博物館図録より)

明治時代発行の立山参詣案内図は基本的に江戸時代発行されたものを長い間踏襲しています。芦峅寺と岩峅寺衆徒による立山参詣のPRは物凄く九州熊本からも参詣客を呼んだと言われています。

立山参詣ルートのメインは岩峅寺と芦峅寺です。加賀藩がこの2寺を篤く遇し、それぞれ250石以上の領地の米を宛てていた関係で、岩峅寺と芦峅寺は立山参詣の拠点として大繁栄しました。立山参詣は素人ではできないので導師が必要です。立山雄山神社の本宮は芦峅寺にあり、室堂小屋の経営は芦峅寺衆徒が担っていました。また入山、下山の宿としても芦峅寺と岩峅寺は欠かせませんでした。

岩峅寺、芦峅寺は常願寺川の右岸にあり、立山雄山神社の参詣路はこの右岸を通って美女平を経由し、弥陀ヶ原に出て天狗平から地獄谷を通って室堂に達します。

一方中央の紫色にマーキングした立山温泉に至る道は黄色の線です。多分立山参詣は芦峅寺、岩峅寺のガイドに占められていたために、立山温泉は大山村とかのガイドが案内していたのではと想像します。剱岳点の記では、陸地測量部の柴崎芳太郎は芦峅寺のガイドに案内を断られたため大山村の長次郎はじめ大山衆にガイドを依頼しました。そのため北アルプス北部の創世記のガイドは皆大山衆でした。

また立山温泉には信州の大町から針ノ木峠、黒部、ザラ峠を越える立山新道も描かれています。


在りし日の立山温泉

立山温泉は江戸時代から隆盛を極め、当時客や立山参詣客で大繁盛し、最盛期1日1000人も利用したといわれていますが、安政5年(1858)の自信で山が崩壊し温泉も埋まってしまいました。明治2年新たな源泉が発見され、砂防関係者、湯治客、立山参詣客で再び繫栄し大正期も継続しました。

江戸・明治時代の室堂小屋(国重文)

室堂に博物館として建てられている江戸、明治時代の室堂小屋です。当時夏のシーズンが終わると解体して大雪に備えたそうです。

在りし日の信越連帯新道(立山新道)の光景

博物館図録より

立山カルデラの奥を行きます.。 右はザラ峠の直下です。

ザラ峠を越えて黒部側の中ノ谷を下りますが、今は五色ヶ原から尾根通し下ります。苅安峠です。中ノ谷から尾根の苅安峠を越えて黒部川平の渡し場に向かいます。

黒部川平の渡し。私が渡った時には既に黒四ダムによって黒部湖が出来ていたので船で黒部川を渡りました。立山新道開通時にはここに旅館が建てられました。黒部川を渡り針ノ木峠を越えるために南沢を登ります。針ノ木峠は上部が急で、立山新道が出来ても夏早くは雪渓登りが基本です。

明治初期立山新道を最初に越えた英国人アーネスト・サトウ

幕末のお雇い外国人の中で英国人たちだけが積極的に日本の山を登りました。その先駆者となったアーネスト・サトウは退役英国海軍軍曹のホーズとともに、まだ鉄道の通じていない我が国を人力車や馬車、徒歩で広範囲に旅行し、在日外国人向けに日本旅行日記を出版しました。明治8年ガウランドは初めて立山に登り飛騨山脈を日本アルプスと名付けました。日本アルプスと名付けたのはウエストンでなく、来日した明治中期より早く様々なお雇い外国人たちが日本の山を登っていました。

サトウはホーズと共に明治11年開通したばかりの立山新道に入りました。信州の野口村を出て針ノ木峠を越えて黒部川の平の小屋に宿泊し大型の岩魚を楽しみ、湯川谷を登りザラ峠を越えて立山温泉に泊まりました。翌日松尾峠を越えて弥陀ヶ原から室堂小屋に泊りました。雨の中の室堂小屋の描写は生々しいです。雨天が続いたため雄山登山は諦め下山して芦峅寺に泊りました。日記では富山に下山してからパークス宛に立山新道の状況の報告を郵便で行っています。明治初期の彼の地誌は大使館情報に蓄積されていたのでしょうか。

アーネスト・サトウは英国の外交官で幕末に来日し、幕末から明治維新にかけて約20年滞在し通訳から書記官に昇進し、その間生麦事件や鹿児島湾砲撃、下関4か国海戦、長州戦争、大政奉還、鳥羽伏見の戦いから江戸開城、会津攻め、函館戦争など英国公使オールコックとパークスを助け、幕末明治維新の複雑な情勢の中、諸藩や幕閣要人と的確な交渉を行って来ました。

彼の一外交官の見た明治維新は幕末明治維新を知るには最良の資料です。
内容は公式的な事項だけでなく、日々の暮らしについても記しています。たとえば、江戸に最初に開設した英国公使館は東禅寺という寺院で、食事はどうしていたか気になっていましたが、朝から3食仕出しとのこと。朝から仕出しの食事を受けられることは、当時の江戸社会が私たちが考える以上の文明社会であった事が分かります。

後に日本公使として再来日しましたが、日本びいきの彼は日本人の女性を娶り産んだ子が植物学者の我が国最初のエコロジストと言われた武田久吉です。

日本山岳会は小島烏水が作ったように言われていますが、武田久吉の記録を見ると府立一中の武田久吉主宰の植物研究会が母体となり、英国山岳会のウエストンは武田久吉が英国公使の息子であることから相当便宜を図ったのではと思います。

常願寺川治水を指導したオランダ人デ・レーケ

海抜より低い国土のオランダは治水大国です。明治になり新政府は国土の治水のためオランダから専門家を招きました。明治5年来日し利根川、淀川、函館港の築港指導後、安積疎水を指導し原野だった郡山を福島一の都会となる基礎を作ったファン・ドールン。デ・レーケと共に淀川や木曽川改修後九頭竜川治水と三国湊に砂防を兼ねた我が国初の桟橋をつくり、三国湊小学校のデザインをおこなったエッセル。そして任期が切れて帰国した後を受けて三国湊の桟橋を完成させた後、常願寺川の治水を指導したデ・レーケたちです。

司馬遼太郎の著作にデ・レーケの名が登場します。初めて常願寺川の視察を行ったデ・レーケは常願寺川の急流を見て、これは川でなく瀧だと述べたとあります。

ヨーロッパを流れるライン川やマイン川の緩やかな流れと異質な我が国の河川を言い当てた有名な言葉です。

2014年大学クラブ同期と越前を旅した際、三国湊によりエッセル堤を訪れました。九頭竜川の土砂で三国湊が埋まらないように防波堤を兼ねた突堤です。右は北前船で収益をあげた三国湊の豪商たちが自前で建てた三国小学校でエッセルがデザインしたものです。ちなみにエッセルの孫がだまし絵で有名なアーチストのエッシャーです。

常願寺川の猛威

立山に地面に吸収されないまま激しく降った雨は、たった1,2時間で富山平野に流れます。常願寺川源流の立山カルデラでの砂防工事を行わないと、崩落した土砂や大岩が常願寺川中流に流れて、水をせき止めてしまうと富山平野は水浸しになってしまいます。
富山県には

多分常願寺川の砂防工事は、人類が生存している限り続けていかなければならない工事です。

国土の60%以上を占める谷の深い急峻な山地で構成される日本列島の砂防工事は、この列島に住む私たち日本人が逃れることのできない宿命なのです。

立山カルデラ内で運行されているトロッコ列車

砂防工事の作業員移動と資材運搬用のトロッコ列車が立山カルデラの奥まで運航されています。

立山カルデラの奥は急峻な谷で、18段スイッチバックの技術を使用しながらトロッコ列車を高い標高の地まで運航しているのです。

立山カルデラの奥には300人の作業員が住む村もあります。食事作りは麓から食事を作る主婦の方々がトロッコ列車で通勤しています。

富山地方鉄道立山駅

立山カルデラ砂防博物館を堪能し、富山にでるべく富山地方鉄道の立山駅に向かいます。

のんびりした富山地方鉄道の車内です。富山地方鉄道は富山駅~宇奈月駅の本線、今乗車している立山駅~富山駅の立山線、岩峅寺から不二越経由富山駅の不二越、上滝線の3路線があり中々複雑です。これに海岸を走る旧JR在来線のあいの風とやま鉄道と新幹線が加わり複雑になっています。

富山地方鉄道終点富山駅

富山地鉄は立山観光と黒部観光の富山県の2大観光地の輸送のため、本数も多く従って写真のように通勤通学時間帯でなくてもホームに地元の乗客がたくさん列車を待っている風景に出会いました。

富山県の川と中世の開発状況(河出新社富山県の歴史より)

富山市には何回も行きましたが、野麦峠の寒ブリなど、山に関連する事項だけで実際は富山県のことはよく知りませんでした。中世の越中国の状況を見ると北アルプスから流れ出る暴れ川のため、落ち着いた水田耕作が出来なかったことが分かります。しかし北アルプスから流れ出る黒部、片貝、早月、常願寺川のおかげで富山湾が豊富な魚の住処になり周辺に大きな恩恵を与えていたことが分かります。

富山県には7つの大河が流れています。黒部川、毛勝三山からの片貝川、劒岳からの早月川、立山の常願寺川、飛騨高山からの神通川、白川郷からの庄川、金沢方面からの小矢部川です。

上図は源義仲が兵を挙げ上洛を目指し越中に侵攻時、義仲に味方した在地領主の分布図です。越中の在地武士合わせても500騎足らずで義仲軍の主力は諏訪武士と小県武士の信濃武士でした。在地領主の分布を見ると金沢に近い小矢部川流域と河口に国府があった庄川流域のいわゆる砺波平野がほとんどで、現在の富山市以東は在地領主がゼロでいわゆる河川の氾濫が激しく、あまり水田も無かったと考えられます。特に黒部川の氾濫は歴史にたびたび登場しています。

大伴家持の時代から立山信仰は存在し岩峅寺には立山寺、芦峅寺には仲宮寺がありそれぞれに雄山神社が存在していました。

江戸時代越中国は加賀前田藩の支藩となり独立した富山藩でした。水田開発が積極的になされ実質90万石の石高を挙げたと言われています。越中の産業は漁業が盛んで特に冬の高級魚の鰤が寒ブリとして信州に人気がありました。また越中おわらの祭りで有名な八尾は蚕種の一大産地であり,蚕種商人たちに莫大な利益をもたらしました。

富山駅前

富山駅に着きました。数年ぶりに降りた富山駅は見違えるように活気がありました。

富山湾の魚を食する

いつも通過するだけで、富山に宿泊したことが無いため、今回は富山に宿泊しおいしい魚を味合う目的もありました。

駅からビジネスホテルに行く途中、目を付けていた居酒屋に、ホテルでチェックインを済ませた後、やってきました。

富山湾の魚は特に常願寺川の火山灰地のミネラル豊富な水が、短時間で山から流れ出るため、富山湾の深さ1000mの地形と相まっておいしい魚を生み出します。
また富山平野で採れる米や野菜はミネラル豊富な火山灰地で作られ、またミネラル豊富な北アルプスの火山水と相まっておいしい作物を生み出します。

夏のため、ブリはオフシーズンで、ホタルイカ、シロエビのシーズンです。イカは漁獲量がすくなくなり、以前人気があったノドグロは高級魚になったため店頭でも姿を現しません。刺身の盛り合わせはおいしく、天気が悪いため大して運動せずに三食たらふく食べた上での富山の夜、想ったより食べられませんでした。

氷見の寒ブリが通った雪の年末の野麦街道

2012年に同期の稲吉、今は亡き杉村兄と野麦峠を徒歩で越えました。野麦峠は松本と飛騨高山を結ぶ街道ですが、今は安房トンネルが出来てその役割を終えてしまいました。
野麦峠は女工哀史で名高い峠ですが、当時飛騨の少女にとって岡谷の製糸工場で2年働けば飛騨で家が建てられるほど、製糸業は輸出産業で華やかで、小説のように悲劇ではありませんでした。ただ12月22日に操業が終わって飛騨に帰る際、野麦峠は雪に覆われて少女たちが難儀しましたが、製糸工場から雪かき人夫や翌年の人集めのための従業員が大勢同行し何百人と集団となって峠を越えました。製糸工場側として3月のお彼岸まで工場は休止となり、翌年来ない少女も大勢いたことで、冬の間飛騨で人集めで大変でした。

富山湾では江戸時代から稲の縄で網を作り鰤の定置網漁業が盛んでした。野麦街道は女工哀史の道と共に寒ブリを信州にもたらす街道でした。

氷見の寒ブリの経路

河出新社版、図説富山県の歴史より転載

糸魚川、静岡線を挟んで正月に東は鮭を西はブリを食べる習慣がありましたが、氷見産の寒ブリは1尾あたり約3kgの塩を使って塩漬けにしたため、信州ではこの塩漬けのブリの人気があり、余裕のある家では正月に氷見の寒ブリを食べる習慣が広まりました。

12月4日氷見で水揚げされた寒ブリは、12月4日に富山を出発し、12月19日高山での鰤市に間に合うように牛で輸送しました。この鰤市の開催に合わせて松本商人たちは、近隣の山中から多数のボッカを集めて高山から野麦峠を越えて松本に運びました。一方伊奈の商人たちは12月25日に上穂で、高山から運んできた鰤で鰤市を開催、氷見の鰤はさらに遠く南信まで運ばれました。寒ブリの輸送は雪道のためボッカが1人当たり60kgの荷を背負い、野麦峠を越えました。大変な労力です。

富山駅

駅のショッピングセンター内にある寿司屋に行きましたが満員のためお腹も大して空いていないため諦めました。

スタバの風景

駅のシッピングセンターのスタバでゆっくりと寛ぎます。スタバでは首都圏と同じように、若いビジネスマンたちがPCを開いて仕事をしている姿が目立ちました。

地方都市が衰弱している風景を見ると、心が暗くなっていきますが富山の街の明るさがとても目立ち富山が好きになって来ました。もう少し写真を撮り明るい雰囲気を写したいのですが、プライバシーの問題もあるので我慢します。

これを書き終わった数日後、ネットで富山市の100万人の人口が毎年1万人ずつ減り続け、昨年も1万人が減少し、その大半が若い女性だそうです。
東京の一極集中は益々進行し、最も移動元の多い市町村は大阪府、名古屋市、仙台市、福岡市だそうで、富山から女性が東京に1万人移動してももっと多い市町村がありました。移動の一番の理由は職で、東京には様々な専門的な職業が存在することも大きな理由だそうです。

このことは難しくて容易に論じられません。