立山と黒部の旅4、富山城、宇奈月、黒部峡谷鉄道

7月31日(水)ホテルで朝食後、富山市内を散策後帰宅する島田兄と別れて、近くの富山城を見学後、黒部の黒薙温泉に向かいました。

今回の旅は、装備やいでたちから思うと、いわゆる旅というより山行のカテゴリーに入るのかも知れません。

立山みくりが池温泉も黒部の黒薙温泉も山の中の温泉のため、荷物はリュックサックに収納しないと動きが取れず、靴も本格的な山道を辿るためスニーカーと言うわけには行きません。

まして今回のように豪雨の時は傘をさして歩くわけにもいかず、がっちりとゴアの雨具で身を固めます。黒部の黒薙温泉に向かう山道も、雨天時には傘をさして歩くには谷に転落という危険があり、まして旅行カートだとしたら救助を呼ばなければ辿り着けないでしょう。、

ということは山中の温泉の旅を行う時は、今回の私たちのように完全な登山スタイルで行くことがベストなのかも知れません。

そういえば新宿の都庁バスターミナルで室堂行きに乗った際、バスの荷物室の中に旅行カートがいくつか積まれていることを想い出しました。あの人たちはバスターミナルの上のホテル立山に泊るのならともかく、、そうでなかったら室堂のターミナルから1歩も外に出られないはずです。

この日は黒部川に入り、改めて電源開発の歴史を知り人間と大自然とのかかわりあい方を目の当たりにしました。

登山としての黒部川でなく、私たち人間と黒部川の大自然とのかかわりあいの歴史を学んだのです。

黒部川は単なる物見遊山の観光地として訪れるにはあまりにも勿体ない場所でした。でも初めて黒部に入ると異界の風景は物珍しく、物見遊山になってしまうのは無理もないことかも知れません。
旅で気になった地には1回だけで終わらせることなく再度訪れて、余裕を持って新たな発見を見出すことも旅の重みを深めることなのかと考えます。

富山市内

ホテルを出て富山城に向かいます。


山城と異なって江戸時代の行政の中心地の城址は、街の中心地にあるため行き易いです。明治になって城址を中心に県庁や市庁が建設され、鉄道はこれらにできるだけ接近して敷かれたため、近接はしていませんが大体城址は、駅からそれほど遠くない場所に位置しています。

地元の旧浦和市を考えると、宿場町だったため、地方の城下町の県庁所在地の行政機関が、城址周辺の一等地に集中している姿と比べると、市庁舎は駅から遠く離れた場所に位置し、県庁も近いと言えば近いですが、行政機関の存在は極めて控えめです。

多分城下町のお城は民の上に君臨していて、明治の行政機関も上から目線のオイコラ的な雰囲気だったことに対して、天領の小さな宿場町だった旧浦和市に新たにできた県や市の行政機関は、民に対して控えめだったのかも知れません。
以前、旧山形県庁の文翔館を見学した時、三島県令の知事室と警察の長室の豪華さ広さに驚きました。それを見て明治新政府の県の行政機関は完全な上から目線の組織だと想いました。

こうやって県や市の行政機関が、緑の中にすっきりと並んでいる風景は、明治新政府の上から目線の成果であり、観光資源としては一級です。

反面県庁所在地ではありませんが、徳川の幕閣の居城だった川越、忍、岩槻の3城は忍を除いて城址は無きに等しく城下町の格調も残ってはいません。明治新政府が3城を徹底的に無視したせいです。

富山城祉

富山城址については、城址として余り話題にならず、行っても石垣や大手門位はあるくらいかなと、期待しないで行ったら突然隅櫓に出会いました。

私の本棚に小学館版「城郭と城下町全集」、同じ小学館版「深訪日本の城全集」の古書がありますが、両方の全集を見ても富山城はほんの少ししかページを割いておらず、扱いが地味です。
両方ともに記しているのは、天守が時代考証を得ないで建築した犬山城と松本城を参考にして建築した模擬天守であり、「城郭と城下町」には昭和29年富山産業博覧会時に戦後復興の第1号のシンボルとして建築したとあります。しかしもっと悪い事に模擬天守は参考にした犬山城と松本城にちっとも似ていないことです。

そのようなことで富山城は、城郭マニアの対象外の城址となったのでしょうか。上の画像の隅櫓も時代考証外のような気がします。

時間がないので天守内の郷土博物館には寄れません。

野面積みの石垣の間に門が見えてきました。
この門は大手門でなく、千歳御門と言い、富山藩10代藩主前田利保の隠居所の千歳御殿の正面の門を移転したものです。この千歳御門は東大の赤門と同じ様式とされています。

千歳御門から模擬天守が望まれます。

天守など城址はともかくこの地に立つ富山城の歴史は深く、天文年間(1532~1555)に放生津に居城していた畠山氏の守護代神保長職の将、水越勝重が神通川畔のこの地に築城し後に神保氏の居城となりました。

それまで越中国の中心は、律令時代国府があった庄川水系の河口付近にありましたが、従来常願寺川などの暴れ川のため人が住めずにいた神通川河口の中原に、この富山城を築城したことは、歴史的に画期的な事でした。

天正7年(1579)佐々成政が信長の武将として入国すると、成政は越中国の中原に存在する、この城を拠点とすべく大改修を行い、敵対していた上杉氏を駆逐し越中を平定しました。

秀吉に敵対した佐々成政は秀吉の降伏し肥後1国を与えらえましたが、肥後の国人の反乱を抑えきれず切腹させられました。佐々成政転封後加賀の前田利家が越中も領有し能登、加賀、越中合わせて120万石の大大名となり、富山城に居住しましたが、火災で焼けたため高岡城を築き移転しました。しかし家康の1国1城令により高岡城は廃棄されてしまいました。

その後、前田家から万知4年(1662)前田利次が富山藩10万石を分封され、富山藩として明治まで存続しました。

これだけの歴史があるのに、明治になって何があったのか分かりませんが、名城としては歴史に残りませんでした。

暴れ川の常願寺川を避け、富山平野の中心で飛騨からの舟運を活用できる神通川畔の富山城は、立地的に優れた城でした。それがために明治まで富山城として続いたのだと思います。

富山地方鉄道宇奈月行

ホテルのフロントに預けた荷を引き取り、富山駅に向い富山地方鉄道の宇奈月行きに乗り込みました。

梅雨明けの富山平野の青田

昨日は雨模様で車窓から富山平野の青田を写す気になりませんでした。

本日は北陸地方で梅雨も明けたのでしょうか。青田が燦然と輝いています。

富山平野の青田を見たいと想っていました。
立山からダイレクトに流れたミネラル水が、灌漑用水に惜しげもなく流れます。この水が田んぼ一枚一枚に入っては流れて行くので、この水で育ったお米がおいしくないわけがありません。

美しい青田です。

これぞ世界に冠たる日本の風景です。

早月川を渡る

早月川の河口です。

常願寺川の隣の早月川は、剱岳の西面の水を集める川です。早月川の北に河口がある片貝川は毛勝三山を源にしており、その北はこれから訪れる黒部川です。更に越中にはもう1本短い小川があり、名前は小川ですが、北陸電力の発電所を幾つも持った朝日岳を源とする堂々たるです。

魚津の家並み

魚津です。魚津は富山北部の海岸沿いに広がる街で、昔から漁業が盛んです。街は黒部川の河口を避けて南側の海岸に広がっており、古代から黒部川は制御不能な暴れ川だったのでしょう。

黒部市に入ると列車は海岸線を離れて、梅雨明けの平野を通リ内陸の宇奈月に向かいます。黒部川の河口は黒部市にあり、河口近くにYKKがあり黒部の電力を象徴しています。
改めて地図を見ると、宇奈月は内陸深くあると思ったら海岸と余り距離がありません。

富山地鉄の車内

のんびりとした富山地鉄車内です。

富山地鉄宇奈月駅

終点の宇奈月駅に着きました。宇奈月は内陸の奥にありそうですが、立山に比べると遥かに海岸からの距離は短いです。

黒部峡谷鉄道宇奈月駅

黒部峡谷鉄道は宇奈月駅から奥のやや離れた場所にあります。車両の整備や保線のスペースが必要だからかも知れません。

黒部峡谷鉄道宇奈月駅歴史資料展示

黒部峡谷鉄道駅の2階は黒部電源会発関係の展示となっています。

黒部峡谷鉄道は観光客対象の観光列車だけでなく黒部川発電所の保守点検のための輸送機能を果たすために、関西電力のグループ会社として存在しているため、このような余裕の歴史スペースが作れるのでしょう。

黒部の事はよく知っているつもりでしたが、黒部川の発電所建設の歴史を前にすると改めて、人間が自然とどのようにかかわって来たか、その苦闘の歴史が理解できます。

大正時代の登山家冠松次郎の著書「黒部渓谷」は岳人だったら1度は目にしなければならない山岳書の古典でした。
冠松次郎は江戸以来の江戸の素封家の旦那衆で、恐らく大山村の山衆に仕事を与える意味で、大勢を引き連れ黒部の人跡未踏の谷筋の沢を遡行し著作で紹介しました。「黒部渓谷」の文中に日電歩道とか東洋アルミナ歩道という名が出て来ましたが、大正時代山深い黒部の谷筋に電力調査のために既に路が切り開かれたことを知りました。当時日電歩道とか東洋アルミナ歩道の意味が解らず調べるのに苦労しましたが、当時この展示を見ていたらどんなに理解が早かっただろうと思いました。

黒部川奥地に発電所を建設する事業は既に大正時代から始まっていたのです。

黒部川の電源開発の偉人

黒部川の電源開発で生じたサスティナブルな事業。ダム建設による治水、工事用の鉄道開発、温泉開発、工事用の鉄道開発、観光開発、黒部平野の農業開発、アルミ産業開発、クリーンエネルギーの筆頭水力電源開発など。

登山家も通えなかった人跡未踏のあの急峻な黒部の谷に大小10個のダムを築き、電源開発を行うことによって、谷の豊富な温泉を工事用だけに留めず、住民のために長駆下流に引き、工事用拠点と共に現在の観光拠点宇奈月の街をつくりました。

さらに工事用の資材運搬のために拠点の宇奈月まで鉄道を延伸し、更に黒部の断崖絶壁の水平歩道の運搬道をトンネルを掘り、軌道でトロッコ列車を走らせました。この軌道もできるだけ大自然を傷つけることのないように、最小限の設備と規模で運用しました。

更に古代から暴れ川の黒部川を大小10個のダムで制御し、扇状地から海岸平野に豊かな穀倉地帯を築きました。また黒部川のもたらす豊富な電力はYKKなどののアルミの世界企業も生み出しました。

この大事業は富山出身でタカジアスターデの第1三共創立者の高峰譲吉博士が、アルミ産業の将来性を見込んで東洋アルミナムを設立し電源開発のために、黒部川の水利権獲得から始まりました。
この高峰博士の電源開発事業に共鳴した逓信省の東京帝大出身の技師山田胖が技師として加わりました。山田は住民たちの要望と願いを聞き入れて、工事用鉄道も電源開発だけでなく住民の利用も考慮し、さらには黒部の豊富な温泉を下流の宇奈月に引き、これによって温泉町宇奈月が生まれました。

高峰博士は東洋アルミナの電源開発の事業の途中逝去しましたが、この後を日本電力の初代社長の山岡順太郎が、確固たる信念の元、事業を引き継ぎ、遭難者の多い電源開発事業を継続し、後に関西電力に引き継ぎました。そして関電社長太田垣士郎の強い意志で、黒四ダムと発電所が建設され、江戸時代以来綿々として続いていた立山信仰の別世界室堂を世界中の人々に開放したのです。


在りし日の宇奈月温泉

宇奈月温泉の元湯、黒薙温泉

黒薙から宇奈月まで約7km温泉を引いた赤松の引湯管

黒薙温泉から7㌔下流の宇奈月まで温泉を引いた引湯菅の連結部のモデルです。山田技師は3500本の赤松をくりぬいて木菅をつくり宇奈月まで温泉を引きました。

黒部川の主なダムと発電所

黒部川には黒部ダム、仙人谷ダム、小屋平ダム、出し平ダム、宇奈月ダムの5つの大きなダムと12の水力発電所があります。

宇奈月の奥の黒部川に作られた主要な発電所の第1号は新柳河原発電所で名前は柳河原ですが、事実上黒部川第1発電所の位置づけにあります。
最初に建設した柳河原発電所は宇奈月ダム建設によって水没し現在は西洋の古城を彷彿させる新柳河原発電所が、建築されました。

昔はダムで堰き止めた水をすぐ下に発電所を設けましたが、より出力を得るためには、傾斜のある長い距離にトンネルを通して発電する方式が採用され、小屋平ダムが築かれ、そこからかなり下に黒部川第二発電所が建設されました。現在ではその隣に地下式の新黒部第二発電所が建設されています。

資材運搬のためのトロッコ列車は
大正15年 宇奈月~猫又間 
昭和5年  猫又~小屋平間
昭和13年 小屋平~欅平 この年に宇奈月~欅平間が全通しました。

主要発電所の完成
昭和2年 柳河原発電所
昭和11年黒部川第二発電所
昭和15年黒部川第三発電所
昭和38年黒部川第四発電所

困難を極めたのは欅平の奥の阿曽原に仙人谷ダムをつくり、欅平に第三発電所の建築でした。

現在、トロッコ列車が観光客や登山者を乗せるのは、宇奈月から欅平まですが、私が学生時代は、工事用車両に欅平から阿曽原まで乗せてくれました。

湯治、トロッコ列車に乗る観光客も稀で、欅平から更に奥の阿曽原から裏劔の仙人谷から仙人池経由で劒沢に登る登山者は、山岳部や山岳会の組織登山者だけの上級コースで予約が必要でした。私たちが乗せてもらった時も、同乗パーティは皆無で私たちだけでした。

当時を思い出すと、阿曽原の何もないトンネル出口を降りると、目の前に阿曽原峠を越えて仙人谷に出る新人泣かせの急登が待ち構えていました。夜行で寝不足の身体に鞭打って50kgを超えた荷を背負って、あの暑い阿曽原峠の登りの悪夢が今でもよぎってきます。

50kgというとオープンと言って当時横幅2尺4寸のキスリングの蓋が閉まらない状態の荷になり、サイドポケットの片側に4リッターの白ガス缶をを入れていたため、両方で8リッター、本体は130リッターのため、合計138リッターになります。これがザックを折り返して蓋に出来る容量で、蓋が全く閉まらないオープン状態ですと150リッターを超えるでしょう。今は小屋泊りの3泊の山行では40リッターで収まります

話が脇にそれましたが、当時阿曽原へは欅平と同じ標高では急峻過ぎて水平道が作れません。トロッコ列車を敷設するために、縦穴を掘り、標高を上げた位置にトンネルを掘り、軌道を敷設する必要がありましたが、この間には高熱隧道が走っていたのです。

改めて今、吉村昭の高熱隧道を読んでいます。これを読むと私たちが、誰かが作るタダみたいに電気を、有難みも無くふんだんに使っていることに反省の念を覚えます。

大自然からの恵みは、何もしないで放っておいても得られるものでなく、相当のコストを要します。大自然は放っておいては、何もしてくれるわけでなく、猛威を振るうだけかも知れません。人間と大自然の関りは、経験することによって大自然を学ぶのです。


トロッコ軌道が敷設されていない時は、人夫たちは50kgの荷を背負って水平歩道で工事用資材を運びました。50kgの荷を背負って足場の悪い道を辿ることがいかに困難か、実感として分かります。昔の人は偉大でした。

長い資材など岩角に引っかけて100mの谷に何人も落下して亡くなりました。

トロッコ列車

トロッコ列車の1編成の車両は多く、途中駅ではホームが短いため、乗降する目的別に乗る車両を決めています。

能登地震の影響で欅平付近の大岩が安定していないため、列車の運行は途中の猫又までです。宇奈月温泉も静かで、立山方面に比べると観光客は激変しています。

黒部峡谷鉄道は関西電力のグループ会社で、発電所の資材運搬や保守点検の作業員の輸送のウエイトが高く、観光客だけで収益を挙げているわけでないのでとても余裕を感じます。


それにしてもこうやってキチンと見送りをしており、黒部峡谷鉄道の運行に誇りを持って従事されている姿に感動します。黒部峡谷鉄道はとても人間臭い鉄道で、あと100年後どのような運行をしているのか、想像するだけで楽しいです。

多分、100年後もこのままの形で運行しているような気がします。川の水で発電した電気を電池などに変換することなく、そのままストレートにモーターを動かし、大自然の中を悠々と出なくトコトコ走る姿は、未来社会の人々にも人類が辿って来た大きな遺産として、世界中の人々に記憶される施設のままにいるような気がします。

そしてトロッコ列車に乗って黒部川を辿り、欅平から地下で黒四ダムに行き、神々の地室堂から立山に参拝することが、人と大自然との折り合いの歴史を学ぶ意味で、100年後、近世を代表する世界的な巡礼路になるようなきがします。

駅を出るといきなり鉄橋を渡ります。この鉄橋で異空間に来たなという気持ちにさせられます。

宇奈月周辺は施設が多く、平地がないので苦労して鉄橋が架けられています。

新柳河原発電所(黒部川第一発電所)

旧柳河原発電所はダム湖のため水没し、西洋の城をイメージした新柳河原発電所が稼働しています。トロッコ列車は単線のため駅で上下線をすれ違いさせます。

引湯管

黒部川の対岸には、7kmに亙って黒薙源泉から宇奈月温泉に流れる温泉パイプが設置されています。

また対岸には冬季点検用発電所点検のためのトンネルが設置されているそうです。トロッコ列車に乗って風景を眺めていると、黒部峡谷鉄道や黒部の電源開発はできるだけ大自然の風景や生態を壊すことなく、建設したり運用していることが分かります。サインも最小限で美しい緑の景観を保っています。

黒薙温泉駅

黒薙温泉駅に到着しました。ホームにはこの列車の帰りに乗るため観光客が上りを待っています。

黒薙温泉に散策した観光客の人たちでしょうか。下りを待つ人たちです。アジア系外国人の方がほとんどです。

黒薙温泉入口

黒部峡谷は平地がないため、路はどこでも険しいです。崖に作られた急な階段から始まります。

黒薙温泉への道

5日間の旅の荷物を背負って急な山道を登ります。

黒部川最大の支流黒薙川

道はよくできていますが、約600mの細い山道を登り下りしなければなりません。歩きながら旅館の食料や資材、そしてゴミはどのように輸送しているのか気になって来ました。車とは無縁な細い山道で谷底なのでヘリも不可能だし、などなど疑問が湧いてきました。

江戸時代初期に開湯された黒薙温泉

江戸時代初期1643年にこの地に開湯され、湯治小屋が建てられました。

黒薙温泉開湯前から存在していた薬師堂

宿の真ん前に小さな薬師堂があります。話を伺うと黒薙温泉が開湯した時、すでにこの薬師堂はあったそうです。

宇奈月は発電所が出来る前の明治時代までは、人も住まない原野でしたので、ここの湯元は黒部川の扇状地の村人たちの湯治場だったのかも知れません。

黒薙温泉大露天風呂

黒薙温泉は宇奈月温泉の湯元になっているため、湯量が豊富です。

黒薙川の河原に作った露天風呂です。ただし大雨が続き黒薙川に土砂が混じった時は処理が大変だそうです。

食事の説明

食材や産地など細かく食事の説明をしてくれます。

お米と味噌汁の出汁が抜群な食事

お米の味に驚きました。以前この温泉で働いていた人が農家をやっているので、そこから手に入れているそうです。味噌汁の出汁の素晴らしさを尋ねたら出汁でなく知り合いが作っている手作りの味噌の結果だそうです。

料理の素材で奇抜なものはありませんが、とても新鮮でおいしいものばかりでした。

私は奇をてらう宿は好きでありません。珍しい山菜なら大歓迎です、

昔、ある山村の民宿で、つげ義春の世界で無いのにサンショウウオの形のままの料理が出ました。山村だからと言って自分たちが食べていた特殊な素材を強制するには余りに独りよがりだと想いました。


秘境と言われる四国の新祖谷温泉の食事も、ここ黒薙温泉の食事も素材は洗練されていて、決して独りよがりではありませんでした。新祖谷温泉には豪州人の知的なグループが長期滞在し緊張しながら囲炉裏で焼いた鮎を神妙に食べていた姿が印象的でした。この豪州人の人たちは日本の食に対して深いリスペクトを持っていたのでしょう。

黒薙温泉の夕食のメニュー

山中の黒薙温泉の夕食に感動したのは、黒薙温泉が富山湾と富山平野の歴史ある深い食文化を背景にしていることが、感じられたからです。

四国山中の新祖谷温泉の夕食も、急峻な谷ばかりで耕地の無い祖谷で、感動した食で出会えたのも、瀬戸内の豊潤な出汁文化の讃岐平野で、江戸の昔から上方の口が奢った衆が集まる金毘羅宮を背景とした深い食文化を背景にしていることを感じました。私はグルメではなくおいしいものはキリがありませんが、まずいものは直ぐ分かります。

黒部の谷で、こんなにおいしいお米と、こんなにおいしい味噌汁に出会うとは全く予想していませんでした。またおかずも素材を殺すことなくシンプルで素晴らしいものでした。

沢音を聞きながら

野口雨情のふるさと北茨城の浜の宿で、ベランダの下に押し寄せる潮騒を聞きながら、一晩過ごしました。ガラス戸を締めても潮騒は低くならず、心地よい眠りに入りました。

この黒薙温泉の黒薙川の沢音も中々で、ゴウゴウと逞しい音を響かせていました。
この黒薙川はそこいらにある唯の川でなく、源流は白馬岳の北西に突き上げる柳又谷で、その中流には北又谷がクロスし、朝日岳の基地小川温泉に通じています。学生時代夏の終わりに長期滞在して気象観測を行っていましたが、黒部川から白馬岳に突き上げる柳又谷をいつも眺めていました。柳又谷は記録が無い未知の谷で、とても私の実力では手に終えない谷で、ルート以前に熊の宝庫でした。
関西電力もこの黒薙川に眼を付けないわけがなく、黒薙温泉の上流1,7㌔先に発電所を建設し、さらに奥に新黒薙川発電所を建築しました。黒部川と同じく急峻な谷のためトンネルを掘りトロッコ軌道で資材を運びました。