初めての東京タワー

生まれて初めて東京タワーに行きました。浦和に生まれ80年も東京タワーに行ったことの無い人間は希少です。

東京タワーの画像を選んでいる時に、TVニュースで東京タワー来場1億9000万人になった記念でアメリカ人の若いご夫婦が記念賞を授与されたと報道されてました。
自分も1億9000万人に近い入場者だったと改めて感じました。

東京タワーの歴史を振り返ると、私なりに想い出すことがいくつかありました。

東京タワーは昭和33年(1958)に落成しました。昭和33年というと私が中学3年の時でしたが、実はその前年の中学2年の時に東京タワーの建築中に空から見たことがありました。多分その時観たから完成してもそれほど行く気になれなかったのかも知れません。


当時私は航空少年でした。他にも映画やロカビリー音楽などいろいろ好きなものが多く、その中でも特に軍事や航空が大好きで、航空情報など大人が読む雑誌も購読していました。第2次世界大戦のレシプロ軍用機からジェットに転換する時代で実に個性豊かな軍用機が輩出し、航空機の特に軍用機の一時代を築いた時代でした。

この辺りの事を想い出すと、いくらでも筆が進みそうになります。そんな少年の頃、どうしても小型飛行機セスナの操縦席の横に乗りたくて、親に頼んで羽田での10分間の遊覧飛行に乗りました。その時パイロットは最初から最後まで交信に英語を使用していた事、東京タワーの周りを1周飛べば10分間は終わりですが、当時の東京は、高い建物が皆無の待っ平で、東京タワーだけ立ち上がっていて、航空機には随分邪魔になるだろうなと想ったことを覚えています。

改めて歴史手帳で過去の年代を眺めていると、敗戦が昭和20年(1945)で、敗戦後の情勢は子供心では詳しく分かりませんでしたが、今客観的に振り返ってみると、戦後10年間の復興のスピードは驚異的だったと想います。
古いアルバムで印象的に残っている写真では、私の小学校の昭和25年(1950)入学時の集合写真がありました。まだ敗戦から5年しか経っていないため、男の先生方はさすが戦闘帽被っていませんが大半が国民服を着ています。父はビルマから復員して4年しか経っていないため、多分軍服を想い出したくないのか、戦前にしつらえた麻のスーツでパナマ帽を被り平和を享受しているようです。 
東京タワーは、もはや誰も戦後とは言わない戦後13年経った1958年の完成ですが、地震大国で333mの鉄の構築物を作ったこと、テレビ放映のための電波塔であることなど改めて考えると、多分計画は戦後数年で立案し戦後13年後に完成させましたが、日本の戦後の産業の発展意欲は大したものだったと想います。


子供時代の記憶は断片的にしか覚えていませんが、私の記憶では日常の興味を離れて他の事を思考できるようになったのは小学校3年位かなと想っています。その小学校3年の時の昭和27年(1953)それまでの反戦系統の映画の中から、初めて新東宝映画「戦艦大和」が上映されました。父は晩年になるまで私に戦争について話さなかったため、この映画で初めて我が国に戦艦大和という巨大戦艦があり、多くの若者が懐疑を抱きながら日本の未来に期待し海の藻屑となったことを知りました。私はこの映画に感動し1か月かけて紙芝居を作成し、担任の先生にお願いして授業で上演したことを鮮明に覚えていますす。戦艦大和は吉田満原作の映画ですが、子供の私に初めて自分以外の社会や歴史を考えるきっかけとなった映画のような気がします。



小学1年の入学写真と戦艦大和と東京タワーは何の脈路もありませんが、子供の頃の記憶は、論理的では全くなく何の脈路もなく現れます。しかしこうした個人の記憶が、案外時代の節目を捉えているように感じます。

東京タワーは城南にあるため、最寄り駅のアクセスが不明なため、文京区に住む川島兄にJRの駅の待ち合わせ場所と東京タワーの最寄り駅を調べて貰いました。

この結果巣鴨で待合わせを行い、都営三田線で御成門に行くのが東京タワーへの最短のアクセスでした。

昔から感じていることですが、都内の地下鉄のホームで、地下鉄の郊外への行先は神奈川県が圧倒的に多く、次いで千葉県です。子供の頃から地下鉄は地下を通るものだと想っていましたが、都内を出ると地下鉄とは名ばかりの郊外電車に一変します。埼玉県でも東武東上線と東部伊勢崎線は地下鉄の乗り入れを行っていて、地下鉄とは無縁な遥か郊外の駅が行先になっています。

考えてみたら、埼玉県の京浜東北線沿線や大宮以北の高崎線、東北腺沿線は地下鉄の乗り入れていないため、都心のターミナルで地下鉄に乗り換えないと山手線内側の目的地には行けません。かっては地下鉄の代わりに都電が細かく走っていて便利でしたが、埼玉県の京浜東北沿線や高崎線、東北線沿線の住人にとって、上野東京ラインや湘南新宿ラインによって神奈川県のアクセスとスピードは解決しました。

しかし京浜東北線の上野以南の地下鉄のアクセスは南北線の王子と千代田線の西日暮里しかなく、地下鉄による山手線内側のアクセスはターミナル駅での乗り換えがメインになり、神奈川、千葉、埼玉東上線沿線に比べると、はなはだしく劣り、まさに地下鉄難民と言えるのかも知れませんし、埼玉県の京浜東北沿線や高崎線、東北線沿線の住人は、JR東日本の首都圏最大の貢献者と言えるのかも知れません。上野高崎間の鉄道馬車から始まって広大な大宮機関区の設置など省線と言われた時代から、私たちは駅間が離れて不便ですが、私鉄のように駅が軽くなく、個々の駅が歴史ある地名を冠し重厚で、しかも駅ごとに街が独立して発展した旧国鉄に慣れ親しんで来ました。地下鉄と親和性が悪いとつまらないことを考えてはいけません。

既に通勤世代でない私にとって無縁ですが、JR東日本に貢献している割には、高崎線、東北線、赤羽以南の京浜東北線、埼京線で事故が起きた場合、代替え輸送の道が閉ざされてしまうのです。

都営三田線に乗るため、京浜東北線田畑経由で山手線の巣鴨にやってきました。待ち合わせの時間前についたので、駅前の巣鴨付近の地図に見入ってしまいました。新橋以南の京浜東北線沿線の主要な施設は大体が頭に入っていますが、巣鴨、駒込、大塚など山手線北側には余り来たことがなく、今まで霞の中にあった江戸時代の染井村の正確な位置や、本郷高校など、今まではっきりしなかった位置が分かりました。

都営三田線御成門駅から少し歩きますが、東京タワーに到着しました。

東京タワーは古いため場末的な施設と想っていたら、その逆でびっくりしました。まるで羽田空港のカウンターのようです。

東京タワーは考えてみれば、東京の1等地芝公園に隣接するタワーで、場末の筈がありません。古いから場末的に想った田舎者の私の発想だったのです。

施設は見事にリニューアルされていて、近代的な施設そのものです。東京タワーのイメージは、私の頭の中で30年前に訪れたエンパイア・ステートビルの古めかしいレトロなイメージが残っていたのです。
金毘羅さんに行った時にも書いたことがありますが、エンパイア・ステートビルに登った時、売店で銀ピカのダサいステートビルの置物がたくさん並んでいました。それを見た時アメリカでもお上りさんがいるのだなと想いました。今回洗練された東京タワーの売店ではどうかな想いましたが、案の定タワーの置物がたくさん並んでいました。
川島兄はエッフェル塔だって、女性議員の方たちが買っていたいたではないかと言っていました。記念のおみやげは、センスを離れて万国共通に親しまれているような気がします。

台風の襲来前で首都圏は連日、午後になると強い雨が降りました。この日もカンカン照りの中、折り畳み傘は邪魔かも知れないと持参しましたが、御成門の駅を降りると地下鉄の出口で欧米人の旅行者たちが、急な大雨で途方に暮れていました。

東京タワーは333mですが、最上階まで行っても雲の中で何も見えないため、登るのは中間の大展望台までにしました。しかし大雨のため霧でなく意外に視界を楽しめました。

都内の学校はグランドがほとんどありません。手前は芝学園で奥は正則学園です。正則学園も昔からありました。

大雨の中ですが、夏休みのため日本人の家族連れや外国人観光客で大賑わいです。

眼下に緑に包まれた東京プリンスホテルが見えます。

徳川家康の先祖は念仏僧だったため、家康は戦場に厭離穢土、欣求浄土の旗を掲げました。信玄の風林火山、諏訪神号旗や謙信の毘沙門天の旗に比べると、戦場に掲げる旗としては哲学的でもなく勇ましくはありませんが、それだけ浄土宗に帰依していたのでしょう。

家康は関東に入府すると直ぐこの増上寺に詣で、住持源譽存応と師壇の関係を結び、増上寺を徳川家の菩提寺としました。当時関東における浄土宗の本山は鎌倉の光明寺でしたが、増上寺は次第に本山をしのぐ勢力になり、浄土宗の関東18壇林の首座となり、浄土宗の僧侶養成機関の頂点を占めるに至り、寺院としても関東における最高権威の寺院にもなりました。

東京プリンスホテル、東京タワー、広大な芝公園は江戸時代増上寺の敷地でした。

警備員の方にお尋ねすると、連日にぎわっており、特に外国人観光客の方はスカイツリーとセットで来られるようです。

芝公園方面です。幕末愛宕山から見た外国人撮影の江戸風景が印象に残っています。江戸の街はモノトーンの世界で、調和がとれた美しい世界でした。

愛宕山はこの先にあるのでしょう。

浜松町近辺の高層ビル群です。

真下の駐車場です。この周辺は墓地が多いです。

適度な賑わいでみなさんリラックスして眺望を楽しんでいます。