ようやく訪れた秋の風景。
暑さ寒さも彼岸までと、昔から言われていましたが、あれほどの猛暑の夏もお彼岸近くなり急速に収束に向かいました。
しかし、秋をもたらした秋雨前線は能登で線状降水帯を形成し、地震復旧の最中の能登に大被害をもたらしました。ニュースで被災した人たちの悲しみを通り越した諦念に近い表情を窺うにつけ、あの真夏の力強い太陽の下、瑞々しくも美しい緑の夏の北陸の青田を想い出し、列島の自然は素晴らしい景色と裏腹に,大被害をもたらすことに、改めて世の矛盾を感じぜらるを得ませんでした。
反面、何の変化もないありきたりの風景が連なる首都近郊の埼玉の平野に暮らしていると、一見美しさも無く何の変哲もない風景は、自然の猛威に対してはありがたい場所だと想います。しかし見た目の変化もないありきたりの風景の中では、美しい自然は自ら積極的に探さないと得ることはできません。
埼玉の平野では美しい海や森や山の風景に接することはできませんが、全国共通して得ることができるのは空の風景です。旭日や雲や落日の美しい光景は、早起きをしたり、美しい茜雲を鑑賞しようとする心が少しでもあれば、十分体験が可能です。
9月17日(水)今年の中秋の名月は晴れて、名月を堪能することが出来ました。雲の無い地域が多かったようですが、我が家の近辺では薄い雲が漂い、返って名月に彩を与えてくれたように想います。
秋になっても連日猛暑が続いている中で、中秋の時期にこのような名月を鑑賞できることも、なぜか不思議な感じがします。今年は翌日の18日(木)の月も見事だったようです。この日は夕方雨が降って来たので早々と雨戸を閉めたので、気が付きませんでした。
そして19日(金)朝5時前に起きて寝室の雨戸を空けたら、曙色に輝いた雲が広がっていました。名月と秋の雲が一時にやってきたように感じました。
更に22日(日)今日はお彼岸でした。早朝小雨混じりでしたが、ウオーキングを止めて畑に行き、家内はお墓の花を採集し、私はタマネギの苗のため畝づくりを行いました。
そして夕方、すばらしい落日に出会うことができたのです。
中秋の名月、秋のうろこ雲、そして茜色の壮大な秋の落日、ここ1週間足らずで秋の空を十分味わうことができました。
中秋の名月 9月17日
中秋の名月を眺めていると、平安時代以来多くの人々が、この名月に想いを馳せて眺めて来たことを感じます。
たまには月の光でベートーベンやドビッシ-と想わなくありませんが、月と言えばやはり竹取物語のかぐや姫やうさぎを連想してしまいます。
名月の伝説「姥捨」と「田毎の月」 19年7月信濃更級姥捨山
月といえば誰もが想うかぐや姫でなく、もう一つの月の伝説となり、江戸時代まで芸好きな日本人の心を捉えて来た信濃国更級の「姥捨山」と「田毎の月」に触れたいと思います。
信濃の国の名の由来は「科の木」が多い事や段差を意味する科や級から来ていると言われています。
信濃の国の郡名や地名には、更科、埴科、明科、豊科、仁科、保科などがあり、更に蓼科、倉科など科が付く場所がたくさんあります。
国土の60%以上が山で占めている我が国では、山が見えない平野などはなく、関東平野を除けば大半が里山と隣接していおり、山は、海と並んで私たちの日常意識を離れて、清らかな水をもたらしてくれる神聖な所という意識があります。その中でも生駒山や比叡山しか知らなかった都人にとって、夏でも雪を抱いた高峻な山岳に囲まれた信濃の国は、未知の世界東国への入り口であり、更に東の陸奥の入り口だった白河や勿来と共に遠く憧れの地の代表だったと想います。
更級の「姥捨山」が月と関連する名所として登場したのは、古今集での読み人知らずの下記の歌からでした。
わが心 慰めかねつ 更級や 姨捨山に 照る月を見て
大和物語では信濃国更級の里に住む男が妻に咳かされて年老いた「叔母」を姥捨山に捨てて来たが、月を見るたび後悔が募り「叔母」を連れ帰ったとあります。
私たちは「津軽海峡冬景色」や「風雪ながれ旅」あるいは裕次郎の「北の旅人」などで遠く離れた北国の旅情を味わいながら歌をヒットさせてきました。
平安時代の都人にとっても、多分一生訪れることは不可能な東国の旅を夢見て、その入り口の更科は信濃の国の象徴的な存在になったように想います。この流れが信濃の蕎麦の代表が更級蕎麦に流れてような気がします。
遠く容易に訪れられない信濃国の更級の姥捨山の伝説と名月に、都人たちは憧れを抱き想像で旅情や詩情を歌に残しました。能因法師、、定家、西行、小野小町、記貫之も姥捨山の歌を残しています。更級日記も更級の旅では無いのに題名は更級にしています。能因法師はご当地ソングの名人で白河や勿来関、また瀬戸内の大三島でも想像で歌を残した歌碑に出会いました。
ご当地ソングの集大成は世阿弥は謡曲「姥捨」です。これにより姨捨山は悲劇を前提としながらも、中秋の名月と夢幻能の一大舞台として、姥捨山はご当地ソングを越えた存在になり、秀吉までが更級に関心を抱き、更に後世の芭蕉や一茶などの俳人に大きな影響を与えました。そして実際に旅した芭蕉や信濃に住む一茶によって姨捨山と名月は名句になりました。
「田毎の月」は新田開発が進んだ江戸期、たくさんの棚田に、一つずつ名月が輝いているさまを表した言葉です。
この斜面一面の棚田毎に月が照る様を「田毎の月」と言われています。
世阿弥の「姥捨」のストーリーです。世阿弥の想像力には驚かされます。
姥捨山に立つ天台宗長楽寺です。
姥捨山の物語は1957年深澤七郎の短編小説「楢山節考」がベストセラーになり映画化され話題になりました。当時は戸倉上山田温泉が華やかな時代で姥捨山は主要な観光ルートになりました。80年代初期には今村昌平監督により「楢山節考」がリバイバルされ、カンヌ映画祭で大きな話題を生みパルムドール賞を受賞しました。
私は20代の中盤に秋の姨捨山に行きましたが、当時、楢山節考の姨捨山の伝説だけがあって「田毎の月」や世阿弥の「姨捨」の解説も無く、左上の紅葉の絨毯の中の薬師堂の印象だけが残っています。
姥捨て伝説は甲州の伝説だと言う説もありますが、姥捨山を訪れるとこの地域が実際に姨捨を行ってきたように感じられ、地元では迷惑だったように気がします。税とか年貢を考えなければ、縄文時代の人々がドングリ栽培と採集で暮らしていたように、日本列島は豊かな四季の自然の恵みで、働き手である姥を山に捨てる必然性は無かった筈です。
今回記した姨捨山は19年7月に戸隠から塩田への信州4日間の旅の途中に寄った記録です。今回は世阿弥や一茶、芭蕉の解説が多くありましたが、逆に「楢山節考」の解説はありませんでした。また長野新幹線によって戸倉上山田温泉が、長野県の主要観光ルートから外れ、姨捨山は極めて静かでした。
今では姨捨山には楢山節考の物語も無く、大衆向けでない知る人ぞ知る「田毎の月」や世阿弥の「姨捨」がひっそりと解説されているだけの地味な文化遺産の地になりました。
うろこ雲 9月19日
朝、雨戸を空けたら秋の雲が広がっていました。
携帯を持ってウォーキングに出かけました。9月に入ると5時ではまだ暗く日の出前です。
土手に上がると日の出が見えてきました。雲に遮られて眩しくありません。
夏の終わりに1回、今回で2回目のうろこ雲です。
昨夜の名月がまだ空に残っています。西に名月、東に旭日です。
ようやく秋が来たという気分です。
旭日が完全に上がりました。鳥たちは旭日が登る直前に一斉に活動を始めます。
見沼田んぼに青空が広がります。空の広さだけは、見沼田んぼはどこにも負けません。
しかしせっかくのお月見の季節なのに、見沼田んぼの土手に広がっているのは外来種のセイバンモロコシばかりで、ススキはこの外来種に駆逐されて見つけるのが一苦労です。
庭に秋の風情を見る
いつもはとっくに寝ている時間ですが、これを書いている最中に日付がお彼岸の22日から23日に変わってしまいましたが、お彼岸当日の気分で書いています。
今朝畑で採集したカラスウリです。私の秋の気分の象徴です。
薔薇庭では秋を感じる花は少ないですが、もう1か月前から虎の尾が咲いています。この花は我が家では30数年前から宿根しています。
初夏に秋の彩が欲しくて萩の苗を植えました。成長力旺盛でいつもピンチをしていますが、ピンチしない枝から花が上がってきました。萩はほとんど見かけなくなりましたが、やはり野の花は風情があります。
9月22日、お彼岸の夕焼け
大ノ里優勝の表彰式を見ていたら、雨戸を閉めていた家内が夕焼けが凄いわよと言ったので、2人で携帯を手にして慌てて外に飛び出しました。
夕焼けは空の広い見沼田んぼの橋の上まで行かないと楽しめません。
早く橋まで行かないと夕焼けが終わってしまうため、小走りに橋に向かいましたが、そんな近い距離ではありません。
日曜日なのに結構車がスピードを出して走ってきます。暗闇が近づいているため、跳ねられないようにそれらをやり過ごしながら橋に向かいます。
ようやく間に合いました。これだけの茜色は一年の内でも何回も見られません。
見沼田んぼの自然と秩父連山と埼玉新都心や大宮市街地の高層ビル群が同時に見ることができる稀有な場所です。
素晴らしい赤の彩です。携帯はズームを効かせるとボケてきます。
だんだん赤の部分が減って来て夕焼けは終了に向かっています。間に合ってよかったです。