東京スカイツリーに登る

9月19日、川島兄と東京タワーに引き続いて、東京スカイツリーに登りました。

14年前学生時代の同期の山仲間たちと、かっての江戸舟運を探索しがてら浅草、深川、隅田川界隈を散策する最中、建設中のスカイツリーをいつも眺めていました。やがていつか登ろうと想っていた同期は帰らぬ人が多くなり、実現できないまま時が流れて行きました。

東京タワーも東京スカイツリーも、両方東京の名が冠されていますが、私の心の中では、東京タワーは芝タワーであり、東京スカイツリーは紛れもなく浅草スカイツリーと勝手に想っていましたが、登ってみると東京スカイツリーは実際に浅草隅田川ツリーのようでした。そう想っていても東京景色を代表するスカイツリーの価値は少しも変わらず、ここから見る絶景は天下一品です。

次は真冬の西高東低の空気が澄んでいる時期を狙って、川島兄とはスカイツリーから山を見ようと話し合っています。

スカイツリーから隅田川や浅草、深川界隈の景色を見ていると、かって同期の山仲間と散策した数々の想い出が過ってきました。帰宅して当時の画像を眺めていたら、懐かしい思い出ばかりで、スカイツリー訪問記が浅草、深川、隅田川紀行に変わってしまいました。

450mと350mの2つの展望を楽しむ

東京スカイツリーの観覧料金は350mの展望デッキまでの料金は2,400円、450mの展望回廊を加えると3,500円です。ちなみに前回行った東京タワーはリニューアル中ですが、250mのトップデッキまでは3、000円、150mのメインデッキは1,200円で、これに比べると最新の東京スカイツリーは高さへの料金では割安です。

それぞれ位置する場所が異なるので、当たり前のことですが、東京南部の芝公園辺りの眺望では東京タワー、東京の東部、浅草、湾岸、葛飾、墨田の眺望を楽しむ野だったら東京スカイツリーです。各地を旅した経験から2つのタワーに登って下界を眺めると、都市としての発展についての賛否は別として、現代の東京のダイナミズムを味わうためには圧倒的な印象を得ることができます。

地上350mの展望デッキ

エレベーターに乗車し、350mの展望デッキに超高速であっという間に上がり、エレベーターを降りて、はやる心を抑えながらデッキから真下を眺めます。
この辺りの風景は馴染みのない場所ですが、右側に大横川親水公園の緑の帯が真っすぐ続いています。中央の建物はJTのグループ企業の工場です。

東京湾に向かって北から縦に流れているのに大横川という名の運河は、かって江戸城に向かって東西に流れていた竪川から派生した運河のため横川の名がつけられました。
かってこの先の海岸地帯は広重の絵にかかれた「深川須崎10万坪」と言われた干潟の干拓地で、大横川は十間川とともにこの地を縦に貫いて開削した運河でした。

江戸の舟運の大動脈は小名木川で、家康が江戸移封後最初に、深川須崎の湿地帯を開削して江戸川と隅田川を直接結び、江戸川河口の塩の産地行徳と日本橋を結びました。
同時に、江戸湾に注いでいた暴れ川の元荒川や古利根川河口の三角州を水害の被害から防ぐために、利根川を銚子に流し、分流として関宿から派生した江戸川を開削し行徳まで大運河として川の付け替え工事を行いました。
更に江戸城に近い隅田川の支流日本橋川に蔵屋敷を設け、江戸川、小名木川を経由して、奥羽各藩の廻米輸送、上州倉賀野河岸からは利根川舟運で信州の木材、上州の絹などの物産輸送、また下野栃木から巴波川舟運で麻輸送を行いました。また行徳の塩も逆に上野、下野、信濃に送られました。
その江戸舟運の大動脈運河小名木川とクロスする形で大横川、十間川の運河が大活躍したのです。

東京の中心部を遠望します。江戸は湿地帯の葦原の背後に水の無い台地が広がり長い間人が住んでいませんでしたが、室町幕府武蔵国守護代扇谷上杉家の家宰太田道灌が、この地に注目し簡単な城を築きました。
時代は下り、秀吉から命じられて家康は江戸移封後、日比谷湾と呼ばれた海辺を埋め立て、背後の台地を崩して江戸城と侍屋敷をつくりました。江戸は海辺でありながら大河の三角州に作られた都市ではないため、飲料水が慢性的に不足していました。
幕府は、人口が増えてくると隅田川以東の深川須崎10万石と言われた広大な湿地帯を干拓し街をつくってきましたが、隅田川には防備のため日光街道の先千住大橋しか橋を架けませんでした。
しかし1657年明暦の大火の際、対岸の深川へ避難しようとした町民が隅田川を渡れず、約10万人の死者がでたため両国橋、次いで永代橋を架けました。
この明暦の大火は世界の都市大火の筆頭に挙げられるほど凄まじいもので、江戸城や江戸市街はほとんど灰になりました。徳川家綱の補佐役だった初代会津藩主の保科正之は、老中らと江戸城天守再建を止めて江戸の町復興に取り掛かり、これによって江戸は隅田川以東や西の中央線沿線に広がり、今日の東京の基礎がつくられると同時に、国内政治も幕府当初の武断政治から文治政治に大きく転換し、民意を重く見る政治に転換し、太平の世のスタートとなりました。

明暦の大火とその復興は、我が国の歴史全体に大きな転換点をもたらし、武断から文治への流れは、江戸初め全国各藩の考え方に多くの影響を与え、各地の文化や物産開発を促し、文化復興をもたらしたのです。

この両国橋や永代橋の架橋が江戸発展の原動力となり、海を埋め立てて江戸の街は大きく東に広がりました。埋めた立てて街を広げて行くこの流れは現在でも継続されています。両国橋は画像の右から4番目の端で、中央の高層ビルの下に両国国技館が見えます。2つの高層ビルの左側の白い大きな建物は江戸東京博物館です。

隅田川河口の左の高層ビル群は晴海、豊洲などタワーマンション地帯で、隅田川右岸の高層ビル群は虎ノ門ヒルズや六本木ヒルズなど現在の東京都心で、左側に東京タワーが望まれます。

この光景を見ると隅田川がいかに江戸の時代から、現在まで或いは今後も、江戸、東京では重きをなしているのがよく分かります。逆に考えると隅田川の治水如何により東京都心は水浸しになってしまう恐れが、言われるまでもなく見た目でよく分かります。

またこの画像を見ると、東京がいかに緑が少ないか、各ビルから湯気が噴き出て東京中が沸騰しているように見えてしまいます。ヒートアイランド現象が益々顕著となり、その対策のため更なる炭素排出の危険があることは子供でも想像つくでしょう。スカイツリーからの景観は、私たちに巨大な首都が地球温暖化へ加速する警鐘を与えます。


同行した船乗りだった川島兄曰く、世界の港で暑い港は無く、また赤道付近を航海中もデッキに出ていても日差しは強いものの、たえず涼しい海風が吹いていると言っています。

今年の東京、関東はゲリラ豪雨が多数発生しましたが、東京湾岸の高層ビル群の林立が海風を防いでいる要素もあるのではと話していました。

10月1日の読売の朝刊に英国大使の寄稿が掲載されていました。その内容はこの日英国では石炭火力発電所のない朝を迎えることでした。
140年前、世界初の石炭火力発電所を開設し1900年代は英国の電力の80%が石炭によって供給され、2012年には40%になり、とうとう0になりました。英国の電力の再生可能エネルギーの割合は今年第1四半期には50%を超え、世界の洋上風力発電の3分の1以上が英国に設置されており、洋上風力発電量では中国に次いで2位となっています。
ちなみに我が国の電力の再生エネルギーの割合は22年度で22%であり、ヨーロッパ諸国や中国に比べると遅れています。従来の太陽光パネルは自然の景観を損ないますが、フレキシブルなパネルも開発されており、洋上発電も本格化しつつあるので、他国に後れを取らないように期待しましょう。



展望デッキからの光景のメインはやはり浅草方面と隅田川です。東京スカイツリーの位置は浅草と至近距離にあり、スカイツリーと浅草は観光地として一体の位置づけにあります。

東京タワーは山の手で東京スカイツリーは下町に位置していますが、近年東京自体が湾岸をどしどし埋め立てて高層マンションが林立し、またオフィス地帯も古典的な丸の内から都心南部に拡散しているため、明治から続く戦前の山の手と下町の概念が無くなりつつあります。

隅田川にかかる橋は右から言問橋、中央が東武伊勢崎線鉄道橋、中央の墨田区役所とアサヒビールの高層ビルの下が吾妻橋、更に左のブルーの橋が駒形橋です。隅田川の右岸の奥の緑が浅草寺で、その遥か奥に広がる緑が上野公園です。

ビルにすっかり周りを覆われた浅草寺をズームします。
浅草寺を眺めていると学生時代の同期の山仲間と浅草、深川、日本橋界隈に江戸舟運の歴史を求めて散策した時代を想い出してしまいます。

回想、11年4月浅草寺界隈

14年前仲間たちと初めて訪れた浅草界隈です。

2011年ですから、今から13年前のことで、この時は仲見世にも、浅草寺にも外国人は1人も見かけませんでした。

当時のホームページで浅草寺について調べた記事を転載しました。
浅草寺の山号は金龍山と言い、正式には「金龍山浅草寺」 と言います。

その歴史は、推古天皇の時代の628年に遡るほど古く、檜前浜成、竹成という名の兄弟が、今の隅田川の駒形橋付近で観音像を感得し、郷司土師中知がこれを拝したところ聖観音菩薩であることを知り、出家して自宅を寺にしたことから始まりました。

大化元年に浅草にやってきた勝海上人が聖観音菩薩を拝顔し改めて観音堂を建立しましたが、夢告により秘仏であると定めらて以来、だれも聖観音菩薩を見ることはできない伝法の掟は守られています。
これは善光寺と同じです。

その後平安初期に天台宗第3代座主の慈覚大師円仁が来山して前立聖観音像を作り、天台宗の寺院になり、長い間存続しましたが、現在では長野善光寺と同じく独立した聖観音宗総本山となっています。
江戸という地名は、入り江の江と隅田川の入口を表す戸から来ていると言われています。江戸の名が歴史に現れるのは鎌倉時代の吾妻鏡からですが、金龍山浅草寺は、浅草寺があって江戸の街が出来たと言われるぐらいの社格を誇っている古刹なのです。、

左から小田、杉村、秋野、小島、稲吉兄たちです。画像に入っていませんが他に斎藤兄と宮尾兄が一緒でした。病気明けで久しぶりに参加した小田兄が持参した江戸時代からの銘菓長命寺の桜餅と言問団子を頬張りながら、桜の季節を楽しみました。皆の視線の先には完成直前の建築中のスカイツリーがありました。

哀しいかな画像の中の杉村、秋野、小島兄は鬼籍に入ってしまいました。彼らとは60歳直前から山を再開し、旅やお酒に共に楽しんで来た面々でした。それぞれ社会の重責を全うし深い知性を備えた仲間たちで晩年の良き友でした。

浅草の酒場の代名詞だった懐かしい神谷バーの提灯が垂れ下がり、電気ブランは今でも健在です。酒好きの小島は神谷バーで記念に電気ブランを購入していきました。

浅草寺をお参りしてから、駒形どじょうで昼食を済ませ、建築中の東京スカイツリーに見学に向かいました。戦前のリベット打ちのクラシックな橋梁の駒形橋から、スカイツリーが良く望まれます。

そぞろ歩きをしていると時々東日本大震災の余震がやってきて地面が揺れます。

最終の艤装中のスカイツリーの真下です。この記念写真後大きな余震がやって来て、辺りの人々は皆しゃがみ込みました。この日は帰りの京浜東北線でも大きな余震がありました。

この角度で無いとスカイツリーのトップが見えません。全く凄い建築物を作ったものだと想います。

再び、今回のスカイツリーの展望デッキに戻ります。

浅草寺方面から隅田川を少し遡った辺りを撮りました。中央の橋は言問橋で右のx状の橋は桜橋です。
言問という美しい日本語の単語は、この辺りの隅田川左岸の総称です。

伊勢物語で在原業平が東国のこの辺りまで下って来て都鳥を見て、「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」と詠み古今集にも収録されている歌からこの辺りの通称名言問が名づけられました。

都という名の付いた鳥だったら都の事情に詳しいだろうから、ぜひ都の親しい人の様子を聞かせてくれという意味ですが、江戸時代、町人や武士たちは、隅田川桜堤の散策の傍ら、現在の桜橋の近所の長命寺の桜見物を行いながら名物桜餅を食べ、そして近くの団子屋でお土産に名物言問団子を購入し、日常の暮らしとは無縁な古今集の雅なひと時を過ごしたのでしょう。

名高い吉原遊郭は日本堤方面にあると聞いていましたが、実際どこにあるか分からずイメージがしにくい場所でした。実際に吉原方面を散策すると、隅田川川畔の白い建物の前の緑の線の運河を舟で日本堤方面にありました。吉原は葦原の中に隔離された一大歓楽街でしたが、実際散策すると、当時徒歩で行く人は少なく、客はほとんど日本橋から小舟で通ったと想います。

回想、19年3月末の浅草界隈

滝廉太郎の名歌「花」の2番が「錦織りなす長堤の」で始まりますが、多分錦織りなす紅葉の秋でなく、桜の季節、江戸から明治の隅田川の土手は緑の入った錦のように美しい所だったのでしょう。
この時は浅草寺会館で太郎良兄とチャップリンのモダン・タイムスを見て浅草界隈の散策に行った思い出です。

13年前の、11年4月の浅草寺界隈には外国人は1人も見かけなかったのに、5年前の19年4月には、外国人が2割以上も占めていました。

子供の時父に連れられて小さなジェットコースターに乗った花やしきや、昔の六区の映画街を散策しました。六区の映画街と言えば、憶えていてもしょうがないほど、つまらない記憶ですが、何故か忘れない記憶があります。

その時六区の映画街は賑やかで様々な映画が封切されていました。子供の頃西部劇と戦争映画や航空映画が大好きでしたので、賑やかな六区で映画の看板を眺めながら混雑した通りを歩いていたら「超音ジェット機」という看板を見つけました。

看板の中心には、革の航空帽を被りクラシックな航空メガネに酸素吸入器を装着したパイロットの顔が大きく迫り、背後には銀色した後退翼のジェット戦闘機が描かれ、嫌がう上にも見たい気分を盛り上げる看板でした。
(左のポスターはこの時観た看板の絵とは異なります。看板の絵描きの人の創造画だったのかも知れません)

浦和の街の映画館では、いつになったら上映するか判りませんので見たくて仕方がありませんでした。でも父は映画が趣味でないことが解っていたため、見たいとせがむことは止めて諦めました。

人間て不思議なもので大事なことは憶えていないのに、こうしたつまらないことを憶えているのです。浅草の映画街は子供の一生の記憶に残るほど活気があったのでしょう。

14年前「超音ジェット機」を想い出しビデオを探して見ました。映画は超音速を目指した苦闘の物語で、デビットリーンの英国映画ですが、映画そのものはそれほど印象に残るものではありませんでした。「超音速ジェット機」とは言わず「超音ジェット機」のセンセーショナルな題名に少年の心を動かしたのでしょう。

余談ですが、私は近年の洋画の題名に大いなる不満を持つ者の一人です。


整備された隅田川川畔をそぞろ歩きします。スカイツリーがすっかり浅草の風景の一部になりました。

隅田川の長堤でお花見をしていますが、桜は老木ばかりで勢いがありません。

隅田川に注ぐ運河にかかる今戸橋から奥の吉原に通じる運河は埋め立てられて公園になっています。

隅田川から吉原の入り口、奥に今戸橋が見えます。江戸時代吉原には小舟に揺られて行ったのでしょう。隅田川も今より水量が少なく川に葦原が広がっています。
山の上に見える待乳山聖天をお参りしました。

再び展望デッキに戻ります。

隅田川を北に眼を転じます。隅田川は白髭橋を過ぎると左に大きく流れを変えて蛇行し千住大橋を過ぎて、やがて岩淵水門で荒川と合流します。ここからが隅田川に氾濫を起こさせないように様々な工夫が現れますが、温暖化が進行し関東平野の雨量が多くなると、現在の処理能力ではどうなのかと想います。

秩父山地からの水は荒川と入間川、川越台地からの水は新河岸川で、これらは全て荒川になり、都内に入ってからは隅田川として流れ、水流の半分は荒川で東京湾に流します。
荒川と新河岸川と合流し、隅田川と荒川と分離する岩淵水門には、見沼たんぼから川口市内を流れる芝川と合流します。芝川は流量が多くなく、荒川が増水した際には水門を開けて芝川を逆流させるのではないかと想っています。先日大雨の後見沼田んぼの芝川を眺めていたら、水流は上流に向けて流れていました。この辺りは各地の水位計を観測しながら微妙に調整し、荒川が氾濫しないようにしているのでしょう。
埼玉の荒川は広大な河川敷を持ち、通常は広大なゴルフ場やグランドで遊水地としての機能を保っているため、それらは十分バッファ装置としての役割を果たしているように見えます。

また江戸時代東京湾に流れていた埼玉東部の水量の多い元荒川や古利根川は中川として1本になり、荒川と隣り合わせで東京湾に注ぎます。中川は水量が多いため春日部に巨大な地下遊水地を建設しました。

国交省や東京都、埼玉県と共に荒川に水害を起こさせないため懸命な努力をしているのが、よく分かります。

画像は小名木川と縦にクロスする運河十間川です。

家康は江戸移封した際、江戸の町の水対策の大事業を行いました。江戸は大平野の河口に存在するのに、2つの場所で水不足と洪水の問題がありました。
江戸城周辺は葦原の湿地帯でしたが大河は無く、東側は縄文海進地帯だったたため、秩父山地、上州山地、下野山地から流れる大河が、荒川、利根川となって水害のために氾濫を起こしながら大きな三角州を形成していました。江戸東部の水害対策と舟運について先に触れました。

江戸市内は台地のため奥多摩からの水は多摩川に流れ、隅田川は秩父山系からの水でした。台地の江戸には主要河川が無く、飲料水不足が顕著だったため、小河川を開削し、後に台地に畑地の水を供給するため玉川上水や野火止用水などの用水を開削したのです。

回想、11年5月江戸舟運の旅、深川紀行

上の画像にある新十間川で和船が体験できることを知り、11年4月、同期の皆と浅草を訪れた翌月、江戸舟運を学ぶために深川に行きました。



家康が開削した運河小名木川からスカイツリーを望みます。

私のホームページの舟運の歴史のページで、当時江戸の物流について記した書籍が無かったので、江戸時代の米の物流について計算したものを記しました。
江戸の米の物流だけを考えても、江戸期当時1年で1人@1,5石の米を食べたと言われていますが、江戸人口100万人としても赤ちゃんや子供、お年寄りもいるため、1人@1石と計算しても、1石は2,5俵ですから、100万人の胃袋をまかなうためには、40万俵の米を江戸に輸送する必要があります

この膨大な量の米を運ぶためには、馬の輸送でしたら20万頭、大八車でしたら6万7千台位必要です。川船でしたら150俵積載船で2700艘、現在の10トントラックでも2700台必要です。これも一年間で運ぶのではなく、秋の取り入れ後数か月間で輸送します。

海運の1000石船の場合、米では2,500俵積めました。
20万頭の馬を用意するのは天文学的数値で、ナポレオン戦争でも騎兵や砲兵、輜重隊の両軍合わせた想像での動員頭数10万頭を遥かに下回っていたでしょう。ということは舟運を使用しなかったら江戸の町の存続は不可能でした。

明治時代描かれた江戸東京図会の小名木川。絵は大げさですが相当数の船が行きかいました。明治に入ると蒸気船も小名木川扇橋から関宿、銚子、霞ケ浦に定期運航していました。

広重の江戸名所百景小名木川五本松 江戸東京博物館 広重の有名な名所図の1つ小名木川の風景です。

江戸東京博物館の庶民の家の姿です。現代ではおっかなくて住宅が密集する屋内で炊事に薪など燃やせません。江戸の街で蕎麦や寿司、総菜の屋台や魚のひき売りなど、火を使わないファストフードが流行ったのが良く分かります。

新十間川で和船の体験ができました。

富岡八幡に愛でて門前仲町を散策しました。

安くて名高い鮮魚酒場魚三に行きました。16時開店で既に多くの人が並んでいます。我々も並びました。今では懐かしい写真です。

再び、スカイツリー展望回廊へ

地上高450mのらせん回廊に上がってきました。

勝鬨、晴海、月島、豊洲、有明などのタワーマンションが林立する湾岸エリアが望まれます。隅田川にかかる橋は手前から2連の清洲橋、平らな隅田川大橋、そして顕著なアーチ橋の永代橋、その奥に中央に高い塔の吊り橋中央大橋が望めます。

江戸の街が日比谷の海の埋め立てから始まって、石川島、霊巌島、月島、佃島と埋め立てて街を広げ、近年ではお台場や勝鬨、晴海、豊洲と広げ、さらに有明や東雲など海の名勝の地名が付く場まで、貪欲に拡大している姿が分かります。こうして東京の一極集中が益々進行しています。

この隅田川河口の湾岸エリアの高層ビル群を眺めていると、10年前に同期の皆と行った日本橋クルーズを想い出しました。

回想、14年1月、10年前の日本橋川クルーズの想い出。

同期の皆と日本橋クルーズを行ってから既に10年経ちました。同行した仲間の小島兄や杉村兄は帰らぬ人となっていますが、今回撮影したスカイツリーからの写真と当時の画像を併せて眺めていると、様々なな思い出が蘇ってきます。あの寒かった真冬のクルーズの船での彼らの声が、今でも聞こえてきます。

以下は当時作成した私のホームページでのクルーズの紀行をそのまま掲載します。10年前当時は2度目の東京オリンピックの直前でした。私たちが大学3年の秋、初めての東京オリンピックが開催されました。
大学の記念会堂がフェンシングの会場になり、そのため臨時に1週間学校が休みになり、秋山にしては長い山行を行いました。オリンピックの直前、突貫工事で完成した首都高速が都心の空を覆い、選手村前の原宿が劇的に変わりオシャレなストリートになり、古めかしい東京の風景がモダンに変わりました。
日本橋川クルーズは2回目の東京オリンピックの2年前で、再び東京が変わろうとしている時でした。見慣れた東京の風景が一変し、東京に新しい時代が来るような予感を覚えました。

 


以下クルーズの際の当時の回想です。

最近気になっていることがあります。それは古いものを大切に想う余り、新しいものを否定してしまう思潮です。一昔前はこの逆で、古いものは格好悪く、新しいものは素敵であるという思潮でした。私も古いものが大好きで、古い風景を求めて旅を行いますが、それは古いものが消えてしまうことに対する愛惜であり、だからといって新しいものを否定している訳ではありません。

たとえば建築を見ても、明治の洋風建築は建築当時は斬新で西欧の香りを匂わせて、当時の人々を魅了させた我が国最新鋭の建築でした。現存する数少ない昭和のクラシックなビルも建築当時は、昭和の最先端のモダンな雰囲気を醸し出したのでしょう。震災後に流行した商店の看板建築も、古臭くなって急速に消えてしまいましたが、当時は超モダンな商店であったに違いありません。

新しいものも古いものも同時に愛せるのは、文化度の高い成熟国家の証です。極端なたとえですが、いまや古典の象徴になっている世阿弥の能も、当時は全くの斬新さ故に評価されました。だからそうだからと言って型が決まった古典を、新しくしなければならないということでもありません

今回見た隅田川の光景に、東京の都市の持つダイナミズムを感じました。また外濠では緑を軽視しそれを誰も不思議に思わない、東京の都市の心の貧しさも感じました。また東京駅が復元された時と同じく感じたのですが、辰野金吾の東京駅の復元は良しとしても、我が国においては借り物のアールヌーボーを表現するのは限界があり、付近に西欧レンガ建築に拮抗するデザインのクラシックな巨大な木造建築があっても良い気がしています。

前回の東京オリンピックの時、私たちは大学3年生でした。東京がみるみる内に変貌していくのを目の当たりにしたのです。その変貌の象徴が首都高でした。仲間の秋野兄の車で、皆で完成したばかりの首都高を走りましたが、天に向かって登って行くようでした。今回の日本橋川クルーズのコースは、この首都高の下を走りましたが、次のオリンピックでは東京はどのように変貌するのでしょうか?生涯2度までも東京の変貌が見られるのは大いなる楽しみです。

    
    

クルーズのコースは日本橋を起点として、旧外濠の日本橋川を遡り、水道橋付近で神田川に合流し、御茶ノ水渓谷を走って万世橋、浅草橋を潜り柳橋に至ります。そこから隅田川に出て永代橋手前から日本橋川に入り、出発点の日本橋に至るコースです。

旧外濠では江戸城築城時の石垣が見られ、江戸の死命を制した神田川では、台地を切り崩し深い運河を掘削した伊達藩の苦労を忍び、河口の柳橋から江戸の物流の大動脈の隅田川を辿り、再び伝馬船の船頭になったつもりで、日本橋川を遡り河岸に至る、歴史的にも非常に興味深いコースでした。

クルーズ船の発着場は日本橋の際で、寒いのに予約者で満員でした。やはり日本橋は堂々としています。高速道で隠れているのは、勿体ないです。高速道の地下化も検討されているようですが、どうなんでしょうか。


10年前の同期の仲間たちです。稲吉兄の主宰でメールで俳句の会を行っていますが、今では4人になってしまいました。これは現在のコメントです。

東京のビルの表面は綺麗に変貌していますが、頭隠して尻隠さずです。見沼田んぼの土手の冬の風景でしたらおかしくありませんが、都心の瀟洒なビルの裏側のこの光景を見ると東京は極めてグリーンの貧しい都市に見えて仕方がありません。江戸期は緑に覆われていたのでしょうが、明治新政府の近代化を急ぐ余り、西欧人を驚かせた江戸期の緑の文化を軽視する思潮が、未だ残っているのでしょうか。

家康が将軍に就任した慶長8年(1603)に第一次天下普請を発令し、西国諸藩に石垣用の石舟3000艘の建造と廻送を命じました。薩摩藩だけでも300艘が命じらました。舟が完成した3年後に諸藩は伊豆で石を切り出し、江戸城まで石を運びました。各藩が積んだ石垣には、所々藩の家紋が刻まれています。

画像は、日本橋川が後楽橋付近で神田川に合流するところです。神田川は上に高速道がないため急に明るい景色に変わります。ここからは中央線や総武線の車窓から、見慣れた緑の美しい風景に変わりほっとします。

清洲橋です。永代橋、勝鬨橋と共に震災復興事業で架けられた橋で、国の重文に指定されています。ヨーロッパで一番美しいと言われたライン河に架けられたケルンのヒンデンブルク橋をモデルにしましたが、今は当時のヒンデンブルグ橋は2次大戦の爆撃により残っていないため、この清洲橋がその面影を宿す唯一の橋になりましたが、スカイツリーと合わせると新東京10景になるほど、見事な景観をつくります。

永代橋と豊洲の高層ビルです。ハドソン河からのマンハッタンの風景に匹敵するほど見事な光景で、東京10景になりうる気がします。モダンな高層ビルとクラシックなボルト打ちの永代橋、それに波の荒い隅田の速い流れとの対比が、東京の都市が持つダイナミズムを良く表現しています。この光景は現代の芸術と言っても過言ではないでしょう。

14年前浅草を訪れ初めてスカイツリーを見た時の感想の抜粋。

明治の終わりの浅草六区の光景。

浅草と言うと、どうしても我が国の大衆文化の歴史に想いを馳せてしまいます。

    

浅草が特に異彩を放ったのは大正ロマンの時代でした。その時代は活動写真が勃興し、音楽と演劇とがミックスした最先端の西欧文化のオペラやオペレッタが、浅草で花開きました。
我が国に西洋音楽が導入されてから大した日時の立たぬ間に、人々は驚くほどの吸収力を見せ、大正初期にはたとえば松井須磨子のカチューシャの唄が全国的にヒットしたように、西欧音楽が大衆の間に浸透していました。しかもヒットしたカチューシャの唄やゴンドラの唄、さすらいの唄はトルストイやツルゲーネフ原作の演劇の劇中唄であり、トルストイやツルゲーネフの芝居の劇中唄が全国的にヒットすることなど、フランスでさえその当時は無かったはずで、我が国の大衆文化の質の高さを感じます。

当時活動写真の封切は浅草以外になく、浅草は活動写真の都でもありました。さらに帝劇が出来て客が集まらず失敗したオペラが、浅草で多くの客を集めて成功し、浅草オペラとして多くの劇場が生まれ、12階ビルディングとともに、浅草は西欧文化吸収の最先進地となりました。

 我が国の大衆文化の最先進地だった浅草も、関東大震災で浅草オペラは下火になりましたが、映画のメッカとしては私の子供の頃まで続いていたように想います。
しかし私が学生時代には浅草に一度も足を踏み入れなかったように、その後、銀座、日比谷、池袋、新宿、渋谷などに様々な文化が拡散し、長い間下町情緒の浅草の比重がどんどん低下していきました。

しかし高級なフランス料理も珍しくなくなり、こぎれいな洋風生活も当たり前の日常になった現在、和食と江戸情緒あふれる浅草観音堂とその界隈は、再び人を惹きつける強烈なスポットになりつつあり、更に超近代の東京スカイツリーが加わります。今後浅草は世界有数の観光スポットに必ずなるに違いありません。(この予言は当たりました。)