薔薇のエッセイ22、山の自然の恵み。

ブログの記事は「薔薇とガーデニング」「山と自然」「歴史紀行」の3つのジャンルに分けて書いていますが、近年の「山と自然」のジャンルの内「日々の自然」は健在ですが、「山の自然」のジャンルは、私の昨今の体力の衰えなどによって山行が少なくなり不発に終わりつつあります。

コロナ禍で途中、中断しましたが、毎年夏仲間たちと5回に亙って北アルプスの鏡平山荘を起点として、黒部五郎岳や太郎兵衛平、笠ヶ岳、或いは台風で不発になった雲ノ平などへの縦走を行ってきました。
昨年夏、恒例の山行を再開しようと、双六岳に規模を縮小し行いましたが、やはり体力がきつくなり北アルプスの稜線まで荷を担いで登るのはこれで最後と感じました。

そんな反省もあり、今年は楽に北アルプスの稜線に立てようと考え立山のみくりが池温泉に拠点を置き雄山や浄土山登山を計画しましたが、、梅雨明け直前の台風の襲来に遭遇し悪天が続いたため一の越までしか登ることができませんでした。

雨模様の強風で一の越で雄山登頂は断念しました。この悪天でツアー登山客は山頂へと突っ込んでいきます。ツアーコンダクターも大変です。

紅葉の穂高涸沢行は小屋の予約が取れず断念。

そして秋、10月初旬は、仲間たち5人と人生最後の穂高涸沢の紅葉を愛でようと5日間の計画を組みましたが、紅葉のピーク時であり、横尾山荘、涸沢ヒュッテの予約が取れず山行を断念してしまいました。事前に天幕山行も議論しましたが、荷物が重くなるので山小屋の予約に賭けたのです。

この20年の間、紅葉のピーク時の穂高は避けて来たのに、最後の欲を出した事が無理だったのでしょう。

この穂高山行の中止とは直接無関係ですが、山行中止が私に重大なアクシデントをもたらしました。
それは今回穂高行に備えて8月の山行後9月にかけてトレーニングに励みましたが、山行が中止になると緊張感が緩み、今まで気を付けていた長時間の庭の雑草取りを中腰で行った結果、腰には絶対の自信を持っていたのに、生まれて初めて坐骨神経痛にかかってしまったことです。

私にとって、穂高はとうとう夢の世界に遠ざかってしまいました。でも穂高には数え切れないくらい登っているので、それほど残念でありません。かえって体力に余裕のない登り方をしても楽しくないのは分かっているので、中止になって良かったのかも知れません。

上の画像は20年ほど前、同期全員と句会を兼ねて、名月の見物を訪ねた穂高です。学生時代同期一の馬力の持ち主だった画像の沼田兄は、長い癌との格闘の上先日亡くなってしまいました。長い闘病生活で随分頑張ってきました。沼田兄は高校時代金沢大付属高校のサッカー部で活躍し、大学では登山に転向しましたが、彼の脚のすねはサーカーボールを蹴りやすくなるために三日月形に変形しており、杉村兄とともに同期一の馬力の持ち主でしたが、2人とも亡くなってしまいました。



画像の目の前の前に横たわる前穂高北尾根は、何度か足を踏み入れた懐かしい岩稜です。右から1,2,3峰、コルを挟んで4峰、更に一段低い5峰が横たわっています。特に雪の付いた5峰ピークはお気に入りの場所で、奥又、涸沢全体を眺めれる素晴らしいところです。5,6のコル、3,4のコルの急な斜面も懐かしいし、垂直の壁に新ルートの開拓ためのハーケンがベタ打ちされて、容易なノーマルルートが良く判らない三峰フェースも懐かしいところです。

穂高には様々な思い出があります。北穂の滝谷と共に、私にとって一番懐かしいのは、前穂から通常奥穂周りで涸沢天場への下降をショートカットした、前穂直下の細いルンゼでした。そのルンゼは吊尾根の最低鞍部に近い位置から画像に見える最初に現れる細く急なルンゼです。北尾根や奥又からの帰路、夏は雪渓が現れた所からグリセードで下りました。グリセード中、一度バランスを崩して滑落して何とか止まりましたが、ザックに括り付けていたヘルメットが、カールの底まで転がり、この様子を天場で見ていた他パーティの人たちから心配されて恥ずかしい想いをしたことを覚えています。この画像を見ているとよくあんな所を何回も下降路として使って来たなと想います。

こうした学生時代の想い出は、60歳直前から登山を再開した山仲間たちと、いつも昔話で総括してきました。学生時代の山は、歳を経て再開した登山と次元の異なるもので、単なる懐かしさを越えていました。

薔薇のエッセイと山の自然の恵みとの関係。

80歳を過ぎると体力に関して、今までこうだった、ああだったという自信が音を立てて崩れて行きます。

仲間と都内で会うため、都心の駅の長い階段にたじろぎエスカレーターを探すようでは、駅の階段レベルを数時間にわたって登り続ける山になど快適に行ける訳がなく、こうして少しずつ60年以上続けて来た登山の世界が段々離れてしまったように感じるようになりました。しかしそうだからと言って直ぐ登山を止める訳でなく、本格的な登山は無理かもしれないという意味です。

山に登れなくなっても、私には山の自然を日常の暮らしに感じようと試みた薔薇とガーデニングがあります。更には植物栽培の経験によって新たに知った、水と土壌を根底にした人々の営みの歴史風景を探訪する旅の楽しみが残っています。

私のブログのジャンル「薔薇とカーデニング」「山と自然」「歴史紀行」は一見ジャンル間で無関係にあるように見えますが、3つのジャンルの根底に流れているのは「山の自然の恵み」なのです。

仲間とのさまざまな山行を想い出しながら、改めて「薔薇とガーデニング」と「山の自然の恵み」との関係を「薔薇のエッセイ」の中で触れて行こうと想います。

山の自然を最も感じる山、笠ヶ岳

数年前クラブのOB有志で行った、笠ヶ岳への縦走での抜戸岳に向けて秩父沢源頭を辿るシーンです。眼前の巨大な抜戸岳は地図を見ていると目立たない独立峰ですが、この目で見ると抜戸岳は左端の笠ヶ岳の一部で、全体で巨大な笠ヶ岳山塊を構成しているような気がします。この山行きは鏡平から笠ヶ岳を往復し双六、三俣蓮華、雲ノ平、野口五郎、烏帽子と縦走し大町に下山する計画でしたが、台風直撃直前のため前半だけで中止にしてしまいました。

笠ヶ岳は高山市街から望まれる飛騨の象徴の山です。江戸時代、越中の播隆上人と蒲田の衆によって開山され、笠の頂上で上人は阿弥陀如来を感得し、更に笠山頂から望んだ槍ヶ岳の存在に気付き、改めて信州側の衆たちと未知の槍ヶ岳に登り開山したのです。

この秩父沢を源頭とする蒲田川は高原川と名を変え、飛騨、越中奥地を潤しやがて富山県の大河神通川となり富山市で日本海に注ぎます。秩父沢の名は秩父宮殿下が笠ヶ岳登山の折に名づけられました。笠ヶ岳は急峻で巨大な山岳で時間を要するため今でも北アルプスでは登山者が少ない第1級の山岳です。

この長大な槍までの稜線を眺めながら辿っていると、私の大学卒業の2年後、後輩たちが3月の春山合宿で登攀記録の少ない抜戸岳南尾根からこの長大な尾根を槍ヶ岳まで縦走した山行が偲ばれます。槍ヶ岳まで縦走は成功しましたが、中崎尾根から槍ヶ岳のサポート隊の新人が西鎌の登りで滑落事故を起こしたため、北穂への縦走は断念しました。この山行の事故時同期の斎藤兄が院生として参加していたので詳細は聞いていました。
この山行の抜戸南尾根からの縦走隊リーダーの奥野兄は昨年病気で逝ってしまいました。奥野兄と2年後輩の迫田兄は、読売の日本、中国、ネパールの3国登山隊のエベレスト交差縦走にネパール側、チベット側とそれぞれ記者として参加しました。迫田兄も奥野兄も私より早く逝ってしまいました。

加賀、越前、美濃、3か国を潤す加賀白山

若い頃は麓から望まれる独立峰は全く興味はありませんでした。山岳とは麓から容易に見える山でなく、いつもその頂を隠している崇高な存在だと想っていました。

しかし歳を取ると、麓から名山と崇められて来た独立峰は、麓の人々にとって水を司り、自然の恵みをもたらす神の山という意識があることに気が付きました。

加賀白山の巨大な山塊は富士山に匹敵し、加賀、越前、美濃の3国の人々に大いなる恵みをもたらせて来た我が国を代表する山岳の一つです。

加賀白山は金沢在住の沼田兄の誘いで彼の家に宿泊し同期ほぼ全員で登りました。

信仰の山加賀白山は3か国にまたがる巨大な山で、古来の登山道は、加賀、越前、美濃の3つの禅定道から構成されています。
禅定道の起点にはそれぞれ白山比咩神社、越前平泉寺、郡上八幡白鳥神社があり、白山の水源は広大な加賀、越前、美濃の山麓の平野を潤しています。

3か国に亙る禅定道の起点それぞれ訪れたくて、加賀禅定道の起点、白山比咩神社にはこの山行時、越前禅定道の起点平泉寺には同期の仲間と越前旅行の際訪れました。最後の美濃禅定道の起点白鳥神社にはその手前の郡上八幡まで行き、それぞれ白山がいかに偉大な山かと理解しました。

白山の名を冠した高山植物の名を挙げてみると、ハクサンアザミ、ハクサンシャクナゲ、ハクサンタイゲキ、ハクサンボウフウ、ハクサンイチゲ、ハクサンオミナエシ、ハクサンコザクラ、ハクサンシャジン、ハクサンチドリ、ハクサンフウロ、そして白山御前峰のゴゼンタチバナが挙げられます。
これらの高山植物は江戸時代以前本草学の一環として発見され白山で本草学者によって名づけられました。ハクサンの名を冠しているものの白山固有種は少なくハクサンイチゲ、ハクサンシャジン、ハクサンフウロ、ゴゼンタチバナなど全国種が多いです。

まさに山の自然の恵みの代表的な山岳です。

庄内の人々の守り神、出羽一宮鳥海山

鳥海山は山形北部と秋田南部を潤す巨大な山岳です。40代の頃、上部の草原で幕営し夜周囲を眺めていたら、青森、弘前、八戸、秋田、山形、鶴岡、酒田、盛岡、仙台の街々の灯かりが地図で描かれたように瞬いていたことを、覚えています。

日本海の強風を受けて聳える鳥海山も、月山と共に山形の庄内平野、秋田由利本荘の人々に大いなる恵みを与えてきました。地元に人たちはその恵みに関してありがたく思い、山麓に神社はありますが、
出羽国一宮の本殿は鳥海山大物忌神社は、山頂直下にある全国で唯一の珍しい神社です。神社の横に山小屋がありますが、ここは山小屋でなく大物忌神社に参籠のための頂上参籠所で御室小屋と呼ばれます。

津軽の人々の祈りの山、お岩木山

現在でも岩木山ほど津軽の人々に信仰されている山は知りません。津軽平野を走っていると岩木川に沿ってリンゴ畑が広がり、美しい水田が続きます。

津軽の寒冷地でも江戸時代以前から水田がつくられ、実りの秋にはたわわに稲が実ることは、津軽の人々はみな岩木山(おいわきやま)のお陰だと信じてやみません。

津軽については後に触れるつもりです。

九州島をつくった阿蘇岳

阿蘇の巨大なカルデラの中には、世界でも稀な鉄道も走り街もいくつかあります。九州島は阿蘇の噴火でできた島と言われています。

阿蘇については後で触れたいと想います。

私のガーデニングの原点は高山植物

私のガーデニングへの興味は、40代の終わりに住まいを引っ越したことがきっかけでした。
それまで園芸には興味が無く、引っ越した時期は夏の終わりだったため庭の雑草取りを強いられ、園芸用具を購入したりすると、これは半身で取り掛かる訳には行かず、本気で取り掛からなくてはいけないと、突然ガーデニングへの興味が湧きだしたのです。

ガーデニングへの興味を抱いた最も大きな要因は、それまでに無かった新しく出回った草花たちとの出会いでした。
それまで園芸の草花といえば、ガーベラやベゴニアなど人工的に着色されたような色鮮やかな種類しか知らず、それら花には全く興味が湧きませんでした。
草花と言えば私が大自然を感じる植物は、学生時代北アルプスで親しんでいた小輪多花の高山植物の群落でした。

店で初めて出会ったアメリカンブルーやタピアン、ナデシコの新種ダイアンサスを見ていると、これらの小花の群落に囲まれていたら、山に行かなくても庭で日々自然を楽しめるのではないかと想ったのです。これらの半年以上も咲き続ける花期の長いソフトカラーの小輪多花の草花は、それまでの草花とイメージでも一線を画するものがありました。

高山植物がなぜ素晴らしいか、その意味は歳をとってから分かりました。

実は山に行っていたからと言って格別に高山植物が好きで行ったわけではありません。

今と異なって、学生時代、北アルプスは登山者は若者しかおらず、白馬などを除けば登山者は今よりかなり少数でした。

私も含めて若い登山者は高山植物を愛でるより登山そのものに興味を抱いていました。登山者が多い穂高涸沢とか劒沢以外はテント場は決まっておらず、五色ヶ原とか黒部五郎岳のカールなど高山植物の群落が広がって草原では、草原の際の天幕跡に露営していました。

今と違って雷鳥や高山植物は特別愛でる存在でなく、また自然保護の掛け声と共に生息地はロープがかけられ隔離された状況でなく、天幕場の隣とか登山道の傍らに当たり前に存在する身近な植物でした。ただ意識していた高山植物はアルプスで名高いエーデンワイスことウスユキソウでした。

しかし高山植物は夏の北アルプスに欠かせない風景の要素で、夏空、岩稜、雪渓、砂礫、高山植物とセットで風景を構成していました。

ガーデニングの原点は自然の植物の憧れ

山では下界以上に四季が強烈に出ます。新緑の物凄さや紅葉の素晴らしさは山で暮らしていないと出会いません。でも色褪せた日常でもできるだけ四季の変化を感じようと努めました。
落葉樹の落葉が腐植して腐葉土になり土壌を豊かにする自然のサイクルは全く人手がかかることなく自然の営みそのもので、この自然の営みはガーデニングを始めてから気が付きました。

庭に、山の自然のエキスを少しでも取り入れるよう努めました。

私の3つの趣味を改めて振り返ってみると「登山」は60年以上、「薔薇とガーデニング」は30年を超え、「日本の歴史探訪の旅」は15年になろうとしています。

「登山」と「薔薇とガーデニング」が共通しているのは自然を相手にする行為ですが、「薔薇とガーデニング」と「日本の歴史探訪の旅」とは一見何の脈絡もありません。
しかし私の「日本の歴史探訪の旅」は、形態は他の人と変わりませんが、その発想と接する視点の根底には「薔薇とガーデニング」で培った経験と考え方が横たわっているのです。

それがどのようなものであったか、少しずつ振り返ってみたいと想います。

それまで続けていた登山を引っ越しを期に庭の手入れの必要が生じ「薔薇とガーデニング」に目覚め、同時に大型犬を飼ったために仕事以外は家を空けられず10年に亙って「登山」を休止し「薔薇とガーデニング」に専念しました。その10年後の50代末から本格的に「登山の再開」を行い→60代後半から新たに「日本の歴史探訪の旅」へ趣味が加わって行きました。

当然歳を経る中で比例して仕事も多忙になり、趣味は余暇に行って来ました。「薔薇とガーデニング」にのめり込ながら、「登山」を行い、やがて「日本の歴史探訪の旅」への興味が深まってきたのです。動機には「薔薇とガーデニング」で培った植物栽培から視野を広げて我が国の歴史風土に興味を憶え、やがて「大自然の水と土壌と人々の営み」の思考の芽生えがありました。

いずれにしてもこれら趣味の根底には、若い時から登山で求めていた大自然の憧れが横たわっているような気がします。

「大自然」を考えた時、若い時から行っていた登山は、どちらかというと自然に親しむ行為というより、美しくかつ過酷な大自然の中に身を置いて自ら存在を確かめる行為だったように想います。それがだんだん歳をとると、大自然の中でなくても日々日常で身近に美しい自然に触れられる環境を作りたいと願い始めて来たのです。

私は元来都会の文化も好きだし山中に暮らす憧れは無く、職場に通う日々の暮らしの中で、身近に好みの自然をつくり大自然を疑似体験しようとする気持ちがありました。

毎年、あっという間に年が過ぎ去って行き、1992年にガーデニングを始めて30年だと想っていたら既にそれ以上になり、その数年後始めた薔薇も既に25年目に入りました。
私の場合はガーデニングを始めると同時に犬を飼い始めたため、途中10年間登山を中断しましたが、50代の終わりから登山を再開しました。

再開後の登山は、学生時代一年中、山で苦楽を共にした仲間と始めたため山行も北アルプスの雪山も含め40代に比べると高度なものになりましたが、全員寄る年波に勝てず70代に差し掛かると登山から山の峠歩きに変わって行きました。
しかし私はクラブのOB会の役員をやっていた関係で、OB仲間の後輩や学生たちとの雪山訓練山行に参加していました。これが同期に比べて登山寿命が延びた要因です。

それでも70歳後半になると、さすがOB会有志での毎年恒例の北アルプスの縦走も快適ではなくなり、旅の魅力に気持ちが傾斜して行きました。

私は100名山とか33カ所寺院巡礼とか一宮巡りとか100名城とか、リストに基づいて訪れることは好きでありません。
しかし深田久弥の個人の恣意的な100名山はともかく、観音巡礼の寺院や、諸国一宮、100名城は、実際訪れるといずれも素晴らしく心に残り、旅の目的に中には、神社仏閣、名城、そして古い街並みは必ず訪れてきました。

近年更新していませんが私のホームページで確認したら、ここ15年で寺院110寺、神社80社、城と古戦場80カ所に及びました。寺院は小さな寺院もありますが、比叡山や高野山から始まった鎌倉仏教以前の歴史的な寺院を多く含みます。神社は一宮が多いですが鎮守の森の神社もあります。城と古戦場はかなり歴史深訪を優先して訪れています。

薔薇とガーデニングで身につけ、山と大自然の中に入って改めて体験するのは山の水と土壌であり、さらに各地を旅して人々によって長く営まれてきた水と土壌の長い歴史を知るにつけ、改めて薔薇だけでなく作物を栽培する上で、人が生きる上で欠かせないものが、土壌と水であることを改めて知りました。