薔薇のエッセイ24、美しい風景と恵みの原点、山の植生
風景の視覚について少し触れますが、西欧においての風景の概念は、近代になって初めて一般に認知された現象であったという事実について、セザンヌは有名な言葉を残しています。
彼は生涯に80点以上故郷のサント・ヴィクトワール山を描きました。しかしセザンヌは山麓の農民たちが、「彼らは本当にサント・ヴィクトワール山を見たことがあるかどうか疑わしい」と述べており「彼らは確かに山を見ていたが、それは風景としての視点で見ていない」とも言っています。
人は生まれた時から、全てを知覚するのでなく学習によって蓄積します。サント・ヴィクトワール山を美しい風景と感じる視点はセザンヌの絵を見て学ぶのです。
高山植物と同じように山岳の自然を形づくるのは樹木です。その樹木の美しさと景観は、セザンヌの言う通リ学ぶことによってより美しさを感じるのです。
樹木は高山帯、森林限界帯、亜高山帯、低山帯、山麓帯とそれぞれ植生が変化し、高山植物や山野草、草原の草花と共に山の大自然の変化を楽しむことができます。標高が低い登山道は土の路で、高度が高くなると徐々に岩の部分が多くなり、森林限界を越えると路は完全に岩もしくは砂礫の道に変わります。
実は以前私は奥武蔵や奥多摩の低い山は土で出来ていて、谷川岳や北アルプスなど中部山岳は岩でできていると単純に想っていました。
しかしヒマラヤの森林限界は3,600m程度であり、そこを超えると谷は完全な岩道になり、丘も山も全て岩山になります。森林限界は地域によって異なりますが、麓の丘の土壌の道は、標高が高くなるにつれ岩の路に変わるのは世界共通しています。
そのため登山道の土壌は低い山だからといって最初からある訳でなく、海底の岩の隆起や火山の噴火によって山が作られ、堆積した岩や火山のマグマの風化や樹木の落葉が腐植して土壌が構成され、それが土壌の登山道に変わっているのだと分かりました。ですから森林限界以上は樹木や植物の棲息が少ないため、腐植が行われずそのため岩の風化の砂礫だけで土壌の登山道が作りにくいのです。
こんな簡単なことがガーデニングを始めるまで気が付きませんでした。
北アルプス稜線は岩と砂礫だらけ。樹木が生えない場所には土壌は無い。
北アルプス黒部五郎岳から北ノ俣岳の稜線
従って我が国では標高2.000~2,500m以上の森林限界から上は岩の風化と砂礫や這松や高山植物による腐植、そして昆虫や動物の腐植によって、岩の風化による砂塵と岩に加えて僅かな土壌の登山道しかありえないのです。穂高や立山、劒の稜線は這松もないので完全な岩と砂礫の路となっています。
森林限界を超えた厳しい環境では、一度登山道として踏まれた道は固くなり植物が生えないため、道づくりの改修を行わなくても半永久的に道として存在します。
樹木は光合成による炭素を吸って酸素を吐き出す性質以外に、樹木の葉による腐植に加えて、自ら腐植によってつくられた土壌に根を張り、保水して伏流化して、水によって岩が単純に風化して崩れることを阻止しています。
大自然の営みは、私たちに他の惑星に無い肥沃な土壌と美しい緑の樹木を与えてくれました。
森林限界を超えて這松と高山植物の天上世界に入る
高山植物の項で触れたように、山岳は森林限界を超えるといわゆる天上世界に入ります。
日々公園などの林を眼にし、また郊外の森を見ている私たちにとって、高木の全く無い這松や草花だけの緑の世界を眼にしたら、そこは地上と全く異なる天上世界を眼にしたと想うでしょう。
縄文人や弥生人たちは、獲物たちを追って森を分け入り初めて眼にした奥日光の戦場ヶ原や立山の弥陀ヶ原、白山の弥陀ヶ原に立ちその光景を眺めた時、その壮大な風景に神を感じたに違いありません。
年代は幾重にも下がって、勝道上人が日光に分け入った際、水の神深沙大王が行く手を開き、立山は越中国司の息子佐伯有頼が父の白鷹を追って立山山中に入り熊と遭遇し矢の血の跡を辿ったら室堂の玉殿窟に辿り着きそこに阿弥陀如来と不動明王が現れ開山を促され慈興上人として開山しました。加賀白山は泰澄大師が白山頂上で水の神九頭竜神を感得し代わって、11面観音が現れお告げ通り開山しました。
いずれも水の神や獣が現れ、これらの天上世界を持つ山々が、自然の恵みをもたらす山として多くの人たちに伝わり信仰が始まりました。弥生時代になると稲作の水の神が、村落全体の宗教行事の目的になり、扇状地の際の山に祀られ更に平野から見える独立峰にも水の神が祀られました。特に風光明媚な名山には専門の宗教集団が生まれ修験教団として発展して行きました。
這松の分布は本州中部の高山帯から東北、北海道に広がり、北アルプスでは標高2,500以上でないと見かけませんが、寒帯の北海道の大雪山には1,500m程度に出現し、知床半島の先端の海岸線には這松が存在していると、学生時代岬まで縦走した後輩の山仲間が言っていました。
這松が見ることが出来るのは通常標高2,500m以上ですが、八方尾根や那須山塊では標高1,500mで見られます。
山仲間がいつも言っていた事に、山には、労多くして益少ない山と、労少なくして益多い山の2種類あり、労多くして益少ない山とは、多大な標高差を登って来ても、森林限界を越えず樹林帯ばかりで、眺望の良い這松帯に現れない山を差します。それくらい山で這松が見られる高度まで登って来たときは嬉しいものです。
また日光金精道路を車で走っている時、金精峠のトンネル入り口で這松を発見して驚きましたが、金精峠が標高2,000mあるので驚くに値しません。
這松の実は猿の好物です。私は出会ったことはありませんが、北アルプスの稜線迄猿が集団で登ってくるそうです。
バスを降りて直ぐ這松と高山植物に出会える立山室堂
立山では室堂バス停が標高2,500mの高山帯に位置するためバスを降りた所から、高山帯の這松が楽しめる我が国きっての山岳観光地です。
目の前には標高3,000mの稜線が続いています。
室堂玉殿窟。今は入山禁止です。
高山帯の森林限界付近(標高2,500m付近)の風景
那須や谷川岳などの例外もありますが、本州中部の山岳では2,500m付近が森林限界になり、頭の上にのしかかるような高木は無くなり、背の低い這松帯になります。
北アルプス弓折岳直下の森林限界です。上の稜線は笠ヶ岳と双六岳に続く北アルプスの主稜線です。
森林限界付近では頭の上に覆いかぶさっていた高木が急にまばらになり、細い灌木が増えてやがてミヤマハンノキやミヤマシャクナゲ、ナナカマドなど楚々とした灌木になり、やがて這松帯に変わります。
森林限界は本州山岳では大体共通していて、登山道を登って行くと地図で確認しなくてもやがて主稜線が近づいてくるのが分かり、とても励みになり最後の頑張りが期待できるところです。ただし悪天の場合は森林限界が天国と地獄の境目になります。特に積雪期この恐ろしさを甘く見て突っ込むと風雪で遭難します。
森林限界を抜ける瞬間、北アルプス種池山荘直下
北アルプス種池小屋の柏原新道の森林限界付近です。この登りを過ぎると、鹿島槍ヶ岳や針ノ木岳に続く北アルプス主稜線の種池小屋に到着し眼前に剱岳の雄姿が飛び込みます。森林限界は、針葉樹の高木が低くなると、ナナマカモドやササが多くなり、やがて這松が現れます。
森林限界帯は、標高2,500m近くの標高2,400ぐらいから比較的短い間に植生が変わります。
森林限界を過ぎると登山道も土の部分がすくなくなり、やがて完全な岩道になります。
緯度が高い青森の八甲田山は標高1,000mの森林限界から天上世界に。
本州の北端の八甲田山塊では中央の主峰の大岳が標高1,300m台のため、標高1,000mを超えると植生は這松帯に変化します。
北海道大雪山も標高1,000mの森林限界から天上世界が始まる。
この大雪山登山も強風に悩まされました。7月でも手袋無しではいられません。この山行は普段のトレッキンググローブでなく試しに涼しそうな軍手を持参しましたが、これが裏目に出てしまいました。
旭岳のロープウエイを降りたところから這松とお花畑が続きます。
大雪山系主稜線緑岳登山道も標高1.000mが森林限界
ヒグマ情報センターのある大雪高原温泉を出発し、急登を終え第1花畑を過ぎ第2花畑に差し掛かります。眼前のガスの中に稜線近くの緑岳(松浦岳)がうっすらと見えます。
植生は這松とササです。
飛ばされそうな強風の中、先行した登山者たちが次々と下山してきます。最後に下山してきた北大山岳部パーティに様子を伺うと稜線近くは歩行困難なほど強風が吹いているとの事。多分大雪黒岳からのツアー登山者たちは稜線の避難小屋を占領していることが予想されるため、幕営予定の我々は強風の中で幕営しなければならず、トムラウシまでの縦走は諦めここで下山し帯広に出てトムラウシ温泉からトムラウシピストンに変更しました。
トムラウシの森林限界も1、000mと低くここからひと登りで天上世界。
コマドリ沢から離れ、ここで水を補給して、いよいよトムラウシの稜線前トム平の登りに入ります。大雪山系は自然保護と体内安全のため、排泄物は持ち帰り、生水は煮沸か浄水器で濾した水しか使用できません。ここはコマドリ沢の縁で風が当たらない場所ですが、ここから這松と岩だらけの風景に変わります。
トムラウシの魅力は山頂直下の小さなカルデラにあります。そこが天上の楽園です。
森林限界を過ぎると、道は一気に岩だらけの路に変わります。穂高の岩稜を辿るようです。緯度が高く高山帯のため植生が十分でないため、岩の風化の砂礫だけで土壌の路は発達しなかったのかも知れません。北海道の山は起伏はなだらかですが、部分部分は急な岩道と稜線には小さな沢が流れ、その付近の土壌はぬかるみとなり歩きずらいです。
7月でも寒く強風が吹くと寒さは北アルプスの比ではなくなります。気温が低いため、強風時には雪渓は凍りがちで、アイゼン無しではなだらかな傾斜でも侮れません。
トムラウシの大量遭難事件の調査委員会のメンバーだったクラブの迫田OBの遭難報告書を事前に読むと、遭難原因がピンと来ませんでしたが、実際にトムラウシに来てみると悪天の中、足場の悪い登山道を体験してみると、自分でも荒天下では連続行動を取ったら無事ではないと実感しました。
東北の安達太良山も標高1,300mの森林限界から天上世界になる。
那須山塊や安達太良山ピークは1、800から2,000mですが、森林限界も1,300mと低いです。森林限界のくろがね小屋辺りから山頂に向けてmp紅葉のピークの光景です。
亜高山帯(最大の水の恵み地帯)の樹木(標高1,500~2,400m前後)
この亜高山帯の樹木はシラビソやオオシラビソ、コメツガ、ダケカンバ、ヤハズハンノキが主ですが、何といっても亞高山帯の樹木の代表の美しいダケカンバに目が行ってしまいます。この亜高山帯は樹々の落葉に寄る腐植で登山道は完全な土壌の道です。
亜高山帯は熊やカモシカ、鹿やキツネ、タヌキ、猪、兎や鳥など動物の宝庫で、彼らの主要な活動の場です。樹々は自らの落葉で作られた豊かな腐植土で長大な根を広げ、しっかりと水分を蓄えた土壌を支えます。
この亜高山帯に蓄えられた水が沢となって山麓の人々の耕作や生活を支えています。
八方尾根の下樺のダケカンバ
低山帯からこの亜高山帯に入ると針葉樹が多くなり、一年中うす暗い林が続きます。
シラビソ、コメツガ、トウヒ、カラマツなどが暗い森をつくりますが、やがて稜線の高度があがると、懸命に風に耐えた幹の曲がったダケカンバが現れ、高山に来たなという感慨を得ます。幹の曲がったダケカンバは感動的な光景をもたらすのです。
また幹が曲がったダケカンバが現れるとそろそろ森林限界が近づいて来ることを悟ります。風雪に耐えたダケカンバが無かったら登山の魅力はかなり薄れるでしょう。
想い出の遠見尾根のダケカンバ
遠見尾根大遠見のダケカンバです。大遠見で鹿島槍北壁に落ちる雪崩も音を雪の天幕名の中で遠雷のように聞いていました。
思い出のダケカンバは画像のものでなく狭い小遠見山のピークにあった2mぐらいのダケカンバでした。
春山合宿でベースハウスの法政小屋からの最初のピークが小遠見山で、荷揚げの場合必ずここで休みます。狭いピークには風雪の中でたった1本のダケカンバがあり、休むたびに氷に覆われた幹を撫でていました。
それから2週間後に連日の風雪の中から下山して、あと1本で法政小屋に戻れる解放感に満ち、風雪の中で皆で談笑していました。上りの時と同じようにダケカンバに寄りかかって氷に覆われた幹を撫でていたら、枝のそこかしこ微かに芽が膨らんでいることを感じました。
小遠見山の風雪の中でも来るべく春に備えて芽を膨らませ始めていたダケカンバの姿は、今でも鮮明に覚えています。
この山行は、その冬薬師岳で大量遭難があった38豪雪に続く3月で22日間の入山中まともに晴れたのはたった1日でした。春一番後の猛烈な二つ玉低気圧に襲われ2時間おきの除雪を繰り返していた晩、突然白岳の稜線で雪崩が発生し天幕が潰されナイフで天幕を破って脱出し、装備が埋まったまま五竜の冬季小屋に避難し、翌日風雪の中一日かかって装備を掘り起こしました。
小遠見山のダケカンバは、豪雪の中から無事下山できた我々を祝福してくれているように感じました。
私が植物を意識したのはこれが初めてでした。それから数十年後、薔薇に興味を抱いたのもこんな背景があったのかも知れません。
那須山塊大倉尾根のダケカンバ
那須三本槍から北温泉に下る長大な大倉尾根は国境稜線から冬の季節風を最も受ける所です。
自ら風を受け周りの幼木を守っているダケカンバです。
風雪に耐えた見事な老木です。
徳本峠から明神への路
このブログのタイトル「山と自然」に使っている画像です。新緑の真っ最中です。
新緑と言えば生まれて初めて対面したもの凄い新緑がありました。この新緑の体験は昨年のブログ安曇野で触れました。
25歳の6月のある日、1人で残雪の穂高を目指しましたが、あいにく夜行で朝上高地に着いた時から大雨に遭遇しました。大雨の中、明神、徳澤を過ぎて横尾まで来ました。横尾から濁流渦巻く梓川の丸木橋を渡り、涸沢に向かいましたが河原の登山道は完全に水没していました。雨は益々強くなったためまだ10時過ぎでしたが引き返して横尾山荘に宿泊することにしました。
大雨は終夜降り続き朝になっても止みそうもなく、小屋の前の丸木橋を見たら流されるのは時間の問題で、4日間の日程の中もう1泊横尾で泊まる訳に行かず穂高は断念し上高地に下山することにしました。徳澤、明神と下るにつれ、さすがの大雨は小止みになりましたが上高地に下るとバスが不通になっていました。仕方がないので白樺屋に宿を取り昼食を済ませ、暇になったため下山中小梨平で見かけた耳慣れない国立公園のビジターセンターに寄ることにしました。この施設は国立公園ビジターセンターの第1号でした。
ビジターセンターとは聞きなれない新しい施設で、入ると訪問客は誰もおらず係の女の子が1人いるだけでした。
回りに展示してある美しい写真に心動かされ、ベンチを見ると1冊の写真集が置いてありました。それは田淵行男の「山の季節」という写真集でした。田淵行男の名は山岳雑誌で時折高山蝶の写真が掲載されていたので名は知っていましたが、昆虫が嫌いなため田淵行男には興味を抱きませんでした。写真集のページをめくると周りに掲出している写真パネルのいくつかは彼の作品であることが判りました。
この写真集の一枚一枚の写真に衝撃を受けながら、食い入るように見つめている内に、あっという間に時間が過ぎて行きました。大雨の中、誰も訪れないビジターセンターの中で、この写真集との濃密な時間が流れて行ったのです。
翌朝、起きて旅館の窓を開けると、さんさんたる光の中で緑が輝いていました。昨日ビジターセンターの女の子に教えて貰った田代池への路を散策しました。
この時出会った上高地の新緑の凄まじさ、美しさは、その後の生涯で出会っていません。豪雨の直後、旭日と共に一気に芽吹いて光を浴びた樹々を見ると、紅葉と同じく新緑にも盛りがあることを初めて知りました。
この時出会った田淵行男の写真と、頭がクラクラするほどのすさまじいまでの上高地の新緑は今でも脳裏に焼き付いています。
偶然出会った山の新緑ですが、本当の新緑の凄まじさは山中で生活していないと出会えないものと想っています。
那須~桧枝岐の旧沼田街道のブナ林
旧沼田街道は、沼田から尾瀬を横断して桧枝岐に至る旧国道でした。国道と言っても画像の登山道です。尾瀬沼ビジターセンターで熊の出没の可能性が少ないと聞き
やや荒れた登山道を辿りました。この街道を辿る登山者は稀で途中見事なブナ林があり、ブナの落ち葉のふかふかの道の感触を確かめながら歩きました。
多分この街道のブナ林は山奥過ぎて伐採されたことがないのでしょう。変わったオブジェが見られます。多分このブナ林は永久に伐採されることがないのでしょう。
火打山の白樺の紅葉
火打山は紅葉の素晴らしい場所です。登山口、中腹の登山道、ピークしたの草原など標高によって紅葉の時期がズレるのは衆知のことですが、この山行は登山口のめくるめく紅葉に出会いました。
この紅葉を見ていると京の庭師は紅葉の時期が美しさのピークになるように作庭しているのではないかと思って来ます。
那須山塊姥が平の紅葉
那須山塊は稜線を超えた裏側に、素晴らしい紅葉の場所を隠しているような気がしてなりません。
姥が平には怖い姥がこの地を守っています。
徳澤園の楡林
楡はヨーロッパや北米ではエルダーと呼ばれ家具素材として使われています。
徳澤園の春楡の林です。
20代の頃の徳澤には、春楡の巨木がもっとたくさんあったような気がします。
新緑の明神の路
庭を山や高原の雰囲気にして日々大自然を感じようとガーデニングを始めてから、植木屋さんにたのんで庭木も山の木を植えました。
辛夷、ヒメシャラ、ナナカマド、山の木でないけれど花が美しいので海棠、さらに早春の黄色が欲しかったのでミモザも植えました。
しかし首都圏の気候と我が家の狭い庭では、山の樹々は不発で、ナナカマドは赤い実はおろか紅葉をしたことがなく、ヒメシャラは樹形が美しいものの花と葉が今一でした。辛夷は狭い我が家で気の毒で成長力旺盛で剪定ばかりしていたため満足に花は咲きませんでした。海棠は我が家に合わず、30数年前のミモザは珍しく近所の名物となりましたが、高温多湿の気候での根の張りがものすごく恐ろしくなりました。
やがてこれらは全てランブラーやオールドローズ、オールド系クライマーに変わって行きました。
私がオールドローズやランブラーローズ、モダンシュラブローズに拘るのは、より自然な雰囲気の植物を求めていたからでしょう。
裏穂高のブナ林
毎年鏡平から新穂高温泉へ下山途中、見事なブナ林を通過します。全山ブナ林の八甲田山も見事ですが、この裏穂高のブナ林も実に見事です。
ブナの落葉は良質の腐葉土となりその更なる腐植によって最高の土壌がつくられ、その保水能力は樹として最高を誇っています。
木曽街道鳥居峠で出会った樹木
江戸の昔から旧中山道の木曽の中心鳥居峠を越えるを往来する旅人はこの樹を見つけて足を止めた事でしょう。
しかしこの樹の傍らは細い中山道が通っているだけで休み場所の石もありません。多分木曽街道鳥居峠を往来する旅人たちは明かりも無く山中は不気味で一刻も早く抜け出たい気持ちが勝り、この樹を見つけても一瞥しただけで先を急いだのでしょう。
中山道木曽御岳山、鳥居峠の遥拝所
江戸時代の木曽御岳詣りは、御岳山に登るのではなく中山道の鳥居峠の遥拝所から参拝しました。
島崎藤村の夜明け前を読むと、御岳信者である藤村の父である主人公の馬籠宿の青山半蔵でも開田高原の御岳神社に詣でて御岳山頂に登ることはありませんでした。
まして遠国の御岳講の人々は中山道の鳥居峠の遥拝所から御岳を参拝していたのでしょう。この遥拝所には小さな神社があるだけで、広場も宿跡もありません。麓の奈良井宿や藪原宿から峠へ登り手早く参拝を済ませ、宿に戻ったのでしょう。ここで御岳を遥拝するだけで旅の目的は達せられたのです。
神々しい御岳
それくらい街道の山中は厳しいものだったと想います。そういう厳しい想いをしながら、常日頃参拝している自然の恵みを受けている故郷の山と比べることが出来ないほどの雪を抱く崇高な神の山を参拝し、大自然への新たな敬虔の想いを抱き続けたのでしょうか。
登山とガーデニングは西欧近代景観論の系譜で発展してきました。
樹々による林や森は美しい景観をつくります。それと関連して同じ園芸作業でも家庭菜園や花卉園芸と異なってガーデニングは美しい景観をつくる作業です。
ガーデニングはいわゆる美しい庭づくりの概念であって、ローズガーデンもただ平面的に薔薇を並べて植えただけではローズガーデンではなく単なるバラ畑です。
我が国にガーデニングの概念が導入されてから30数年経ちましたが、まだガーデニングの行為を江戸時代から続く花卉園芸の概念と混同している人が多いです。
庭づくりは自然の要素を取り入れながら美しい空間をつくる行為で、古来の和風庭園は専門の庭師たちが当然美しい日本の風景をイメージ的に切り取って庭を作ります。
一方ガーデニングは庭づくりを専門の庭師に任せるのではなく、住む人自らデザインして手作業で植物を植え、年間通じて栽培作業を行います。薔薇と草花をミックスしたローズガーデンは、庭の主人の自然観を基本に、そのイメージを自己の庭に再現する作業と言えるでしょう。当然素晴らしい庭は主人の見聞きし経験を積んだ美学が基本になるはずです。
主に薔薇素材を使用して庭に美しい自然を再現するローズガーデンは、自然な樹形のシュラブローズが主体となることは当然であり、自然界には存在しない巨大輪の薔薇は、挿しで使用することがあっても主役にはならないでしょう。
英国のガーデンには自然界には直線は存在しないという言葉があります。どちらかといえば大陸のガーデンはシンメトリーや直線を多用したガーデンが目立ちますが、島国の英国や我が国では自然の一部を切り取って庭に再現する傾向が好まれます。
信州梓山の美しいカラマツの新緑。我が国初期の岳人たちはこの風景に魅了されてきました。
想い出すと我が国山岳黎明期の岳人、田部重治や木暮理太郎、武田久吉の紀行文では、植物の固有名詞は記しますが、個々の植物に対する個人の印象は記していません。明治、大正の初期の岳人たちは、個人の感性の記述に慎重だったのでしょうか?或いは西欧的感性の芸術表現が導入されたばかりで、美的表現にはとても慎重だったのでしょうか?
ちなみに田部重治はワーズワースやスティーブンスなど英国のロマン派文学の研究者で多分初期景観論も研究していただろうし、小暮理太郎は東大哲学科を出て西欧絵画の紹介雑誌ハガキ文学を主宰し田部重治と知り合い、武田久吉はアーネストサトウの息子で英国留学で景観論も研究していたと想います。田部と小暮は日本古来の景観美学と西欧近代景観美学の融合を生涯かけて実践した人のように想います。私たち登山愛好家は、このような山岳景観研究の一人者の著作を元に山岳美を学んできました。
明治に入り地理学者の志賀重昂の日本風景論によって初めて我が国の優れた山岳自然景観論が主張され、日本山岳会を創始した小島鳥水、武田久吉や小暮理太郎など当時の若者を熱狂させ、彼ら若者たちは日本の山岳に向かいました。それまで宗教登山以外山岳に美を求めて登山する行為は無かったのです。
明治初期までは我が国の景観は中国絵画の山水画の概念で組み立てられていましたが、英国の近代景観美学の影響を受けた田部重治や小暮理太郎、武田久吉の著作によって、いわゆるラスキンの近代西欧的な景観における山岳の崇高な美を求めて、次々と山に向かいました。その結果我が国の自然には、高山あり氷河あり、高山植物あり山水画の松以外にタンネの森があり、しゃれた白樺があり、豊富な花木と新緑と紅葉などありとあらゆる樹木が存在していることに気が付きました。
そして更に欲深なことに、私たちは我が国の歴史になかった西欧世界の象徴のロ-ズガーデンまで作ろうとしているのです。