薔薇のエッセイ25、美しい高原の自然その1
前回まで、私がガーデニングにはまるきっかけとなった高山植物の垂直分布に触れ、更に山岳の森林限界など植生について触れました。
山の自然は稜線、尾根、沢、渓谷から成り立っていますが、もう一つ大事な構成要素に高原があります。
高原は山岳の自然の風景の中でも、人が生活する地として大事な要素を締めています。
特に自然の風景のイメージを切り取って、個人の小さな庭に取入れガーデニングによって庭づくりを行うためには、深山渓谷と異なって人々が居住している高原の風景の要素は一番身近なモデルになるのです。
古来伝統的な和の庭はさまざまな経緯で発達し、住宅街の個人の庭では庭師の経験によってその一番コンパクトな要素を取り入れられ造園されてきました。しかし家屋躯体が洋風化されるに従って、ガーデニングによる草花主体の庭づくりが主流になるに従って、そのイメージをどこに求めるのか?さまざま模索されています。ある人はイングリッシュガーデンに、ある人は地中海沿岸のパティオ風に、ある人は我が国の高原にイメージに求めたりしながら庭づくりを行っていますが、多分大半の人は具体的にイメージを求めず行っているのが現状です。
我が国にガーデニングの概念が導入されてから30数年経ちました。草花主体のガーデニングに薔薇が加わりましたが、自然な草花とミックスした庭には枝がやわらかく空間を覆う薔薇が主流になり、薔薇の種類もそれまでの主役のハイブリットティからシュラブローズに変わりました。
私の場合は、狭い庭に高山植物のイメージに似た草花を植え、樹々は山地に生息しているものを植え、風がそよぐ高原のイメージを目指しましたが、途中からランブラーやオールドローズなどシュラブ系の薔薇が加わり、20年30年と時が経つにつれて具体的な高原のイメージは消えてしまいましたが、今でも自然の在り方をかなり意識しながらガーデニングを行っています。
庭づくりは好みの自然をどこに求めるかによって庭のイメージが変わります。私はイメージを高原に求めましたが、高原そのものイメージは緯度の高い西欧世界の郊外に存在していました。
高原の概念は、一般的に標高600m以上の山地での平坦で広大な場所を指しますが、我が国の高原は広大な火山のカルデラや、火山の広大な斜面のなだらかな場所に存在します。
我が国の山地に高原という概念が導入されたのは明治になってからであり、牧畜の習慣が無かった江戸時代までは、高原は水稲ができず不毛の地で、人々が親しめる空間ではありませんでした。信濃国、武蔵国、上野国や下野国、そして陸奥国など平安時代から馬を飼育する牧がありましたが、これらの国では当時平野が原野だったため牧は高原ではなく山麓の丘に存在していました。
また我が国の高原は広大な火山の裾野に位置しているため、沢は伏流となり水が供給されず、広大な地を開拓して農地にしても火山灰土と寒冷の気候のため多くは不毛の地となり、まして水を豊富に供給しなければならない、水稲の耕作の対象にはなりませんでした。
たとえば、栃木県の有力な農業地帯となっている那須高原は、明治中期まで全くの不毛の地であり無人の地でした。那須と言えば源平時代の弓の名手那須与一の根拠地は、那須高原とは全く離れた常陸と国境の那珂川流域にありました。那須高原は沢が流れていた板室温泉を除いて、有史以来無人の地だった現在のように那須町と那須塩原市の2つの行政からなる地帯になり多くの人々が住むようになったのは、明治期大規模な灌漑設備を施してからでした。
以上のように伏流水で水が得られない火山の高原に対して、明治に入るまで、私たち日本人の風景の美意識の中には高原という概念はなく、山岳と言えば山水画に描かれた山と渓谷の風景が貴ばれていました。
私たちが美しい高原の概念に気づいたのは、在日英国人たちが夏になって軽井沢に集結し始めてからでした。軽井沢に集結した英国外交官たちは、日本ばかりでなくインドや東南アジアなどアジア全域から軽井沢に集結し、避暑を兼ねて情報交換を行っていたようです。山麓の鬱蒼とした湿気のある森の上にある軽井沢は、乾燥した空気が広がり草原や白樺林など明るい景色の元、西欧世界の牧畜を前提した高原での食生活にはミルクやハム・ソーセージなどハイカラなイメージが広がりました。
英国外交官たちに倣って、信越線の開通を機に政財界の人々が避暑として山間の霧積温泉を利用し始めた事から、高所にある避暑地が注目されました。
しかし古来日本人にとって避暑という概念はなく、山間の渓谷沿いにある1軒宿の湯治場は、農閑期に主に農民たちが自炊で湯治する場として利用されてきました。しかし鬱蒼とした山間の森の中の温泉から高度を上げると、楚々とした白樺林がの高原が広がり、次第に湯治を離れて高原が西欧世界のハイカラなイメージとして人々の間に浸透し、高原の興味が高まりやがて高原列車は行くなど流行歌の題材にもなりました。
軽井沢奥の山中にある1軒宿の霧積温泉です。霧積温泉は高校時代早熟の文学志望の級友が逗留に行き、いかに素晴らしいか熱く語っていて、以来一回行ってみようと想っていましたが、それも果たせず60年後に旧碓氷峠を歩いて越える際宿泊しました。
ガーデニングを始めてからドイツに行く機会があり郊外を車で走っていたら、道端の林の中に白い花が一面咲いている光景を見つけ、車を止めて貰って確認したらホワイトレースフラワーでした。我が家の庭に植えたホワイトレースフラワーは高さが1m30㎝にもなっているのに、道端に咲くドイツのホワイトレースフラワーは40㎝程度の高さで風に揺らいで楚々と咲いていました。
多分ガーデニングを始めていなかったら、雑草がはびこる日本の風景と異なって、緯度の高いドイツでは下草も異様にはびこることがなく、特別手入れをしていなくて郊外には美しい風景が広がっていることに、何の不思議を感じなかったでしょう。
英国の青い芝生の上で羊がたむろする美しい郊外の風景も、我が国の郊外の風景と異なっていました。
ドイツや英国、そしてフランスの郊外の風景は、美しさを保つためにそれほど手入れをしているようにも思えず、我が国で言えば楚々とした下草が広がる高原の風景に似ていました。
梅雨があり夏に湿度の高い我が国では、道端の下草が繁茂し見苦しくなりますが、緯度の高い英国や北フランス、そしてドイツでは、森の下草も繫茂せず見苦しい風景にはなりません。
私が山の自然の光景を日常世界に再現しようとして始めたガーデニングは、我が家の庭にほんのわずかでも高原の光景を取り入れようと試みた事です。最初に辛夷、ナナカマド、姫シャラなど高原の木を植えました。更に高原の樹ではありませんが花の美しい海棠やミモザも植えました。
渓谷の水や水辺の植物、湿り気のある苔、そして新緑や紅葉など自然のやさしい風景を再現する和風の庭の造作と異なって、ガーデニングは従来にない日本の美しい風景を切り取る作業であり、そのモデルは高原にありました。
個人の日本の庭は長い歴の中で培われ、植生も我が国の風土に根付いた樹木や宿根草や苔で構成され、雑草対策としては苔や芝や砂利を多用しています。
しかし白樺や落葉樹が林立するさわやかな高原のイメージは、従来の我が国に無い西欧文明の象徴でした。18世紀以降世界を席巻した西欧文明は、年季の入った美しい住宅とさわやかな高原イメージの庭という西欧文化の住まい方の基本を持っていました。
アジアモンスーン地帯の中でも夏は熱帯以上の高温多湿の我が国の住宅地で、ガーデニングで花を楽しみ、薔薇を主体とした庭づくりを行うことは極めて困難なことですが、そのイメージを作る上で高原が一役買っていることは間違いないでしょう。
私の登山の原点となった鹿沢高原と湯ノ丸山。
鹿沢高原国民休暇村(新鹿沢温泉)
唐松林と白樺が点在する鹿沢高原。この辺りの植生は八ヶ岳とよく似ています。
私にとって鹿沢高原は中学3年生の時、有志による林間学校で訪れ、湯ノ丸山に登った忘れられない高原です。中学1年の林間学校では三峰神社の宿坊に泊り霧藻ヶ峰まで登りましたが、全て鬱蒼した樹林帯の中での行動であり、あまり印象には残りませんでしたが、新鹿沢温泉から旧鹿沢温泉、湯ノ丸山は余りにも明るく草原と白樺林の間ですごした日々は忘れられない思い出となりました。
私の好ましい高原のイメージはこの新鹿沢温泉から旧鹿沢温泉、湯ノ丸山で作られました。
新鹿沢温泉は地蔵峠直下にある旧鹿沢温泉(紅葉館)から上州側に下った地にあります。現在は長野道東御から地蔵峠を越えると直ぐ鹿沢温泉(紅葉館)がありますが、私の中学生当時は,中の条から万座鹿沢口まで鉄道で行き、そこからバスで田代湖経由で新鹿沢温泉に行きました。多分学生時代にも1~2回、高校時代の岳友の東京都立大のワンゲルの小屋を利用させていただき、高校ワンゲルの仲間たちと、スキーで湯ノ丸登山を行いましたが、長野道が出来た近年まで信州側から行った記憶はありません。
旧鹿沢温泉(紅葉館は)1,500mの高い場所にあり、小県郡の田中や海野宿近辺の農家の湯治場として江戸時代から使われてきました。近年紅葉館は立て替えましたが温泉だけは江戸時代以来のものを補修しながら使っています。麓から地蔵峠を越えて紅葉館まで街道沿いに100体の観音像が設置されており、観音詣でを兼ねて農民は湯治に通ったのだと想います。
紅葉館の前には、京大山岳部の雪山賛歌の碑があります。旧鹿沢、湯ノ丸近辺は冬でも太平洋岸の気候になるため、晴天の日が多く、京大の人たちはここまでスキー雪山の訓練に来ていました。
湯ノ丸山は標高2,000mですが、標高1,500mの旧鹿沢温泉あたりから森林限界が始まります。
中学3年生の時の湯ノ丸高原
中学3年の林間学校です。旧鹿沢温泉から地蔵峠に行かず直接湯の丸山に登りました。太陽が眩しいため特別に許可を貰ってサングラスをかけています。実際には少しも眩しくはありませんでした。
今までもあろ燦燦と太陽が降り注ぎ、さわやかな高原の風が流れる光景を思い出します。
新鹿沢温泉の旅館です。当時はこれが普通で、特別みすぼらしいとは誰も思いませんでした。中学3年の夏と言えば現在では皆塾通いです。当時は有志とはいえ学校で林間学校を企画していた呑気な時代でした。
レンゲツツジの名所、湯ノ丸山
湯ノ丸山の6月のレンゲツツジの満開時は、関東中の花好きなハイカーたちが全て押し寄せるほど見事なものです。今の状況はわかりませんが、満開時の週末は30年前でも朝9時に地蔵峠に到着しないと駐車場はいっぱいになってしまいます。
湯ノ丸山のピーク直下
地蔵峠付近が森林限界のため、湯ノ丸登山はこのようになにも遮るものがない空間を登ります。
2月の湯ノ丸山
湯ノ丸山は浅間の外輪山の一部で、この辺りは真冬でも太平洋気候のため、西高東低の気圧配置でもは晴れの日が続きます。湯ノ丸山登頂はアイゼンを装着すれば容易です。学生時代はスキーで登りました。
この辺りの山は全て雪の時期に登りました。
3年前の晩秋、湯ノ丸山と四阿山に行きました。画像は湯ノ丸から地蔵峠に下山の画像です。
前方の山は西籠ノ登山、東籠ノ塔山で高峰温泉に宿泊して雪の季節登りもちろん無雪期にも登っています。池ノ平湿原は東籠ノ登山の麓に広がっています。
その奥は高峰山と水ノ登山で同じく真冬の雪山で登り、更に奥の黒斑山も高峰高原ロッジに宿泊して登りました。
鹿沢高原や湯ノ丸山は私に高原の輝きを教えてくれた忘れられない地でした。
栂池自然園
栂池自然園は標高1,900mに位置する高層湿原です。栂池自然園は白馬岳登山の中腹にあり、ゴンドラで自然園まで歩かずに標高1,900mに達します。
白馬登山はここから天狗平に登り、そこから乗鞍岳をへ経て小屋のある白馬大池に達し、そこから小蓮華岳、三国境で北アルプス主稜線に出てピークに達します。天狗平から大池までは巨岩の滑りやすい道を辿り、大池からは急登の連続で中々厳しい登山ルートです。
学生時代は、ゴンドラが無かったので大糸線の信濃森上駅から歩き落合発電所の長い土管に沿って登り、栂池まで来ると結構しごかれましたが、幕営地は更に天狗平を経由して大池まで登りました。
栂池自然園のコースは、白馬大雪渓を望む1週コースと途中ショートカットするコースの2通りあり、1週コースは数時間を要します。
栂池自然園は標高1,900mの亜高山帯に位置するため、標高2,500mの森林限界以上の高山植物は少ないですが、亜高山帯の高山植物はとても豊富に見ることができます。
群生する高山植物
湿原のため周回路には木道が張りめぐされておりとても歩きやすいです。植物の種類は豊富で群落で咲くもの、単独で咲くもの様々です。
歩きやすい木道
高山植物と共に美しい樹々の植生も見事で、高山植物の借景として本物の樹々の植生を見ることが出来ます。
人の手で植えられた植物園でなく、人の手が入らない自然な繁殖の結果咲き続ける亜高山帯の高山植物を見ていると、ボーダー花壇も色あせて見えてきます。
こういう本物の自然の草花を眺めていると自然に草花を見る目が養われてきます。自然という用語は便利過ぎて様々な意味に使うことができますが、繁殖にひとの手が入らない植物の群落の美しさは、まさに天からの贈り物です。
乗鞍岳、天狗平遠望
入園地から栂池自然園の一番遠いところまで来ました。白馬大雪渓の遠望を済ませ、右上の赤い屋根の栂池山荘まで戻ります。
左の山は乗鞍岳で巨大な大岩がゴロゴロした上を滑らないように渡って歩く登山道が続きます。乗鞍岳の斜面のしたの平らな稜線は天狗平です。
学生時代この天狗平からの下りで、三代構えの紅葉を見ました。いわゆる稜線は新雪、その下の針葉樹帯の緑、そして天狗平の登りの樹々は落葉樹で美しい紅葉の盛りでした。
見事な植生と亜高山帯の高山植物
黄色のオタカラコウ(雄宝香)とピンクのイブキチオラノオ(伊吹虎ノ尾)の群落です。栂池自然園は山野草の宝庫です。
奥日光、戦場ヶ原、小田代ヶ原、
奥日光の戦場ヶ原、小田代ヶ原、そして西湖や湯元、あるいは中禅寺湖の対岸など大好きな高原なので何度も行きました。
近年は出かけていませんが、当時4駆のハリヤーを乗っていたので、元を取らないといけないので、ほとんどが日帰りで行きました。
当時現役だったので週末しか訪れることはできず、戦場ヶ原と小田代ヶ原に行くためには、戦場ヶ原の駐車場が狭いため、朝9時には到着しないと入れませんでした。戦場ヶ原9時とすると日光の街の手前の食堂に朝7時に着くように家を出て、ここで熱いウドンの朝食を済ませいろは坂に向かいます。週末の紅葉の時期のいろは坂の渋滞に巻き込まれたら眼も当てられません。
小田代ヶ原
戦場ヶ原の駐車場で電気バスに乗り換え小田代ヶ原を目指します。いつもこのパターンで来ると空いていて快適です。小田代ヶ原から戦場ヶ原に回ってから帰途に着き、たまに中禅寺金谷ホテルで遅いランチも楽しんだり、日光の街で遅い昼食をとり、ラッシュになる前に日光を脱出しました。
戦場ヶ原から太郎山、女峰山、男体山など見事な眺望も楽しむことが出来ます。
戦場ヶ原
7月の戦場ヶ原はホサキシモツケ(穂咲き下野)の群落が見事です。戦場ヶ原全体がピンクいろに変わります。
西ノ湖
小田代ヶ原から西ノ湖まで電気バスで向かいますが、さすが小田代ヶ原を過ぎると誰も乗っていません。
西ノ湖は静寂の地です。西ノ湖から小田代ヶ原、戦場ヶ原とハイキングを楽しみますが、特に西ノ湖から小田代ヶ原への道端に咲く山野草の種類が多く、帰宅してから特定が大変でした。
千手ヶ浜
人が全くいない千手ヶ浜は不気味です。
小田代ヶ原から西ノ湖を経由して千手ヶ原まで電気バスが運行されていた記憶があります。中禅寺湖の対岸の千手ヶ原は人の影が見えず静寂そのものです。帰りは湖畔の山道を戦場ヶ原までハイクします。
このほか日光は戦場ヶ原から湯滝を経由して湯元へ、湯の湖を1周するコースも完備しているので、日光ならではの高原を満喫できます。
戦場ヶ原のズミの花
戦場ヶ原のズミの木です。上高地の明神館の前に名物のズミの木があり、6月の満開の季節になると多くの人が群がります。
なぜズミの花に群がるかというと、ズミは別名小梨といい上高地の別名は小梨平であり、真っ白な小梨の花が名物でしたが、今では数が少なくなり、小梨平と呼ぶ人たちもいなくなりました。
代わりに日光戦場ヶ原にはズミの木が何本もあり、満開になると美しい花を堪能できるのです。
池ノ平湿原
池ノ平湿原は大好きな高原の1つです。無雪期にはこの湿原も別な花が咲きとても素晴らしい所です。
しかも標高は2,100mと高く完全な高山植物や亜高山帯の高山植物まで幅広く楽しむことが可能です。
更に良い事には湿原の入り口まで車で行くことが可能で、湯ノ丸山の麓の地蔵峠から東籠ノ登山の麓の道を辿ると容易に行くことが出来るのです。
立派な木道が設置されています。
この湿原のリンドウ(竜胆)の群落は特に見事です。
ヤナギランの群落
秋遅くの池ノ平湿原。草紅葉が美しく高山植物が枯れ果てても見事な景観を作ります。
ナナカマドが真っ赤な実を着けています。
湿原の小ピークから北アルプスの眺望も素晴らしいです。