薔薇のエッセイ26、美しい高原の自然の風景、その2

日々の暮らしを離れて山や高原に出かけると、普段の見慣れた風景から、標高の高い位置にある様々に変化する大自然に触れられます。
日々の見慣れた樹々は、早春の花が咲く時期は見ごたえがあるものの、春が過ぎ初夏になると気温が上がりそこそこの雨量を受けて、一瞬の短い新緑の美しい芽吹きの後は、枝いっぱいに葉を付け鬱蒼と茂って変わり映えのしない風景をつくります。

早春の土手では、オオイヌフグリが柔らかな緑のカーペットを作り、新葉を伸ばし始めた瑞々しいヨモギに代わり、美しい菜花が終わる初夏になると、丈の高い雑草が瞬く間に茂り、真夏になると私の背の高さを越えて視界を遮ります。そこにさらにつる性の雑草が巻き付き、秋になるとススキの葉に似たセイバンモロコシがススキを駆逐し、土手を壁のように覆ってしまいます。そして秋になると、土手近くの樹々には葛が猛烈にツルをからまし最後は樹が葛で山のような形になるのです。

家から近い野の風景は、菜の花の季節までが楚々と美しく、初夏からは雑草が繁茂する野に風情を見出すのは容易ではありません。しかし夏から秋に2度ほど役所の業者によって刈り取られた雑草も、晩秋の紅葉の季節になると目障りでなくなり、荒涼とした冬を迎えます。

多分、万葉古今の時代から野の風景を鑑賞する季節は、雑草が繁茂しない早春から初夏、そしてススキが群がる晩秋と決まっていて、夏は野に目を向けなかったのでしょう。

私の場合は、初夏からは1か月は薔薇の季節が始まるため、この間、新緑を除いて野の風景を追わず薔薇に没頭できます。

しかし雑草が生い茂る季節に不満があるとしても、住まいの近くに1年の季節の半分の期間、自然を味わえる空間が広がり、いたずらに高原などの美しい空間を求めなくても済む幸せを感じています。



旅は過ぎ去った季節を逆戻りさせてくれます。
北国の角館や弘前は5月初旬は桜の季節です。GW期間は薔薇の季節のため多忙で中々実現できなかった今年は、思い切って白馬山麓で、チューリップ、水仙、スミレ、桃、桜を一時に味わい、白馬の雪形を眺め、松川の雪解け水が田んぼに注ぎこまれる風景を味わいました。

日々の暮らしから離れた高原は、初夏から真夏、初秋、秋と、実に好ましい風景を私たちに与えてくれます。山岳はさらに天上の楽園を見せてくれます。

こうして山や高原に出かけ、下草が繁茂しない美しい大自然を満喫しますが、旅が終わって帰宅の途中、我が家の庭が懐かしくなり、明日朝一番で水やりをしようと心に決めます。
高原の美しい自然は、冷涼な気候と程よい雨量で、人の手を借りずに自立して風景を維持していますが、自立した大自然の風景に比べると、余りにもみすぼらしい我が家の庭では、私が薔薇や草花の面倒を見なければ、乱れて荒れた光景になってしまうのです。

高原では私は唯の見学者であり傍観者ですが、我が家の庭において私は傍観者でなく自然の保護者であり、薔薇や草花たちは皆、私の帰りを待っているのです。家内が面倒を見るにして、もし私が我が家の庭の植物の面倒を見なかったら、薔薇はやがて死に絶えてしまいます。この世の中に、自分が面倒を見なければいけない慈しむ生き物が存在するということが、自分を元気にさせてくれる原動力になるような気がします。

自然の風景を眺めることと、自ら手を下しながら自然の風景を維持する行為であるガーデニングの間には、大自然に向き合うという共通項がありますが、気持ちは同じようでいて大きな開きがあると想います。

翌朝、太陽が登ってから水やりを行う時、高原の余韻に浸りながら、ガーデニングを行っていて良かったなとつくつく想うのです。

前回に引き続いて、美しい高原の自然の風景のその2です。

我が国にはたくさんの美しい高原があります。
山岳地帯では歩いてでしか行けない標高の高い場所には、○○平、○○ヶ原と呼ばれる山上の高原がたくさんあります。北アルプスでは核心部に雲の平、や高天原、立山の内蔵助平、弥陀ヶ原、室堂平、雷鳥平、薬師岳への稜線に五色ヶ原、太郎兵衛平、私たちが良く行った鏡平、白馬岳の天狗平、などいずれも森林限界を超えた天上の楽園ですが、ここで触れる高原は、誰でも交通機関で訪れることができる高原をピックアップしました。
東北地方の山岳には緩やかな高原状の山が多いのですが、ここでは触れませんでした。

美しい高原の要素を全て備えた上高地

上高地を高原と表現して良いのか判断に迷います。岳人にとって上高地は観光の高原でなく穂高の登山基地のイメージが強すぎるからです。

高原には車で行ける別荘地としての高原や、観光客のための観光施設としての高原、或いは登山目的とは異なるものの、ある程度歩かなくてはたどり着けない高層湿原、などさまざまですが、上高地周辺は穂高の展望故に、高原としてはNO1だと想います。

上高地周辺は一般的に高原とは呼ばれませんが、山の中腹でなく山中にぽっかりと出現した紛れもなく高原です。
上高地の急峻な峰々の谷深く広々と広がる平地は、古の人々は神河内と呼びました。
上高地のやや上流に穂高神社の神域の明神池があります。ここは大和朝廷の半島政策で活躍した海人族の安曇野氏が、ヤマト朝廷の水軍の役目を終えて九州筑紫から信濃国に入植し、稲作の部族となって安曇野に彼らの神、穂高神社を祀り、そして梓川の水源の平野からかろうじて仰ぎ見られる神々しい峰々の懐の明神池畔に奥宮を設けました。

通常山に祀られる神は、稲作における水源の山の山頂に祀られますが、熊野三山の熊野大社、熊野速玉神社、那智大社は山頂でなく、稲作を行う平野から程遠い谷奥に祀られていて、熊野大社の信仰はなぜ始まったのか不思議に想っていました。

実際に熊野を訪れ、山深く熊野川が流れる山間に広がる広大な河原に旧熊野大社が祀られているのを見て、これはまるで神河内だなと想いました。
海人族の熊野族が、熊野川を遡って熊野速玉大社を経て辿り着いた地が熊野大社だったような気がしました。熊野族は純粋の海人族で稲作の適地を求めて熊野川を遡ったのではなく、熊野族は黒潮に乗って、知多半島、伊豆半島、三浦半島、武蔵、安房、に移住したと想像しますが、同じ海人族の安曇氏はそれから数百年経ち半島往来の海人族の役割を終えて安曇野に定住したのだと想像します。

上高地一帯は、山間にぽっかり空いた美しい清涼な河原で、まさに安曇氏の聖地神河内でした。

穂高の玄関、岳沢の景観

河童橋付近から眺める岳沢は上高地の絵はがきの象徴ですが、いつも雲が出ていたり霧に隠れていたりして、ここまでクリアに撮影された機会も珍しいです。

穂高岳の峰々の名称は混乱していましたが、大正時代慶大山岳部の大島亮吉以下が3月に各峰々に登頂した時、それまでの混乱した呼称を改め、現在のように前穂高、奥穂高、北穂高と名称を固定化しました。前穂高は稜線の右端に見え、西穂高は左端に見えます。

上高地河童橋付近から岳沢の光景です。6月上旬前日島々から古典的な上高地への入山ルートを辿って、この朝徳本峠の山小屋から出発し、新緑を楽しみながら明神を経て上高地に下山した時の画像で、このくらいクリアな画像が撮影できたのも珍しいことです。岳沢中央の一番高く見えるピークは奥穂高でなくコブ尾根の頭でその横の小ピークが多分ロバの耳であり、奥穂高はその横の白い稜線あたりです。


帝国ホテルから明神を望む

上高地帝国ホテルは上高地の象徴です。残念ながら宿泊したことはありませんが、大学4年の冬山で帝国ホテルの管理人だった帝国ホテルの木村さんの小屋に、某大学山岳部パーティの遭難連絡のため上高地迄下山し、その日は横尾尾根の幕営地まで帰れず泊ったことがあります。役目とは言え暖かい山小屋の布団にくるまって寝ていると、稜線の雪の天幕の中で身体を寄せ合って寝ている仲間を想い出し、悪いなと想ったことが記憶に残っています。
当時は登山が盛んなため我々大学のパーティが年末下山する頃、社会人山岳会のパーティが続々と上高地に入山してきました。正月の遭難が多いため木村さんの小屋には、年末年始お巡りさんが常駐していました。

登山基地としての上高地は、河童橋手前のバス停から始まるため、この大正池畔の帝国ホテルの景色は中々見ることができません。

大正池


登山の経由地で上高地に行きますが、バス停の手前の大正池には寄る機会が無く、冬山を入れてこれで2回目です。この時は家内と観光で着たので大正池に寄りました。大正池から田代池ぞいにプロムナードがありますが、大昔に比べると風情はなくなりました。大正池も昔は枯れ木が湖面に林立していましたが、今は減りました。

もう一つ真冬の上高地の河童橋は不気味です。夏にあれほど群がっていた人々がおらず、誰もいないこと自体がとても不気味に感じました。
真冬は沢渡から先は梓川沿いのバス道を歩いて上高地に入ります。上高地の手前には釜トンネルがあり、今は新設されていますが昔は狭く急な登りで、真っ暗闇の中足を滑らしながら歩くのです。重荷のため河童橋辺りまでくると日が暮れるため幕営します。

梓川右岸の森の湧き水

右岸の森の中には清涼な湧き水があり、梓川に注いでいます。

明神館の小梨の樹

明神館の前の名物ズミの樹です。ズミは別名小梨と言い、戦前戦後の上高地は小梨平の別名がありましたが、今では小梨は見かけなくなりました。最近の登山者は上高地が昔小梨平と呼ばれたズミの名所だったことは誰もしらず、従って明神館の前にあるズミの樹も誰も注目していません。

かって牧場だった徳澤園

明神館から4、50分ほど足を伸ばすと徳澤園があります。ここは大正時代牧場だった場所です。田植えの代掻きを終えた松本平の各農家の牛を預かって徳本峠を超えて徳澤園に入り、ここで9月まで放牧して牛を肥やしていました。

春楡の巨木が林立し、寒冷地のため下草が旺盛に繁茂せず牧草として扱いやすかったのでしょう。

大学時代山岳実技という体育の単位がありました。この徳澤園で山岳部が5日間の合宿を行い単位認定を請け負いました。もともと徳澤園のオーナーが早稲田山岳部出身のため行われたものです。山に登って単位が得られるという事で多くの学生が参加しましたが、行動も槍ヶ岳、奥穂高、蝶が岳、奥又白と全て日帰り登山でした。飯づくりは山岳部の連中が徳澤園の炊事場で行い、参加学生はフリーでしたが、行動は体育実技のため山岳部の連中も、一般学生と違うのだと妙なメンツをかけて、槍や奥穂は走って上り下りしました。今考えると走って登るのは彼らのメンツではなく、槍も奥穂も走って登らなければ日帰りで徳澤から往復できないからでしょう。
我々クラブも北アルプスの空身のピストンでは走って登っていたので、若い時はそれが当たり前だったのでしょう。

上高地周辺、明神池、徳澤の魅力は何といっても6月上旬から中旬の新緑の季節です。穂高涸沢など標高が高い場所に登るとナナカマドなど低木の紅葉は素晴らしいものの、唐松が多い上高地の紅葉は大したことがありません。

反面、田代池、上高地、明神池、徳澤園への道々の新緑の季節は、第1級です。

明神辺りは二輪草の群落が楽しめます。

もう一つ新緑の季節は穂高の残雪が最も美しい時です。5月では雪が多く岩と雪の絶妙なコンビネーションが楽しむことが出来ず、夏は穂高の岩壁や沢のルートを知っている人ならともかく、知らないと唯の岩の塊になります。明神から徳澤への道の梓川の河原が見どころです。

蓼科高原の白樺林

北八ヶ岳の登山口渋の湯の下にある渋辰野館の周りは、辰野館が管理していて白樺が多い所です。辰野館付近から北八ヶ岳の北の端、蓼科山を望みます。蓼科八ヶ岳周辺は国立公園で無いので、50年前頃別荘地開発のためたくさんの白樺林が切られてしまいました。
高校時代冬に登った白樺尾根は文字通り白樺で覆われていましたし、松原湖から稲子湯への道沿いにあった広大な白樺林も別荘地開発のため切られてしまいました。また蓼科山への稜線の大河原峠も白樺林が多かったですが、近年行っていませんが少なくなっているようです。

辰野館付近は白樺林が良く保存されていて宿のプロムナードコースになっています。

高原に行ってもこのような見事な白樺は余り見ることは少なくなりました。白樺を多く見かける地域は鹿沢高原や浅間山麓高原、八ヶ岳蓼科地域、志賀高原など信州が圧倒的です。

標高2185mの我が国3番目に高い、北八ヶ岳麦草峠

八ヶ岳は夏沢峠を境として北八ヶ岳と南八ヶ岳に分かれます。昔は1つの大きな火山でしたが噴火を重ねて、今のようなたくさんの峰々が連なる山に変わりました。

夏沢峠の北にはアルペン的な風貌の天狗岳があり、峰々が森林に覆われた本当の北八ヶ岳は、黒百合平から始まり、中山を越えると標高2185mの麦草峠に達します。
我が国における峠を標高順に列記して見ると一番高所にある峠は①南アルプス塩見岳下の標高2580mの三伏峠、②は北アルプスの黒部横断道の標高2541mの針ノ木峠、③は北八ヶ岳の麦草峠、④は穂高の玄関口歴史ある徳本峠2135m、⑤は北八ヶ岳標高2093mの大河原峠、⑥は標高2082mの奥秩父雁坂峠、⑦は標高2042mの奥日光金精峠、⑧は標高2036mの南アルプス甲斐駒仙丈の北沢峠、⑩は標高1987mの大菩薩峠です。

この内山岳道路で峠に行けるのは麦草峠、大河原峠、トンネルができたので峠下まで雁坂峠、金精峠、一般車通行禁止の北沢峠の5カ所です。

私の学生時代、北八ヶ岳は高見石から北部は登山者が少なく未だ秘境でした。現在八ヶ岳横断道路が通じ、麦草峠を越えて小海線沿線から蓼科に楽に抜けれるようになりましたが、当時は麦草峠に行くのは小海線沿いは松原湖から白樺尾根を登り、にゅうから白駒池経由か稜線の高見石に出て行くしかありませんでした。
更に北八ヶ岳の縦走には画像の背後の縞枯山を越えると雨池峠に出て天空の秘境坪庭を経由して横岳を越え双子池を経由、そこから大河原峠に出て蓼科山に登るか、将軍平経由で蓼科に下りました。

横断道路が開設される前の麦草峠は、広い草原で小さな麦草峠小屋がポツンとあるだけの魅力的な峠でした。
ただ私は八ヶ岳横断道路を否定するわけでなく、多くの登山者や観光客にメリットをもたらしています。30代初期に麦草峠下の白駒池付近に高校ワンゲルの山小屋を有志で建てたのでこの辺りは随分通いました。

ネス湖に例えられた往年の北八つの秘境、雨池

雨池峠の北には学生時代幻の湖と言われ、ネス湖と同じように怪奇な湖として語られた雨池がありました。学生時代この池端に3人で幕営しましたが、とても不気味でした。

前に触れたように蓼科八ヶ岳周辺は国立公園でなかったので、別荘地やスキー場など続々と開発されました。一番画期的だったのは蓼科高原から稜線の天空の秘境と言われた坪庭までピラタスロープウエイが架けられ、夏の散策、冬のスキーと一年中稜線の坪庭は賑やかになりました。

今や冬でも楽に行ける秘境雨池

そんな秘境の雨池も60代の時、縞枯山荘のテレマークスキーの講習会に参加し、テレマークスキーで学生時代秘境だった雨池までツアーに行きました。

今、これを書いていて気が付いたのですが、一時話題を呼んだ山岳スキー術のテレマークも今や話題にもならなくなりました。テレマークは北欧で発達したエッジの無いスキーで、深雪の歩行や斜面の下りに独特の姿勢でのターン技術は威力を発揮しますが、やはりエッジ付のスキーの方がクラストした斜面など対応性が優れています。

往年の天空の秘境、坪庭、今は蓼科高原一の観光地

北八ヶ岳の天空の秘境と呼ばれた坪庭は登山者憧れの地でした。私も大学1年の時、松原湖から白樺尾根、高見石、麦草峠、縞枯山から待望の坪庭を通り、横岳を越えて双子池、大河原峠、将軍平、蓼科と歩いた記憶があります。

大学4年間で八ヶ岳は全域、春、夏、秋、冬と岩場も含めて親しみ、ほとんど足を踏み入れない場所は皆無でした。

落葉松が美しい八ヶ岳山麓

浅間山麓と同じく八ヶ岳の山麓は落葉松やオオシロビソの樹林が広がります。特に秋の黄葉が見事です。
私にとって登山でなく高原としての八ヶ岳は、2つの山小屋の想い出が占めています。

八ヶ岳山麓にある千露里庵(チロリアン)です。早大学院ワンゲルのメンバーだったクラブの先輩たちが大昔掘っ立て小屋を建てたもので、その後オレゴン産の本格的なログハウスに建て替えた山荘です。美しいカラマツ林の中にある山荘で設備が良く快適です。しかし電気はなく沢の水と薪が燃料の森の生活を送ることができるのです。

50代末から毎年5月の終わりにクラブの同期が集まって同期会を行って来ました。5年位継続しましたがその後場所を変え70代中頃まで継続しました。

今やこの画像の中の4人が鬼籍に入ってしまいました。

チロリアンには別棟で炊事小屋、サウナ、瞑想小屋があります。

この山荘を建てた5年上の先輩はソローの「森の生活」の信奉者でした。
今ではこの山荘は早大学院ワンゲルOBと我々のクラブの一部がメンバーになって会員組織で運営しています。私たち山の会の現役学生を交えた懇親会や、若手OBの集まりなどが今でも活発に行われています。

山荘の中心はやはり薪ストーブが重要です。この山荘には雪の季節行った事は無いのでこのストーブの有難みは分かりません。ストーブのグッズは本格的な米国製です。

こちらは高校ワンゲルの山小屋です。私が40代の時の写真です。質素な高校ワンゲルの山小屋の唯一目を張るのはノルウエー産のヨツールのストーブです。
3mほどの太い廃材の梁など大きな口に入れて少しずつ押し込んでいくと雪の夜でも一晩中シャツ1枚で過ごせました。

この小屋はOB有志30人が山小屋会を組織して建築運営しました。私は仕事が多忙になり趣味もガーデニングになったため、あまり山小屋には行かれず50歳で脱会してしまいました。

米国産特有のキッチンです。水は沢の水をタンクに溜めています。

トイレがシャワートイレなので助かります。浄化槽で処理しています。

電気がないので多数のハリケーンランプを用意します。

夜更けまで語り明かします。今は亡き友たちです。

この山荘でOB会のキャンプも何回か開催しました。10数年前の55周年キャンプでは、50人の出席者の内、30人以上が2日酔いでふらふらになりながら赤岳鉱泉に行き、翌日赤岳に全員登頂しました。

懐かしい想い出です。

大自然は景色を味うだけでなく、一晩だけでも仲間と大自然の中で過ごす喜びがあるのです。年代を越えて若かりしときの想い出に浸りながら、焚火を見つめ、暗いランプの光の下で酒を酌み交わし、眠い目を擦りながら夜更けまで語り明かす楽しみがあるのです。こういうひと時は生きているという実感が湧いてくるのです。

戦前からの古典的な高原、霧ヶ峰

霧ヶ峰は戦後高原ブームの一翼を担った高原です。

高校時代山の本ばかり読んでいました。登攀記から紀行から随筆など手当たり次第に読みました。その頃、串田孫一や尾崎喜八の随筆に美ヶ原や霧ヶ峰が美しく書かれいつの日にか行ってみたと想いました。しかし北アルプスや八ヶ岳などアルペン的な山に行くのが忙しく、美ヶ原や霧ヶ峰に行ってみたいと想っていましたが、中々行く機会がありませんでした。
大学1年の9月、前期試験が終わって、冬山合宿として予定されていた白馬の偵察を兼ねた10月の白馬新雪山行まで間があるため、天幕を担いで初めての単独行として、美ヶ原と霧ヶ峰の広い台地の真ん中で寝てみたいと思ひ出かけたのです。

単独行のため気が楽で発車間際の最終の松本行に乗ろうと新宿まで行きましたが、満員でどうしても乗れませんでした。仕方が無いので最終の下諏訪行きに乗り込み、翌朝下諏訪から松本までのバスに乗り美ヶ原登山口までやってきました。のんびりと美ヶ原の台地まで登ると山本小屋があり台地を1周しても時間が余ってしまいます。私が読んだ随筆の美ヶ原は多分戦前の風景で素朴で小さな山本小屋があるだけで、静かな高原の雰囲気に満ちていると書かれていました。ところが山本小屋小屋というよりロッジみたいに大きく観光客が大勢たむろしていました。ようやく日が暮れて小屋からなるべく離れて簡易天幕を張りましたが、観光客は中々小屋に入らず小屋の周りをたむろしていました。簡易天幕を張ってホエーブスを焚いて簡単な食事を済ませ時計を見たら未だ18時でした。簡易テントのため入り口も閉まらす、やることもないので寝袋に入り昨夜の寝不足もあり直ぐ眠ってしまいました。ところが夜中に目を覚ましてしまい、中々寝付かれずうつらうつらしていましたが、その内顔に息が吹きかかって来たので目を覚ましたら、牛が私の顔を覗き込んでいました。
あわてて身を起こすと牛も驚いて逃げて行ってしまいました。

翌日は霧ヶ峰の台地で幕営の予定でしたが、このまま下山し松本から帰宅しました。以来美ヶ原には1回も行った事はなく、その時中止した霧ヶ峰へは、60を過ぎてから家族と初めて訪れました。

霧ヶ峰はグライダーで有名です。

霧ヶ峰再訪

クラブの親睦ハイクで再訪しました。諏訪在住の先輩の手配で上諏訪一の旅館に泊まり、先輩と懇意にしている霧ヶ峰の由緒あるヒュッテ・ジャベルに寄り、オーナーと歓談しました。
ジャベルの名は戦前詩人の尾崎喜八がエミール・ジャベルの「ある登山家の想い出」を翻訳し、先代が建てたヒュッテに名づけました。

このハイクでは霧ヶ峰歩き回り堪能しました。
霧ヶ峰は一面見渡すばかりの草原からなる高原ですが、解放感がありとても魅力的な高原ですが、やや物足りなさがあります。

スキーの想い出が強い志賀高原

志賀高原で一番好きな場所は横手山山頂でした。夏もスキーも良く行きましたが、横手山の山頂の食堂で食べるラーメンが絶品でした。
この画像の志賀高原は10数年前娘を交えて家族で行った時のもので、東館山高山植物園を楽しみました。
志賀高原は様々なハイキングコースが設定されており、スキー以外に楽しめる高原です。

40代の頃はスキーを良く行っていました。仲間たちとは毎週のように上越や尾瀬、日光丸沼、ピタラスなどに出かけましたが、志賀高原も良く出かけました。

また子供たちが小学生の頃は、毎年草津に行きそこから志賀高原までドライブし、途中尾根の稜線にアサマベリーの秘密の群生地を見つけ毎年子供たちと実を採集しました。
当時は未だブルーベリーは一般には販売されておらず、軽井沢の今でいうカフェでアサマベリーが3、4粒トッピングされたアイスクリームが、メニューにあった時代です。

夏でも主要なスキーリフトは運行されています。夏の志賀高原はスキーシーズンと比べると嘘のように人が少ない高原です。

標高2000mにある東館山高山植物園です。移設して植えられており、この植物園では大概の高山植物は見ることが出来ます。山に登らないで高山植物を見たいなら、池ノ平湿原と東館山高山植物園がお勧めです。

発色の良いマツムシソウが咲いています。園芸種のマツムシソウは青がもっと薄く花が小さいです。松虫草は花が終わった頭花が巡礼者の持つ鈴の松虫に似ていた事から名付けられました。

サラシナショウマ(晒菜升麻)升麻とはキンポウゲ科で根茎を乾燥させ、解熱、発刊、解毒など漢方薬として用いられています。サラシナショウマは若菜を茹でて食することから名付けられました。風情のある山野草です。

裏磐梯高原

磐梯山の最後の噴火は、比較的新しく明治21年磐梯山の形が変わるほどの大噴火が生じ、川をせき止めた結果、裏磐梯の檜原湖や五色沼が誕生しました。
裏磐梯高原は檜原湖周辺はホテルもあり遊覧船も運行しているため、観光客でにぎわっていますが、五色沼など湖沼群のトレッキングコースは、観光客も少なく自然を満喫できます。

大昔、大学卒業後クラブの仲間4人とGWに安達太良山に行きました。60年も前ですが当時は今のように情報が無くて、安達太良山は東北の山だから豊富な残雪があると想いピッケルを携行して行きました。登山口の岳温泉では予約しないで行った10軒の旅館が満員で、仕方なくその内の1軒の物置部屋に泊りました。翌日安達太良山に登りましたが残雪など無く、せっかく持参したピッケルを使って雪が残っていた噴火口の急な斜面でグリセードで遊びました。その日は安達太良の西側の、昔の旅籠のような中の沢温泉に泊まり、翌日は皆行ったことが無い裏磐梯に行って会津若松に出ようと決めました。翌日裏磐梯の桧原湖畔に着くと観光バスが列を作って来ていて、遊覧船の乗り場は長い列ができていました。
裏磐梯の人出は上高地レベルで驚きましたが、せっかく来たのだからボートに乗ろうと列に並びましたが、ザックを背負ってピッケルまで持っている風体の人間は誰も見当たらず、とても場違いでとても恥ずかしいい想いをいたしました。

当時の観光地での観光客の姿は男はまだ背広姿で黒靴、女性はスカートでヒール姿だったので、余計違和感が募りました。

噴火で山の形が変わってしまった磐梯山


美しい五色沼です。ブルーの色がとても神秘的です。

毘沙門沼、裏磐梯は噴火で堰き止められた小さな湖沼群がたくさんあります。

湖沼との間は噴火でできた小さな峠が連続し、その峠を越えて次の湖沼に向かいます。時期は9月でしたが峠は美しい樹林が楽しめます。新緑の際はもっと見事でしょう。

道々様々な山野草が楽しめます。

我が国での有機農法の走りジャージー牛の神津牧場

上州と信濃の境にある荒船山は特異な山容で有名です。神津牧場は荒船山の対岸にあります。

神津牧場は我が国の草分けの牧場です。
明治になり信濃小県の豪農だった神津家の次代の当主が福沢諭吉の慶應義塾で学び、上海で外国人たちがミルクを愛用しているのを見て、新時代にふさわしい事業を行うため神津牧場を開設しました。それも唯の牧場でなく斜面を切り開き堆肥を十分すき込み牧草作りから始めました。その後現在での牛乳の味が一味異なる希少なジャ-ジー牛を英国から導入し、有機栽培で育てた牧草を餌としたジャージ-乳を生産してきました。

この牛乳のおいしさは半端ではありません。

戦前我が国が生んだ名アルピニストで慶応山岳部出身の大島亮吉は名随筆「荒船山と神津牧場」をしたため山の随筆のバイブルとなりました。大島亮吉は積雪期穂高の各ピークの登頂に情熱を傾けましたが、28歳の時3月の前穂高北尾根4峰から墜死して亡くなりました。
近年の登山者は深田久弥の名を真っ先に挙げ、大島亮吉の名を知らない人が多いと想いますが、昭和40年代までのアルピニストは皆、神津牧場と言えば大島亮吉を回想するのです。

航空母艦のような荒船山。

佐久高原の宿からトレッキングして、猪がたむろする尾根道に迷い込み、ようやく神津牧場方面の標識を見つけ喜びました。OB会のハイクの一コマです。

この広い斜面を開墾し馬糞や牛糞堆肥をすき込み牧草を自家栽培しました。

牛舎で笛を鳴らすと牧場中にたむろしていた牛たちは皆牛舎に向かって帰ります。

ようやく牧場に辿り着きました。

戸隠高原

戸隠高原は一般道で戸隠の各神社を参拝するだけだと、杉の巨木が林立し明るい高原の雰囲気は感じられません。
しかし参拝道を離れてトレッキングコースを辿ると、視界は開け山の高原という雰囲気になります。むしろ明るい高原の雰囲気は旅館やペンションがあるスキー場の方が、高原の雰囲気は濃厚です。

戸隠神社奥社への参道です。江戸時代や中世にはこの参道の左右にたくさんの坊舎があったと言われています。

信濃国郭郡の古代の戸数で一番少ないのは現在の長野市近辺で、戸隠周辺は古代から戸数の多い地域でした。善光寺も古いですが、戸隠も相当古くから存在し、中世にはこの地方の巨大な修験教団を形成していました。信玄と謙信の川中島の戦いでは、どちらにつくか去就が注目されていました、戸隠教団は自発的に山を下りました。恐らく信長の比叡山焼き討ちが、修験教団に相当恐怖を与えたのでしょう。

戸隠神社は森の美しい所です。長い階段を登った所にある宝光社で、奉加帳を横目で見たら信濃が中心ですが、九州や北海道の人もあり、目立って多いのは新潟、秋田の信者でした。今は車や鉄道の時代になりましたが、中世には安寿と厨子王の話もそうですが、福島から京に向かうのは阿賀野川から日本海ルートが主流だったような気がします。

鬼無里の鬼伝説も会津と京が絡んでおり、北信濃は日本海文化圏にあるような気がしました。更に小県の白鳥神社で挙兵した源義仲の上洛に際し、最初に立ちはだかったのは
越後の平氏の城氏と会津慧日寺の僧兵の連合軍で、義仲軍と篠ノ井で合戦し大敗しました。その後義仲軍は北陸の倶利伽羅峠で平氏を破りそのまま京に乱入したのです。
歴史は現在の価値観や視点で考える当時を読み誤ります。

戸隠連山は近くに来ると中々見えません。トレッキングルートでは高原の景色になります。

静かな戸隠の雰囲気です。

戸隠一の御師の宿坊に泊りました。歴史が詰まった中々の雰囲気です。

北海道野付半島

10月の野付半島は荒涼たる景色が連なります。自然でも野生に満ちた剥き出しの自然が迫ります。

ハマナシです。ロサ・ルゴサです。本来は浜梨ですが、発音が詰まって浜茄子と呼ばれるようになりました。高倉健の網走番外地の主題歌からでした。

ハマナシは函館の立待岬でもたくさん咲いていました。

ハマナシのローズヒップです。

ナナカマドが実を着けています。そういえば根室の街路樹はナナカマドでした。我が家の庭に植えたナナカマドは紅葉にもならず1回も実をつけませんでした。

荒涼とした自然の風景にも惹かれます。

樹の墓場のような光景です。水辺の雑草もこれが最大の草丈なのでしょう。

尾瀬周辺

尾瀬は山岳ですが、尾瀬沼や田代はまさに高原です。

尾瀬は大清水までバス、そこから一ノ瀬までは乗り合いタクシー(1000円)で行けば、標高差300m(約1時間)の三平峠までのぼれば、直ぐに尾瀬沼に出ます。尾瀬沼には小屋があります。尾瀬沼湖畔から長蔵小屋を経て田代へは平坦です。桧枝岐まで行くこともできますが、帰途の鉄道アクセスが大変です。

尾瀬沼河畔は美しい所です。

田代湿原も中々です。

昔よりニッコウキスゲは少なくなりました。

ニッコウキスゲです。

田代の入り口です。

信州梓山高原

信州の梓山は八ヶ岳の麓を走る小海線の右側の奥秩父の麓に広がる高原で川上村に存在します。人は梓山高原とは誰も呼びませんが、昔の岳人にとって梓山は新緑の美しさの聖地でもあり、北アルプスと奥秩父を愛した田部重治の紀行文にも度々登場します。
ワーズワースの研究者だった英文学者の田部重治は、木暮理太郎と共に我が国古来の知識人の美学である山水画の深山渓谷の風景を愛し、さらにラスキンから始まった西欧近代の景観美学も学び、その融合に生涯渡って献身した初期の登山家でした。

田部と木暮は日本的な深山渓谷のかたまりのような奥秩父から下山し、この明るい信州の梓山の風景に出会った時、田部はワーズワースの詩を想ったらだろうし木暮は研究していた欧州の風景名画を思い浮かべた事と想像します。

毎年八ヶ岳のチロリアンで行っていたクラブの同期会を別な場所で行うことになり、梓山の村営貸ロッジに宿泊し、翌日奥秩父の十文字峠に石楠花を見に登りました。

美しいカラマツ林

燃えるような新緑の林を辿ります。

千曲川の源流を過ぎて十文字峠の登りにかかります。十文字峠は山の峠ですが、戦前までは信濃国と秩父を結ぶ主要な路の峠でした。
信州小県の蚕種の里、海野宿の街の人たちが作った小さな博物館に、秩父三峰山の火防除けの行燈を見つけた時、小県の人々は秩父三峰山の狼のお札を貰いに十文字峠を越えて参拝していたことが判りました。

梓山の登山道にこんな標識がありました。
信州には諏訪大社があるのに、なぜわざわざ十文字峠を越えて三峰神社や秩父神社にお参りに行かなくてはならないのか?不思議でしたが三峰神社の狼は、諏訪の神社にない火防や盗賊除けの御利益があるようです。

また信州のある人からもお聞きしました。小県だけでなく諏訪や茅野の若衆たちも十文字峠を越えて三峰参拝を兼ねて秩父神社の夜祭に出かけたそうです。司馬遼の「燃えよ剣」で若き多摩の薬売り土方歳三が府中の大国魂神社の夜祭で活躍したように、信濃の若衆たちも峠を越えて秩父の夜祭に参加していたようです。

大島亮吉の有名な紀行文に十文字峠があります。彼が友人たちと秩父から十文字峠を目指して登っていると、峠から熱にうなされた赤子を背負って下ってくる男に出会いました。男は赤子をあやすために真っ赤に染まった楓の枝を1本持っていました。
佐久には医者がないため、男は熱の下がらない赤子を大宮(秩父)の医者に診てもらおうと、生まれて初めて十文字峠を越えてきたのだという。この道で正しいか不安があり、ちょうど行き併せた大島亮吉たちに確認して、安心して峠道を下る姿にいつまでも眼で見送ったとの紀行文でした。

山岳は登攀記や紀行などを除いて人々の営みの歴史がないため、高校時代から登っていると未知の部分が無くなり、物足りなくなっていました。やはり古来の峠には多くの人々の営みの歴史があり、それが厚みをつくります。

そうして信州から武州、上州の峠に関心を持ち首を突っ込んでいくと、これらの峠は産地海野宿から秩父や上州に蚕種を売りに行く商人の絹の道であることがわかりました。

峠についてはまた別項で触れたいと想います。

GW初旬の白馬山麓

GW初旬の白馬山麓は、北国の春がこの1週間で一度にやってきます。水仙、チューリップ、スミレ、桜、木蓮、辛夷、などなど一時に咲きます。弘前の桜の時期も春が一度に来て素晴らしいですが、白馬山麓は豪快な北アルプスを背景にするから、どこよりも見事です。

またこの時期は田に豊富な雪解け水を入れて代掻きするシーズンでもあります。

北アルプスの展望台としては岩岳スキー場が見事です。近年岩岳は再開発が進んでいるので、白馬きっての観光地になるでしょう。この雄大な景色が歩かなくても見れるのです。

白馬は今はハクバと呼ばれますが、私の学生時代はシロウマと呼ばれていました。その名は白馬岳の小蓮華の稜線に現れる「馬形」でこの馬が現れると、田植えの準備の田んぼの代掻き(水を入れて耕す)を行う季節を告げるので「代馬」と呼ばれそれが「白馬」に転じました。

白馬山麓は一度に春の花が咲きます。それは北国の春の特権です。

山麓から遠くに代馬が見えます。下草はあまりにも低く高原の風景です。

この時期北アルプスの雪解け水がどの水路にもとうとうと流れ凄い迫力です。

農業法人の方が水田の仕切りを開けて田に水を流し込んでいます。

白馬町の耕作できなくなった水田を借り上げて米作りを行っている農業法人の方にいろいろお話を伺いました。旅はこういう機会があるのが楽しみです。

安曇野の緑

レンタサイクルを借りてワサビ田に向かう途中の土手にある早春賦の碑です。早春賦は私が好きな唱歌の一つで、作詞者の吉丸昌一の故郷、大分県の臼杵に行った時、近くに記念館があったのに寄り忘れてしまいました。

この早春賦の碑の隣から穂高神社、明神岳が正面方向に望まれます。もちろん霞んでいますが。

大王わさび農場

大王わさび農場は水と緑の美しいところです。さまざまな施設を保存しています。

安曇野は川の底にどこでも梅花藻をみることが出来ます。

安曇野は白馬山麓に比べるとやや南に位置し標高も低いため、既に水田一面に水が張られ代掻きが始まっています。

乾燥した美しい高原の風景を求めて旅しても、やはり心の中では澄んだ水の水路や小川、そしてその源となる山の風景を求めてしまいます。
やはり日本列島に生まれて育った私は、美しい畑の風景もさることながら、豊富な水を吸ってすくすくと育っている水田の稲の風景に惹かれてしまいます。

夏は熱帯地方より過酷な高温多湿のアジアモンスーン地帯に住む私たちは、水田に水を張り雑草に妨げられずに栽培可能で、連作障害がないため狭い耕地でも毎年収獲可能な米を主食にしたのは懸命でした。また牧畜を行わなかったため、馬や牛に実った苗を食べられず、案山子で鳥だけ気をつけていれば安心でした。

そんな日本の風景も歳を重ねると益々愛おしくなってくるのです。