薔薇のエッセイ29、有機農法の時代だった子供の頃の想い出

前回のエッセイでは、阿蘇のホテルの朝食で、毎朝やっとのことで食べていたレタスやトマトが余りにもおいしく、おかわりをしてしまったことを書きました。
そして、ホテルを出てレンタカーのハンドルを握り雄大な阿蘇を眺めながら、レタスやトマトが今まで食べたことの無いおいしさの秘密は、阿蘇の水や土壌にあるのかな?と考えながら、野菜嫌いでは無かったこと子供の頃を想い出しましました。

子供の頃は人参が嫌いだとかゴボウが食べられなかったとかよく聞かれますが、私の小中学生のあの時代を想い出しても、嫌いな野菜はありませんでした。それが大人になって、野菜サラダを水で喉に流し込むように呑み込んでしか、食べられないほどの野菜嫌いになったのは何故なのだろうか?
理由は長い間私が気が付かない内に、昔に比べて野菜がおいしくなくなって行ったのかも知れないと想うしかありませんでした。

おいしい、まずいと感じる感覚は人によって異なります。しかし一度おいしいと想う味が習慣になってくると、その感覚がが脳や身体に沁み込んで当たり前の味覚になってきます。逆に習慣になっている味覚と異なる味に出会うと、大抵は少し不味いなと感じますが、やがて不味さは慣れとなり、仕方のないものとして味覚が同化して意識しなくなるのでしょうか。

近年、努力の結果、以前に比べるとそれほど野菜嫌いでは無くなりましたが、改めて野菜嫌いでは無かった私の小学校時代の食の風景を思い出してみました。

子供時代、食べ物を購入していた近所のお店を少しずつ想い出していくと、そのお店の姿、陳列の棚やケース、そしてお店の主人や奥さんなど、子供心に見た風景が浮かんで来て、まさに昭和そのものでした。小学生時代はよく買い物のお使いをしていましたが、中学になると買い物なんか格好が悪いと、お使いもしなくなりました。
子供時代を振り返ると、昭和を描いたわざとらしい映画「3丁目の夕陽」と異なって、子供心にいつも目にしていた浦和の街の虚飾の無いさりげない美しさが眼前に広がってきました。
その美しい浦和の街の一番の特徴は、大きくなって都内の友人が言っていた道路にゴミが落ちていない事でした。

歳を取ると、老い先短い自分のアイデンティティを確認したくなり、それが、形づけられたであろう子供の頃を思い出したくなるのです。こういう想い出は少し書くと次から次へと浮かんできます。

私は幼児の頃の記憶はほとんど残っていません。私が3歳の時の昭和21年、父がビルマから復員して来た時は、私は生まれてから父に会ったことがないため、色褪せた軍服を着た変な人が家に入って来たことに驚いて、2階に逃げてしまったと母から言われていました。父は昭和12年第2次上海事変勃発と共に第101連隊の予備役招集を受けて上海に上陸しましたが、クリーク突破に初代連隊長次代連隊長の2名が戦死するほどの激戦で、父の小隊も多くの人が戦死し、生き残りが少ない稀に見る激戦だったそうです。その後部隊を再編成後、南下して杭州方面に転戦し昭和14年に招集解除となりました。帰国後16年次女が産まれましたが昭和18年初頭にビルマ戦線に招集されました。2人の娘を抱えて残された母は大変でした。幸い父は古参の招集兵のためでインパールなど激戦には参戦せず、海岸近くの小さな島の防空機関銃陣地の守備に従事したため無事終戦を迎えました。私の誕生はビルマで知ったそうです。終戦後ムトンの捕虜収容所から終戦の翌年復員して来たのです。

戦後米軍が進駐して来て浦和は県都のため、家の近くにある旧陸軍の施設に駐留米軍の埼玉軍政部が置かれました。父はビルマではビルマ人と交流していたらしく、占領下の米軍の進駐には無関心でした。米軍軍政部は知的な将校の集まりだったようで、チョコレートなどで子供の気を引こうとせず、おおらかでフレンドリーだったため、私も米軍を恐れず子供の時はいつも構内で遊んでいました。マッカーサーは日本を民主国家にするべく、軍政部の幹部は東部一流大学で学んだリベラルな若い人材を将校にして日本に呼び寄せたと聞いています。軍政部のヘッドは若い中佐で故郷に私と同じ年齢の男の子を置いて来たらしく特に私を可愛がってくれました。後年私は反米意識を持たず、アメリカ西部劇や騎兵隊ものそして戦争映画が大好きだったのは、映画と米軍の実際の姿が一致していたことがあげられます。

当時の浦和の街は、大宮台地の突端の鹿島台と呼ばれた台地を中心にした人口10万人の小さな県庁所在地でしたが、私が小学校低学年の時、戦後のベビーブームの影響で途中から児童が増加して教室が足りなくなり、午前午後の2部授業を行っていましたが、米軍軍政部が撤退後の行政機構は、有り余る子供たちの教育や給食に行政の比重がかかって行ったように想います。今考えると当時浦和市の予算の多くは小学校の増設と拡充に充てられたと想います。

後で触れますが、当時は市の予算がなくて多くの寄付とボランティアで市の行政は成り立っていたように想います。

私が3年生になった時、小学校が新設され学区が分割され新しい小学校に移りました。新しい小学校は鹿島台の市内に空き地がなく、台地の直ぐ下の遊水地みたいな場所を埋め立てて急遽作られました。中学校は分割された2つの小学校が、また一緒の学区で集まりました。

当時は今より寒く、富士山が良く見える日は木枯らしも冷たく、厚く霜柱が立つ寒い冬は運動靴では冷たいため男子は皆、下駄で通っていました。小学校唱歌の「焚火」や「春が来た」「春の小川」「朧月夜」「夏は来ぬ」の歌詞の情景は、普段の暮らしと全く同じなので自分たちの歌だと想っていました。しかし「山田の案山子」は、どこか遠くの田舎の歌と想っていましたが、今の住まいに引っ越してから「案山子」の作者武笠三は、氷川女体神社の宮司の息子で東京帝大卒業後、浦和中学、旧制七高(鹿児島)で教鞭をとり文部省に出仕しこの唱歌を作詞しました。「案山子」が子供の頃の浦和郊外の風景であることが解り驚きました。

浦和の旧市街の住宅街の台地の坂を下ると、そこは浦和市でなく土合村で後に隣村の大久保村と合併しましたが、一面緑が拡がり雑木の生えた緩やかな丘が続き、近くに牧場もありました。このゆったりとした田園風景は国木田独歩の「武蔵野」の風景でした。
なだらかな丘の下には農家の屋敷林と畑が点在し、低い土地には一面水田が広がっていました。当時、農家は耕作に耕運機など使っていなかったため、どの農家も牛や馬が動力源で、荷車もオートバイが引いていましたが、馬が大八車を引いている風景も珍しくありませんでした。

私の小学校時代は昭和20年代の中ごろから30年までですから、当時の首都圏、或いは東京でも都心を除いて、板橋、練馬、世田谷も、このような風景は珍しく無かったはずです。

当時は作物を作るために当然の前の事と想って大騒ぎにならなかった出来事がありました。
それは、畑に菜の花が咲きおぼろ月夜の頃から夏休みまで、南風が吹く日の「肥溜め」の強烈な匂いで、余りにも強烈なため窓を開けて授業ができなかったことでした。

「肥溜め」は、江戸期から続く農業スタイルで、人糞や家畜の糞を溜める蓋の無い大桶を並べて、板で囲って筵を乗せただけの簡単な屋根掛けがされていた施設です。大体がどの農家でも大桶2つを並べて、便所から自ら汲み取りして大桶に補充していました。

この「肥溜め」に溜めた人糞の肥料は、江戸時代には金肥として呼ばれ、江戸の町では近郊の農家が大八車で江戸の長屋の大家から定期的に受け取り、これが大家の有力な副収入になっていたようです。江戸の街は小さな政府で運営されており、下水処理は民間で行われていました。金肥の質は肥料としての質にかかわるため、料亭の下肥は農家の間で珍重されていたようです。
「肥溜め」の人糞の使い方は体験していないので分かりませんが、雑草や落ち葉にかけて堆肥にしたり、水田の下肥で使用したか、或いは直接作物の株元に施したか、土中に埋めて根を誘引したか使い方は分かりません。有機肥料としては江戸湾や千葉の漁師からの魚粉も多く使われていたようです。
江戸時代、それまでの麻から保温力のある綿が人気を集め、目先に長けた大阪周辺の農家が綿花の栽培を大々的に始めました。綿花の栽培は大量の肥料が必要なため、当初琵琶湖や若狭の魚粉が使われましたが、江差のニシンが肥料効果が高いのと大量に水揚げされるために、ニシンの魚粉が北前船で大阪まで運ばれ活況を呈したようです。




今まで不思議なことに歴史書でも小説でも随筆でも、都市近郊の初夏の南風に乗った「肥溜め」の強烈な臭いを話題にした著作に出会ったことはありません。事実は霧の彼方に飛んで行ってしまいましたが、現在の「香りの文化」が登場する少し前までは、「香りの文化」を味わうどころの状態ではありませんでした。「肥溜め」の匂いがしない地域は東京都心の一部に限られ、畑や水田がある場所は必ず「肥溜め」の香りが飛んできたのです。
東京でも豊島区の一部、北区、板橋区、練馬区、杉並区、世田谷区は多分「肥溜め」香りと無縁でなく、郊外の三多摩地区や川崎は完全な「肥溜め」地帯だったと想います。

余談になりますが、江戸時代のオランダ商館長ケンペルの将軍に拝謁する記録「日本参府紀行」では、東海道のトイレの風景の記述がありました。東海道では約1kmおきに、沿線の農家がむしろで囲った無料の簡易トイレが設けられ、そこでの排泄物は農家が金肥として使用したそうです。歴史書には出て来ませんが、当時の街道はとても臭っていたと思われますが、ケンペル自身も臭いを話題にしておらず、多分臭わないように農家は筵で工夫していたのでしょう。私が子供時代の肥溜めの匂いは初夏の印象が強く、農村地帯ではその期間は食物の成長と多量の施肥が必要な時期のため、臭気のため丹念に筵で覆う作業は行わなかったと想像します。

我が国の農業は、古代から江戸時代を経て昭和30年代中盤まで、農業では化学肥料がなく、農業は全て人糞主体の有機農法でした。

我が国の農業で、化学肥料工業が勃興して、化学肥料が本格的に使われ出したのは昭和30年代と言われています。私が小学校から中学校時代の昭和20年代の中頃から昭和30年代の初頭は、江戸時代と変わらずに農産物の肥料や土壌づくりには、いわゆる人糞や家畜の糞、鶏糞、或いは魚肥などが主要に使われていたと想います。

こうしてできた野菜は、地元浦和の市場に出荷され、市内の八百屋さんを経由して毎日の食卓に上がりました。当時冷蔵技術が無かった時代、野菜は広域には流通していなかったと想われます。という事で、嫌いなものは牛乳位で、野菜はいつもおいしく食べていた記憶があります。
ただ想い出すに子供のお腹に巣くう回虫の問題でした。学校の教室には回虫の写真が掲示され、皆のお腹にいないかと定期的に回虫検査が行われていました。人糞による有機栽培が原因なのか分かりませんが、いつのまにか回虫の問題は消えて行きました。

大人になってから都内出身の同世代の人たちは、子供の時は食糧難だったと言っていましたが、田園地帯に囲まれた浦和では食糧難の記憶は全くなく、幸い小学校時代の同級生たち共ひもじかった想いは誰も持っていませんでした。戦後の混乱時TVドラマに描かれる子供たちと違って浦和の子供たちは皆幸せでしたが、かえって競争心はなくみなのんびりしていました。



牛乳が嫌いだったのは、小学校の近くに牧場があり、この牧場の牛乳が濃厚で自社ブランドでどの家にも配達されていました。父は牛乳が好きでしたが,私は濃厚な牛乳が好きでなく、薄くて飲みやすいコーヒー牛乳を配達して貰いました。もしこの牧場が無かったら他の地域の人たちと同じく薄い牛乳を飲むことになり、多分牛乳嫌いにはならなかったと想います。
当時農家はハウス栽培など行っておらず、全て露地栽培でしたので、トマト、キュウリ、ナスなどの夏野菜は初夏から秋までしか食べられず、冬の間はホウレンソウなど菜類やハクサイ、ネギ、ジャガイモやサツマイモ、サトイモ、八つ頭、ダイコン、ニンジン、など根類が主体でした。ですから夏野菜のキュウリ、トマト、ナス、それにスイカ、ウリは余計新鮮でした。これらは例外なく肥溜めからの金肥を肥料として栽培されていました。

果物は埼玉中部では梨栽培が盛んでした。果物は今と同じ産地から流通しており冷蔵技術が無かったため、収獲の際は一度に出荷するためリンゴやミカンは今よりずっと安価でどの家庭でも大量に消費したので、冬のビタミン源になりました。イチゴは今のようにハウス栽培が行われないため春だけの食べ物でした。

有機農法について書こうとしたら、次から次へと取り留めなく当時のことが想い出されて、お使いに行っていた近所のいろいろなお店も脳裏に浮かんできました。これらお店を想い出すと当時我が家で何を食べていたか想い出すことが出来ます。

当時の特徴は食物の冷凍、冷蔵技術が発達していないため、野菜、魚、肉など生鮮食品はお店では売り切りじまい、家庭では野菜を除いて消費するもの以上の量は購入しませんでした。そしてこれら包装は、肉屋さんでは経木、魚屋さんは記憶はありませんが、パン屋さんは紙袋、八百屋さんは新聞紙、豆腐屋さんは容器持参でした。今考えると当時は完全なエコ社会でした。

町内とその周辺には腕自慢の手造りのパン屋さんが1軒、焼き立ての食パンは香ばしく、パン屋さんへのお使いでは自分の好きな菓子パンを購入していました。八百屋さんは2軒ありました。両方とも懇意にしていたので交互に利用していましたが、八百屋さんはお使いの役得が無いので行った事はありません。お豆腐屋さんはなぜか毎日私が飯盒をぶら下げて自転車に乗って買いに行きました。私の子供の頃はパンは焼き立てを買うことが普通の習慣でしたが、その後パンの流通が変わり焼き立ては少なくなりましたが、今では再び焼き立てパン屋さんが主流になりました。

30代の会社員の時、仕事中部下たちと雑談で街という概念は、パン屋、八百屋、魚屋、肉屋、豆腐屋に歩いて買いに行けることだと結論していましたが、都内に住むある部下はそれにプラスして歩いていろいろな医者に行ける場所が都市であると言っているのを聞き、妙にリアリティがあったので、今の住まいに引っ越す時、それも条件に入れましたが、大正解でした。

浦和の街の旧市街の今の光景です。段々ビル建築に代わって行きます。

子供の頃お使いに行っていたお店を想い出すと、それぞれ店の人の姿も全てではありませんが、朧気ながら蘇ってきます。
行きつけのお豆腐屋さんに行くと、いつも親父さんは仕事を終えて座敷でキセルを吹かしていましたが、母親を亡くした娘さんが白い手を真っ赤にして、真冬に冷たい水槽の底に浮いている豆腐をそっと掴んで包丁で切る姿が今でも目に浮かびます。そして少し離れて肉屋さん、この肉屋さんの豚肉はおいしく母は決して他の肉屋さんでは買いませんでした。理由は私が他の肉屋さんの肉を食べなかったことが原因だそうです。当時は牛肉を食べる習慣は無かったので肉屋さんは豚肉、鶏肉、ハム、ポテトサラダが主要な品揃えでした。確かに母が言っていたように、肉屋さんでもおいしい肉屋と不味い肉屋とバラツキが多いように感じました。
魚屋さんは駅近くの繁華街にありましたが、我が家の魚は注文をとって配達での行商でした。浦和は海から遠いのに魚が安く、また今日も魚かとがっかりしたものです。
また私の好きな駄菓子屋は少し離れた所にあったため頻繁には行かず、、毎日、紙芝居が来るので、紙芝居屋のコブとか水あめなどで駄菓子は代用していました。

家の近くに老舗の和菓子屋さんがありました。子供時代は和菓子より駄菓子を好んでいたので、この店の存在は意識外でしたが良く通いました。その理由は家の2階の陽当たりの良い部屋に、祖母が寝たきりで療養していました。私は学校から帰ると祖母の寝ている傍で、いつも寝そべって漫画本を読んでいましたが、いつも祖母のお使いで和菓子屋に行き、お駄賃として自分の分も買っていたので子供の割には和菓子は随分食べていたように想います。

八百屋、肉屋、豆腐屋、パン屋のそれぞれのお店の主人はこだわりを持ち自信を持って商いをしていたように想います。近郊農家は野菜に自信を持ち市場に納入し、八百屋さんは目を利かせてセリ落としました。肉屋さんの豚肉の味が他と違うのは、恐らく主人が相当こだわりを持っていたものと考えます。パン屋さんはその後私の高校の傍に支店を出し、おいしいので多くの浦高生の身体づくりに寄与しました。豆腐屋さんはその後どうしたのか、冷たい水から手を真っ赤にしながら豆腐をすくっていた娘さんは、その後父親1人残してお嫁に行ったのか?子供の眼から見た昭和の時代が次から次へと浮かんできます。改めて昭和はさりげなく美しい時代だったように想います。

話は別になりますが、浦和の街の駅周辺にはケーキ屋さんがアチコチありました。中学時代の家庭科の先生はケーキ屋さんにお嫁に行きました。20代の時リプトン紅茶の統計がある雑誌に掲載されていて、それを見ると紅茶の消費量が極端に多いのは田園調布と浦和でコーヒーは中野、荻窪など中央線沿線でした。このデータを見た時浦和にケーキ屋さんが多い理由が分かりました。浦和と田園調布は紅茶文化圏で中央線沿線はコーヒー文化圏だったのです。ケーキは頂き物でよく食べた記憶がありますが、我が家には紅茶とケーキを楽しむ習慣はありませんでした。友達の県庁の役人の家庭がそれほどハイカラと想えず、おそらく関東大震災後東京から移住した家庭が、この習慣を持って来たのだと想像しています。

浦和の街を貫通する旧中山道です。上町、仲町の名が残っていますが、上町は浦和の北方面で江戸から遠く、旧中山道ではより京都に近い一帯です。

改めて小学生時代を想い出すと、駄菓子屋とか紙芝居を除けば、手作りのパン屋さんと手作りのお豆腐屋さん、有機栽培で育てた八百屋さん、天然氷の木箱で築地から配送された魚屋さん、全て眼の前で肉やハムを切り、量り売りで竹皮で包んだ肉屋さんなどなど、自然食品が好きな人たちにとって、現在の理想のお店屋に囲まれた暮らしだっと想います。更には和菓子屋さんも近所にあり、繁華街に行けば狭い街なのに、何軒もケーキ屋さんがありました。

更に文化的な側面では、この中山道沿いに大きな本屋さんが2店、隣町の北浦和駅近くには同じく2店の大きな本屋さんがありました。

もう一つ食物が育つ決定的な要素に旧浦和市の水道水は全て地下水でした。浦和の街を構成する台地、関東ローム層の地下には豊富な地下水が縦横に流れていました。浦和の中心部には川がなく、上水になる水は地下水となって地面にゆっくり浸透し地下水になりました。我が家には井戸がありましたが、庭の少し広い家は井戸があり、夏期洗濯など洗い物は井戸を利用し、スイカなど井戸の中に吊るして冷やしていました。
浦和は江戸時代から鰻を名物にしていました。その理由は浦和の市街地の鹿島台南部は荒川水系や芝川水系の小河川が流れ肥沃な水田地帯でした。この台地周辺には流れ出る地下水の小川で鰻や泥鰌など川魚が良く獲れるため、中山道沿いにうなぎ屋が軒を連ねました。江戸板橋を発った旅人は浦和宿の台地を上ったら吹上鴻巣を過ぎるまで川魚が食べられなくなるため、浦和宿に入る前に鰻を食べて旅の精を着けました。
大正時代に旧制浦和高校が開設され、この生徒たちが、安く精を着けられるため浦和の街外れの鰻屋に通っていたと言われています。彼らはエリートですから社会に出て浦和の鰻はおいしいとの評判を広めました。その後鰻は高級になってしまいましたが、浦和は県都のため多くの役人たちが多く利用し名声を高めたと想像しています。

浦和のおいしい地下水の話が鰻に行ってしまいましたが、関東ローム層は火山灰地で園芸の最高用土赤玉土の原料です。ミネラル豊富な火山灰地の中を流れる浦和の地下水は、阿蘇の湧き水まで行かないまでも、味覚の基本となるおいしさがあったと想います。

昭和42年私が大学卒業の翌年、人口が増えて浦和市の水道は地下水では賄いきれなくなり大久保浄水場での荒川から取水に変更になりました。私は明確には感じなかったけれど、父は盛んに水が不味くなったと言っていた記憶があります。

農家が化学肥料を使用しだしてから、肥溜めの臭いが消え、丘陵地の畑地帯は盛んに造成され住宅が建てられました。肥溜めの臭いが消えたから住宅が増えたのか、住宅が建てられたから肥溜めは無くなったのか、どちらか分かりません。そうして住宅が建てられるようになって、牧場や養豚場はその臭いで排斥され転業して行きました。中身の濃い牛乳は無くなり、母がよく買いに行っていた肉屋さんは、普通の味の肉屋さんに代わってしまいました。

現在では旧浦和市街の鹿島台から西に広がる広大な水田地帯だった土合村や大久保村は、埼京線も開通した事もあり荒川近辺を除いて、住宅が密集し浦和市の人口増に大いに貢献しました。

食べ物屋さんを想い出して書いていましたが、当時浦和の街で特筆すべきは、この小さな街に本格的な画材屋さんが2店あったことです。当然本格的な画材屋さんですから学校教材の水彩絵の具の品ぞろえなどは皆無でした。関東大震災の後東京の被災者のために、浦和と田園調布が都市計画の下受け皿になりました。浦和にはなぜか理由は分かりませんが、画家と陸軍軍人の家庭が移住してきました。私の小学校のクラスメイトに父親が陸軍中佐のの女の子がいました。
作家と画家は群れるのでしょうか?画家たちの子弟は浦和中学に多く進み、後に画壇に日展審査員の高田誠を頂点とする浦高画壇が形成されました。こういう風土だから本格的な画材屋さんが2店続いているのでしょう。画像の店は子供の頃から存在し、20代の頃油絵をやろうとホルベイン一式を購入した懐かしい店で、近年も続いています。

私の小学校と地続きの鹿島台台地の下に別所沼があります。この沼は底なし沼と言われ、嵐の時は不気味な沼に変身します。中学2年の時仲間と2人で台風の時、ボートを繰り出して揺れる湖面で度胸試しを行った記憶がありました。

この沼の岸の台地に画家たちがアトリエを構え、盛んにこの沼を描きました。詩人の神保光太郎は湖畔の会を結成し同人誌を出していました。別所沼を沼と言わず湖畔と称した詩人の想像力には敬意を果たしていました。

戦前この湖畔の会の詩人立原道造は湖畔に週末の別荘ヒヤシンスハウスを建てて湖畔で詩作に耽りました。浦和の人たちは立原道造が真剣にヒヤシンスハウスと名付けたこの掘っ立て小屋をみても誰も笑いません。
浦和の街には別所沼を湖に例え雄大な西欧絵画を描く画家たちや、沼を湖畔に見立てて詩作に耽る美学の持ち主たちをリスペクトする即物的でない文化の深さがありました。
逆に浦和の住民は余りにも即物的なものは、好みませんでした。

見立てと言えば宮沢賢治が北上川に見る風景はイギリス海岸やフランス海岸など全て見立ての景観でした。

旅してさまざまな公園と出会います。私は子供の頃から親しんだこの別所沼公園には全国さまざまな公園と比べても決して負けないなという誇りを持っています。
公園はハードが二分の1、そこの公園で憩う人々の姿二分の1と想っています。規模が大きくてもハードが優れていても決して優れているとは言えず、決め手は公園で憩う住民の人々の雰囲気と年季です。
人は笑うかもしれませんが、別所沼公園は都内の古典的な石神井公園や井之頭公園には負けていません。別所沼公園は巨大な城址公園には規模と歴史では負けますが、平凡な都市空間の中の公園としてはNO1と想っています。同じく好きなのは函館の五稜郭公園と函館公園です。五稜郭公園は観光公園ですが、市民の姿を眼に追って行ったら市民に親しまれた優れた公園であることが解ります。

さいたま市役所です。旧浦和市庁舎が合併して政令指定都市さいたま市の市庁舎になりました。埼玉県庁と旧浦和市庁舎は地方自治体が箱もの建設に猛進する中で、補修で耐震工事だけを行っただけで、本庁はそのままで区役所を充実してきました。その姿勢は箱もので見栄を張る他の自治体と反する姿に旧浦和市民は支持していましたが、現在さいたま新市庁舎の建設が推進され、県庁も移転や新庁舎の計画が進んでいます。文化都市さいたま市を標榜しながら、たの県庁所在地に比べてもロクな文化施設も無いさいたま市が、市庁舎建設に頭が向いているのはとても残念です。


話が飛んでしまいました。お店で、忘れてならないのは燃料屋さんです。現在多くの燃料屋さんや荒物屋さんはプロパンの供給店に代わりました。
食べ物と共に私の小学校時代から身の回りに家庭の燃料革命が進行して行きました。

浦和は都市ガスの供給が十分でないので、私の小学校時代ご飯とお風呂は薪と石炭を使用、後は一年中七輪で練炭を使い冬は炬燵も加わりました。中学時代になると薪や石炭や練炭はプロパン、石油ストーブ、電気ストーブなど燃料革命が起きましたが、小学生時代の記憶では毎日薪割りが私の仕事でした。それと私の毎日の仕事は鰹節けずりでした。

父は良く行っていました。石炭で炊いた風呂に入ると湯がチリチリすると。薪で焚いたご飯はおいしかったことは私でも分かりました。おいしいご飯はあまりおかずを必要としません。

埼玉県庁舎です。昭和23年の大火で全焼しましたが、耐震工事だけで今でも同じ庁舎です。多分建て替えの時期の限界近くまで来ているのでしょう。


旅をしていると、水がおいしい地域は醤油や味噌、酒などの醸造が盛んです。若い時は全く気が付かない感覚でした。
火山の伏流水とは程遠いですが、幸い関東ローム層のおいしい地下水で育ったため、味覚の基本は自然に身に着きました。

水は全ての食物と料理の基本となります。また別な機会に触れようと想いますが、おいしいお米づくりは、おいしい水が基本で、炊き上げる時もおいしい水が大きな役割を果たします。これは昔初めてキャンプに行った時良く解りました。更に味噌や味噌汁や、お茶も、おかずの肉や魚介類、そして野菜、果物、更に牛乳までも、加工食品はともかく、生のおいしい食品は、全て水が不味かったら不味くなるし、水がおいしかったら大体はおいしくなると想います。

私はグルメでは無く、味覚に鋭敏で無い割りには、不味いものが端的に判るのは、恐らく子供時代、味覚の基本であるおいしい水で育ったからだと想っています。これは何の根拠もありませんが。その意味で不味い水で育った家内や息子や娘は気の毒です。

くどくど横道にそれましたが,要は子供の時、野菜が嫌いで無かったのに、大人になって野菜嫌いになった主な原因は、今の野菜が不味くなったからだと想っています。

子供の頃井戸端で食べた、冷えたキュウリや瓜、スイカ、ほっぺが落ちそうな完熟した大きなトマトなど、それぞれコクがあったことを憶えています。しかし、りんごや梨、桃、柿、ぶどうは、今の方が断然おいしいです。

野菜が不味くなった原因はいろいろ考えられますが、今まで述べたように昔の土壤の方が、おいしい野菜ができたという事でしょう。子供の頃の野菜は、何百年続いてきた完全な有機の自然の循環システムで作られ、浦和で作られ市内で消費される地産地消でした。しかし、今の野菜は形も良く収量も多く産地も様々です。ですが、昔の方がおいしかったのは単なるノスタルジアでなく事実であり、同年配の知人の多くも同じ意見です。

今の状況は判りませんが、昔、何度か行ったアメリカのホテルで食べた野菜サラダの中身が、メロンやスイカの形は違っていても全て味が同じでドレッシングによって味付けている姿に驚き、旬に関係なく季節を問わず年に数回生産する近代農業は、こうなってしまうのかと愕然としたことがありました。
現代の我が国もこれに近づいているようでしたが、果物に対する消費者や生産者、或いは流通業の意識が高く、その流れは無くなったように想います。糖度の研究が盛んなのか、近年の産地の果物は、昔に比べてはるかにおいしく変わっています。野菜もそうなったら良いと想います。

浦和の街の画像は18年春別所沼畔のレストランで行われたクラス会の途上、浦和駅から会場まで昔懐かしい施設を歩きながら撮影したものです。

これは埼玉会館の側面で、交通量の少ない市道に面してその横に県立図書館があり、さらにその横に浦和の名刹玉蔵院があります。埼玉県庁はこの埼玉会館の西側にあり、
別所沼は更に長い距離を西に歩きます。この辺りが県都浦和の中枢の文化地帯ですが、美術館、博物館が無く、県立図書館は無くなり、他県に比べると埼玉県とさいたま市の文化施設はかなり貧弱です。文化施設は東京に行けばいくらでもあるという発想でしょう。まさに城下町でなく宿場町の発想です。

埼玉会館は世界遺産となった国立西洋美術館の設計者ル・コルビュジエの一番弟子前川國男の作品で昭和38年建設された重厚なホールで好きな建築です。初代の埼玉会館は学校で子供の時から何かと利用し懐かしいホールでした。現在の前川國男のホールは子供たちと良くコンサートに行った懐かしいホールです。

子供時代の食べ物の話が、横道にそれてしまいました。

次回は再度火山の湧き水と土壌と農作物について続ける予定です。