白梅の開花までもう少し(38豪雪の想い出)
6時をかなり回らないと明るくならならい一年中で一番寒くて暗い季節が、もうすぐ終わろうとしています。
正月には痛みで1歩も動けなかった椎間板ヘルニアも半月前から痛みが遠のいたので、今思い切らないと今までの習慣が永遠に途切れてしまう気がして、思い切って早朝のウォーキングを再開しました。
朝6時過ぎに家を出ますが、さすが立春を過ぎると日の出が早くなりヘッドライトは必要なくなりました。
以前雪山で使用していたノースのヌプシダウンとモンベルの中綿パンツ、厚手の毛糸手袋と防寒帽を身に着け、ミズノのプレサーモ下着で固めれば、上下3枚で外に飛び出すことができます。さすが積雪期用のウエアーは防寒機能が優れ80を超えた私でも夜明けのウォーキングが苦になりません。早朝のウォーキングを中断していた時、洋服タンスを開けると真っ先にヌプシダウンが目に入りました。もしこのまま早朝のウォーキングを止めたら、永久にダルマの袖を通すことは無くなり、老骨を鞭打って登った雪山の記憶も消えてしまうような気がしていました。
辺りが明るくなって見沼田んぼの遠くに目を転じると、うっすらとピンク色がそこかしこに見受けられるようになりました。大寒の寒さで気が付きませんでしたが、いよいよ梅の季節が近づいたのかなと想いました。
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昨日気になって朝食後暖かくなって梅を見に行きました。西高東低の気圧配置の北風の中、早咲きの梅が咲き始めました。
豪雪のニュースを見ていると、学生時代遭遇した38豪雪を想い出します。
死者150人を出した平成18年(2006年)豪雪以来、雪が少なくなり温暖化が進んだのかなと想っていたら、2月の第2週、全国的に強烈な寒波が訪れ九州一円や四国土佐まで雪に覆われ、比較的積雪量が多くない北海道全域も稀に見る降雪に襲われました。この間日本全国で雪マークのない地域は関東だけでした。
我々は若い時は好きで行っているため、北アルプスの3千mでの1晩で1,5mの降雪は仕方がないですが、TVの報道を見ていると街や村の人々の日常の暮らしの場に、突然北アルプスの3千mの異常な気象が現れ、一晩で胸までの降雪に見舞われることは極めて理不尽な気がしてきます。
温暖化による異常気象も、とうとう北アルプスの3千mの気象が麓にまで押し寄せて来たということでしょうか?
連日の豪雪のニュースを見ると、学生時代に遭遇した伝説の38豪雪の如何ともしがたい恐ろしさを想い出してしまいました。
38豪雪とは昭和38年の死者231名を出した豪雪の事で、平成18年豪雪と共に、過去の2大豪雪として我が国の豪雪に記録されています。
この38豪雪に襲われた北アルプス薬師岳での冬山では愛知大学山岳部(現愛知学院大学)13人、北海道大雪山で北海道学芸大学山岳部10人が亡くなりました。
特に古い岳人の間では38豪雪は、薬師岳での愛知大学山岳部の全員遭難事件と共に記憶されています。
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太郎兵衛平小屋オーナー五十嶋氏と共に
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薬師岳登山口折立の愛知大学(現愛知学院大学)山岳部遭難慰霊碑
極地法で薬師岳登頂を目指していた愛知大山岳部全員の13人は下山予定になっても下山せず、全員遭難の恐れが生じたため、大学山岳部関係、警察関係、地元関係者の計90人の大捜索隊が編成され捜索に入りました。
この遭難事件は当時一大センセーションを巻き起こし連日、新聞の一面で報道されていました。
薬師岳は北アルプス屈指の豪雪地帯でしかも連日の悪天の降雪のため、捜索隊は愛知大学が薬師岳登頂の基地とした稜線の太郎兵衛平小屋までたどり着けず、1月22日になってようやく朝日新聞のヘリが天候の合間を縫って決死の飛行で小屋に辿り着き、小屋には生存者が発見できなかったため、薬師岳山中で全員遭難というスクープとなりました。
スクープを行った朝日の記者は登山家の藤木九三氏の息子の山岳部出身の藤木高嶺氏で、その後朝日記者だった本多勝一氏と並んでイヌイットやニューギニア、ベトナム戦争など取材で活躍したことは遠い記憶にあります。
この時麓の有峰から捜索隊の一員として太郎兵衛平小屋を目指した若き日の太郎兵衛平小屋オーナーの五十嶋氏は、今でも事あるごとにこの38豪雪がいかに酷かった語っています。私も太郎兵衛平小屋でお聴きしたことがありました。
私たちが遭遇した38豪雪
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20日の間、雪で格闘した世界からようやく解放される下山の朝、遠見尾根法政小屋にて
私たちは、この38豪雪時の冬山は、南アルプスの塩見岳でしたが、南アルプスは西高東低の気圧配置で悪天にならない地域のため、何日か-25℃の異様な寒気を体験しただけで無事山行を終了しましたが、帰宅してから連日の薬師岳遭難の報道に接しました。
特に太郎兵衛平や薬師岳、下山口の有峰は前年の夏合宿の北アルプス横断山行で訪れたばかりなので、彼らが黒部川に迷い込んだ尾根などの地形も把握していたため、連日食い入るように報道に接しました。
そして3月8日から予備日を入れて21日間の計画で遠見尾根から鹿島槍、五竜、唐松の春山合宿を行うために入山しましたが、3月16日に極めて遅い春1番が到来し山は荒れるに荒れた後、3月19日一日だけの晴でアタック終了後、翌日から太平洋、日本海同時に強烈な二つ玉低気圧が到来し、今まで未経験の暴風雪に遭遇してしまったのです。
春の気象は大陸の寒気を伴う高気圧が張り出している時は西高東低の気圧配置で日本海側は雪になりますが、やがて大陸の高気圧が北上する一瞬をとらえて強力な低気圧が発生しこれが日本海に入った時、春一番になります。この春一番が吹き終わると強烈な西高東低の気圧配置が続きますが、やがて真冬のように固定しなくなり、日本列島には小さな高気圧と低気圧が交互に現われ三寒四温と言われる春の気候になります。近年は春一番は2月中に吹くことが多くなりましたが、この38豪雪の年はお彼岸近くまで春一番は吹かなかったのです。
この21日間の内、麓では薄曇りの日もあったかもしれませんが、標高1500m以上は連日風雪か強い地吹雪で、稜線で晴れた日はたった1日でした。このたった1日の晴天を利用して下のキャンプから登って来た新人を交えて五竜、そして上級生だけで唐松は往復しましたが、鹿島槍はキレットで時間切れになってしまいました。当初の計画ではキレットにアタッキキャンプを設ける予定でしたが、連日の風雪で稜線行動が出来ず白岳からの往復に切り替えたのです。
気象係の私は、前日夜10時の魚業気象から天気図を作成しましたが、翌日も西高東低の気圧配置だったためサブリーダーと明日も風雪だなと予測し、翌朝旭日が当たるまで寝過ごしてしまい鹿島槍アタック隊は出発が遅れてしまったのです。翌朝小さな高気圧が日本海に発生することは予測できなかったのです。
そして予期せぬアクシデントは3月20日夜に突然やってきました。
たった1日の晴天でアタックを行った翌日、朝から強烈な2つ玉低気圧に襲われました。その時白岳下に設営していた天幕は2張で中型に6人小型に3人が入りました。3年生5人我々2年生は4人で、新人は下のキャンプに下ったため全員上級生だけでした。
暴風雪の中2時間おきに除雪しないと天幕が潰されるため朝から交代で除雪しました。夕方から夜になると防風雪が更に強まり、その晩は寝袋に入ることは危険を感じたので、全員靴とオーバーシューズを履き何時飛び出しても良いように完全装備で待機し交代で除雪を行いました。
雪に覆われていなければ天幕が飛ばされそうな暴風雪の中、夕食も簡単に済ませ夜9時になったとき、2人が除雪をしようと天幕の入り口を開けようとした瞬間、落ちるはずの無い白岳の斜面が崩れそれが雪崩となり、強い衝撃を受けいきなり横倒しになって天幕が潰されてしまいました。
除雪のため天幕の入り口を開けようとしていた仲間2人は私の足元でうずくまる形で倒されましたが、私は胸を圧する雪の重みを支えながら必死になって足元の空間を保ちました。私の横にいた3年生2人の内1人はナイフを所持しており、僅かに雪面に出ていた天幕を切り裂き脱出しました。そして私が雪の重みを支えている間に、足元に倒れていた仲間も1人づつ脱出しましたが、最後に脱出した私が見たものは、風雪の中、隣に張った天幕は影も形も見えない光景でした。
スコップは雪で埋没してしまったので、ただちに手袋だけで検討をつけて雪を穴状に掘り出しました。雪崩で恐ろしいのは爆風ですぐに雪面が固まってしまうことです。皆で交互に無我夢中で掘って行ったら、やがて穴の底から懐中電灯の鈍い光が見えました。
ここだとばかり、更に穴を大きくして掘ったら、穴の底から仲間の手が見えたので皆で引き揚げました。こうして隣の天幕から3人が無事脱出したのです。
隣の小天幕は食料の保管用天幕でダンボールに入れた食料が積まれており、雪崩で横倒しになってもダンボール箱の高さの僅かな空間が確保されました。手が動かせるためナイフで天幕を切り、コッフェルの蓋で片手で懸命に雪を掻き、懐中電灯を手の先に延ばしていたら、いずれ探してくれると信じていたそうです。
我々が掘った場所も偶然で、懐中電灯を翳した穴も偶然でした。まさに天祐でした。
その夜は五竜岳の冬季小屋に駆け込みました。風雪の中アイゼンもピッケル無しだったので必死でした。その晩は雪が吹き込み風雪だけは避けられる冬季小屋で着の身着のままで肩を寄せ合って夜明けを待ちました。その夜の寒さと夜の長さが今でも記憶に残っています。冬季小屋とは、当時北アルプスの稜線の主な山小屋は、冬の登山者避難用に簡易な冬季小屋を設け、本体の山小屋の心無い登山者からの損傷を防いでいました。
翌朝、食料もコンロも何もないので終日雪の中から装備や食料を掘り上げましたが、もし五竜冬季小屋が無かったら、どうなっていたか分かりません。
当時、毎年夏の後半白馬山荘で山岳気象の研究と気象予報を行っていたため白馬山荘グループには懇意にさせて頂いており、後刻支配人宅に五竜冬季小屋使用のお礼を申し上げに行きました。余談ですが10年前白馬山荘を訪れた際、気象協会の天気予報コーナーが常設されており、学生時代私の代まで数代にわたって行われていた夏の後半の山荘での気象予報の試みは、その走りとなっていたことに気が付きました。
私はこの山行で気象を担当していたため、今でもこの合宿の報告書と連日のラジオの短波放送の漁業気象から作成した天気図を捨てずにファイルしています。
このアクシデントに遭遇した9人の内、5人が今や鬼籍に入ってしまいました。一早く逝った仲間たちは、毎年春一番が吹くとあの世でこの夜の出来事を想い出していることでしょう。
丁度同じ時期仲間のいた早大岳友会も、後立山の対岸の北方稜線の赤谷尾根から劔へ極地法で山行を行っていましたが、後で聞くと、風雪で稜線で行動が出来ず1週間の停滞を2回繰り返したそうです。
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下山になると皮肉なことに晴れ間が出て来ました。遠く白馬三山が望まれます。幸いこの時の遠見尾根、五竜、唐松、鹿島槍は他のパーティは見かけませんでした。
38豪雪に凝りて、我々同期が3年となった翌年の春山は、西高東低の気圧配置で晴れる南アルプスに対象を転じ、3パーティのサポート隊を入れて、3人を中核とした縦走隊は27日間を要して光岳から甲斐駒ヶ岳までの積雪期完全縦走に成功しました。これも38豪雪の中、北アルプスで21日間も雪と戦ってきた経験が役立ったのでしょう。天気さえ味方になったら連日の稜線踏破も可能になります。
こうなると南アルプスには登る山が無くなり、我々が4年の冬山は再び北アルプスに目標を転じ、北部に比べると比較的天候が安定した北アルプス南部の横尾尾根から槍ヶ岳、春山は中崎尾根から槍ヶ岳、そして次の冬山は燕岳から槍ヶ岳縦走、横尾尾根下降、そして次の春山は抜戸岳南尾根から槍ヶ岳、北穂ピストンと槍周辺に転じましたが、再び後立山連峰が対象になったのは我々世代から5代下からでした。
この山行の反省会後、仲間内、特にリーダークラスを務めた直ぐ上の代の人を交えて、貴重な冬天幕2張りを失ったこのアクシデントについて話すことはありませんでした。
38豪雪とは後年気象庁が名づけたもので、当時私たちは、この年の雪の季節が稀に見る豪雪の年とは知りませんし、反省会で結論が出たように雪崩で天幕が潰されたのは私たちの幕営のミスだと想っていました。
当時、今では天気予報で一般的な気象用語となっている「春一番」「黄砂」は専門の気象用語でした。「春一番」は「春の嵐」と呼ばれ一般的に春吹く風を表しており、「春一番」の名が定着したのはキャンディーズのヒット曲「春一番」からでした。この歌は、当時春を告げる名歌だと想っていましたが、この唄を聞く時いつも、可愛らしいキャンディーズの瑞々しい歌詞とはうらはらに、北アルプスの稜線で連日の暴風雪の幕開けとなった「春一番」の巨大な日本海低気圧と連続してやってきた巨大な二つ玉低気圧の恐怖を想い出します。天幕内で漁業気象を聞きながら連日天気図を作成していたので、天気図の図形と実際の暴風雪が重なってイメージづけられているからでしょうか?
想像ですが多分大型漁船の古い漁業長の人たちも「春一番」はほのかなものでは無かったはずです。
15年前の五竜小屋周辺の現場
アクシデントに遭遇した五竜白岳周辺や小屋には、その後何故か行く気にはなれませんでした。
この時から47年後の2010年の秋の連休、その時のメンバーだった同期の斎藤、杉村兄と唐松、五竜の山行に出かけ五竜小屋に宿泊し、当時を思い出し天幕が潰された現場を確認しました。
しかし当時小さな五竜小屋は、今では堂々たる2階建てに建て替えられ、敷地全体も当時の5倍の大きさに変わっていたため、白岳下の狭い場所なのに当時の幕営位置は特定できませんでした。
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白岳直下に立つ五竜山荘
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当時と比べて5倍の大きさになった五竜山荘
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左端の平地に白岳の斜面から離して幕営した。雪崩は白岳の斜面から発生しましたが、38豪雪故にあり得ない事態が起こったと想っています。
白梅の開花
白梅の開花のブログが、豪雪の報道に触れる内に思わぬ方向に転じ、またまた若き日の豪雪の季節の中でのアクシデントまで広がってしまいました。
限られた未来しかない年寄りのブログはいつもこうなってしまいます。
歳を経ると桜より桃、桃より梅、紅梅より白梅が好きになります。
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私の大好きな白梅の緑顎梅はまだ蕾が固く、今月下旬にならないと開花しません。
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この梅は白梅ですが顎は赤です。
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見慣れない水鳥の集団です。どこから来たのかしら?
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白梅のしだれ梅です。これは以前の大宮第2公園にある1本だけのしだれ梅です。3月上旬の画像です。
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昨年3月上旬に訪れた浜松奥山公園の白梅のしだれ梅です。