薔薇のエッセイ33、人間の生命を維持するための動・植物・魚介類について。
またまた阿蘇のカルデラに戻ります。
阿蘇のカルデラは、私の薔薇のエッセイの中に薔薇とは直接繋がりの無い火山や農作物、海のミネラルなど、私自身にとって何の違和感もなく触れるきっかけを与えてくれました。
そして阿蘇のおいしいレタスと出会ってから、そのおいしさの秘密を探るために火山の土壌や伏流水について各地を旅しながら考えてきました。
阿蘇の旅で、ガーデニングでの土壌づくりの経験と趣味での河川交通の歴史知識が、火山灰地や伏流水、河川が海に流れ出る一連の過程で、山麓の人々の営みの中に悠久の歴史を感じることができました。火山の大自然から発する伏流水の豊かな川の流れは沿岸に、世界有数の豊穣な海をもつくり、おいしい魚介類を産みだしました。
阿蘇の旅から13年、以来私の趣味に新たに歴史紀行が加わり、さまざまな火山、高原、農地、温泉、大河、港町、神社、仏閣、城郭と城下町、戦跡を楽しんで来ました。
歴史の楽しみは人文科学だけでなく社会科学の視点に立って眺めると倍増することも知りました。歴史は農業、漁業、林業、宗教、交通、産業、流通、など産業社会まで目を広げると旅が一層楽しくなるのです。
もし私がガーデニングの経験が無かったら、おいしいレタスとトマトを味わっても、阿蘇の土壌が団粒構造で水はけ、水持ちが良く根張りが良く健やかに生育することまで考えが及ばなかった筈です。
また若い時、登山での火山の伏流水を味わっていなかったら、火山に降った雨水が鉱物豊富なマグマが冷えた溶岩の間を何十年も、ろ過されて流れるためにおいしい水に変わることも興味が湧かなかった筈です。
更に火山の山麓は高地で朝晩の寒暖差が激しいため味が引き締まり、しかも高山植物のようにミストによって水分が補給され、おいしい食物ができる条件が備わっているとは想像しなかったはずでした。
また火山灰地だったら全て均一においしい作物ができる訳でなく、個々の生産者の努力によることは薔薇栽培の経験からは自明の理で、作物栽培がそう単純でないことも知っていました。
おいしさの感覚は個人的なもので数値化できるものではなく、農業の専門家でもない私が火山がおいしい作物を育むといった仮説の立てようがありませんが、それでも地球の大地に生きる私たちにとって、火山に何か地球内部の秘密がありそうに感じてきました。
再び阿蘇のカルデラ(人と自然との共生モデル)

ミネラルは英語で鉱物を意味しますが、食品のミネラルについて良く判らなかったため調べてみました。
近年、ミネラルは隠れたブームらしくネットで検索すると多くの記事で溢れています。しかし13年前当時ネットではそれほど多くなく、その中で厚労省のデータが公開されていました。
それによると人間の体内には10数種の無くてはならない必須ミネラルがあり、これらは自身で作り出すことはできず、食品からバランス良く摂取することが必要だとあり、それぞれ必須ミネラルを摂取可能なさまざまな食品が紹介されていました。
そこで、火山灰土(黒ボク土)は、地中のマグマの噴火で生じたもので、地球本体の鉱物をたくさん含みその土壌でつくられた作物は、必須ミネラル豊富なおいしい作物になるのでは? と素人考えを思いつきました。
実際に調べてみると、火山灰地だからといってその土壌で作られる作物には豊富なミネラルが備わっていると、そう単純には言えないことも分かりました。
実際に我が家の家庭菜園は火山灰地の黒ボク土で有機栽培を行っていますが、出来た作物はまあまあおいしいものの、味では阿蘇のレタスやトマトに比べると遥かに劣り、仮説にもなりません。
この辺りになると土壌の専門家でないため科学的な根拠は無きに等しくなります。
ということで阿蘇のレタスとトマトの美味しさの理由は、ミネラルと繋がりません。
ただ科学的には立証できないけれど、必須ミネラルは人間の生存に必要なため、人間は無意識に体が欲しがるのではと想っています。
近年スポーツ科学や栄養学は180°考え方が変わった。

北アルプス笠ヶ岳秩父沢にて。昭和天皇の弟君秩父宮が笠ヶ岳登山の際、名付けられました。この沢はやがて神通川となり富山湾に注ぎます。
80年も生きていると、スポーツ医学や栄養学で考え方が、途中180度変わったことを記憶しています。後年山仲間と登山中いつもその話が出ました。
1つは登山における水分の摂取です。
我々学生時代は昔から行動中は水を多量に飲むとバテルからと言われ続け、休憩中でも余りがぶ飲みしないように心がけていたし、下級生にもそう指導していました。当時我々が携行する水筒は2㍑のポリタン1本だけで、真夏の北アの縦走では40㌔以上の荷を背負って8時間行動しても、次の天場までポリタンが空になることはありませんでした。その代わり天場の水場に付くと、馬みたいに一度に2㍑は飲んだと想います。
現在のスポーツ科学では水分はこまめに摂取しないといけないという事で、私は真夏の北アの縦走ではザックの背に4㍑のハイドレーションバックを背負って、歩きながら給水し、食事用は別途ペッボトルも1,2本携行していました。私は足に釣癖が付いていたので特に水分の補給は心がけました。最初は2㍑のハイドレーションバックでしたが、足りずに大型に変更したのです。年寄りになると水を良く飲むようになりましたが、これも体力の衰えを水分の摂取で補っている感じがしています。
栄養学でも現在とは逆のことを言っていました。
30代の時週刊誌には栄養士がビジネスマンの1週間の昼食を追い論評を加えていました。多くのビジネスマンの昼食は蕎麦やラーメンが多く、栄養士は必ずこれでは栄養が足りないから、定食や丼物のしっかりとした昼食を薦めていました。
今は飽食の時代、完全に逆です。
飽食の時代は、本当に飲みたい食べたいという飢餓の感覚でなく、習慣で摂取していますが、登山では原始に近い感覚になります。
登山は人間の体を正直にする。

私たちは喉が渇い時の飲み物は美味しいし、お腹が空いたら食べ物は美味しく感じます。山小屋に着くと私は真っ先にコーラ、皆はビールを飲みます。
山行に必ず持参するのは甘いものや、疲れたときには、梅干しやクエン酸の飴などすっぱいものを持参します。
私たちが水や食物をおいしく感じる感覚の一つに、身体が欲しているものを摂取することが一番でしょう。
登山は短時間でエネルギーの消費が激しいため、主要なエネルギー源となる糖質や脂質、疲労回復のためにビタミンやミネラルの摂取が必要です。
糖質や脂質に富んだ食べ物は必須で、ビタミン豊富な果物もおいしく感じます。
特に汗で急速に体内から外に出てしまうナトリウム(塩分)や水の補給が必須です。山行中飲む水が体中に沁み通るような感覚は、何よりも身体が欲しているからです。
水の代わりにスポーツドリンクを携行しますが、これらはナトリウムやブドウ糖を含んでいます。近年では夏の縦走には経口保水液に変えています。経口保水液はカリウム、マグネシウム、カルシウムを含み、失われたミネラルを含んだ水分を急速に補給してくれます。
登山で疲れた時、甘いものや塩飴や飲み水が体中に沁み通るような感覚になるのは、その時身体が、糖分や水と共に失われたミネラルを欲していたからでしょう。
登山中の水分補給や昼食は、体が欲する生命維持の感覚に近い。

歳を取ってからの登山の水の補給や昼食は、汗によって体外に出て失われた必須ミネラルの急速補給を意味しています。それは生命力の急速充電のような気がします。白馬大雪渓終了地点。
説によって細かな差はありますが、一般的に人間の体は、60%が水分で、タンパク質、脂質がこれに続き、ミネラルは6%と言われています。
分子レベルの構成元素では、96%が酸素、炭素、水素、窒素で占めミネラルは6%です。
ミネラルの内、欠かすことのできない必須元素はナトリウム、マグネシウム、リン、カリウム、カルシウム、クロム、マンガン、鉄、銅、亜鉛、セレン、モリブデン、ヨウ素の13種類でしたが、近年では硫黄、塩素、コバルトが加わり16種類が必須元素とされています。
私たちが生命を維持して行くための5大栄養素の役割は、タンパク質は体そのものを作る主成分で、脂質・糖質は、活動するためのエネルギー原、そしてビタミン、ミネラルは健康・体調管理には欠かせない栄養素となります。
しかしビタミン・ミネラルは体内で自ら作ることはできない元素のため、食べ物からバランス良く摂取が必要です。ミネラルは過剰でも欠乏状態でも良くありません
。
私は食物をおいしいと感じるのは、身体の中の不足気味の必須元素が、満たされた時ではないかと漠然と想像しています。
極めて非科学的な見解ですが、山で疲れた時、甘いものや酸っぱいものを食べたくなるのは、体が欲している感覚と同じと想います。
山では嗜好品を味わいながら楽しもうという感覚でなく、生命維持のために体が欲している状態に近く感じます。
好みを言わなければ食べ物が有り余っている飽食の時代、縦走登山で食べなかったら行動も不可能となる、生命そのものを維持するために体が欲している原始の感覚を体験することはとても貴重でした。
若い時はこんな感覚になりませんが、歳を経ての縦走登山は足を動かしていたら目的地に着くと言う容易なものでなく、常に自分の非力な体を最良な状態を維持するためにコントロールしていないと目的は達成は困難になります。
体が欲する要求に素直に応えて行動する原始の感覚は、お金さえ払えば何でも直ぐ手に入る日常とは、ほんの少しだけ特別なものに感じます。
荷を担ぎ毎晩ねぐらを変える数日の宿泊を伴う縦走登山は、それ自体年寄りには無理を伴う行動のため、普段眠っていた原始の感覚を呼び戻してくれるのです。
縄文人は、小動物の狩猟と魚介類、どんぐりなど栽培植物で生命を維持してきました。
食べ物のおいしさの感覚をもたらす要因についてミネラルの存在も考えましたが袋小路に入りそうなので、生命維持としての食べ物にテーマを変更します。

三内丸山遺跡
石器時代から人間は自ら生存のため動物や魚や植物を採取し生きてきました。これら狩りや調理のため火や石器、土器などを発展させて行きました。しかし狩りだけでは暮らしが安定しないため、やがてドングリなど木の実ができる樹木を植えて毎年実を成らせ、そこから粉を曳いて食料を保存し安定的に定住するために植物の栽培を始めたのです。この縄文時代は約12000年続きました。
三内丸山遺跡を見ると、この時代動物の狩りは大型動物でなく身近にいる兎など小動物が主で、タンパク質摂取は漁労によって行われ、主として植物摂取の割合が高かったようです。
縄文遺跡には貝塚が多く海の魚介類やサケの遡上などタンパク質は魚介類のウエイトが高かったと想われます。
縄文時代は精神の時代でした。短命と乳児の死亡率が高く祈りの時代でした。
日本列島は食材が豊富で土器文化が発達し、鍋にすればあらゆる食材を食べることができました。貝など一年中食べることができますが、縄文人は旬の貝しか食べませんでした。縄文人は旬の食べ物から生のエネルギーを吸収していました。
まとまった場所に集積している貝塚はゴミ捨て場でなく、貝や魚、動物の食べカスの墓場でした。天台本覚思想の「山川草木悉皆成仏」の原型は縄文時代にできました。
現在でも旬の食べ物と鍋文化は縄文時代にその原型ができました。
弥生人は、水稲栽培で生命を維持してきた。

吉野ケ里遺跡
アジアモンスーン地帯の我が国で、畑作の麦類でなく、田に水を溜めて米を生産する水稲栽培を選択したのは、まさに賢明でした。
麦系の畑作を選択したら、初夏から秋までの雑草取りのために、人々は消耗し作物栽培どころでは無かったでしょう。
恐らく狩猟採集の縄文時代の末期、水稲栽培のシステムをもたらしたのは、大陸でも江南沿岸の海洋民族が、人口の少ない未開のフロンティアの我が国土に集団で移住してきました。多分縄文海進が終わって3,000年前の縄文海退期で、川を遡って海が引いた後の内陸の扇状地に、少しの灌漑設備を施して水田を作ったのでしょう。
我が国土は山襞が多く、数多く谷が発生し平野と交差する直前、扇状地が発達します。山襞が多いため谷が多く、水争いはほとんど生じません。映画大いなる西部で水争いで抗争する場面はほとんどなかったでしょう。
アジアモンスーン地帯の日本列島は雑草の繁茂も凄いですが、木材資源は豊富で、なによりも河川と沿岸の魚が豊富でした。
大陸から集団で移住してきたか海洋民たちは、灌漑設備など水稲耕作を集団で行い村が出来て集団の祭りや神への儀式も始まりました。
紀元前400年前には大陸や半島から鉄を導入し一気に生産性が上がりました。
東アジア随一の木材資源大国の我が国で、豊富な砂鉄から鉄を生産するまで、それほど時間はかからず、恐らく紀元前には鉄生産は始まっていたのだと推測します。
鉄器によって水田開発は一挙に拡大しました。
弥生時代には米食、衣織物、など今日の生活文化の基礎が出来上がりました。
地域によって縄文時代と弥生時代は2000年以上も重なりましたが、2000年前には国の形も出来始めました。
吉野ケ里遺跡近くの水田(恐らく約2,500年前から続く水田)
多分、2,500年前から同じ場所で水田があり、以来休みなく米作りが行われて来たのでしょう。
米は連作障害がありません。

奈良・葛城一言主神社下の水田(恐らく約2,000年前からの続く水田)
ヤマト王朝成立以前、鴨葛城氏が奈良盆地に進出した当時から存在すると想われる水田

奈良盆地の溜池を見ていると、奈良盆地の前方後円墳は溜池づくりの側面もあったように感じます。
平泉、衣川安部館近くの水田(恐らく約12、000年前から続く水田)
前9年の役、安部貞任が源義家に滅ぼされるずっと以前から、安部氏の拠点衣川の安部館付近の水田。

水田を見ていると私たち日本人は弥生時代からお米を中心に一汁三菜が基本で、たまには魚や少量の肉を食してきました。
動物は人間と構成元素は100%同じで栄養効率が良いが、我が国では牧畜は発展しなかった。

十勝千年の森
人間が食料としてきた動物の5大栄養素や構成元素、そして必須ミネラルの種類は、私たち人間と全く同じです。
ですから私たち人間は、先史時代から野生の動物を狩りをして、その肉を食べて五大栄養素を補給してきました。現在でも牛や豚、鳥に植物を食べさせて、肉にして五大栄養素を補給しています。
弥生遺跡は海の近くや川に面した場所が多く、タンパク質は家畜より魚介類で摂取してきたように想います。
我が国は大陸と異なって牛や豚など家畜を食料にすることは少なかったようです。宮本常一の著作では、馬や牛は畑を荒らして実を食べてしまう恐れがあるために牧畜は発展しなかったと述べています。理由は分かりません。
現在の日本人は、食事が洋風化され肉食とまで行かないけれど、肉、ベーコン、ハムなどかなり肉食のウエイトが高くなっています。スーパーの店頭でも肉売り場と魚介類売り場とほぼ同じ面積です。
ちなみに米と小麦を同じ面積での収量比較では米は小麦の1,5倍です。
水田は連作障害の心配がなく、また雪が深くなかったら米、小麦の2季作が可能で、同じ農地で倍の生産量になります。埼玉ではうどんの産地の地域は2季作のうどんが名物になっています。
小麦中心の農業のヨーロッパでは小麦が連作障害があるため、3圃農業を行います。農地を夏作物、冬作物、休耕地の3つに分け耕作を行うために、我が国に比べると農家1軒の農地面積は日本の3倍で、これに豚や牛や羊の家畜の放牧場を加えると広大です。
江戸時代の人口は3000万人でしたが、農地もそれに見合うだけ有り完全な自給ができました。
もう一つ我が国で牧畜が発展しなかったため、肉食のデメリットから回避され狭い耕地でも多くの人口を養うことが出来ました。
たとえば牛肉1kgを得るために、餌として穀物7kg必要で、豚1kgには4kgの穀物、鶏肉1kgには3kgの穀物が必要なため、牛肉食を維持するために7倍の耕地が必要とされます。
明治新政府は革命によって江戸幕府を倒し富国強兵路線に進んだため江戸時代の歴史を否定してきました。たとえば江戸時代は年貢の取り立てが厳しくて農民はお米をハレの日しか食べられず普段は粟や稗を食べていたとあります。それは棚田が作れない山の斜面では米は作れないため蕎麦や粟や稗が主食でしたが、平野では通常米が常食だったと想います。
江戸時代松浦武四郎の蝦夷地の探検記を読むと、石狩川沿いのアイヌの集落に住む老婆の記事があります。老婆は犬を4頭飼っていて、秋になるとサケが石狩川を遡上すると犬たちが、自分たちのサケ以外合わせて80匹取れると、それを和人に米と交換し(単位は忘れた)それによって1年分の米が確保できたそうです。
また幕末のロシアゴロブニン艦長の日本幽囚記では、根室から松前の輸送中や松前の幽閉中、漆の食器で毎日米を食したとあります。また護送や警備のサムライたちは、暇さえあると本を読んでいたと記しており、経済的にも文化的にも蝦夷地でさえも高度だった印象がありました。
米は日常的に消費され、驚くことに蝦夷地でもサムライはいつも本を読んでいたという記述です。それだけ本が流通していたということでしょうか。
恐らく明治になってからの政治犯を道路建設に使用した樺戸集冶監など明治の負の歴史の方が目立ちます。
今でも歴史書では明治新政府時代の江戸時代の米作の否定的な歴史の流れが尾を引き、飢饉などを挙げていますが、
当時は藩のバッファー装置があった半面、明治になってからの国民直接税の時代になった冷害時には江戸時代より悲惨だったはずです。
また近年は過剰な江戸時代礼賛ブームもあり、これまた困ったものです。
いずれにしても我が国が弥生時代水稲耕作を選択したことは大正解です。
栽培植物は人間が面倒を見ないと生命維持できない。

津軽リンゴ農家
現在私たちが農産物として植物を食べて栄養を補給していますが、植物の構成元素はミネラルを含む多量元素と微量元素から成り立っていてます。
人間と動物は、動植物を摂取して栄養素を補給しますが、植物は身動きできないため人間が栄養素を肥料として供給しなければなりません。考えてみれば人間や動物と比べると植物は可哀そうな存在です。
こう考えると氷河時代から、種子撒きや栄養繁殖など人の手も借りずに肥料も無く、過酷な3千mで毎夏咲き続ける高山植物の存在は奇跡というべきでしょう。
必須多量元素は9種あり炭素、水素、酸素、窒素、そしてリン、カリウム、カルシウム、マグネシウム、硫黄で、炭素、水素、酸素は、日常光合成によって二酸化炭素がつくられ、酸素は水と共に根からが吸収されますが、窒素、リン、カリウムの3大要素は、肥料の3要素として施肥の中心になります。カルシウム、マグネシウム、硫黄も施肥に重要です。
必須微量元素8種あり、ホウ素、塩素、マンガン、鉄、ニッケル、銅、亜鉛、モリブデンです。
人間と植物の構成元素の相違は炭素、酸素、水素、窒素は共通で、植物にあるものの人間には無い元素、亜鉛、モリブデン、銅、塩素、ニッケル、ホウ素で、逆に人間にはあるが植物には無い元素は、カルシウム、マグネシウム、硫黄、鉄、マンガンです。
これらの必須元素を供給しないと健やかな成長が望めません。畑の中和には以前は消石灰を使用していましたが、近年では炭化マグネシウムや炭化カルシウムの入った苦土石灰を使用しています。
魚介類の栄養素は?

相馬漁港
私たちが牛肉や豚肉、鶏肉など動物の肉やお米やパンや野菜や果物など植物から栄養素を摂取していますが。更に多く摂取する生き物で魚が挙げられますが、魚の栄養素やミネラルの構成はどうなっているのでしょうか?
調べると魚は栄養素として魚肉にはタンパク質と脂肪、ビタミンを多く含んでおり、コラーゲンや骨にリン酸カルシウムを多く含んでいますが、海に生息しているからといってミネラルは多く含んでいるわけではないようです。しかしズワイガニやミネラル豊富と言われる生牡蠣などを考えると、公式通リには中々受け取れません。
私たちの遠い故郷の記憶、海

北茨城野口雨情生家近くの海岸
人間と動物の構成元素はほぼ同じ、植物は8割程度が同じということは、原始生命が誕生し、それぞれ進化を遂げて人間や動物、植物に変わってきたことを物語っています。
原始生命の誕生には2つの説があります。
地球は44億年前海が誕生し40億年前海底の熱水噴出孔から微生物が誕生したとの説です。
もう一つはこれでは誕生のパワー足りないので隕石が地球の海上に衝突し隕石の鉄から有機物のアミノ酸が生じて微生物が誕生した説です。ハヤブサの目的の一つに隕石からの生命の原材料の採取もあります。
いずれにしても鉱物すなわちミネラルから微生物すなわち原始生命が誕生し、人間や動物、植物に進化してきました。私たちの故郷は地球のマグマと密接に関連し、また成り立ちは海と関連し私たちの体は60%が水分で、野菜などは90%が水分です。
私たちの成り立ちと生命を維持するために、私たちの根源を構成する水抜きでは考えられません。
私たちが美しい海にミネラル豊富なという形容詞を付けていることは、海に囲まれた日本列島に住む私たちのDNAの遠い記憶から来ているのかも知れません。
100%有機農法

見沼田んぼ
今まで一連、火山灰地や伏流水がもたらす農作物、畜産物、魚介類に触れてきましたが、私たちがミネラルに限らず、食物を食べて栄養を採りたいと想った時、自然に身体が欲するものが、おいしく感じるからではないかと考えます。私が大人になって野菜嫌いになった原因は、子供の頃に比べると野菜がまずくなった或いは味が薄くなったと想っています。
私が子供時代が終わった昭和30年代中ごろから回りの畑から「肥溜め」の臭いがなくなりました。
多分この頃が弥生時代から続いた肥溜めによる有機農法が終焉し近代的な化学肥料や化学薬品を使用した近代農業への転換期だったと想います。
40代の頃、山形の湯田川温泉でマクワウリと出会い子供の時以来の忘れた味が蘇りました。その当時私は十分野菜嫌いになっていましたが、子供の時食べた味はしっかりと記憶していました。
下肥の栄養素は、窒素、リン酸、カリ、食塩、石灰、マグネシウムです。江戸時代までは家畜も含む下肥、下草堆肥、草木灰、魚粉、油粕などが主な肥料でした。
現在の作物と子供の頃の作物の最も大きな違いは、人糞主体の有機農法から化学肥料主体の農法に変わったことです。
しかしおいしかったからと言って、今さら人糞肥料に到底戻れる訳もありません。
お爺さんは山に芝狩りに

信州旧東山道保福寺峠山麓
昔話の始まりは、「昔、あるところにお爺さんとお婆さんがいました。お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは河に洗濯にいきました。」とあります。
多分、お爺さんの芝刈りは、堆肥にするため初夏や秋に里山に下草刈りに行き、刈り取った下草は刈り入れの終わった水田に敷いたり、初夏には新しく茂って来た下草を畑に敷いたのだと想います。
肥溜めの下肥は、直接畑の作物の株元に撒くこともあるだろうし、堆肥目的の下草の上に下肥を撒いて発酵を促したのでは想います。
人間の体内のミネラルを調べていた時、ふと思いついたのは、人間の下肥にはミネラルが相当含んでいるかも知れず、下肥を撒くことは肥料要素や発酵素材の役割もありますが、水田や畑に必須ミネラルを供給していたのではないかとふと想いました。
肥料として下肥、油粕、草木灰、魚粉など使われてきましたが、下肥は人間の排泄物のため必須ミネラルを十分含んでいたのかも知れず、もしかしたらこれがおいしさの源ではなかったのかなと想います。
下肥は肥料成分など全く知らない弥生時代から経験的に、下草の発酵材料と共に、窒素、リン酸、カリと共にマグネシウムなど必須ミネラルを土壌に供給し、味の良い作物が作られて来たのかも知れません。
牛糞はミネラルに富んでいる?

湯ノ丸高原、近年では牛を放牧している
私たちが体内で自身自ら作ることのできず、食品からバランス良く摂取しなければならない13種の必須ミネラル。私たちはこの13種の必須ミネラルを無意識に欲しながら、もしかしたらこれらを豊富に含んだ食品を食べた時においしいと感じることも、あるのかも知れません。
魚介類で言えばミネラルを圧倒的に備えた生牡蠣や旬のサンマやカツオ、川を遡るサケやアユ、200mの地底を這うズワイガニ、そして近海イカなど。縄文人たちは、貝は一年中採れるのに旬のものしか食べませんでした。旬のものには瑞々しい生命が宿っており、その生にあやかって生き物と共生する考え方です。旬なものには必須ミネラルが豊富だったのかも知れません。
動物で言えば、狭い空間で人工的な飼料で飼育されている鶏の卵は安価ですが、おいしくないのはミネラルが不足しているかも知れません。
見沼田んぼに放し飼いの地鶏の養鶏業者があり、遠方から卵を買いに来る人も多く人気がありましたが、今では廃業してしまいました。
30年前、日本人が余り牛肉を食べなかった時代は、牧場で放牧されており自然な牧草を食んでいました。その時代の牛乳は濃厚でした。そして牛糞も良く発酵されていて品質が良く堆肥として使用していましたが、今は牛糞はコストが安いので家庭菜園で使用しますが、薔薇や草花には牛糞は使わず完全な発酵済みのバーク堆肥を使用しています。なぜなら牛の餌が天然の牧草から輸入飼料に変わったからです。
人間は牛や豚、鳥、魚介類に加えて、ほとんどの植物を食べて生きています。肉食動物は他の動物を、草食動物は植物を食べて生きますが、植物は自身身動きできず、人間が与えないと肥料や栄養を得ることが出来ません。そのため人間は植物には様々な栄養を与えます。
しかし同じ種類の作物でも、基本的な味は同じですが、味の濃さには違いがでます。量を目指すか味を目指すかで栽培方法は異なります。
高潔なある牧場
戦前のアルピニストの代表で、3月の穂高北尾根で遭難した慶応山岳部大島亮吉の著作は、多くの若きアルピニストに読まれてきました。
私もその1人ですが、彼の著作にはアルピニズムの著作とワンデリングの著作と2通りありました。
ワンゲリングの著作の代表に「神津牧場と荒船山」があり、彼が戦前神津牧場を訪れた紀行で、この牧場は憧れの地でした。

稜線から神津牧場上部を望む
神津牧場は佐久郡志賀村の豪農の息子であった神津邦太郎 が明治18年、我が国で初めて、乳量の多いホルスタイン種に比べてたんぱく質、ミネラル、ビタミンの含有に優れたジャージー種45頭を集めて開設した牧場です。
神津邦太郎は明治初期、福沢諭吉門下の慶應義塾で学び、上海に遊学しその地で日本人の身体の貧弱なのは、長い間肉や乳製品を摂取してこなかったからだと考え、食生活の改善を目指すために、この地に牧場を開設したのです。
邦太郎は「草と牛は一体であり草を乳に換えることが神津牧場の経営の基本」と唱えました。
以来、牧草は自ら種子を蒔いて自前の堆肥で育て、美味しいミネラル豊富な沢水と、美味しい牧草を食べ放牧したストレスのない牛を基に、牧畜から乳製品の加工販売まで一貫とした経営を行ってきました。
神津牧場のジャージー牛の牛乳は、これが牛乳と想うほど、スーパーの牛乳と一線を画しています。この牧場に行かないと購入できず、先日ここに行く人が、おみやげに買って来てくれました。
「草と牛は一体であり草を乳に換えることが牧場の経営の基本」を改めて味の違いを認識しました。