熊本、水前寺成趣園
我が国の大名庭園の中で、私が一番格調が高いと感じている熊本市の水前寺成趣(じょうじゅ)園が好きです。5月の中旬にまた訪れました。
初めて訪れたのは30代の初期で、家内と唐津、有田など陶器の産地めぐりをしつつ長崎から熊本に渡り、熊本城見物の後この公園を訪れたのです。
当時は原名の水前寺成趣園とは呼ばず、単なる水前寺公園と呼んでいました。その当時水前寺清子の365歩のマーチが大ヒットした頃で、水前寺というと水前寺清子のイメージが強く、私も歴史にそれほど深く関心を払っていなかったため、熊本城の城見物の時間が余ったため、中心部郊外の足の便が良い場所のため大した目的もなく訪れました。
当時は私も若く、歴史や庭園にはあまり興味は持って無かったため、熊本といえば加藤清正公の印象しか持っておらず、加藤家2代目転封後、中津藩の細川家が藩主になり江戸時代通して、島津家の抑えとして54万石の大藩を維持してきました。そして鹿児島の歴史がほぼ島津家の歴史と同じように、熊本県も細川家の歴史であることを知りませんでした。
水前寺成趣園は熊本に移封し初代熊本藩士となった細川家3代忠利公が、中津から共にした僧玄宅のために阿蘇の水が湧く清らかな場所に一寺を設け水前寺と名付けた事が始まりです。その後二代、三代藩主により現在の規模の作庭が行われ、陶淵明の詩から「成趣園」と名付けられました。

初めて訪れた水前寺公園では、季節は早春で広大な園内の芝はまだ緑の色を見せていませんでしたが、多分に日曜日だったと想いますが、着物姿の多勢の婦人たちが各所に集まって野点を行っていた風景が今でも印象に残っています。
私を含めて水前寺公園に行ったことの無い人は、水前寺というと水前寺清子の365歩のマーチの賑やかな雰囲気をイメージしていたはずです。
私はこの公園で産まれて初めて野点の光景に接しました。この旅は陶器の産地を巡っていたために陶器=茶のイメージが強く、年配の着物姿の淑女たちが目の前で風炉を使用して野点を行って風景に接し、改めて歴史のある城下町の奥深さを感じました。それまで浦和の街でも野点は見た経験はありませんでした。
恩師は茶人で陶芸家で仲人をお願いしたことから、陶芸や茶の湯についてよくお話を伺いました。この陶器の産地巡りの旅もその影響から行ったのです。

西南戦争において新政府軍の拠点となった熊本城で薩摩軍というより南九州連合軍の攻防戦が繰り広げられ熊本の街は灰燼にふしました。戦後旧熊本藩士たちが、人心の安定と熊本の街の復興を願って細川家初代藤孝(幽斎)二代忠興(三斎)三代忠利公を祀り出水神社建立しました。
初代幽斎は歌人として優れ、人格と教養に秀でて足利将軍家に仕えた後、明智光秀と共に織田信長に仕えました。細川家は元々足利一門の血を引く室町幕府の官領家の家柄で、明智家は美濃源氏の名門土岐一族の流れです。先祖は越前の神社の神官で尾張守護代になった信長にとって、戦国武将をまとめ上げ朝廷との折衝には細川、明智の家柄の権威が必要だったのでしょう。
同じく権威を欲しがった家康も、南北朝時代後醍醐天皇の子宗長親王を擁した歴史を持つ井伊谷の若き井伊直政を300石で家臣に取り立て、やがて足利一門の今川家や伊勢平氏の流れをくむ北条家の折衝役にして、たった10年間で300石から30万石の譜代筆頭に抜擢したのも、三河の念仏僧が先祖の家康が、全国区に出ていくため権威付けの必要事項だったと想います。
戦国時代は多くの歴史的な家系を持つ戦国大名が滅び、江戸時代には島津、細川、毛利、上杉、伊達、佐竹、南部家だけが名門の外様大名として残りました。譜代大名はほぼ家康の三河衆であり家格を重視した徳川幕府では、これら名門大名は重きを置かれました。
司馬遼の街道の道でも述べているように、薩摩藩、肥後熊本藩は現代における九州の鹿児島県と熊本県の位置づけとは大いに異なり武力や教育、文化の分野で幕府や江戸町民が畏怖する存在だったのです。首都圏にいて新聞やTVを見ているだけではわからないことが、旅に行き現地の遺稿や風俗に接することによって肌で理解できることがたくさんあります。
さいたま市がいくらがっばっても、今、水前寺成趣園や栗林公園、岡山後楽園はできません。

細川家の素晴らしい所は、名門の歴史に安住することなく何百年も先祖に恥じぬ思想で名を高め細川藩の名誉を維持してきたことです。

金沢の兼六園、岡山の後楽園、高松の栗林公園など大名庭園の日本三大公園を見てきましたが、私はこの水前寺成趣園と高松の栗林公園が群を抜いて素晴らしいと想っており家内も同意見です。細かな理由はありますが、要は総合的な印象ではこの2園が好きです。

池泉回遊式の成趣園の対岸は藩主の江戸への参勤交代の風景をイメージして作庭したと言われています。この顕著な小山は富士を表しているそうです。

伝統的に栽培されているオリジナル品種の肥後六花があります。江戸時代から続いているものと明治以降作出されたものと混在していますが、肥後椿、肥後芍薬、肥後菖蒲、
肥後朝顔、肥後菊、肥後山茶花の6グループあります。
他の公園だったらパネル展示でお茶を濁すことが多いのですが、肥後人の真面目な気質は、この公園内で育種栽培されており、季節になったら必ず花が見られることです。
以前名高い肥後椿を見てみたいと想っていたら、この公園でしっかりと咲いていました。

成趣園の奥に流鏑馬の会場もあり花と共にしっかりと武家文化を継承しています。また公園には巨木が多くそれぞれ趣ある歴史を感じさせてくれるのです。

エノキ(榎)ニレ科エノキ属の落葉高木です。エノキとケヤキやハルニレ、ムクノキは同じニレ科に属しそれぞれ属を構成していますが、落葉高木として大型の美しい樹形を構成します。
このエノキは一里塚の目印に立てられて来たと言われています。エノキは関東地方に多いと言われていますが、ケヤキの多さに比べるとそうかなと思います。
同じニレ科のハルニレは英名エルムのことで、北大の寮歌に詠われているハイカラなイメージがあります。エルムは土壌を選ぶため、北米に上陸した清教徒たちが先住民からエルムの樹が生えている場所は土壌が良く耕作が容易と聞き、以来清教徒たちにとって特別な木として扱われてきたと言われています。北大のエルムも開拓の象徴だったのでしょうか。

大木は根元にしっかりとしたサインが取り付けられているため樹種の把握が容易です。
ムラサキ科チシャノキ属チシャノキ(萵苣の木)落葉小高木です。本州西の中国地方から九州、沖縄に生息しているため関東では馴染みのない樹です。萵苣とは葉がレタスの臭いがするということから名づけられたそうです。私が30代の中頃韓国で初めて焼肉をサニーレタスで巻いて食べた経験があります。その頃サニーレタスもレタスも日本に導入(少なくとも関東)されておらず、今では毎朝日本人の大半がレタスを食べていることを考えると世界の食糧の伝播というのは、とても興味深いです。おそらく西日本ではサニーレタスは昔から伝播していたかも知れません。

ナナミノキ(七実の木)モチノキ科モチノキ属落葉高木。私の手持ちの3冊の樹木図鑑にはありませんでした。ネットで調べたら水前寺成趣園にあると出ていました。もっとも国立法人森林総合研究所熊本支所のデータでした。本州西部、九州に分布します。画像のように赤い実を付けるため九州では広い家の庭木として活用されているそうです。

ムクノキ(椋の木)ニレ科ムクノキ属 落葉高木 関東以西の山野に生息しているそうですが、同じニレ科の樹と比べると馴染みは少ないです。

ヤマザクラ(山桜)バラ科サクラ属、落葉高木、私の山桜の印象は尾根の縦走路に突然現れる背丈の1,5倍位の山桜でこのような太い山桜をまじかに観た事はありません。もっとも吉野の千本桜も近寄るとみな高木なのでしょう。

巨木を眺めながら散策します。

青モミジが迫力をもってトンネルを作ります。

能楽堂です。雨戸が完全に締められていますが、中から能楽の音とズシンという響きが聞こえてきます。能楽堂というと特別な公演の日に中で音をすることは無いと想っていたら、数は少ないですが公園を訪れる度に能楽堂からはいつも音が聞こえます。熊本にとって能は日常なのでしょうか。
能楽を愛好した幽斎以来、熊本藩士たちは能楽をたしなみ、花を愛で新しい品種をつくることも太平の時代の武士のたしなみでした。街の奥ゆかしさを感じます。

池は意外に浅く、掃除をしています。石神井公園の池の掃除がニュースになりますが、成趣園では池の清掃は日常なのでしょう。

古今伝授の間です。ここの座敷にあがりゆったりと庭を眺めるために成趣園を訪れるのです。初めて家内と来た時に池端の岩の上にカワセミが表れしばらく止まっていました。
見沼田んぼにカワセミの巣があるらしく春になるとカメラマンたちが半日カメラを向けていますが、現れることはあまりありません。成趣園では誰も注意を払わないことに驚きました。

ここでお茶とポルトガル伝来のお菓子加勢以多を楽しみます。ここは私にとって贅沢な時間と空間なのです。

古今集は代々様々な学説や解釈を口伝や切り紙などで師匠から弟子に伝えられてきましたが、これは優秀な弟子しか相伝されず、相伝された秘説は最も権威ずけられた古今集の解釈でした。関ヶ原の戦いの前、細川幽斎は後陽成天皇の弟君智仁親王に古今伝授が開始されましたが、石田三成と家康の構想の中で幽斎は舞鶴の田辺城に小兵力で、三成勢に包囲され籠城を余儀なくされました。
後陽成天皇は幽斎の討ち死にを恐れ、勅使を派遣して包囲を解かせ古今伝授をできるよう計らいました。こうして京都御所内の古今伝授の間で継続されました。大正元年に古今伝授が行われた家屋を成趣園に移設復元して今日に至っています。
郡上八幡に室町時代領主東常縁から連歌師の宗祇に行った古今伝授のいわれが宗祇水として名水100選に残っていました。郡上八幡に行った時このいわれが良く理解できませんでしたが、成趣園の古今伝授の間では歴史が臨場感を持って迫ってきます。貫之が言うように古今集の伝授は言霊の伝授でもありました。

幽斎から古今伝授を受けた八条宮智仁親王は、造園の才能高くブルーノタウトが絶賛した桂離宮を建立した一流の文化人教養人になりました。
その後智仁親王は古今伝授を弟気味の後水尾天皇に伝授しました。後水尾天皇は徳川秀忠の5女和子と結婚、紫衣事件で幕府の横暴に反抗して譲位しましたが。その後上皇として4代の天皇をまもりました。上皇時代には修学院離宮を造営し、俵屋宗達や狩野探幽など多くの画家を育て当代一流の文化人として江戸初期文化を支えました。
水尾天皇は清和源氏の始祖です。後水尾天皇を名乗ったのは偶然かどうかわかりませんが、系図を偽造して源氏を名乗り征夷大将軍になった徳川家を皮肉っているという説もあります。
古今伝授の間でくつろぐと、細川幽斎、桂離宮を造営した智仁親王、修学院離宮を造営し江戸初期文化を興隆した後水尾天皇への文化の継承の間であったという,私なんかが想像することすらできない贅沢な文化の臨場感に包まれるのです。