松本・美ヶ原温泉クラシックな宿での山の会OB有志の集い
松本の浅間温泉は知っていましたが、美ヶ原温泉の存在は知りませんでした。
多分戦前から美ケ原温泉は大衆向きの温泉宿でなく、松本の町人や官界、軍人たちの隠し宿的な温泉のように感じました。美ヶ原温泉と言っても、美ヶ原台地をバックにして、登り口から遠く離れた松本盆地の際にあり、他の旅館もあるようですが、それぞれ離れていて温泉街を構成しているような場所ではありません。
今回のOB有志会は、金宇館(かなうかん)という幹事曰く全5室の中々予約が取れない小さな人気宿で貸し切りでし行われました。

ナビを頼りにようやく訪ねた美ヶ原温泉金宇館。学生時代から松本に足しげく通っても、松本で宿泊することは無かったため、浅間温泉の名を知っていても美ヶ原温泉の名は聞いたことが無く、温泉街は全く予想していなく、多分市街の外れの山の麓にある1件の温泉宿だろうと想像していたら、全くその通りでした。多分浅間温泉とは離れているので、温泉名を付ける際、美ヶ原の名を採ったのだと想いました。

リニューアルしていますが、古い温泉の象徴である3階建ての和風建築で、小さな御殿玄関風の入り口が迎えてくれました。
今宵は戦前の昭和にタイムスリップしそうです。

迎えた中井さんに操業年数と金宇館の名の由来を真っ先に尋ねたら、創業者は瓦工業で、金宇はその名字であり、約100年前この地を掘ったら温泉が出て来たので温泉宿を創業したとの事です。約100年前とすると操業は大正14年で、多分昭和初期の建築なのでしょう。凝った鬼瓦の建築だなと想っていたら、瓦屋さんが創業した宿でした。

部屋数5部屋に離れ1室の小さな宿で、玄関に入ると奥に金庫が鎮座した趣のある雰囲気でした。

土間の周囲は松本の陶芸やガラス、家具作家たちのギャラリーになっていて、宿主の地元の若い芸術家たちの交流が感じられます。
また管内全てのガラスが曇りなく磨かれていることも驚きで、このことを中居さんに尋ねたら、毎日のガラス磨きが大変ですと答えていました。
ガラスも波を打ってはいませんが昭和のクラシックな薄いガラスで、館内が外の緑と1体であるような雰囲気でした。これは洋風建築の現在の旅館では味合えない雰囲気です。

庭の全景はガラス戸を開けないと撮れませんが、庭の部分はガラス越しで撮影できます。これも曇りが無いガラス戸だから可能なのでしょう。

野の花が好きだから、宿のアレンジにもつい目が行ってしまいます。宿に泊まった時は、良いアレンジは必ず目に入ってしまいます。

宿の裏側は山がせり出しているので、近くで採集できるのでしょう。家の近くの見沼田んぼでは葉物は採集できるけど実物は中々ありません。

美しい秋の自然です。誰が活けているの?と仲居さんにお聞きしたら若女将がおやりになっているそうです。

部屋はメンバーでも若い方ですから3階を割り当てられました。松本盆地の街並みが遠くに望まれます。
宿は近年リニューアルしていますが、創業当時の木材を各所に使いうまみな建築をしています。また部屋の家具もさりげないですが、作家の創作家具ばかりです。

素晴らしい温泉を堪能し、夕食です。創作料理の数々を堪能しました。年寄りばかりなので食事の量より質が気に入りました。
九州在住の先輩が山仲間として毎回同行してくる人が、初めて防大卒とお聞きし私と軍事論議に花が咲きました。

今回は今までOB旅行で何回も顔を合わせていた奥様方2人が参加され座がにぎやかになり、この晩は夜12時まで語り明かしました。
前OB会代表の行方兄が主催するこの会は今回で4回目です。彼は私より10代下ですが、学生時代早稲田を代表するクライマーでしたが、若い頃5年前に明神で遭難死した高野兄と共に積雪期の谷川一ノ倉滝沢第3スラブを完登し我が国有数のクライマーになりました。やがて仕事で登山から遠ざかりましたが、定年後ヨーロッパアルプスの岩壁を登ろうとして訓練中、墜落し体内に80本近くのボルトで連結し、3年間の過酷なリハビリにより、車イスは免れ歩行可能になりましたが登山は断念しました。私が入院中彼はメールで、リハビリは言われる量の3倍を行うよう励ましをしてくれ元気づけられた思い出があります。
彼が今まで選択した宿は、個性あふれる宿ばかりで、今回も素敵な宿を見つけてくれました。

宿の入り口は紅葉の盛りです。子供の頃浦和の街にもたくさんあった大谷石の門柱も見なくなりました。

翌朝、上高地に向かう人、新潟の海岸に向かう人、そして我々美ヶ原経由で帰宅する人それぞれ別れました。
