山と自然のエッセイ、南伊豆の旅1・熱海から河津温泉
11月末から12月初めにかけて、家族で南伊豆の旅を行いました。昨年や1昨年は九州在住の息子と四国高松や山陰松江で出会って旅を行いましたが、子供の時から旅好きで日本国中未知の所が無い息子が実は南伊豆には行ったことが無いとの事で、今回は息子が単身羽田までやってきて、娘と我々と横浜の車内で合流しました。
今回も娘は旦那を置いて来たので、子供たちは高校時代に戻って家族水入らずで楽しい旅を行いました。

以前、家内と娘が利用して快適だったとのことで、熱海まで在来線の東京・上野ラインのグリーン車を利用しました。浦和から乗車して熱海まで1本のためとても快適ですが、日曜日のためか東京までも或いは品川からほぼ満席でした。
東京・上野ラインが神奈川迄直通で運転されるようになり俄然浦和が便利になりました。できれば関西のように新幹線が新大阪を越えて走ればと想いますが、JR東海とJR東日本が仲が悪いせいか東京起点のみなので残念です。京都から1本で大宮まで行けると良いし、仙台から横浜まで通しで行けた方が、リニア新幹線より遥かに便利になると想うのですが。
賑やかな熱海

若い頃、熱海や伊東、鬼怒川、草津は企業の団体招待旅行のメッカでした。若い時営業部門に従事していたたので、ソョーの設備がある大型旅館が有り多人数が利用できる熱海や伊東を利用することが多かった時代がありましたが、団体も無くなってから熱海や伊東、鬼怒川、草津は観光地として衰退しましたが、熱海や伊東、草津は今や個人の観光客で不死鳥のように盛り上がっています。
熱海は日曜日のせいか日本人の観光客でごった返しています。

お昼時なのでどの店を覗いてもいっぱいでした。おいしそうな店の鼻が効く息子と娘がとある横丁の中華屋さんに眼を点けました。席について改めて家族の再会をビールで乾杯いしました。味はとてもGoodで、今回の旅の幸先が良いなと祝いました。
来宮神社

時間があるので、大楠のある来宮神社に行きました。日曜日なので参拝客が多くとても賑やかです。

来宮神社のご由緒です。
ご神木・大楠

家内曰く、神社の奥に大楠があり、神社の手前にもd第2大楠と言われるクスノキがあります。
古来暖温帯常緑広葉樹林帯に属している我が国土の原点が見られる点で、クスノキとかタブノキが密生している地に関心を抱いています。関東地方は本州の中でも最東の暖温帯常緑広葉樹林帯位置しているため、古い鎮守の森は有史以前からの植生であるクスノキやタブノキが林立しています。この両木は古来舟の材料となり、九州の宇佐神宮や瀬戸内の大三島の大山祇神社のご神木はクスノキ、氷川女体神社のご神木はタブノキ、ここ来宮神社のご神木はクスノキです。
平野における落葉広葉樹の雑木林は後世植林した2次林で、麓から山の端まで覆っているスギノキの大半は木材確保のため戦後植林した2次林です。
伊豆急来宮駅

来宮神社の近くに伊豆急の来宮駅があります。ここまで来るととても静かです。
伊豆について
独身時代の若い頃、夏に会社の仲間と毎週のように下田の手前の白浜に通っていました。当時白浜は東京から遠くあまり知られていない海水浴場でしたが、知る人ぞ知る美しい海岸でした。当時土曜日は半ドンだったため午後遅く車を飛ばして白浜の民宿に行き翌日午後から帰宅しました。当時は車にクーラーが無く、日曜日の午後1本しかない海岸の道を渋滞に巻き込まれながら窓全開で走りました。大抵は1台で4人が乗り運転は交代で行い苦にはなりませんでした。その内民宿の泊りも面倒なので夜行で行き帰りし月曜日着替えて出社しましたが、眠くても当時は競争社会では無く社内もおおらかだったので、何も差支えはありませんでした。
ということで伊豆のことは知っているようで、実はあまり知っていなかったため、改めて河津温泉で手に入れた伊豆の地図を眺めてみました。
オレンジ色でマーキングした線が伊豆半島の南北の分水嶺で、丸くマーキングした箇所が天城峠です。この天城峠を境にして、伊豆は北伊豆と南伊豆、或いは東伊豆と西伊豆に分かれます。
分水嶺の天城峠からブルーでマーキングしたラインで北に狩野川が流れ、湯ヶ島、修善寺を経て駿河湾に注ぎます。三島からのこのラインが律令時代伊豆が駿河国から伊豆国に分離した先進地帯でした。
後世三島から修善寺、湯ヶ島、天城峠、河津、下田に通じる街道が、伊豆の心臓部を貫く天城街道で踊り子の舞台になりました。

伊豆の歴史を紐解くと、伊豆は律令制で駿河国から伊豆国に分かれましたが、国府は三島に置かれたと言われていますが、国府の位置は定かではありません。後で触れますが我が国の古墳時代の古代造船には伊豆の軽野(カヌーの語源)伝説があり、律令以前から舟に関係していた地域であることが知られています。
佐藤和夫著「海と水軍の日本史上巻」によると、平安時代初期伊豆国東部に玖須美荘ができ、ここが後に伊東、宇佐美、河津荘に分かれました。それ以前に狩野川流域に狩野荘がありそこを治めていた藤原南家武智麻呂の8代の子孫遠江守藤原為憲が木工介にもなったため、藤原改め工藤氏を名乗りました。その後工藤氏一族は狩野、伊東、宇佐美、河津荘に分かれ領有しその本家は伊東氏になりました。やがて伊東氏は北条氏と共に伊豆に配流された頼朝の監視役になりましたが、そのご歴史は変転し、伊東氏は九州宮崎の飫肥城主になり幕末まで存続しました。宇佐美氏は鎌倉時代末期上杉氏に従って越後国に移住し、謙信の戦記には軍略の重臣宇佐美氏として名が登場します。工藤氏の名は曽我兄弟の仇討ちで登場します。
ということで伊豆の歴史は伊東以北が顕著で、天城峠以南は近世まで幕末ペリーやロシア使節プチャーチンの来航で江戸から遠く離れた下田が、開港の場として脚光を浴びるまで未開の地だったようです。
伊豆急からの海

伊豆急の車窓には伊豆七島の島影が表示しています。縄文時代採掘した神津島産の黒曜石が伊豆や相模で発見されており、縄文人たちはどのような舟で神津島に渡ったのか以前から不思議に想っていました。この車窓の表示を観た時、伊豆から神津島も見えることが解り、この時古代の謎が解けました。
縄文時代の刃物、信州和田峠の黒曜石
黒曜石は火山のマグマが急速に冷えることによってできるガラス質の火山岩です。黒曜石の大きな塊は中央本線茅野駅のホームに展示してありますが、本州で黒曜石の最大の産地は旧中山道の和田峠付近で、本品は2010年和田峠越えの際に茶店で購入したものです。
この黒曜石の塊を観るだけでは黒曜石の真価は分かりません。
縄文時代黒曜石の産地は佐賀の腰岳、大分の姫島、隠岐、信州和田峠、北海道白滝、そして神津島でした。それぞれ広域に流通し青森山内丸山遺跡の黒曜石は和田峠と北海道白滝産が発見されました。
神津島の黒曜石の分布は伊豆諸島を始め関東地方一円と静岡、そして信州の一部に見られます。

北海道東白滝村の黒曜石(旭川博物館)

大雪山登山の際旭川博物館を訪れ、北の黒曜石と出会いこの展示で黒曜石が当時最先端の道具であることを知りました。ナイフの刃はまるでカミソリです。縄文人たちは黒曜石を手に入れることによって、狩猟の際の武器や狩猟で得た獣のかわはぎなど、効率的な道具を得たのだと想います。この黒曜石が中世まで狩猟採集のオホーツク文化の担い手となりました。
伊豆急河津駅

今回の旅程や宿の手配は息子が行いました。
河津温泉駅には生まれて初めて降りました。家内と娘は以前河津温泉を訪れており、河津七滝巡りを堪能したため、今回も息子に頼んでコースに入れました。

駅前に伊豆の踊子像がありました。写真を撮っていたら家内と娘がこれから行く先々で踊り子像があるからと言っていました。伊豆の踊子の物語にはそれほど興味はありませんが、小学校高学年の頃大ヒットしいつもラジオから聞こえていた三浦浩一の歌謡曲踊り子の歌詞と曲が頭にこびりついています。ご当地ソングの走りで、「天城峠で会うた日は」「月のきれいな伊豆の宿」「下田街道海を見て」などの情感あふれる美しい詩がすぐ過って来て、下田で大島に変える踊り子初め旅芸人一座と別れまで想い馳せてしまいます。
中学、高校とプレスリーを初めとしてポールアンカなどなど洋楽のポピュラーソングを浴びるほど聴いて育ちましたが、大人になると小学校時代に刷り込まれた唱歌や歌謡曲の方が、自分に合っているような気がしてなりません。子供の時から洋楽の中で育った家内とは、この点に相違があります。
河津桜

河津温泉は河津桜の発祥の地です。一昨年掛川に行ったら河津桜と同じような桜が城の回りにいっぱいに咲いていました。東海地方は染井吉野でなく河津桜のような開花が早い桜が主力なのでしょうか?
宿からの海

河津温泉というと普通の温泉地のように温泉郷を構成しているのだと想っていたら。旅館は点在しており、息子は海辺の宿を予約してくれました。宿のロビーの窓辺にもここから見える伊豆七島の解説がありました。
伊豆七島について

伊豆七島と言っても大島、利島、新島、(式根島は小さいから数えない)、神津島の4島と三宅島、御蔵島、八丈島の七島を指し、大島、利島、新島、神津島は伊豆半島に近く1直線で並んでいますが、三宅島、御蔵島、更に離れて八丈島は伊豆半島から遠く1直線ですが、大島の4島とは系統が違っています。
歴史的には五島(大島、新島、神津島、三宅島、御蔵島)が大きく住民が大勢住んでいるために、平安時代初期には伊豆介狩野茂光が大島に代官を置いて、年貢を治めさせていました。
佐藤和夫著「海と水軍の日本史上巻」によると、保元の乱で崇徳上皇側に付いた強弓の引手鎮西八郎源為朝は破れて大島に配流されてしまいましたが、配流先としては隠岐、佐渡と共に大島は緩やかな地でした。
為朝は大島の代官三郎太夫の婿におさまり武器も取り上げて、年貢も横領し、昔の部下も島を訪ねて来て主従の勢いが盛んになりました。伊豆介狩野茂光は院宣によって伊東、北条、宇佐美など軍船20艘兵の総勢500人で大島の為朝の館を襲い、為朝は自害しました。
このように伊豆の島々は平安時代から年貢の対象でした。
八丈島は関ヶ原で敗れた豊臣5大老の1人宇喜多秀家が流された地として有名です。宇喜多秀家は息子や郎党10人を伴い流されましたが、奥方の実家加賀前田家から米や物資など送られて、84歳の長寿を全うしました。
下田港から大島行の航路はなく東伊豆からあるだけです。下田から式根島と神津島への航路があるだけで、今や伊豆七島は伊豆の島では無く東京都の島になり、晴海からの航路がほとんどです。
冬の夕暮れの海

ベランダに出ると潮騒の音が鳴り響きます。1昨年北茨城の野口雨情の生家近くのホテルでも、潮騒の音はベランダのガラス戸を締めても鳴りやまず、一晩中潮騒と共に眠りました。沖に大島が見えます。

ここは河津七滝(タル)を流れる河津川の河口ですが、水は伏流化して表面の川の水量は極端に少ないです。この河津川沿いに奥まで延々と河津桜並木が続き、春は河津桜詣で大混雑するようです。
宿の夕食

宿の創作料理に堪能しました。酒好きでグルメな息子や娘も大感激です。息子は近年食べるだけでなく料理が趣味になったので、グルメに一層拍車がかかっています。料金もそんなに高くないのに、料理で勝負をかけているのでしょう。グルメでない私にも料理の素晴らしさは分かります。
宿からの夜明けの海
宿の売りは日の出です。全室東の海に向いているので、遮るものがありません。

夜明けの地平線に怪異な島、利島が望まれます。断崖絶壁のような島なのに300人の住民が住んでいます。新島も見えます。

波の打ち寄せる様子は飽きません。1回1回同じように見えても微妙に異なります。波音は海の鼓動のように聞こえます。

待望の浜千鳥です。以前から浜千鳥の句を作りたかったのですが、目の前に見ていないのに嘘っぽくなるので止めていましたが、今回は堂々と詠むことができました。

旭日が登ってきました。

娘の携帯はパノラマ撮影が可能です。
熊野の海の日の出(美しい旭日の想い出)
古代熊野の海人族が見ていた熊野灘の日の出を観たいと想っていました。海辺の宿から望む熊野灘ですが、あいにく雲で覆われて旭日は見ることはできませんでしたが、私にとってこれで十分です。
縄文海進時、我が国にやってきた海人族は旭日の美しい場所を求めて黒潮に乗り日本列島を北上し河を遡って移住の地を求めました。熊野にやってきた海人族は尾張に渡り、更に平野の乏しい伊豆を避け、縄文海進によって東京湾の奥まで遡り、旭日の美しい地を見つけ移住し、海の畔に神を祀りました。それが後の氷川女体神社だと想っています。
縄文海進が終わりかけて、海が引いて陸地になったため、更に東の旭日の美しい地を求めて移住し香取に至り、更に東の旭日を求めて鹿島に至りました。黒潮を知り尽くした海人族の彼らにとって、伊豆から見える神津島へ黒曜石を取りに行くのはたわいのないことだったのでしょう。
海人族の旭日志向は、後世旭日旗を生みました。

右下の洞窟の灯かりは洞窟の温泉です。この撮影の後すぐ行きましたが、とても神秘的な体験でした。
野口雨情の生家近くの日の出
一晩中潮騒の音が鳴り響いた宿でした。

宿の部屋の目の前の小さな島には鵜が群がっていました。ここ北茨城の海岸は鵜の産地で長良川の鵜飼いの鵜もこの辺りから採集するそうです。野口雨情の「波浮の港」の出だしは「磯の鵜の鳥ゃ日暮れに帰る~」ですが、波浮の港に鵜がいるかどうかわかりませんが、彼は子供の時からの遊び場のこの島の鵜から発想したのではと想います。
また目の前の太平洋は遮るものがなくアメリカに繋がっています。童謡「青い目の人形」や「赤い靴」は彼が子供の時から眺めていた太平洋の海から発想したのでしょう。
浜の散策

朝食前目の前の浜を散策します。

神津島は見えそうで見えません。

今井浜と大島は近いです。

記念写真です。伊豆の旅とりあえず1)を作成しました。
