山と自然のエッセイ、南伊豆の旅2、河津七滝(樽)下田開国史跡散策
河津温泉から2日目の旅は、河津七滝(樽)を巡ってから下田に行き、市内散策の予定です。今宵の宿南伊豆の下賀茂温泉へは15:00に下田駅に迎えのマイクロバスが来るので
それまでは時間がたっぷりあります。今回の旅も息子に日程の計画を依頼しましたが、アチコチ忙しく回る観光を好まない私の意向を組んでゆったりした計画のコースです。もちろん家内も息子も娘も私に似てせわしない旅は好まないため、家族全員気が合います。

ホテルから通り隔ててに3mも枝を広げて咲いているランタナを見に行きました。ランタナは浦和ではそんなに大きくなりませんし宿根しません。南伊豆はやはり内陸の浦和に比べるとかなり暖かいのでしょう。
河津桜より開花の早い正月桜

ホテルの玄関横に正月桜がありました。南伊豆は暖かいので落葉せず未だ葉を着けています。
初詣と共に花が見られることから正月桜となずけられました。
正月桜の由来

河津桜は昭和49年に種苗登録されましたが、珍しいので苗木となって全国に拡散してしまいました。浦和の地元区役所の庭にもあり、単独では見に行きませんが、早咲きの桜のため、区役所に用事のある人で花に関心のある人は必ず見に行きます。
それでも河津桜はシーズンになるとこの桜を身に河津温泉に人が押しかけます。
河津正月桜はあえて実生と解説しています。
天城街道名物河津七滝ループ橋

伊豆大島近海地震で天城街道が破損したため、1978年ループ構造で45mの行程差をクリヤーしたループ橋で、土木学会賞を受賞した耐震評価の高い建築です。
河津七滝めぐり

山中の滝や水辺を好む家内は娘と以前河津七滝を訪れましたが、伊豆の話題が出るといつもこの七樽を語ります。伊豆のこの辺りは滝を樽と表現することを知らない私は、家内が七樽は良かったとと言っても、あいまいなあいづちを打つだけで、どのような所か確認もしませんでした。
今回七樽を訪れると決まって、改めてネットで見てみました。
七樽の出発地点

伊豆も車社会で、都市交通機関のバスは運行本数が少なく、このバスは天城峠を越えて修善寺と河津を往復しています。七樽にはタクシーのお世話になりますが、4人いるとバスとそれほど運賃は変わりません。
運転手さんと道々、昔の三浦浩一の歌謡曲踊子の話をしたら知らないとの事でした。家内から運転手さんと私とは世代も異なることを指摘され、改めて自分が老齢であることに気が付きました。
運転手さんは親切で、案内板を基に七樽歩行の注意点を詳しく教えて頂きました。

歩き始めると、いきなり急な階段が現われますが、遊歩道はいきなりここを下らず崖の道を戻るようにして進みます。

深い渓谷の底にエビ滝が望まれます。

やがて深く渓谷に下ります。橋はよくできていて安全ですが、急傾斜のため中々迫力があります。

鎌滝です。落差22メートルあります。

中々風情のある瀧見橋で、先は行きどまりです。

蛇樽です。この美しさは中々です。

この七樽は登ってくる人の方が多いです。駐車場は下にあるからでしょうか。この辺りで滝の核心部は終わりのようです。

あとはゆったりとした遊歩道を楽しみながらくだります。

初景滝です。ここは滝つぼの周りが開けていて踊り子像もあり、近くに茶屋もあります。

南伊豆の紅葉はあてにして来ませんでしたが、なかなかのものがあります。

下にカニ滝を眺めて下るとやがて茶屋があります。

この谷が開けると駐車場とバス停があります。大して待たずに路線バスが着て、河津駅に向かいます。
河津駅

河津駅から踊り子号にのり下田駅に向かいます。
下田

下田駅に降り立つと昼も過ぎたので、お店をさがします。娘が得意のネット検索で住宅街の小さなレストランを見つけました。

店から出てふと横を見たら意外な近くに船が見えました。そうだ下田の街は小さくて小さな港を囲むようにして家が連なっているのことを想い出しました。港の対岸にロープウエイで簡単に登れる下田名物寝姿山が横たわっています。前回下田に来た時は時間がなくて行けなかったため明日行こうかと想います。

日本中どこに行っても漁港を除いては船がたくさん停泊している港は無くなってしまいました。貨物船やコンテナ船は専用ふ頭から荷揚げされるし、近郊海運も必要な工場の岩壁に横付けされ荷下ろしをするため、一般の港ではなかなか船を見かけなくなりました。
下田港は多い方です。船を眺めながら歩くと心が和んで来ます。

下田港に来るとなぜか野口雨情と中山晋平の「波浮の港」を想い出し海辺を歩いているとこの唄が頭の中で響きます。
1,磯の鵜の鳥ゃ日暮れにゃ帰る 波浮の港にゃ夕焼け小焼け
明日の日和はヤレホンニサなぎるやら
2、船もせかれりゃ出船の仕度 島の娘たちゃ御神火暮らし
なじょな心でヤレホンニサいるのやら
3,島で暮らすにゃ乏しゅうてならぬ 伊豆の伊東とは郵便だより
下田港とはヤレホンニサ風だより
4,風は潮風後神火おろし 島の娘たちゃ出船の時にゃ
船のとも綱ヤレホンニサ泣いて解く
5、磯の鵜の鳥ゃ沖から磯へ 泣いて送らにゃ出船もにぶる
明日も日和でヤレホンニサなぎるやら
野口雨情は多分大島に行かずにこの唄を作ったのでしょう。野口雨情の生家近くの海岸の宿に泊まった時、目の前の小島に鵜が群がっていました。むかし長良川の鵜は北茨城で捕獲し訓練していると聞いたことを想い出しました。鵜を見て育った雨情は大島に鵜がいないことを知らずに
この曲をつくったのでしょう。そんなことはどうでもよい事で、それより踊り子の物語でも、大島にとって下田は本州との窓口でした。
現在では伊東から大島は航路がありますが、下田、大島航路は無く、利島、新島、式根島、神津島にはカーフェリーが運行しています。
古い酒屋のホーロー看板コレクション

古いホーロー看板の数々です。ミヨシ石鹸は今でもどこでも販売しており愛用しています。カブトビール、ユニオンビール、というビールもあったのですね。凱旋サイダーなんてどんなラベルだったのでしょうか?
ペリーが行進したペリーロード

この通リはペリーロードと呼ばれ、ペリーが上陸して日米の下田条約締結所の了仙寺まで海兵隊と水兵の大部隊で行進した道です。
日米下田条約締結の場、了仙寺

歴史的な了仙寺で、寺経営の黒船ミュージアムと売店があります。

了仙寺境内でペリー艦隊の海兵隊の閲兵が行われ、米国は幕府奉行を前に近代装備の示威を行いました。
私立下田開国博物館

私立の下田開国博物館です。今回で2度目です。

私立ですが博物館の熱意が伝わってきます。
当時の情勢・アジアの植民地化と数少ない独立国

アジアは欧州列強の植民地化が進行し、新興国のアメリカとロシアが新しい利権を狙っていました。
ペリーの浦賀久里浜上陸、横浜上陸、下田上陸、プチャーチンとの日露交渉、ハリスの下田領事館開設など、これら幕末開国の諸事件は、絵になって歴史書を賑わしています。
短期間に様々な出来事が重なって、前後関係がごっちゃになってしまいうため、ペリー関連、プチャーチン関連、ハリス関連など下田と関係する歴史をそれぞれ時系列で記しました。
米国東インド艦隊司令長官ペリー関連の下田の歴史。

●嘉永6年(1853)7月8日、ペリーが開国を求めサスケハナ、ミシシッピー、サラトガ、プリマスの4隻の艦隊で浦賀に来航、フィルモア大統領の親書を携え久里浜に上陸し親書の返答を1年末ととし日本を離れました。これがいわゆる黒船騒動で、艦隊は神奈川沖まで示威航行し初めて観る真っ黒に塗られた蒸気船は多くの人々に衝撃を与えました。
この時のペリー艦隊は4隻の蒸気船と言われましたが、実際、米国でも蒸気船は貴重でペリー艦隊は2隻の蒸気船しか用意できず、他の2隻は小型の帆走スループ艦で、神奈川沖で示威航行した際、蒸気船2隻はそれぞれ1隻づつロープでけん引していました。帆船は長崎で見慣れていましたが、蒸気船は誰も見た事が無く、たった4杯で夜も眠れずと唄われ大きなインパクトを与えました。
●嘉永7年(1854)2月13日、ペリー浦賀に再来し3月31日日米和親条約調印、下田即時開港、函館翌年開港 。この時初めて江戸近くの横浜に上陸しました。
●同年4月15、17、18日、 ペリー艦隊、サザンプトン、サプライ、レキシントン、パンダリア、ポーハン、ミシシッピーの6隻が下田に入港、遅れてマセドニア1隻が加わり7隻の大艦隊となりました。
●同年4月21日 幕府下田奉行所設置、宝福寺を仮奉行所とし浦賀奉行伊沢美作守が下田奉行となりました。
ペリー2度目の来航の旗艦ポータハン号

2回目の来日の際は7隻の大艦隊を揃えました。
●嘉永7年(1854)4月15、17、18日、 ペリー艦隊、サザンプトン、サプライ、レキシントン、パンダリア、ポーハン、ミシシッピーの6隻が下田に入港、遅れてマセドニア1隻が加わり7隻の大艦隊となりました。
●同年4月21日 幕府下田奉行所設置、宝福寺を仮奉行所とし浦賀奉行伊沢美作守が下田奉行となりました。
●同年4月24日 吉田松陰、下田から米艦で海外密航を図り失敗する。
●同年5月2日 ペリー艦隊マセドニアが下田に入港、艦隊は7隻集結。
●同年5月13日~6月7日 ペリー艦隊函館訪問。
●同年6月20日 了仙寺にて日米和親条約付録下田条約調印。
●同年6月26日 ペリー艦隊下田を去る。

ポータハン号では幕府役人を艦上に招いて交歓会が開かれました。

前年の久里浜上陸の際、ペリーは蒸気船の模型を幕府側に展示し近代技術の示威を行いましたが、幕府側は力士たちを集めて重い米俵を持たせて日本人の力自慢を行いました。ここ下田では相撲の観覧も行われました。
日露和親条約、ロシア全権大使プチャーチン提督

ロシア皇帝ニコライ1世は米国が武装艦隊を日本に派遣すると聞いて、外務大臣と協議しロシアも急遽使節団を派遣すべきとの結論に達し、当時有能で誉れ高い海軍台人者のプチャーチン中将を使節として派遣することにしました。ただし当時ロシアはクリミア戦争直前のため、ペリーと同じ蒸気船を交えた4隻の武装艦隊は揃わないため、プチャーチンは英国で小型蒸気船を購入した後、老巧な帆走フリゲート艦バルタータを旗艦としてシンガポール経由で香港を出発し、小笠原父島で小型コルベット艦と輸送船と合流しペリー艦隊と同じように4隻の艦隊で1853年8月に長崎に入港しました。
長崎奉行と通商条約と国境条約の交渉を開始し、幕府の承認を得る間マニラに行きましたが、クリミア戦争が勃発したため、英仏との海戦を避けるため旗艦バルタータに乗船したプチャーチンは北上しアムール河口に避難し、そこでクロンシュタットからやって来たより新鋭のディアナ
号に乗り換え函館に行き、幕府の指示に従って下田に廻航しました。
しかしプチャーチン提督は下田長楽寺で下田奉行と交渉中、東南海地震が発生し津波のため湾内に停泊していたディアナ号は半壊してしまいました。プチャーチン提督の要請で西伊豆の戸田湊で修理することになり、その廻航中進水し沈没してしまいました。
日露の交渉は通商条約と共に国境条約も含み、千島列島は択捉とウルップ島の間に国境が引かれ、いわゆる北方4島は日本に帰属しました。樺太は両者の間に明確な国境線は設けないこととなりました。
日露交渉の場、長楽寺

●同年12月4日、 ロシア使節プチャーチン下田に来航し和親条約交渉開始。
●安政元年12月23日、 東南海大地震と津波が来襲しプチャーチン乗艦ディアナ号が大破し、修理のため西伊豆戸田に回航中沈没してしまいました。
●安政2年(1855)2月7日 、日露和親条約調印、北方領土確定。下田、函館、長崎の開港。
●安政3年(1856)5月4日 、戸田で「ヘダ」 号建造。この艦でプチャーチンはアムール河経由で、陸路ペテログルグに帰国。他乗組員は外国船で帰国。
東南海地震の津波で半壊し、廻航中沈没したディアナ号

ロシアプチャーチン艦隊上陸図

プチャーチン提督帰還のため小型船ヘダ号を建造

ディアナ号所蔵の小型船設計図を基に戸田の船大工たちが洋船を建造しヘダ号となずけました。この小型船でプチャーチン提督はシベリアのアムール河を遡り、その後騎行で首都ペテルブルグに帰還しました。
幕府は同型艦を10隻建造しました。
米国総領事ハリスのアメリカ公使館(3年間開設)下田玉泉寺

ペリーと日米和親条約締結後、ハリスが米国総領事として下田玉泉寺に米国領事館を開設しました。
この下田領事館は3年後江戸に移動し麻布に公使館が開設されました。
唐人お吉の物語は事実ですが、現在残っているお吉の写真は明治になって美人画のプロマイドとして作られたそうです。
●安政3年(1856)8月21日米国総領事ハリス、秘書兼通訳のヒュースケンを伴い下田に着任。
●安政4年(1857)11月23日ハリス江戸に向け出発、11月30日到着。
●安政5年(1858)7月29日 日米修好通商条約締結、続いて蘭、露、英、仏とも同条約締結。
●安政6年(1859)6月2日 ハリス、玉泉寺の領事館を閉じ江戸に向かい、麻布善福寺を公使館とする。
●同年7月1日 横浜、函館、長崎、開港される。
●同年12月31日 下田港閉鎖される。
●万延元年(1860)2月 日米修好通商条約批准交換のため、遣米使節渡米、木村摂津守が咸臨丸で太平洋横断。
●文久2年(1862)5月10日 ハリス、任務を終えて帰国。
●慶応3年(1867)11月9日 大政奉還。
●明治元年(1868)10月23日 明治と改元。
石廊崎に最も近い温泉、下賀茂温泉に到着。

この宿の名物は完全なかけ流し温泉の元湯と金目鯛の料理に代表される海のものです。よく歩いたから疲れました。

