歴史紀行、南伊豆の旅3、石廊崎、岬めぐり遊覧、下田
南伊豆の旅3日目は石廊崎灯台と遊覧船による岬めぐり、そして最後は下田駅からロープウエイで寝姿山に登りました。
南伊豆の下賀茂温泉の宿は、黄金色の豊富な原湯かけ流し温泉で24時間入浴可能でした。伊豆の宿は金目鯛が売りで、下田駅に迎えに来た宿の人は温泉と料理には満足するとと言っていましたが、歳の割には量をこなせる私も少し持て余し気味で、河津温泉の創作料理の方が今の私には合っていました。宿も宿泊客のニーズが少しずつ変化しているために、食事対応が大変だろうと想います。
私は旅の前に事前知識をわざと得ないで出かけます。そして旅に出てその時感じた最も印象の強かった事項を、帰宅してから調べることにしています。
下田は19年に訪れていますが、下田以南の南伊豆地方は伊豆の中でも開発が遅れていて、昔から人もあまり住んでいない所だろうと想像していました。
青野川に湯煙が点在し伊豆屈指の豊富な湯量の下賀茂温泉の名は、古代氏族賀茂氏が京都盆地に初めて入植し創建し京都のルーツとなった上賀茂、下賀茂神社と同じ名のため、旅館の迎えの人に下賀茂温泉には歴史的な由来があるのかと尋ねたら、開湯は1500年代と古く名前の由来は、平安時代都落ちしてこの地に至った公家が、京を懐かしんで名づけたという言い伝えがあり、詳しいことは定かでないと言っていました。宿についてネットで見た温泉の由来も同じで、もしや賀茂氏と関係があるかも知れないと想いましたがどうも無関係なようでした。
この3日目の紀行は、前日までの自然を楽しむ旅日記と異なり、帰宅してからグーグルマップを見ながら下賀茂温泉を調べていたら、温泉街を形成しているわけでもなく何の変哲もない風景の下賀茂温泉が、意外にも伊豆の歴史の根幹を秘めた土地だと分かり、その結果3日目は歴史紀行のジャンルに変更しました。
唯一の下賀茂温泉郷の写真

下賀茂温泉は青野川に沿って点在しており、下賀茂温泉が存在する南伊豆町の中心部は青野川の小さな盆地にあり、街は南伊豆内陸の中心都市でした。街の中心を走る道路は下田や弓ヶ浜と西伊豆松崎を結び、歴史的に青野川は南伊豆の物流の動脈であることがわかりました。天城街道は下田で完結しますが、下田から内陸の道を進むと青野川に出会い、南伊豆の小盆地に入ります。多分天城峠以南の街は下田だけと想っていましたが、下田の衛星都市として南伊豆町がありました。
グーグルマップを見ながら、賀茂の名の神社を探したら下賀茂温泉近くに、やはり賀茂の名が付いた加畑賀茂神社がありました。
この加畑賀茂神社を調べてみたら、なんと創建は大同年間の810年頃とされ、小さな神社ですが、平安時代制作の延喜式神名帳に記載された郷社ですが、れきっとした式内社でした。
古代には人があまり住んでいないような南伊豆の僻地に、延喜式の式内社が存在していることは驚きでした。しかも平安時代初期の大同年間に創建されたという神社の社伝は、平安時代に都落ちした公家が京を懐かしんで、この温泉に下賀茂という名を付けたという言い伝えよりより、公式の歴史に裏図けられています。いずれにしてもこれは帰宅してから分かったものです。
大同年間創建の加畑賀茂神社は、下賀茂温泉が開湯されたという戦国時代の1500年代より遥かに古く、やはり賀茂族がこの温泉が湧きだす地に入植し賀茂神を祀った事が分かりました。
そして驚くことに加畑賀茂神社の祭神は賀茂氏の神事代主命ですが、江戸時代までは、熱田神宮、氷川神社、香取神宮、鹿島神宮と並ぶ東日本有数の延喜式名神大社である伊豆国一宮の三島大社のと同じ大山祇神を祀っており、明治になって三島社の祭神変更に伴って事代主命に変更されたようです。
加畑賀茂神社が三島大社と連動して祭神を変えたことも驚きであり、加畑賀茂神社と三島大社は創建時より密接な関係があることが分かりました。普通は辺境の小さな郷社は一宮から祭神を勧請して創建されますが、いろいろ調べていく内に、どうやら逆で加畑賀茂神社が先で三島大社は後の創建のようです。そう考えると三島地方より辺鄙な南伊豆地方が、最初に人が入植し稲作を始めたことになります。
一説によれば瀬戸内の大三島の海人族が東を目指し太平洋の黒潮に乗って神津島にたどりつきました。そこから遠くに見える大きな陸地の伊豆に渡り、入植の地を探しながら青野川を舟で遡っていたら湯煙の立つ河原があり、そこを拠点に自分たちの航海神である神(大山祇神)を祀ったといういわれがあります。
加畑賀茂神社を創建した賀茂族の南伊豆進出はずっと後で、賀茂族は入植後、大山祇の神と合祀して加畑賀茂神社として改めて創建したのでしょう。
青野川の海人族の1派は耕地が少ないので、改めて富士山を目指して西伊豆の海に出て、広い平野を目指し狩野川を遡り,富士山の湧き水が豊富に湧き出る地に、瀬戸内の大三島と同じ三島と名付けたと想像します。
青野川を遡って南伊豆に海人族が入植したのは、多分今から6000年前の縄文海進期から3000年前の海退期の弥生時代の出来事と想像します。そして古墳時代に未開拓の伊豆南部の地に鴨族が賀茂郡を構成するほど大挙入植し、先祖神の大山祇神に加えて、自分たちの神である事代主命を祀り加畑下賀茂神社としたのではないかと想像します。
伊豆北部の狩野川流域に定住した海人族は、狩野川を奥に遡り伊豆の原生林のタブノキやクスノキを使用して活発に造船を行ったと想います。そして後代崇神天皇14年、伊豆より大船を献納すと記録に有るように舟づくりに長け、応神天皇5年に伊豆国に命じて長さ10丈(約30m)の船を作らせたと記録に有ります。その船の船足は走るように早く、名づけて軽野と呼んだと、別な記録があります。
軽野→枯野→狩野→カヌー、それぞれの名の関連がいわれています。
伊豆国一宮の三島大社は伊豆国の守護神(19年秋訪問)

三島大社は19年に訪問しました。三島は伊豆国の国府で国分寺や国分尼寺が建てられましたが、中心となる三島大社は伊豆国一宮で延喜式でも我が国第1級の格式を誇る名神大社です。
三島大社は東海唯一古い家格を誇る神社で、武人の頼朝や執権北条氏の篤い信仰で知られており、名刀などが寄進されています。
家の近くにある武蔵一宮の扁額がかかる氷川女体神社の数少ない神宝で、執権北条泰時の三鱗紋の刀が寄進されていますが、これは三島大社に寄進したものとおなじような刀であるとされており、小さな郷社のような氷川女体神社が、鎌倉時代当時は武蔵一宮の名にふさわしい格を持った神社であったことを知りました。執権北条氏が小さな郷社のような氷川女体神社に大社の誉れ高い三島大社と同じ刀を寄進したことに、歴史を現在の姿や論理でものを見てはいけないことを学ぶと同時に、執権北条氏における三島大社の存在に想いを馳せた事がありました。
三島大社を訪れた際、祭神は大山祇神と事代主命と知りましたが、今回三島大社は、瀬戸内の大三島の大山祇神を祀り三島と名づけられたことを知りました。社伝では創建時の祭神は大山祇神で明治になって事代主神の2神を纏めて三島大明神として祀っています。
圧巻の宝物殿を持つ、瀬戸内今治大三島大山祇神社(22年春訪問)

瀬戸内の大三島の大山祇神社は22年瀬戸内の旅の際、しまなみ海道を渡って訪れました。
大三島の大山祇神社は航海の神で、武将から寄進された宝物を治めた宝物殿は圧巻で、頼朝はじめその後の村上水軍が寄進した鎧兜や刀剣は日本一の量です。
丹沢の大山神社は航海神として勧請されたのでしょう。江戸時代の江戸町民の大山詣では風物詩になりました。
奈良葛城山の麓、全国賀茂系神社の元宮の高鴨神社(22年冬訪問)

賀茂族というと、神武東征より前に奈良盆地に入ったとされる三輪族と共に古い海人族で、最初に部族の神を祀った場所がこの高鴨神社です。
高鴨神社は奈良葛城山の中腹にあり、神武東征のはるか前、縄文海進時海人族だった鴨族が、大和川から巨大な湖であった奈良盆地に移住し、葛城山の中腹に拠点を設け初期の稲作を行い神を祀りました。やがて鴨族は水利の良い奈良盆地の端に下り、三輪族と共にいわゆる奈良盆地の先住民族となり、その1派は京都盆地に入り上賀茂神社を祀りました。
鴨族は賀茂、加茂と名を変え全国に広がり、賀茂、加茂の地名をつくり神社を祀りました。その賀茂系神社は300社にも及びます。南伊豆の加畑下賀茂神社は鴨族の移住の結果です。
この葛城山麓の高鴨神社が全国賀茂系神社の本宮です。

高鴨神社のご由緒書きです。カモはカミの語源の1つと考えられており「カモす」という言葉から発生し「気」が放出している様を現わしているとあります。
京都のルーツ、下賀茂神社(21年晩秋訪問)

京都の地も鴨族が初めて入植し、最初に上賀茂神社、次いで下賀茂神社を祀りました。京都三大祭りの1つ葵祭は上賀茂、下賀茂神社の祭りです。

下賀茂温泉の風景の写真は宿の窓から撮影した1枚だけで、後は2階の窓からどうでも良いアヒルの画像ばかり残っています。
帰宅してから調べを進めてい行く内に更に驚いたことは、律令で伊豆国が設定された際、伊豆国は北部の田方郡と南部の賀茂郡の2つの郡から構成されていました。そして更に大宝律令では那賀郡と君沢郡が加わり4郡となりましたが、天城峠以南は賀茂郡でした。
ということは飛鳥の律令時代に既に賀茂郡が設置され、恐らく南伊豆町に郡衙が置かれ、郡の中心に賀茂神社が建立されていました。
古代郡衙には必ず良好な水田があり、平安時代にはその多くが公家の荘園となり、それを守る武人が武将となり一族を率いてきた歴史がありますが、南伊豆は余りに耕地が小さく多くの武将は水軍となり米以外で暮らしを建てていたのでしょう。
何の変哲もない田舎の温泉地が、実は深い歴史に満ちていたことを知り、伊豆の歴史の中で深い襞を刻んできたことが分かりました。
いつも初めての地を旅し気になったことがあると国土地理院地図を必ず見ます。国土地理院地図は学生時代から登山のバイブルでした。今でも古い字名が気になる際は必ずネットで地図を開いて調べます。今回初めに国土地理院地図を開きましたが、下賀茂神社の名が記載していなく、より世俗的なグーグルマップで確認しました。
南伊豆が律令制で伊豆国賀茂郡だったことが分かり、改めて国土地理院地図を眺めてみると、下田湾の南の小さな湾に内陸から大賀茂川という名の川が注いでいます。更に下賀茂の地名があるなら上賀茂はどこにあるのか調べたら、青野川の上流に上賀茂の字名がありました。グーグルマップの前にいつもと同じように国土地理院地図をじっくり眺めていれば、良かったと想っています。
初めての石廊崎

下賀茂温泉について書いていたら、長くなってしまいました。しかしほとんど撮影しなかった、何の変哲もない下賀茂温泉の由来について掘り下げることができて、初めての南伊豆の旅も歴史紀行のジャンルに入れようという気になってきました。
以前訪れた各地の灯台たち
私たち日本人は灯台は大好きです。我が国は島国でしかも世界有数の荒波に囲まれています。私のような海無し県に生まれ育っていても、冬の日本海や悪天下の太平洋の海の恐ろしさは皆知っていて、我が国の周辺は呑気に航海なんてできないことは解っていました。
江戸時代まで日本の和船は、港が潟で浅く舵は近代船の固定陀と異なり、陀を引き揚げる構造になっていたため、太平洋近海航行中嵐に遇って陀がひきちがれると難破すると漂流するしかなく、多くの船乗りがアメリカやロシア船に拾われました。また幕末も多くの外国船も日本近海で難破しました。
明治新政府は欧米人の忠告を受け、日本全国の主要な岬に西欧式の近代灯台を設置しましたが、建設は鉄道設置より早い時期に行われました。江戸時代の物流は陸上輸送よりも海上輸送が主で、それだけ航行の安全が急務でした。
私たちが灯台に憧れと郷愁を感じるのは、美しい岬に立つ姿もありますが、私たちのDNAに海人族の血と、美しい旭日を求めてひたすら真東に向けて住むべき地を求めてやってきた祖先たちの気が遠くなるような歴史の記憶がDNAとして残っているからと空想します。


根室納沙布岬灯台(10年10月)、国後島がはっきりと望まれます。下北半島尻屋崎灯台(9年、9月)、津軽海峡の太平洋側の入り口で海難事故が多い場所でした。


鹿児島南端開聞岳(14年11月) 開聞岳を望む一の長崎鼻灯台


横須賀沖の要塞島猿島灯台(15年9月) 北茨城の大津岬灯台(23年10月)、黒潮流れる太平洋岸の灯台は迫力があります。


瀬戸内鞆の浦江戸時代の灯台(23年4月) 元海軍兵学校の江田島灯台(23年4月)
喜びも悲しみも幾年月
灯台の暮らしを主体にした木下啓介監督の映画「喜びも悲しみも幾年月」は昭和32年に上映され、その主題歌と共に大ヒットしました。
当時私は中学2年でロカビリーや洋画に熱中したので、毎週映画は見ていたにも関わらず自分の趣味とは無関係なこの映画と主題歌には何の関心も払いませんでした。
しかし20代になりTVでリバイバル放映した映画を観ながら改めて感銘を受けました。映画や歌はその時代を反映したものがヒットし,多くが時代と共に消えてしまいますが、太平洋戦争も絡んだ時代が印象的なこの作品を見ながら、たとえ見る人が少なくなっても、木下啓介監督のこの作品のテーマの普遍性は映画の歴史に残るだろうと感じました。
1)俺ら岬の灯台守は 妻と2人で
沖行く船の 無事を祈って
灯をかざす 灯をかざす
2)冬が来たぞと 海鳥啼けば
北は雪国 吹雪の夜の 沖に霧笛が
呼びかける 呼びかける
3)離れ小島に 南の風が
吹けば春来る 花の香便り 遠い故里
思い出す 思い出す
4)星を数えて 波の音きいて
共に過ごした 幾年月の よろこび悲しみ
目に浮かぶ 目に浮かぶ
石廊崎灯台

明治4年日本の灯台の父と呼ばれた英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により完成した、我が国で7番目に古い洋式灯台です。
ここで灯台を見上げながら歩いていた家内が突然つまずいて目のめりに転倒してしまいました。
左手の平で受け身をしたため、口内が傷つき、左手が損傷し小指が動かなくなり、みるみる内に腫れてきました。私は山ではいつも応急手当具を持参していますが、今回は旅のため持参せず、代わりに用意良く息子と娘が応急手当具を持参していたため応急手当を施しました。家内の小指は動かなくなり、直ぐに下田の病院に行こう即しましたが、骨折のような激痛は続かなかったため、家内曰く今日はこのまま行動を続け帰宅した明日朝一番で地元の整形外科病院に行くことがbetterとの事で、家内の意思を尊重することにしました。
石室神社

この崖の下に石室神社がありますが、急な階段を下るので、私が家内に付き添い待っていることで子供たちだけが石室神社に向かいました。

下の屋根掛けが石室神社で、崖に設けられた急な階段です。

石廊崎の光景

石廊崎の光景

崖の下に石室神社があります。気候も良いシーズンなのに観光客は誰もいません。伊豆は紅葉が大したことが無いので紅葉シーズンは空いているようです。


岬の絵馬堂の絵馬の数々です。神様はきっと願いをかなえてくれるでしょう。

崖の上で景色を見ながら、子供たちを待っている家内と私が見えます。
家内が大丈夫というので予定している岬めぐりの遊覧船乗り場に向かいます。
野菊

あちこちに野菊が咲いていました。
ハイビスカス

この花があると南国気分になります。
遊覧船乗り場への遊歩道

石廊崎の手前にオーシャンパークという立派な施設があり、案内所やレストランもあります。そこで家内の手当てをやり直します。手の腫れの拡大は収まり、痛みはあるものの激痛はないようです。
岬は崖の上にありますが、遊覧船乗り場はかなり下った場所にありますが、立派な遊歩道が通じています。
長津呂港と白水城

帰宅してからグーグルマップで確認すると遊覧船乗り場は長津呂港と言い、佐藤和夫著「海と水軍の日本史下巻」によると水軍の根拠地で、白水城という山城が控えている湾です。
石廊崎岬めぐり遊覧船

遊覧船は我々だけで貸し切り状態でした。
長津呂白水、小田原北条水軍御簾三河守拠点

先の佐藤和夫著「海と水軍の日本史下巻」によれば、伊豆は伊豆水軍と呼ばれ東伊豆は伊東氏が西伊豆は狩野氏が率いていて、三浦水軍、千葉水軍と共に頼朝挙兵にそれぞれの立場で参加しました。戦国時代になると伊豆水軍は小田原北条水軍となり西伊豆の沼津、戸田、土肥、田子、松崎、妻良や東伊豆長津呂、青野、下田、河津などを拠点とし活動していました。
この長津呂白水は御簾三河守の拠点でした。戦国時代、国人や土豪は勝手に官位を名乗っていましたがさすが守を名乗るのははばかれるため守を付けず土佐とか武蔵とか安房と名乗っていましたが、この御簾三河守の兵力は恐らく舟100艘に兵100人程度だった想います。
この長津呂港は湾口が狭く奥行きがあり、守るには最適の場所でした。
秀吉の小田原攻めで伊豆水軍は600名が下田城に50日間籠城しました。

伊豆水軍は松崎の高橋氏や妻良の村田氏、さらに長津呂の御簾氏、青野の青野氏と城将清水氏軍勢など総勢600人は北条氏伊豆郡代の清水氏の元、下田城に籠りました。秀吉軍は西国の九鬼、脇坂水軍や加藤、長曾我部水軍、家康水軍計1万が西伊豆の伊豆水軍拠点を攻略しながら下田城を包囲しました。小田原北条軍と伊豆水軍600名は籠城戦で対抗しましたが50日持ちこたえ降伏しました。
岬めぐり

奇岩の連続です。

岬の上に灯台が見えます。

石廊崎を背に湾を出ます。

この辺りは塩の流れが複雑で早く、操船技術が必要です。

離れた岩礁に釣り人がいます。釣り船で運んでもらって釣りをしています。

船頭さんは操船が慣れているため複雑な潮の流れの中、岩礁にかなり近づいてくれます。

見た目は凪いでいるようでもかなり揺れます。

素人だったら1発で座礁してしまうでしょう。
長津呂港は海軍特攻震洋隊の基地でした。

ここ長津呂港には戦争末、米軍の本土上陸に備えて海軍第16突撃隊の基地がありました。突撃隊と特攻兵器震洋の部隊のことです。奥に見える左右の山を覆ったコンクリートの壁の中に震洋の艇庫があり4,50隻は格納されていたと想います。伊豆における震洋の基地は西伊豆に第15突撃隊、東伊豆の第16突撃隊は稲取、下田、湊、長津呂に配属予定でしたが長津呂だけに終わってしまったようです。
特攻兵器震洋はベニヤ板製のボートにトラックのエンジンを乗せ、250㌔爆弾と共に20数ノットで敵駆逐艦に体当たりする特攻兵器でした。搭乗員は学徒出陣学生と飛行予科練性からなり、特攻人員に対し登場航空機が不足したため、安価なベニヤ性のトラックエンジンのモーターボート以下の特攻艇が実戦配備しました。
実戦ではフィリピンで使われ、約2,500人が命を落としましたが、大半は特攻作戦でなく訓練中の火災で亡くなったようです。ファンやラジエターも無く海水でエンジンを冷却しますが、始動時高温でガソリンに引火し搭乗員もろとも爆発し1回の爆発では部隊全体の100~200艘が失われた事もあったと言われたとんでもない兵器でした。
幸い米軍の本土上陸が無かったため西伊豆や東伊豆の震洋隊は無事でした。震洋の戦史は、出撃前や訓練中の火災で殉職した隊員が大半のため、航空特攻のような華々しい回顧録はほとんどないようです。
知覧で太平洋戦争末期の陸軍特攻出撃の搭乗機の大半が、空戦に耐えられない旧式機であったことを知ってから、陸軍官僚機構の恐ろしさを垣間見ました。今回ベニヤ特攻兵器震洋についても少し知っただけで、同じく海軍官僚機構の恐ろしさを知りました。かって日本人は状況が沸騰した際、個人の判断力を徹底的に無視し、上部から指示の元、員数合わせの意思だけが率先する組織体質は、国家官僚機構に最も如実に表れます。その恐ろしい体質は組織だけでなく我々個人誰もが秘めています。
下田の街に向かう

下田と石廊崎は路線バスで結ばれています。
美しい弓ヶ浜

昨日旅館の迎えの人が、浦和高校の臨海学校が下賀茂温泉に分宿し弓ヶ浜で行われていると話していました。それは私の母校だと告げたら、旅館は他の客について話すことはタブーなのかそれ以上話題は進みませんでした。
私の時代臨海学校は房総勝山で行われており、伊豆の方に場所が変わったと聞いたことがあり、ここ弓ヶ浜で行っているのかと分かりました。
母校の行事は1回始めると50年でも100年でも続けることが伝統ですが、入学しその7月1年生だけの臨海学校は楽しいものでした。
私たちの時代は房総勝山の各寺に400人が分宿し、毎朝大太鼓の中ふんどしスタイルで「我は海の子」を合唱し行進して浜に集まり、初級、中級、上級と別れ最終日は、中級以上は勝山から隣の保田まで約3㌔の遠泳を行います。多分行事のスタイルは旧制中学時代から踏襲していたのだと想います。
今はどんなスタイルなのか、でも男子校の質実剛健をモットーとする母校生徒にとって、下賀茂温泉は彼らにとって温泉と料理は少し贅沢ですが臨海学校の宿にふさわしいです。先生方は良く弓ヶ浜と下賀茂温泉を見つけたかと想いました。
海岸の山を避け青野川沿いを進みます。

美しい弓ヶ浜には漁船が1隻も見当たりません。青野川沿いを進んだらかなり奥にたくさんの船が係留されているのが見えました。青野川自体が港なのです。古代海人族は子の川を遡って、河原から湯煙が挙がる地に拠点を置き、神を祀ったのでしょう。

街道は青野川を渡ります。ここから昨夜泊った下賀茂温泉は近くですが、ここまで川港が続いておりたくさんの漁船が係留されています。小田原北条水軍のリストに青野水軍鈴大和守の名があります。ここが根拠地だったのでしょう。
下田寝姿山ロープウエイ

路線バスで下田に戻ってきました。昼が過ぎてしまったので駅周辺でなく、駅近くから発車するロープウエイに乗って寝姿山頂上のレストランで食事することにしました。

前回下田に来た時は時間が無くて乗れなかったので、今回が初めてです。

素晴らしい眺望です。
展望レストラン

JR九州新幹線やクルーズトレイン七つ星をデザインしたデザイナー水戸岡鋭冶氏がデザインした東急のレストランです。

ウッドデッキからの眺めは最高です。

寝姿山のピーク周辺は花のガーデンになっています。
寝姿山ガーデン名物、リトルエンジェル

リトルエンジェルが山頂公園に800本植えられていると案内に記していましたが、このリトルエンジェルは野牡丹の改良種でした。

寝姿山のハイキングコースは1周1キロで、頂上には愛染明王堂があり参拝で賑わっています。
寝姿山山頂

下田湾内が一望できます。家内は大丈夫なようです。
下田駅から帰途

下田から踊り子で帰ります。熱海で九州に帰る息子と東京都内に帰る娘と別れ、我々は往路と同じ熱海から東京上野ライン高崎線のグリーン車で浦和まで真っすぐ帰りました。高崎線は帰宅ラッシュでしたが、我々は無縁に帰路に着きました。
旅の翌朝一番で、治療に定評がある整形外科病院に行きレントゲン診断の結果、家内の左手の小指は骨折では無く骨が外れており大事に至りませんでした。麻酔で骨を元の位置に戻しギブスで固定しました。それから1か月の1月5日にギブスを外すまで、左手を濡らすことができないので、私が食事後の洗いや、芋などの皮むき、完全に両手を使う作業は全て行いました。
そして正月に顔を合した子供たちの提案で、1月5日ギブスを外しても夕食後の食器や調理器具の洗いだけを私の担当として残りました。何か毎日の家事をやらなくてはとうすうす想っていましたが、何もやらない印象の息子からの提案がとても意外でした。でも考えてみたら息子は1人暮らしのため19歳から今まで家事は全てこなしてきたことに改めて気が付きました。
再び神津島について

今回の旅では海の風景を堪能しました。伊豆急に乗って車窓から海を眺めようとしたら車窓に貼られた伊豆諸島の図が眼に入りました。
その図には、今まで忘れていた神津島が表示されていました。神津島については、かねてより疑問に想っていたことがありました。縄文時代神津島から採集した黒曜石が伊豆や相模でかなり発見されており、当時丸木舟で黒潮を横切りどのようにして伊豆や相模に運んだのか?という疑問がありました。この疑問は古代史に興味を抱く人なら誰でも抱いていた疑問です。
航海民は1つの島から次に見える島まで渡ろうとする本能があります。ポリネシア人たちはあの広大な南太平洋の島々にほとんど渡りました。地図を見ると神津島は遠く縄文人たちはどのようにして行ったのかという疑問は、伊豆半島から神津島が見えることで、疑問の1つが解けたような気がします。
しかし、それでも縄文人たちはどうして神津島で黒曜石が採掘できることを知ったのか?という疑問が残りました。
今回、三島大社の由来が瀬戸内の大三島の大山祇神であり、その最初が海人族が黒潮に乗って神津島に辿り着き、そこから伊豆に渡り、青野川を遡り下賀茂温泉に定住したこと。そして更に広い耕地を求めて西伊豆から狩野川を遡り、大きな平野の中の富士の豊富な湧き水の地を見つけ、三島と名付け下賀茂の地と同じ神を祀ったと仮定したら、その謎は全て解けました。
神津島に流れ着いた海人族は、黒曜石という武器と財産を持って南伊豆に渡り、先住民をてなずけたのかも知れません。彼らが流れ着いた島の名が神津島と名付けられているのも何やら意味ありげです。多分弥生時代初期はこの南伊豆の海人族たちは、何世代も神津島に渡って黒曜石を採集していたのでしょう。
家族との旅の間は、歴史についてあまり考えません。今回は子供たち4人との楽しい旅なので、会話はお酒と料理の事や子供時代の想い出などなどで共通の話題が多すぎて、歴史の専門家の息子とも伊豆の歴史について語りませんでした。
しかし、帰宅して正月に帰省した息子が帰ってから暇になり、南伊豆の下賀茂温泉の存在について、空想がとめどなく拡がり予期せぬ楽しみが広がりました。
学者は推論を全て実証しなければ科学でなくなりますが、素人はこんな荒唐無稽な空想が太古の伊豆の歴史だなんて無責任に空想できる楽しみがあります。
追伸 南伊豆マラソン
山好きな知人と南伊豆の旅について話していたら、知人は昨年秋に開催された南伊豆マラソンに参加したとの事でした。
そのようなマラソン大会があるのか?と聞いたら、下賀茂温泉を起点に西伊豆海岸から石廊崎、そして青野川をさかのぼる1周45キロの山あり谷ありのコースで、神津島を初め伊豆諸島の島々を眺めながら走ったと言っていました。
マラソン大会とはいえ着準は無関係で、5時間以内で走ったら失格だということです。知人は途中歩いて7時間かけたと言っていました。
エイドコーナーが漁村ごとに設けられ、地元名産を食する楽しい大会だったらしいです。
南伊豆町もなかなか大したものです。

