歴史紀行・冬の奈良の旅1、生駒山寶山寺

毎年12月下旬に薔薇友の玉置さんと古代史に関わる畿内の神社仏閣を訪ねる旅も、今回で9度目になりました。

今回は奈良盆地と大阪平野の間に横たわる生駒山地の奈良側の寶山寺と、大阪河内側の石切神社と河内一宮枚岡神社を訪れました。

昨年は私の都合で行けなかったため、今年は1年ぶりの冬の旅になりました。玉置さんとは1年に1度の旅で再会し、奈良周辺の古社古寺を訪ねながら我が国の創世記の時代に想いを馳せます。というよりこの冬の旅のお陰で、畿内オンチだった私が古代史の舞台で繰り広げたであろう我が国の創世記を具体的にイメージできるようになりました。

名古屋出身の玉置さんは、高校時代暇さえあれば畿内の神社仏閣に出かけていました。大学は私と同じ早稲田ですが、彼は金春会に属し能を行っていたので畿内の歴史の舞台に更に詳しいのです。
反面、浦和産まれの私は子供の時から畿内は別世界で地理にも疎く、高校の修学旅行で初めて京、大阪を訪れても位置関係が具体的にイメージできませんでした。やがて登山に夢中になっても機内の山は登山の対象とはならず、仕事でも頻繁に関西に行ったわけでもなく、東日本に比べて畿内の地理が疎いまま過ぎてしまいました。

戦国時代の信長、秀吉、家康の歴史小説を読んでも地理がピンとせず、距離感や地形が具体的に浮かばないため、彼らには親近感が持てませんでした。反面関東の地理は良く判るため頼朝や武蔵、相模武士、戦国の越後の謙信や甲斐の武田、小田原北条には親近感があり、それは東北の政宗まで広がりました。

地理が暗いと余計幾内には行きたくなくなり、息子が8年間大学院生で大阪で暮らしていたのに私は1回も大阪を訪れることはありませんでした。しかし生粋の東男と称する私にとって、正直言うと権力を持った畿内は好きな地域ではない反面、畿内には我が国の歴史を形成してきたという深いコンプレックスがありました。

しかし30数年前から父母の墓守を行うようになり、菩提寺のご住職の真摯な姿に感化を受け真言密教への興味が湧き、それと共に我が国の仏教の歩みも具体的に知りたくなってきました。そういう気持ちの流れの中で食わず嫌いだった畿内への興味が沸々と湧いてきて、指南役の玉置さんとの冬の旅が始まりました。


京都八条口の行きつけのカフェ

新幹線の京都で降りて奈良に向かう時は、必ず玉置さんお気に入りのこのカフェで昼食をとってから出かけます。愛煙家の玉置さんは禁煙でないこのカフェはくつろげるのです。私はこのカフェのナポリタンやカツカレーが大好きで、その古典的な味に堪能します。人気があるのでいつも満席ですが、もちろんコーヒーは抜群で味にうるさいといわれる京都人を満足させています。

今まで行った9回の冬の旅を振り返ります。

13年、高野山、興福寺、春日大社、東大寺、新薬師寺、元興寺

最初に高野山を初め我が国を代表する寺院を訪ねた冬の旅の印象が特に強烈でした。これに比叡山が加われば、我が国の仏教の歴史を学ぶことができますし事実学びました。

日本人の原点を感じた高野山奥の院

空海が眠る御廟、今でも毎日2回の食事が捧げられています。

奥の院の参道左右には、戦国武将たちのお墓が並んでいます。家康が各武将たちに勧めたと言われていますが、信長、秀吉、秀長、三成、謙信、信玄、明智光秀など戦国武将たちは生前高野山に寄進していたため、見返りに墓地を与えられた側面もあります。

高野山に来てみると、歩いて登ると数時間を要する標高900mの小さい山上の平地に3,000人が暮らし、戦国時代の名だたる武将たちの墓が林立している圧倒的な風景に接することができます。明日をも知れぬ戦国武将たちは、自己の領地に氏寺を建立し、更に修行のための禅寺を建立し高名な禅僧を招聘しました。また戦場には部下たちのために従軍牧師と同じ時宗僧を帯同していました。信玄と謙信の名は出家した時の彼らの戒名で生前名乗りました。日常死と隣り合わせで生きていた戦国武将には宗教が必要だったのでしょう。

平安時代には公家など死後浄土世界に憧れ、室町など中世日本では、羽黒、戸隠、日光、大山、立山、富士山、吉野、熊野、葛城、英彦山など修験教団が山に準拠し、街や村では本願寺門徒が大勢力で教団を拡大していました。江戸時代は幕府の寺受制度の基、現在のコンビニと同数の7万もの寺院があり住民の戸籍管理を担当していました。更に明治の神社集合令以前旧村毎にあった村社(鎮守の森神社)も統廃合されて、多くの村祭りも無くなってしまいました。

仏教や神様の歴史を知るにつけ、現在、外国人から無宗教と言われ、自分たちもそう思っている日本人は、江戸時代までは西欧のキリスト教国やアラブのイスラム教国に負けないくらい日常的に神様や仏様と共に暮らしていたことが、私なりに分かってきました。近代化を促進した社会の中で無宗教化への傾向は西日本より東日本の変化の方が激しかったように想えます。
それは明治新政府が東京に遷都し近代化を進めたことと無関係ではないでしょう。

唯識哲学の寺院、興福寺

興福寺は藤原氏の氏寺ですが、大乗仏教の天台宗最澄と対決した南都仏教の拠点の法相宗の寺院です。
仏教は三蔵と言われる経、律、論(アビダルマ)の3つから成り立っていますが、興福寺北円堂(未公開)には釈迦の思想を分析体系化し論(アビダルマ)という哲学体系にまとめた運慶作のインド僧世親の像があります。興福寺は世親の唯識論が元になり日本に伝わった法相宗の中心となった寺院です。

興福寺は藤原氏の氏寺と建てられ、中世までは興福寺の寺領は大和国(奈良県)1国という広大なものでした。しかし明治の廃仏毀釈で五重塔が売られそうになったのは有名な話です。
興福寺では南都仏教の神髄と天平美術の素晴らしさを感じ、古都奈良の歴史に想いを馳せることができ、今でもその強烈な印象は残っています。

我が国の仏教の象徴となった聖武天皇の東大寺

東大寺の大仏の蓮華座をまじかに眺めながら、奈良のあの時代東大寺を建立し、全国64ヶ所に国分寺、国分尼寺を建立した聖武天皇の想いの源泉に胸を馳せました。
帰宅してから華厳経について調べ、聖武天皇が我が日本の国土に華厳世界に現出しようと言うユートピアに近い論理と、全国に国分寺、国分尼寺を建立し、人々にビジュアルで説得しようとした想いを知りました。
当時、地方で人々は竪穴式住居に住んでいた時代、瓦屋根の本堂と高層建築の技術のない我が国で七重塔を作ったことを考えると、聖武天皇の壮大な構想は明治日本でも到底及ばないことが分かりました。

住宅街の中の異空間、新薬師寺

住宅街の路地を曲がると新薬師寺がありました。ひっそした受付で入場券を求め、直ぐ前の本堂に入るとそこは驚きの世界でした。薬師如来を中心に国宝の十二神将が手の届く距離に並んでいました。

古都奈良は生活空間に天平美術の傑作が並んでいる世界でも稀有な街です。
この最初の旅で、我が国の仏教が国家鎮護の国教から発展し、様々な形態をとり仏教が単一宗教の画一性世界で無いことが分かりました。。

14年、長谷寺、室生寺、伊勢神宮

長谷寺は私の宗派真言宗豊山派の大本山ですが、以前から訪れたいと想っていました。長谷寺は花の寺としても有名なため、その後桜の季節に家内と行きました。
伊勢神宮は強雨に雨に当たられビショビショで茶店に飛び込みました。この旅では何といっても女人禁制の室生寺が印象的でした。

室生寺の金堂は平安初期の建立ですが、内陣には手の届くところに所狭しと国宝・重文の仏像が並んでおり、こんな参拝客は誰もいない山中の中で直ぐ眼前に国宝の11面観音菩薩仏像や国宝の釈迦如来像、重文の地蔵菩薩像、更に重文の12神将像群が迫る贅沢さを味わいました。
国立美術館で仏像展が行われたくさんの人たちが列を作って見に行きますが、仏像はやはり安置してあるお堂の中で見ることに勝ることはなく、特に密教寺院は山中の大自然と融合するシュチエーションが大切で、当然きらびやかな仏像群は宇宙の曼荼羅を体現しているのです。ですから曼荼羅の一部分の仏像を博物館のステージで展示しても、仏像の宗教的な感慨は相当減じてしまうでしょう。

15年、比叡山東塔・西塔、日吉大社、西教寺、三井寺、東寺

この旅の中心は比叡山でした。比叡山は京都から登る人が圧倒的に多いですが、比叡山の玄関は琵琶湖湖畔の街坂本がメインで、比叡山の塔頭は全て麓の坂本にあります。
宿は比叡山山頂で取りましたが、湖西の日吉神社は比叡山の守護神であり、山王まつりの神輿を担いだ僧兵たちの強訴は、平安末期古代国家の我が国が無法国家であったことの証明になりました。
西教寺は天台宗の念仏寺であり、三井寺は天台宗寺門派総本山で、真言宗当山派修験と修験道を2分する本山派修験の拠点が三井寺にあり、後に熊野三山を統括する天台修験が三井寺から始まったことが分かりました。

この旅で役行者が創始したと言われる各地の修験道寺院の多くが天台密教系となり、大勢力を誇るようになった歴史が分かり、以後仏教と修験道を分けて考えなくなりました。この時空海が建立した東寺も訪れました。
東寺は足利尊氏や織田信長が京に進出時に本陣にしたように現在よりもっと防備が堅固だったように想像します。創建時からあれだけの仏像マンダラを保持していたために、必要冶以外は現代のように一般民衆には公開されておらず、国家寺院の奈良の寺院では兵士が警備していたと想われますが、東寺は民間のため多分武装した僧が警備していたと想像され、それが後年僧兵の基になったような気がします。


三井寺は実にさまざまな歴史を経た寺院です。京の隣で琵琶湖舟運の交通の拠点にあり、素人受けする寺院ではありませんが、円珍と三井寺を語らずして我が国の仏教は語れない第1級の寺院です。

16年吉野山

年末の吉野山は寒いです。吉野山の一番奥の聖徳大寺時代に建立した椿山寺が起源とされる吉野屈指の宿坊寺院に宿をとりました。吉野修験の象徴の山上ヶ岳の頂上にある大峰山寺の住職は竹林院を交えて四ヶ寺が交代で務めることが慣わしでだそうです。玄関を上ると狩野元信作の六曲一双の「夏冬芭蕉」が飾られ、食事は江戸時代の障壁画の間でいただきました。また庭は群芳園と呼ばれる名園で、秀吉の吉野の花見に先だって千利休または細川幽斎が桃山風の池泉回遊式庭園に改修したと言われています。

南北朝時代に北朝の後小松天皇の命で椿山寺は竹林院と改名され、金峯山寺真言宗系の有力寺院として明治の廃仏稀釈を迎えましたが、当時のご住職は「旅館である」と言い開き寺院の竹林院を踏襲したとお話されていました。

金峯山修験本宗総本山の金峯山寺の国宝の蔵王堂です。有名な青の蔵王権現は秘仏であるために見ることはできませんでしたが、翌年4月桜の季節のツアーではご開帳されていてまじかで拝顔することができました。

17年、丹後、元伊勢籠神社、真名井神社、智恩寺、成相寺

伊勢神宮には天照大神をお祀りした内宮と天照大神の食事をお世話する豊受大神が外宮にお祀りされていますが、豊受大神は元々丹後の籠神社に鎮座されていましたが、伊勢神宮創建の際、豊受大神は丹後から移りました。従って丹後の籠神社は元伊勢籠神社と呼ばれるようになりました。真名井神社は籠神社の奥宮で古い神社の姿の磐座が祀られています。

天橋立の起点にある知恩寺は我が国3大文殊と呼ばれる由緒ある寺院です。成相寺は天橋立を見下ろす西国観音28番札所の古い観音様で、現代の感覚ではよくこんな辺鄙な山上にあるなという印象を受けますが、古代天橋立の北は古代丹後王国の拠点であり、やがて大和朝廷の軍門に下り豊受大神を差し出し、律令時代になると国府がおかれました。宮津は良港で古代日本海交易の中心地だったような気がします。

元伊勢籠神社。皇室の菊の御紋章を許されています。


20年、宇陀、安部文殊院、三輪山大神神社、山辺の道、穴師坐兵主神社、

この年は、安部文殊院から神武の奈良盆地侵入ルートの宇陀に泊まり、翌日三輪山から山辺の道を歩き、崇神天皇の纏向遺跡を遠望し墓古墳を眺めながら謎の古社穴師を訪れ、創世記のヤマト王権の足跡に想いを馳せました。東大寺別院だった安部文殊院は3大文殊の1つで、特に快慶作の渡海文殊像に感銘を受けました。

玄宗は遣唐使で渡った安部仲麻呂を放さず、望郷の念に捉われながら異国の地で果てました。安部仲麻呂や安部清明の安部一族の氏寺である安部文殊院はどこか日本離れしたエキゾチックな雰囲気を漂わす寺院でした。

渡海文殊

私は仏教伝来の壮大な物語を描いた渡海文殊が大好きです。仏教は経典、律(法律)論(哲学)の三蔵から成り立っており、インドから中国に渡って梵語が漢語に翻訳されました。
仏教は文字だけでなく絵画、仏像、法具、衣装、建築も伴って更に海を渡って我が国に伝わり、顕教の最後に密教が渡ってきて、シルクロードの終着点は日本になりました。
仏教発祥の地インドでは既にアレキサンダーにより西洋のヘレニズム文化も入ってきており、改めて仏教伝来の道がシルクロードであり、紀元前の人類の遺産がまとまって我が国に入って来て終着駅になったことが分かります。従って仏教を学ぶことは紀元前の人類の遺産を学ぶことでもあるのです。

安部門寺院の快慶作の渡海文殊は撮影できませんが、この国立博物館のリニューアル展での興福寺勧学院康円作の文殊菩薩です。同じ姿の渡海文殊ですが、安部文殊院図録の快慶作の渡海文殊は圧倒的な迫力があり、なによりもパミール高原やシルクロードを経てヤマトの地に仏教が伝来した壮大な物語に感銘を受けます。

法華経の善財童子が先導し文殊菩薩が遠くインドから中国にそして日本に渡って来た仏教伝来を現わす仏像を眺めていると安部文殊院がシルクロードの終点であったような気がします。快慶がこの像を制作した背景に東大寺大仏を再建した重源の姿を感じます。重源は日本国中を巻き込み東大寺再建の勧進を行った人物ですが、彼の心には三蔵法師から聖徳太子、聖武天皇を経た長大な仏教のシルクロードがイメージされていたのでしょう。東大寺再建後に最後に、快慶に指示して別院である安部文殊院に渡海文殊を奉納したのでしょう。

22年、西大寺、秋篠寺、高鴨神社、葛城一言主神社、鴨都波神社

奈良時代、東大寺と平城京を2分した忘れ去られた大寺、西大寺、美しい伎芸天の秋篠寺、そして奈良と大阪との境の山地、葛城山に鴨、葛城一族の足跡を訪ねた旅を行いました。鴨、葛城一族は三輪族やナガスネヒコ族と共に神武東征より前に移住した奈良の先住民ですが、鴨、葛城一族が最初に拠点を置いた葛城山麓の神社を訪れました。
葛城氏は古墳時代天皇家の外戚として勢力を誇りましたが、滅亡し末裔は蘇我氏に引き継がれたと言われています。鴨族と葛城族は葛城山で深く結びついており鴨氏はやがて全国に賀茂氏として拡大しましたが、葛城氏はヤマト王家の外戚として畿内のみにとどまりました。

高鴨神社を訪れた日は土曜日で前夜葛城山に大雪が降り、タクシーで行きましたが、大雪で葛城山の中腹の高鴨神社には参拝客はいないだろうと想っていたら、大阪NOの車が駐車場を埋めており、参拝を終えて駐車場の隣にあるうどん店で昼食を採っている様子がとても印象的でした。タクシーの運転手さんからはるばる東京や浦和からお参りに来たのだから、御利益はあるよと言われました。
首都圏ではこんな雪の日は神社には参拝客など見当たらないと想いますが、畿内、特に大阪人の信仰の篤さに改めて驚きました。この後葛城一言主神社に行きましたが、ことらはの方が足の便は良いですが、高鴨神社の数倍の参拝客で賑やかでした。葛城一言主神社の足の便は良いというのは高鴨神社との比較で、場所としては人家から離れた葛城山の麓で、雪の葛城山を越えなければ来られず、ここでも大阪人の信仰の篤さに驚きました。

23年、信貴山朝護孫子寺、龍田大社、海龍王寺、総国分尼寺法華寺、平城京東院庭園

大阪と奈良の間は北から生駒山、信貴山、そして奈良盆地の住人の浄土の方角の山、二上山、そして葛城山塊が障壁のように立ちはだかっています。飛鳥の都は奈良盆地の南西部の丘陵地帯にあり、平城京は奈良盆地の北よりに位置します。6000年前の縄文海進時は、大阪と奈良盆地は海でした。やがて縄文海退期が始まり3000年前には海は浅い湖や池に変わり、水稲耕作のために人々が平地に定住し始めました。弥生時代の始まりで、人々は縄文時代と同じように小動物の狩猟と漁労と初期の畑作と水田耕作を長い間行っていました。2400年前ごろの春秋戦国時代から2300年前頃の秦の統一頃から江南の海人族が組織的に移住し、海退が進む河川を遡って山際の扇状地に定住し、各地に本格的な水田耕作の村が出来始めました。やがて1800年前の3世紀になると、半島の漢の楽浪郡や帯方郡と交流により人や技術の往来が盛んになり、大陸の騎馬文化が導入され従来の舟運に加えて陸運が盛んになりました。

信貴山は河内と奈良の間の障壁ですが、信貴山には飛鳥国家を守る神が祀られ、難波と飛鳥を結ぶ唯一の舟運の大和川には風の神龍田神社が祀られました。
我が国の仏教を発展させた聖徳太子は信貴山を敬い、大陸と結ぶ大和川には龍田神社を建立し、その背後に法隆寺を建立、飛鳥の都の中継点としました。
聖徳太子の偉業を継いで亡くなった聖武天皇の意思を継いだ光明皇后は海龍王寺を建立し、ゆかりの総国分寺国分尼寺では貧しい人々のために薬草風呂を運営しました。

信貴山朝護孫子寺は有名な国宝信貴山絵巻のある寺院です。信貴山朝護孫子寺は仏教の百貨店のようなここに来れば必ず信仰する宗派のお堂に出会います。灯篭の寄進者を見ると圧倒的に大阪人が多く、信貴山も大阪人の信仰の篤さが印象的でした。

年末の冬の旅以外に14年から1昨年の10年間、数多くの古社、古寺を訪れ、実地に見た風景と書物によって、我が国における仏教の歴史が理解できるようになりました。

登山も60年間続けているとだんだん飽きてきて、13年の冬の旅で初めて高野山や興福寺、東大寺など畿内の寺社を訪れてから、他の古寺や古社も見たくなり、山に行く代わりに家族や山仲間と古社や古寺の他、街道の峠や各地の城や古戦場を訪れる機会が多くなりました。
古寺、古社を訪ねる旅はツアーもありますが、大半は旅の途中に出会った寺院や神社がほとんどです。別に朱印を集めているわけでないので体系的ではありません。
振り返って見ると鎌倉仏教以降の寺院はあまり訪れてはいません。

旅で訪れた主な古社と古寺を列記します。北関東を除いて首都圏は多いため記しませが、古寺では100寺、古社では80社を超えました。
14年、白山平泉寺、永平寺、霧島神宮、香取神宮、鹿島神宮
15年、会津慧日寺
16年、陸奥一宮馬場都々古別神社、陸奥一宮八槻都々古別神社、戸隠神社、信濃生島足島神社、人吉青井阿蘇神社、三島大社
17年、醍醐寺、南禅寺、仁和寺、清水寺、天龍寺、吉野山、長谷寺、比叡山西塔横川、聖護院門跡、美濃横蔵寺、美濃華厳寺
18年、コロナ
19年、姨捨山長楽寺、信州大法寺、塩田平前山寺、安楽寺、常楽寺、中禅寺
20年、薬師寺、唐招提寺、飛鳥寺、当麻寺、法隆寺、高野山、熊野三山、駿河清見寺
21年、智積院、下賀茂神社、日牟禮八幡宮
22年、出雲大社、長門大寧寺、山口瑠璃光寺
23年、宮島、大三島大山祇神社、吉備津彦神社、吉備津神社、遠江龍譚寺
24年、金毘羅宮



本題の生駒山寶山寺紀行

生駒山の寶山寺の正式名は真言率宗大本山生駒山寶山寺と言います。御本尊は不動明王ですが聖天堂に祀られた聖天(大歓喜天)は日本三大聖天の一つとして江戸時代から人気がありました。
生駒山の不思議な所は近鉄線の駅に隣接して近鉄の生駒ケーブルカーの駅があり、それに乗って宝山寺に行きます。しかし宝山寺駅はケーブルの中間で、ケーブルは生駒山頂まで登っておりそこには遊園地があります。

近鉄、生駒ケーブル

生駒ケーブルは大正7年開業で100年経ちます。当初は我が国初めてのケーブルカーで宝山寺まで開通しましたが、参拝客が急増し、大正15年に複線化し、更に昭和4年に生駒山上に遊園地を開業し合わせてケーブルカーも延長しました。
駅からケーブルカーに乗って寺院に参拝する形は高尾山と同じですが、高尾山ケーブルカーの開通は昭和2年のため、生駒の近鉄ケーブルカーの繁栄にヒントを経て建設したのでしょう。
阪急や近鉄、阪神、南海など関西は私鉄王国ですが、その自由な発想と斬新な経営手法には東京の私鉄はかなり影響を受けてきました。

生駒山は古来修験道の地で、役行者が修行したと言われ空海も宝山寺開創には関係したと言われています。300年前の江戸初期湛海律師が聖天を勧請し中興開山し、商売繁盛の現世利益を求めて信者が増えましたが、生駒聖天が本当に賑わうようになったのは、大正3年近鉄が大阪上本町から生駒トンネルを通して奈良まで鉄道が開通し、トンネル出口の生駒に駅が設けられてから、参拝客が急激に増加し、生駒駅から宝山寺への新しい山道が作られケーブル開通も伴って、参道には奈良県一の生駒新地が作られ大阪の遊興の奥座敷としてにぎわいました。
先に触れた昭和4年には生駒山上に遊園地が作られ、生駒新地と子供の遊園地という不思議な取り合わせで生駒山は発展して行きました。

近鉄生駒駅を出ると聖天の看板が出迎えてくれます。

近鉄、生駒ケーブル鳥居前駅(生駒駅)

ケーブルの駅は鳥居前駅といいます。複線化した幅広い敷地で最初は傾斜が緩く途中踏切や駅もあり、市電のような印象ですが、次第に傾斜が増すにつれてケーブルカーの気分に入れ替わります。宝山寺まで住宅街が続くので、小学生の通学や大人の生駒の街での買い物のため、観光以外に使われています。

宝山寺駅

ケーブルは長いため宝山寺で終点です。

生駒山頂行

生駒山頂の遊園地に行くにはここでロープウエイに乗り換えます。途中駅が2つあります。
私はいつもの習慣で事前に調べないで旅に出ます。生駒山の宝山寺周辺が、かって大阪の奥座敷と言われた遊興地だったとは知りませんでした。

3大聖天の1つ浅草、待乳山聖天

生駒山宝山寺が聖天(歓喜天)を祀っているいることが分かり、聖天と言えば浅草の昔の吉原近くの待乳山聖天を思い出しました。
桜の季節友人と浅草寺から隅田川の堤沿いに桜を愛でながら吉原の入り口の今戸橋方面に歩いていたら、突然待乳山聖天が現われました。待乳山の名は何やら艶っぽく、象の頭をした男女が和合した仏像の歓喜天は、何やら色街の吉原と関係しているような印象がありました。
歓喜天は元はヒンズーの神でガネーシャと呼ばれ和合の象徴であり良縁もかなえられることから若い女性のお詣り姿が目立ちました。
待乳山の山号の艶っぽい名は帰宅して調べてみると王子から流れる山谷掘の土砂が隅田川河口に堆積した姿を現す真土山(まつちやま)の名を、江戸時代待乳山と艶っぽい表現にして吉原の客のお詣りを促進しようとした意図があったのでしょう。

3大聖天のもう1つは埼玉妻沼聖天です。

池波正太郎はエッセイでこの待乳山聖天の近所で産まれ、大川(隅田川)の水と待乳山聖天が心の故郷だったと述べています。待乳山聖天のたたずまいは極めて江戸らしい雰囲気の寺院です。江戸時代参勤交代で江戸詰になった若侍にとって、地元に帰っても、江戸の街のにぎやかさと吉原と待乳山聖天の艶っぽい雰囲気は、長らく想い出に残ったことでしょう。

広重の名勝図絵に描かれた隅田川と山谷掘、山の上は真乳山(待乳山)

山谷掘の入り口に見える今戸橋

江戸時代の吉原通いは神田や浅草から舟で行ったのでしょう。

宝山寺参道

ロープウエイの宝山寺駅で降り、寶山寺への参道を登ります。東京を朝9時過ぎに発つと京都から近鉄線で生駒駅に着き、ここまで来ると14時を大きく回ってしまいます。
人通りの少ない参道を登ります。

昭和30年頃の宝山寺参道

昭和30年代の新地が華やかな時代の参道は写真のようにとても賑やかでした。新地が無くなるとともに、モータリゼーションの進展によって、大阪からの高速道が整備され、交通の不便な生駒、信貴山には山頂を結ぶ信貴生駒ハイウエーが開通したことにより、都市交通は使わず車での参拝が主流になりました。
ここ10年奈良に来た印象では、東大寺や興福寺など奈良中心部の寺院と違って、郊外の三輪山、安部文殊院、飛鳥各地、法隆寺、唐招提寺、薬師寺、秋篠寺、当麻寺、長谷寺、室生寺など最寄り駅を降りて寺社に向かう人はほとんど見かけませんでした。また主要駅以外タクシーが少なく40分以上待たされることもザラで、その割にはバス便はあてになりません。
そのため奈良に来ると寺社の参道を歩く人も無くどこも閑散としています。ここが京都と異なる所です。手入れが良く閑散とした参道はそれなりに趣があり嫌いではありませんが、宝山寺参道はかって繫栄していただけあって空き家が目立ちます。

広報いこま2013年8月号の画像を転載させていただきました。

今宵の宿

宿に荷物を置き、宝山寺を目指し急な参道を登ります。

奉納された灯篭

信貴山や金毘羅さんと同じく、ここ宝山寺の参道は大阪の人々が奉納した灯篭が目立ちます。奉納灯篭の数では関東は大阪の比ではありません。関東は明治の廃仏稀釈で神社と寺院は完全に分離していますが、奈良の信貴山や生駒、そして四国の金毘羅さんなど寺院に堂々と鳥居があったりして神仏混交のイメージが強いです。
特に山の寺院は神仏混交は違和感なく受け入れられます。山中は寺院であっても本尊だけでなく、水源を祀る先祖神や、人の力を超越した権現神などを祀る長い歴史があったからでしょう。


寶山寺境内

汗水たらして長い参道の階段を上ったら、目の前に広い駐車場のある境内が現われました。我々は新幹線に乗って東京から、京都、生駒と都市交通機関やケーブルカーを乗り継ぎ長い階段を登ってきて、これ以外の方法がないため何とも思いませんが、こんな山上にこんな広い駐車場があることに驚きます。

生駒ケーブルが参拝のメインルートと想って来ましたが、これを見た時、信貴、生駒ハイウエーの存在は知りませんでした。改めて信貴山も生駒山も、寺院の参拝は車社会に組み込まれてしまっていることに気が付きました。どうりで生駒寶山寺も他の奈良の寺院と同じように、参道が閑散としていた理由が分かりました。

寶山寺本堂

1680年建立、湛海律師作の本尊である不動明王像が祀られています。

拝殿と聖天堂

拝殿の奥に秘仏聖天堂があります。

多宝塔

昭和32年建立の多宝塔、境内から目立ちます。

奥の院への参道

檀家が寄進した300体の地蔵菩薩が圧巻です。

大師堂

真言宗密教律宗大本山のため弘法大師空海をお祀りしています。

更に奥の院に続きます。

朝日嶽に鎮座する弥勒菩薩

灯が灯った灯篭

宿の夕食

奈良の宿の食事は美味しいです。奈良には名物がたくさんあり、茶粥、ほうじ茶、葛、大阪の台所のため野菜はどれでもおいしいです。以前山の中の宇陀の宿でベテランの板さんのフグ料理も印象に残っています。奈良は京都のようにえらそうなことは言いませんが出汁の味は抜群です。
近年出汁で感動したのは出雲と四国です。出雲、松江はシジミで四国香川は瀬戸内のジャコの美味しさと想います。奈良の出汁は何なのでしょう。

宿の女将は宝山寺の観光振興に非常に熱心で、どうしたら地域にお客様を呼べるようになるかをテーマに女将会で活躍しており、食事後そのお話で盛り上がり、翌朝様々なパンフを頂きました。

ブルーノタウトの幻の生駒山上都市

1933年ころ大阪電気軌道株(後の近鉄)生駒山山上に小都市をつくる計画を進めて来て、京都に滞在しているタウトに計画を依頼しました。タウトは都市の条件として遠くから眺めた時、山が持つ自然の特徴に従う事、山上での生活を可能な限り快適にすることでしたが、郊外行楽地を目指していた近鉄と理想都市の実現を目指していたタウトと意見が合わず、小都市計画は無くなりました。

広報いこま2019.7月号より

ハイクとしての生駒山

東大阪市と生駒市の生駒山ハイキングマップです。縦割りの行政として珍しく府県をまたがったパンフです。翌朝このハイキングマップを頂きました。

駅からケーブルで登れる寺院として、高尾山との違いが頭によぎりました。
高尾山の参拝客はケーブルか徒歩でしか登れないため、都市の際にある自然豊かな高尾山は自然に親しむ場所としてミュシュランの3つ星に認定され、年間300万人も訪れ、麓のお蕎麦屋さんは常連客によって味に磨かれています。しかも高尾山の薬王院の搬入用の見えない専用道路があることを皆知っています。

生駒駅と翌日向かう石切神社は生駒山頂を越えてハイキングで行けることが分かりましたが、翌日は土曜日なのにハイカーと合いませんでした。

ハイカー人口の少ない関西? (下の画像は山辺の道)

奈良には三輪山や飛鳥の里、山辺の道、なだらかな丘陵や丘のハイクに適したコースがいくらでもあります。しかし申請が必要な三輪山に登る人は少なく、飛鳥もレンタサイクルやのんびりハイクには快適です。また歴史に満ちた最高のハイクコースの山辺の道も、賑わっていた三輪山の参拝客も山辺の道に進むのは、ほんの少数です。
土曜日の奥武蔵や奥多摩、相模の大山や丹沢はハイカーで溢れているのに、奈良に行くと見当たりません。
生駒山もケーブルがあり、高尾山に匹敵するコースなのにハイク姿は見かけません。三輪山も飛鳥も生駒山も信貴山も車で訪れて済むとまた車で移動してしまいます。
首都圏では土曜日の西武池袋線や武蔵野線、京王線、小田急線はハイカー込んでいるのに、近鉄ではこういう風景は見られません。

山岳史では神戸の六甲山で最初にロッククライミングが始まり、神戸に輸入登山用具の好日山荘が出来たのも日本で最初でした。初期の登山史では関西勢は三高山岳部、京大山岳部甲南山岳部や同志社山岳部が活発に活動し、東京は一高旅行部、慶応、早稲田、立教山岳部、などと積雪期登山を張り合っており、登山の世界ではその進取な気勢で関西勢は非常に活発に活動していました。

近年でも北アルプスで出会う登山者の内関西勢のウエイトはそんなに低く無いと想っていましたが、ここ10年奈良を歩いていると、奈良は大阪の衛星県の印象があり、大都市の大阪から交通の便が良いのに、奈良大阪は車社会にどっぷりつかり、奈良の野の山を歩くハイカーの数は東京の100分の1以下の印象があります。

首都圏の人と異なって神社の参拝客が多く信仰深い関西人ですが、ハイク人口が首都圏と比較にならないくらい少ない現象はなぜなのか、疑問は解けません。

生駒山は高尾山と状況は変わらないのに、高尾山と比べて圧倒的に賑わいが足りないのは、車利用の人が大半でハイカーが少ないというより見かけない事が理由のような気がします。

時代はコスパ、タイパを優先するトレンドと、効率は悪いけど過程を楽しむトレンドに分かれ始めています。同一人でもどちらかⅠ方でなく使い分ける傾向が強く、レジャーは確実に過程を楽しむトレンドに向かっています。
よく寺社で駐車場から直ぐ朱印を貰ってお参りしないでそのまま車で帰ってしまう人を見かける時があります。人それぞれですから何とも言えませんが、朱印はコレクションという概念なのでしょうか。