歴史紀行・冬の奈良の旅2、古代史に想いを馳せて、石切、枚岡神社
冬の奈良の旅、2日目です。この日は生駒山を越えて大阪側の河内の石切神社と河内一宮の枚岡神社に行きました。
河内は生まれて初めて足を踏み入れる地です。古代河内湾が広がる河内と生駒山の東の奈良盆地は、気候が穏やかで海の幸山の幸に恵まれた場所で、鳥見の地と呼ばれていました。
そんなのんびりした縄文人たちが暮らしていた土地に、水田耕作を行う海人族の集団が繰り返し水利に優れた奈良盆地をめがけてやってきました。
海人族の集団は堅牢な船を持ち、それらを建造する技術や鉄くぎなどの資材、丸木舟を作るために楠木やタブノキから船を作る鉄の道具や、航海するための帆の素材となる繊維や、それらを運用するための丈夫な繊維のロープを持ち、人間同士の戦いのための楯や鉾などの武具や、集団で戦闘する技術を有していました。
海人族の集団は河内湾を横切り生駒山の麓の縄文人たちを追い払い拠点を作りました。そしてユートピア盆地の前に立ちはだかる生駒山の上に物見台を設け彼らの神を祀りました。
本日の石切神社と枚岡神社は今は神社となっていますが、日向から或いは宇佐から軍勢を率いてきた海人族のヤマト侵入のための最初の橋頭保と言いたいのですが、おそらく神武東征時には先住民族だった葛城、鴨、三輪、出雲族の一部、或いは長髄彦の鳥見族も長い時間をかけてヤマト盆地に侵入して行ったのでしょう。彼らの侵入は縄文の先住民との戦いでなく、稲耕作の適地を探し、集団で水稲耕作を行い、道具や生活用具、住宅など定住のための新しい産業を起こすために時間を要したのでしょう。神武東征はその仕上がりでした。
本日の旅は、住宅が密集し河内の海など想像できない舞台に立ち、想像力をめいっぱい膨らませて、ヤマト盆地での創世記の時代を楽しむことが目的です。
生駒の宿から奈良盆地の朝の風景。

宿の部屋から生駒と奈良市の夜景は見事でした。朝の風景も中々です。昨夜夕食に出された岩魚の塩焼きがとても美味で風景を見ながら思い出してしまいました。清流の悪食いの岩魚より清流の苔を食べる鮎の方が好きですが、山に登っていたので学生時代から岩魚を食べる機会はかなり多かったと想いますが、昨夜の岩魚は上品な味で、また腕の良い焼き方で、岩魚がこんなにおいしいと想わず、鮎と同じように頭も尾も全て食べてしまいました。お聞きすると宿の池で飼っているとの事でした。奈良はやはり調理方法も含めて食の宝庫で、何よりも当たり前のごとく多く語らず意外性があります。これも長い間の古都の矜持が、そうさせているのでしょう。
この9年間の玉置さんとの旅では宿の食や昼食に外れは全くありませんでした。多分玉置さんもおいしいものに鼻が効くのでしょう。
近鉄線に乗り、生駒トンネルを潜り河内に向かいます。

古代の難波の海とヤマト盆地の関係
難波津を漕ぎ出てみれば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく。万葉集 防人 下野国梁田太田部三成
直越えのこの道にして押し照や難波の海と名付けけらしも. 万葉集 神社忌寸老麻呂
1首目は難波津からの生駒山の風景を詠んだ歌です。
難波津は日本の玄関でした。瀬戸内を舟でやって来た海外の使節や、これからなどに大宰府赴任する政府の役人は難波津から海に出ました。東国からの防人も難波津に集結し、ここから船で筑紫に向かいました。作者の大田部三成は船が出航し、故郷下野と同じような照葉が輝く生駒山を振り返り故郷の家族を偲んだのでしょう。生駒山は神さぶるような神聖な山に見えたのでしょう。
2首目はいにしえの河内の海を詠んだ歌です。
直越えはただこえと呼びますが、大和から難波津に行く場合、当時の幹線であった大和川に沿った通称竜田道を行きます。この竜田道は信貴山の裾野を越える地点が、大和川の瀬が狭く、崖崩れなどで災害が生じると不通になりました。そのため川通しでなく山中を迂回する道もありました。ただこの竜田道は標高差も少ないため飛鳥時代は難波津に行くメイン街道ですが、飛鳥まで距離があるので、聖徳大師は海外使節に便宜を図らうことや国威発揚のためコース上に法隆寺を建立しました。もちろん難波津にも海外施設用に公館も建設したのです。
2首目の歌は、メインの竜田道を通らず、生駒山の暗峠(くらがりとうげ)を越える直越え道を越えて、峠から眼下の河内を眺めた時の感慨を詠んだ歌です。
生駒山を直に山越えし、暗峠から河内を見下ろした時、いにしえの人は眼下の河内湖の水面を、これぞ一面に光を照り返す難波の海と名付けたのだろうか?。
ということで、現在は高速道や生駒トンネルで苦労なく大阪に行けますが、古代、生駒山を越える街道や大和川ぞいの竜田道は、内陸の奈良と難波津を通して西日本や海外に繋がる当時の我が国における海の道への最重要街道でした。
竜田道とそれを守る風の神を祀った龍田大社

紀元前2世紀頃の河内
寺社名は現在の自社で法隆寺、龍田大社、当麻寺、朝護孫子寺、宝山寺はずっと後の建立ですが、生駒の石切神社、枚岡神社、葛城一言主神社、高鴨神社は、現在の神社の形式ではありませんが、舟で九州や江南地方から一族で移動してきた海人族が定住し、集団で水田耕作を始めた頃、彼らの神を祀ったと想像します。

6000年前がピークだった縄文海進時では大阪湾は森ノ宮貝塚付近を除いては、河内湾として生駒山の下まで迫ってきていました。この頃推定ですが奈良盆地も大きな湖が点在し陸地も湿地帯が広がっていて、縄文人たちが少数住んでいたと推察します。
やがて4000年前頃になると、淀川や大和川の河内湾口で土砂が堆積し、次第に河内湾は小さくなっていきました。
この頃から縄文人たちは生駒山の麓の河内湾に沿った形で狩猟や漁労、木の実採取など行いながら集団で定住し始めました。
やがて海退がいっそう進行すると河内湾は淀川の土砂が堆積し湾口が閉じられ河内湖に変わって行きました。
やがて江南から九州や吉備などに集団で移住し水耕栽培を行っていた海人族たちはより広い耕地を求めて大阪湾に至り、河内湖を横切って生駒山の麓に定住し始めたと仮定します。
生駒山地の麓の石切神社に最初に定住した海人族は物部氏の祖先です。またその隣の枚岡神社の社伝による創建は紀元前657年と古く中臣後の藤原氏の祖先といわれています。
先に触れたようにやがて大和川を遡りヤマト盆地に入った葛城、鴨族、尾張族、三輪族、出雲族の一部は葛城山や三輪山、穴師山など、奈良湖周辺の山麓に集団で定住し水田耕作をはじめ、高鴨神社や葛城神社、三輪神社、穴師神社など祀り始めました。
湖が無くなり奈良盆地全体が湿地になると、南九州の痩せた土地に定住し吉備で勢力を養っていたヤマト王族が、大挙して奈良盆地に侵入し
しましたが生駒の鳥井族の長髄彦との戦いに敗れました。そのためヤマト盆地に入れず、熊野に回って吉野からヤマト盆地に侵入したと言われていますが、今でも困難なのに当時の熊野からヤマト侵攻は無理過ぎる神話です。
賑わう石切神社参道
石切神社の参道を歩くと、本来の神社の参道を彷彿されます。この日は土曜日でしたが、お祭りのような参道です。

ここは参道の入り口です。
大阪の神社そのもの
大阪の神社には人間の一方の本音の世界が表現されています。ここが関東とは異なります。

この左右の室内は、仕切られていていくつもの占い者たちが、机を出して占っています。どこの占い者のブースも満席です。おそらく占いをしてもらう人は、反復繰り返し訪れるのでしょう。ということは占いが良く当たるのでしょう。
魅力的な店

お店を覗いていると、おいしそうで全て食べたくなってしまいます。
大阪では神社詣でもレジャーなのでしょう。

多分大阪には東京と比べ物にならない数の神社があると想います。日々が神様と密接に近い暮らしなのでしょうか。
各地に○○銀座があります。商業がスーパー化しても○○銀座の賑わいはすたれません。○○銀座で総菜や買い食いやその他買い物する人たちは、日常反復利用しているため、一見の我々のように疑いの目で見ません。この参道で買い物する人たちの眼はみなさん信じ切った人の眼をしています。この参道の賑わいはお参りに来るひとの信頼の基に成り立っており、お店も味や価格で決して裏切らないで来たからでしょう。
商売の原点を見るようです。
石切劒箭神社(いしきりつるぎや神社)
石切神社の社伝では天照大神の孫ニニギノミコトノ兄、ニギハヤノミコトが、「布都御魂劒」と「天羽々矢」を携え物部八十の大船団を率いて南九州から出帆し途中宇佐に寄って船団を2つに分け息子に「布都御魂劒」を授け紀伊に向かわせ、ニギハヤノミコトは「天羽々矢」を携え河内大和に向かい生駒に着きました。当時河内、大和は鳥見の里と呼ばれ海や山の幸に恵まれた地でした。この地を占拠していた鳥見一族は長身で戦闘に秀でていましたが、その族長長髄彦はニニギの徳に打たれ、ニニギのもたらした稲作技術や織物、製鉄技術や武具などの差を見ると争う事の無益さを知りニギハヤノミコトに従いました。
その後ニギハヤノミコトは亡くなり神武天皇は東征を開始し河内に上陸し長髄彦と対峙しました。
この神話で物部氏が天孫族ノギハヤノミコトと子孫に位置付けられたのです。

狭い参道で神社も狭いと想っていたら、メインの正面の参道は別にあり、堂々とした神社で驚きました。
本殿

紀元前659年(神武天皇2年)創建 祭神はニギハヤノミコトと奥様の2神です。

神武東征の時、生駒山を越えて大和入りは上手くいかなかったため、天皇は石切でかたわらの巨石を蹴り上げ武運を占ったと言われています。
境内は各種大型建物が林立し、また南北大駐車場も完備し、トイレの清潔さ、規模、設備も今まで訪れた神社と比べても第1級でした。
相当な信者がいるのでしょう。

ご神木のクスノキです。弥生時代や古墳時代常緑広葉樹は東日本高地を除いて日本列島の象徴だったのでしょう。船はクスノキの巨木とタブノキの巨木から作りました。
絵馬殿

この絵馬殿は壮大です。
正面参道

参拝が終わって神社の入り口前の横にある2軒のおでん屋さんがありました。1店は満員でもう1軒に入りました。関西では初めて食べるおでんで、メニュー表を眺めましたが、
初めてなのでメニューの内容が分からず、ふと横の席を見たらお婆さんと中年の息子さんが、稲荷ずし付のおでんを食べているのを横目で見て、若い女将に小声で隣と同じものを注文しました。多分隣のお婆さんは息子さんに車で参拝に来て、帰りにこのおでん屋で昼食を採ることが、定番となっているようでした。
注文したメニューの品が届き、早速稲荷ずしに食らいつきました。稲荷寿司は大きめで箸で袋の裏側をひっくりがえしたら3種のかやくご飯が詰められていました。我が家のおでんでは大根は後回しにしますが、この店の厚い大根は黄金色に染まり、味が染みているのが見て撮れ、これも無言でパクつきました。
食べることに夢中になっていたら、隣の席のお婆さんと息子さんが、食べ終わって席を後にしたことに気が付き、お婆さんなのに以外に早いなと思いながら、隣の席を眺めたら2人とも完食でした。あの食が細そうなお婆さんはあっという間に、おでん定食を平らげてしまったのです。
多分お婆さんにとって石切神社を参拝して帰りにおでん定食を食べることが長寿の秘訣と信じているのでしょう。
神社の賑わいは食と無関係ではなく、さすが信仰深い大阪人たちの格好を付けない食との面目躍如の光景が印象に残りました。
またこのお店の若女将のさばきの上手さ、おでん番の老女将、調理場に見え隠れするご主人の板さんの絶妙のコンビネーションもまさに見事ででした。旅の醍醐味はさりげないけど気持ちの良いお店に出会うことです。そんなお店に出会った時はついお礼言いたくなり、手短にお礼を言います。この店もそうでした。
河内一宮枚岡神社
枚岡神社は驚きでした。近鉄線の枚岡に降りたら、駅前広場はなく、いきなり目の前に神社の階段がありました。

この位置から神社を望むと小さな神社に見えます。

階段を登ったら道路を渡ると眼前に奥行きのある参道が続いていました。駅前のセコセコした神社のイメージがここで深遠な神社に一辺に変わりました。

事前勉強も何もしないでやってきましたが、左側の看板で枚岡神社が河内一宮であり、しかも延喜式の明神大社であることを初めて知りました。
ご祭神は天児屋根命(アメノコヤネミコト)と妻の比売御神(ヒメミカミ)、そして経津主命(フツヌシノミコト)と建御雷神(タケミカズチノミコト)の4神です。
天児屋根命(アメノコヤネミコト)はニニギノミコトが高千穂に降下した際随行したの5柱の神の一つで、中臣氏の祖先になりました。
経津主命は武神で香取神宮の神で、タケミカズチノミコトは諏訪で出雲の大国主命の子タケミナカタを屈服させ国譲りを成し遂げた武神で鹿島神宮の神です。
中臣氏は後の藤原氏で、強大な権力を保持していた藤原不比等が自己の神社春日大社建立時に天児屋根命(アメノコヤネミコト)と妻の比売御神(ヒメミカミ)を勧請し、枚岡神社は元春日と呼ばれるようになりました。
枚岡神社は延喜式神社の最高位の明神大社に定められ、2大武神の鹿島、香取神宮も藤原氏の氏神と言われるようになりました。
正月の準備、しめ縄つくり

枚岡神社の氏子の人たちが、初詣に神社を飾るしめ縄づくりに余念がありません。
拝殿への長い階段

初詣の準備に大わらわです。とても見ごたえのある良い風景です。
古社の趣漂う格調高い拝殿

遅い753のお詣りでしょうか?
摂社末社の数々

一宮だけあって数多くの摂社や末社があります。末社一言主神社です。

何のしめ縄なのでしょうか。この枚岡神社の本宮は背後の山、神津嶽です。ここは古代祭祀の跡があるようです。枚岡神社の創世記はここ神津嶽に神を祀ることから始まったようです。
摂社若宮神社

土曜日の午後、参拝客が増えてきました。
ご神木

拍槇(びゃくしん9と呼ばれるイブキ科の樹木です。
本殿は見ることができません。

拝殿の奥に塀がありその奥に四神をお祀りした本殿があります。

この右手の坂の下にかなり広い駐車場があります。奈良や大阪は車社会なので、神社や寺はしっかり駐車場を確保しています。
奈良市街に戻って

いつものように猿沢の池に来ました。興福寺の五重塔は改修しています。ここに来るとコロナで観光が低迷した時、家内と奈良の観光振興で出されたクーポンを使用して、奈良一の老舗の料亭菊水楼でランチを食べた事を思い出します。
奈良の定番のカフェ

いつものように奈良の東向き商店街のレトロな雰囲気のカフェでくつろいでから、京都に向かいます。あいにくこの日は近鉄線が事故のため、JRの奈良駅まで歩き、そこから京都に向かいました。奈良は近鉄が動かないと不便です。
これで奈良の旅は終わりました。今回訪れた寺社は東京では有名でなく、歴史上も脚光は浴びていません。私もこの機会が無かったら訪れることは無かったと想います。しかし1昨年の龍田神社や今回の生駒と河内の寺社の何の変哲もない光景に対し、とめどもない想像力を働かせられました。これは歴史の素人だから楽しめる特権であって、考古学や文献史学では得られないものだと想います。
今までの古社や古寺の旅によって、我が国の成り立ちについて、歴史家が見たら荒唐無稽な考え方かもしれませんが自分なりに解ってきました。機会があったら少し触れていきたいと想っています。
