山と自然のエッセイ、恒例の山の会OB総会・新年会
1月31日(土)、例年2月の第1週の土曜日に開催されている山の会OB総会と新年会が開催されました。今年は地元自治会の事前行事が重なったため、OB会は出られないと想っていましたが、自治会の行事が変更になったため例年通り出席できました。もう既に35年間の間連続出席しているため、立春前後のOB会に今年は欠席かと思うと何故か春の訪れに何か抜けた感じがしていましたが、例年通リで良かったです。
立春の訪れと、山の会新年会と直接関係があるとは思えませんが、もし私の学生時代、山の会の仲間たちとの厳しくも楽しい4年間の山行が無かったら、無味乾燥な4年間の学生生活だったに違いないと想っています。私にとって早稲田大学と山の会は、高校時代と共に青春を育んで来た大切な場であり、山の会の新年会で残り少ない仲間たちに遇うことは、世代が離れて学生時代共に山行をしなくても、同じクラブで青春を共有した共通の想い出が蘇るのです。
立春とは再び春を迎えることであり、立春の新年会の1日は私の青春時代に戻ることを意味しているからです。

久々に高田の馬場駅に来ました。以前仲間たち皆、東京に職場を持ちながらも高田馬場駅に降り立つと心がときめくと言っていたことを思い出しました。
卒業してから既に59年が経過しましたが、高田馬場周辺はすっかり変わりました。学生時代普段あまり乗らなかったスクールバスも、運賃値上げのため不乗運動を起こしたこともありましたが、今や地下鉄東西線が走ったためバスには学生は乗らなくなり、乗る人は周辺に住む都民ばかりになりました。
早稲田界隈にはかって神田と2分した軒数の古書店が無くなり、代わりにラーメン店が軒を連ねています。駅前も学生の街という雰囲気は薄れ、山手線の他の駅と変わらなくなりました。ただ、高田馬場に行くと必ず寄るのは,昔無かった駅前の芳林堂書店です。この店はチエーン書店の高田馬場店ですが、一般的な雰囲気になった神田の大書店と異なり、ジャンルのくくりや書店の雰囲気は、やはり早稲田の書店という感じがします。

シンボリックな建築は重要で、もし早稲田に大隈講堂が無かったらどうなっただろうと想います。
多くの卒業生と同じく、私も40代を過ぎるまで母校にはそれほど思い入れは無く、早稲田が懐かしくなったのは人生の老年に近づいた50歳も後半になってからでした。
そのきっかけは娘がもたらしました。娘が大学受験を翌年に控えた高校3年になり、娘を連れて家内と都内の大学を2,3、見に行きましたが、久しぶりに早稲田にも寄って見たくなりました。その時、私は気が付かなかったのですが、娘と家内は、あるミッション系の大学の構内の芝生に「芝生の中に入らないでください」という立札があり、それが早稲田では「芝生の中で夜を明かさないでください」という立札を見て、その違いに娘はすっかり驚いてしまったそうです。
更に大隈講堂の階段で2,3カ所腰を下ろした幾つかの音楽サークルの学生たちが、小さな音でバンド音楽の練習をしている風景を見て、学力が足らないのに娘はすっかり早稲田に憧れてしまい、早稲田で音楽をやることが一番の目標になって勉学に力が入ってしまいました。
多分、早稲田というと政治経済、商学、法学、文学、理工、スポーツ科学など学科が用意され、学べる大学のイメージがあるものの、学科が無くどうやって学べるか、外からは中々うかがい知ることができない音楽、演劇、映画など芸術分野の深さに娘は憧れたのでしょう。この芸術分野の深さは授業でなく早稲田ならではのサークル活動で得られるものなのです。

娘の入学式の日、式を終えて早稲田名物のサークル勧誘に出会いました。そこで発見したことは、私の学生時代に盛況だったあらゆるサークルが健在だったことと、音楽サークルでは私の学生時代人気があり今でも名前を憶えているサークルが皆、時代に合わせて音楽ジャンルは変わったものの、昔ハワイアンで今ブラックミュージックの拠点のザ・ナレオ、昔から変わらないハイソサエティ・オーケストラ、ラテン・アメリカ協会、ニューオルリンズジャズクラブ、中南米研究会、モダンジャズ研究会、学生唯一のタンゴサークルのオルケスタ・デ・タンゴ・ワセダ、卒業してから直ぐできたシャンソン研究会など、今でもことごとく活発に活動していることを知り驚きました。

早稲田のクラブの特徴は、たとえばクラシックの場合オフィシャルなクラブのワセオケがあれば、それにとどまらずピアノや弦楽関係のあらゆるサークルがあります。クラシック以外の音楽は先に述べたジャンル別にサークルがあり、それぞれのジャンルにおいて学生音楽界の最前衛として活発に活動しいずれもハイレベルで、卒業後そのまま売れなくてもプロの道に進んでしまう学生も少なからずいるのも特徴です。
欲張りな娘はそれぞれジャンルの異なる2つのサークルに入会し活動をし始めました。

今でもサークル勧誘日は何日かあり構内は人が歩けなくなるほど盛況です。早稲田の最大の特徴は旧帝国大学のように校舎も多く少数で勉学を行う大学と異なり、豊富なサークルに身を置いて、多くの個性の強い仲間と切磋琢磨して人間力を磨くことにあります。昔総長は早稲田は芋洗い器だといっていました。清流に設置した芋洗い器に芋を投げ入れ、水の力で回転しながらお互いに芋をぶつけ合いながら自然に皮を剥く古来の道具ですが、良く表現されています。

入学したての頃はまだサークルやクラブの仲間は出来ていないので、通常クラスメイトと付き合います。入学したては自分は一ツ橋を落ちて来たからとか、東大は諦めたとか言っていた連中は、野球の早慶戦後にはそんなことを言う奴は一人もいなくなり、根っからの早稲田人に変身してしまいます。登山が忙しく早慶戦には3回ほどしか行きませんでしたが、人の意識を一変させる早慶戦の威力には、今でも不思議に想っています。早稲田には早慶戦に買った時しか唄わない歌「早稲田の栄光」があり、慶応にも「丘の上」があります。

私が卒業以来無縁だった山の会のOB会活動を始めるには、あるきっかけがありました。
娘が入学した冬の初め、四谷公会堂で娘のサークルの演奏会を見に行きました。この音楽サークル特殊な音楽のサークルで、私の学生時代時々大隈講堂で演奏会を行い講堂を満席にしていました。
会社の帰り演奏会場で家内と待ち合わせしましたが、会場に早く着いたので寒いロビーの数少ないベンチで待ちました。直ぐ隣のベンチでは私と同年配の2人連れが、寒いのでワンカップで飲みながら談笑していました。私と同年配で音楽をやっていた人間は、昔は私から見たらシティボーイなのに格好を付けず、ワンカップで飲んでる姿はいかにも早稲田らしく、彼らはこのサークルのOBだと確信しました。彼らは他の誰もいない閑散としたロビーで、演奏会を待っている私をこのサークルのメンバーの父兄とみて話しかけたい様子がありありと見えました。
この時私は、早稲田OBと名乗ることは可能でしたが、相手は歴史ある音楽サークルのOBと確信していたため、私も出身学部名でなくクラブ名を名乗らなくてはなりませんが、卒業以来山の会と無縁だったためどうしても名乗ることはできませんでした。早稲田の場合、学生時代何をやって来たか問われるため、相手が音楽サークル出身であるなら、出身学部だけでは何の自己紹介にもならず、とうこの人たちと一言も交わさないまま他のOB連が集まりやがて家内も現われました。多分あのOB連は、私を早稲田と無縁な人とみなしたのでしょう。

受験がまじかのため、下見に来る受験生が目立ちます。
演奏会が始まると会場の最後部に陣取ったOB連たちが、曲が終わると掛け声で合いの手を入れ現役学生を鼓舞している様子を眺めながら、サークルは現役で活動している学生だけのものでなく、OB連も卒業して歳を経てもサークルを仲立ちとして自分たちのコミュニティを維持しており、今でも健在なサークルは学生だけでは70年も続くわけがなく、OB連の支援が伝統を維持する所以と想いました。
私は卒業以来山の会のOB会活動に何のかかわりを持たなかったため、自己紹介も出来なかった恥ずかしさを覚えると同時に、私も仕事の世界だけでなく、最後部に陣取っていた音楽サークルのOB連のように、そろそろ昔の同期の仲間と山へのコミュニケーションが欲しくなって来たのです。

娘はこのサークルで憧れた楽器を学びたく入会しましたが、手が小さくて熟達できないことが分かり2年になる前に辞めてしまい、廃部寸前のバンドサークルに入り、2つのサークルでは水を得た魚のように活動し、学業とサークル掛け持ち、バイトの3つがバランスが取れず単位が不足して留年しました。
大学4年間様々な仲間と切磋琢磨した2つのハイレベルな音楽サークルで活動したことは無駄になっておらず、その経験は社会に出て活かされているようです。
私と山の会

私は当時ガーデニングへの興味も一段落したこともあり、再び気持ちが山に向かってきたことや、伝統ある音楽サークルのOB連に自己紹介できなかった恥ずかしさから、役員会OBの誘いを受け、学生時代以来再び山の会の青春が始まりました。
最初は山の会同期との山行から始まり、次は山の会役員会メンバーで学生担当となり、同期が登れなくなると学生や役員会の下の世代のメンバーとの山行が多くなり、今ではこちらが主体となりました。
50歳の後半から始まった青春は学生時代の短い4年間ではなく、20年にもわたる長いものになりました。
高校3年、ワンゲルの下級生たちと丹沢沢登り

浦高ワンゲル、高校3年晩秋、丹沢水無川本谷遡行、ワンゲルなのに沢登りを行い20mのf20まで全ての滝を完登しました。山岳部は岩登りはやらないので我々を白い目で見ていました。
山の会の同期の仲間の大半は、高校時代山岳部を初め柔道、サッカー、ボートなど運動部で活躍していましたが、大学では体力に自信があることと、運動づけでなく多少大学生活を楽しみたいため、合宿前以外日常のトレーニングが必須でない山の会に入ってきました。
私は高校3年の夏が過ぎると早く大学に受かって山登りを行いたい一心で受験勉強に拍車がかかりましたが、私の場合目先の目標だけで十分でした。
大学に入ったら高校ワンゲルの仲間たちと山登りを行う予定で計画を描いていました。しかし仲間たちとの山行は無雪期の岩登りや山小屋利用の短期の雪山は可能ですが、現在と異なり当時の雪山装備は重いため、私が望んでいた長期の積雪期登山は担架人数が必要で登山団体にでも入らないと実行不可能でした。
大学での山の登り方の模索

早稲田の山岳関連のクラブは、日々のトレーニングが必須の体育局の山岳部とワンダーフォーゲル部のオフィシャルな部があり、それに対して音楽サークルと同じようにジャンル別に数多くのクラブやサークルがありました。山行のグレードは山岳部以下という事でなく、アンデスに強い岳友会や海外遠征に強い山の会や探検部、そして山岳歩こう会、徒歩の会、山小屋研究会、岳文会、歩行会、なべの会、など多岐に渡って個性豊かなクラブがありました。
私は大学では長期の雪山に登りたいと想っていましたが、それとは別に高校時代仲間とワンゲルを創部し手探りで活動してきたこともあり、大学ワンゲルの最右翼の早稲田ワンゲル部でワンゲル活動を完結したいという欲求も強くありました。こうして迷った結果ワンゲル部に入部し毎日苦手なトレーニングに参加し、約1か月続け新入生歓迎山行直前にマネージャーに積雪期登山についてお聞きしたら、長期幕営で尾瀬などスキー山行を行うがピッケル、アイゼン使用の山行は行わないとの事だったので残念ながら退部しました。
山の会での登山活動

既に5月中旬も過ぎていましたが、そこで大学4年間私を育んで貰った早稲田大学山の会に入会したのです。山の会の特徴として当時は会員数が多く、高校の仲間と山行を重ねても許されそうであり、ワンゲルでの1か月間を思い出すと日常のトレーニングが必須でなく大学生活を楽しめることも何よりも魅力でした。
山の会は多彩な会員がおり、積雪期登山、岩登り、沢登り、長期縦走、逍遥山行など、四季に渡って日本の山野を駆け巡るオールラウンドな登山を目指したクラブでした。元々は自由な海外遠征と幅広い国内登山を目指した団体で、創部間もなく探検部が分かれ、海外遠征もアルピニズムに偏らず、5年に1度は遠征を行って来ました。
当時社会的には登山が人気があり同期の新入会員は40人近くいましたが、1年の夏合宿後には半減し、卒業時には10人に減りました。上の代はもう少し多く、私の1年下の代は同じくらいで、その下は1学年8人位で徐々に減ってきました。
やがて積雪期登山が高度になると、私が4年生の時の新入会員は5,6名になり、そうなると積雪期も少数精鋭の山行にならざるを得ず、チョンボが許されない組織になると、全体でも実働会員は12、3名程度になってしまい、山岳部を越えた少数先鋭的な岳友会が会員不足で廃部になると、山の会も岳友会に変わって学内最先鋭の山岳クラブに変わってしま学生だけでヒマラヤ未踏峰の遠征を行うようになってしまいました。
OB役員会への参加
やがて山の会も廃部状態が長く続きましたが、同期が理工学部教授になり自分の研究室の学生を入会させてから再び隆盛となりましたが、大学院教授になってから学生との接点が薄れ、またまた廃部寸前になりました。私が山の会のOB役員会に関係し始めたのもこの頃でした。

私はこの頃から同期たちと山行を行い、仕事を続けながら第2の青春を謳歌していましたが、部室や装備があっても学生のいない山の会は寂しいものでした。
毎年のOB新年会では、学生がいない寂しさで、あの四谷公会堂の演奏会の最後列に陣取った音楽サークルの活き活きとしたOB連と比べると、山の会は単なる年寄りクラブに見えて仕方がありませんでした。
私は18年まで、11年間OB役員会メンバーと山の会の再建に努力した結果、途中で学生のピラミッド組織が構築でき、近年では大学当局の会長や学生役員の多大な努力で学生数の心配は無くなりました。学生の登山活動は山行グレードが挙がると会員数は減り、山行グレードが下がると会員数は大幅に増えます。今は増えている時代です。
山の会の部室

今から12年前の13年の時の画像です。
部室内部

13年の時の部室内です。当時の上田代表と井村副代表です。2人とも今はお亡くなりになりました。上田代表は名クライマーでしたが一生涯山の会OBとして山の会の面倒を見てきましたし、井村副代表は卒業後もコーチ会として山の会に関わり、またアンデス縦断遠征隊を組織して若手OBの海外への道も開きました。晩年は日本山岳会神奈川支部の副会長として神奈川の山岳活動に熱心に取り組みました。井村代表の元、私と同期の斎藤兄は副代表としてOB会にかかってきました。
装備の数々

夏用、冬用天幕、コンロなど調理用具、ロープ、カラビナなどの登攀用具は会の装備です。新入学生にはその都度OB会で援助を行って来ました。
私の最後の雪山・18年雪山訓練山行北八つ天狗岳

私の最後の雪山はこの18年の北八つ天狗岳の雪山訓練山行でした。山行後冬用登山靴は寄付し、その後ゴアアウターやオーバーパンツ、ロングスパッツ、ミトン、12本爪アイゼンなど冬用ウエアも寄付したので、今は雪山には行けません。
私が入学した頃の学内の雰囲気

私が入学した1962年昭和37年は60年安保後の翌々年に当たり、学内は未だ挫折ムードが広がっていました。
一方日本経済は未曽有の好景気となり、4年生は高度成長社会の担い手となる企業戦士として社会に旅立っていきました。そんな4月、入学すると大隈さんの銅像の下で学生活動家たちが「産学共同反対!」と叫んでいました。
今は当然のごとく、世界全体が経済効率優先社会に変貌している現在、学問と産業が連携して産業社会を維持して行くことが当たり前の時代になりました。
しかし当時を思い出すと「産学共同反対」のスローガンは巨大な産業効率社会に、若者が飲み込まれていくことへのアンチテーゼだったと想います。
弁証法のアンチテーゼとは全て否定することでなく、アンチテーゼによって明確になった矛盾が原動力になり、より高次の結論を生み出すことと定義されていますが、アンチテーゼはより良い結論を見出すために必要な思考です。早稲田の校歌の1番も進取の精神、学の独立と唄っていますが、これは何事も盲目的にうのみして流されず、自己の頭で考えて判断せよと言う意味だと想います。
あれから60有余年、今や高度産業社会は、産まれた時から保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校と経済合理性志向の流れの中で、何の疑問もなく組み込まれており、その結果効率一辺倒で動く社会の息苦しさは益々増していきます。全国の書店が半減したように、近年は書を読んで思考する人も少なくなり、極端に言うと自らの思考を放棄して大きな社会風潮によって動いて行くポピリュズム社会に変わりつつあるように感じます。この傾向は日本だけでなく世界の文明国すべてに広がっています。
今振り返ってみると、入学して間もなく授業より山の世界に入って行ったのも、大学4年間就職に有利な成績の優の数からことさら背を向けたのも、未来社会に対する状況を若者特有な鋭敏な感覚から察していたのかも知れません。その結果は会社のブランドに守られたビジネスマンのぬくもりから程遠いビジネス人生を送りましたが、その方が自分には合っていたのでしょう。
息子が18歳になった時、私が大学に入学した18の春に大隈さんの銅像の下で感じたことを話したら、息子は「解かる」と言いました。それを聞いて、息子もそれが解かる歳に成長したことを知って今でも嬉しかったことを思い出します。
青春は若き時代の盛りや頂点ではなく、その人の人生の出発点のような気がします。
早稲田界隈

ビートルズの来日時、肉薄して写真集をしたためデビューし大御所になった写真家の浅井慎平氏が2000年に早稲田界隈という分厚い本を出しました。内容は氏の1960年代初期の早稲田政経時代の小説と70年から90年末に撮影した早稲田界隈の写真集です。浅井氏は政経学部でありながら映画や音楽など芸術分野にのめり込んだ学生時代で、サークルはナレオ・ハワイアンズで活動していました。
小説の内容も音楽はもちろんの事、文学、演劇、映画に触れ、途中で廃業になった「あらえびす」「らんぶる」など通の人しか知らない喫茶店の名が登場するので、とても懐かしいです。
私は1966年春卒業ですから、写真集に収められた時代の少し前ですが、8割は私の時代と共通しているようです。
私の時代の写真はベトナム戦争を取材した岡村明彦が一世を風靡し雑誌世界を飾り、それが観たくて世界を購読しました。
ですからこの早稲田界隈の写真のような何のメッセージも刺激もない平凡な日常を切り取った市井の写真集など見た事もありませんでした。
それでも商業写真家の浅井氏は70年頃から、このようないずれ消えゆく市井の風景を哀惜を持って撮影していたのでしょう。

この通りの手前は私たちのたまり場でした。早栄軒の食堂でいつも食べていたし、この通りの突き当りの塀際を右に進むとお墓の前に部室があり、目の前の塀ではいつも岩の練習をしていました。通りの角には地図の専門店があり国土地理院の地図をここで購入していました。
今はこの通りもすっかり店も変わり、早稲田界隈の面影は無くなってしまいました。
大隈会館

昨年まで宴会時間の問題で、有楽町の航空会館を使用していましたが、今年から再び大隈会館で行います。やはり早稲田の方が落ち着きます。
大隈会館は階上がリーガロイヤルホテルです。
総会、代表あいさつと会計報告


村田代表のあいさつと学生代表の行動計画です。
新年会開会

近年、お亡くなりなったり病気で出席できないOBが多くなり段々寂しくなります。そうかといって未だ過去を振り返る必要のない仕事が現役のOBの参加は少ないです。


懇親会の風景です。
恒例の校歌斉唱 前奏から3番まで唄います。

我らが日ごろの抱負を知るや 進取の精神 学の独立 現世を忘れぬ久遠の理想

東西古今の文化の潮 一つに渦巻く大島国の 大なる使命を担いて立てる 我らが行く手は極まり知らず

集まり散じて人は変われど 仰は同じき理想の光
新年会に出たお陰でOB有志による今年の夏山山行が決まりました。
