山と自然のエッセイ・早春の氷川女体神社

今年の1月、2月は近年になく寒い年でした。
関東で暮らしていると、寒いと言ってもたかが知れていますが、今年の雪国は豪雪で街々では除雪が間に合わず、雪で細くなった道では車同士が避けようとしてスタックしそれが大渋滞になっているニュースが流れました。またTVのニュースでは屋根の雪下ろしを報道していましたが、屋根から雪を降ろすのは命がけです。
中には雪下ろしをする時は命綱を着けて行いましょう、という現実の住宅構造を知らないで呼びかける無責任な呼びかけもありました。命綱というと岩登りの際のロープ(ザイル)をかける支点がないと命綱はかけられませんが、住宅の屋根はこの支点となるフックが無いため命綱をかけようがなく、プロの屋根の補修作業は足場をかけて行います。

旅に出て車窓から家並みを眺めていると、雪国の古い家は全て瓦屋で、現代の住宅のように2階は1階と同じ面積の直立した2階家でなく、傾斜の緩い1階の屋根の上にやや面積が小さい2階が乗っている家が多いです。2階の窓から屋根に出て雪下ろしを行い、2階の屋根は1階の屋根に小さな脚立をかければ登れるような構造ですが、それでも危険が伴います。

屋根の雪下ろしや目の前の道路の除雪の心配が無い関東は気楽な場所です。もう一つ雪国では通勤の問題があります。雪国は車社会ですから道路に除雪がしていないと移動できません。始業に遅れることのできないお店の従業員や学校の先生方はどうしているのか、歳を取ると我がことのように心配してしまいます。

豪雪のニュースが続いた後、2月後半は春のような日々が訪れました。そんな暖かい日、家内を誘って今年初詣をしていなかった氷川女体神社にお参りに行きました。

氷川神社は、今や日本全国すっかり姿を消してしまったいわゆる典型的な鎮守の森です。
鎮守の森の神社は恐らくどこでも古くから存在している神社だと想います。多くの鎮守の森の神社が最初に祀られたのは、まとまった水田が切り開かれた村落の人々が傍らの小さな丘の大木にしめ縄を張って、神様をお祀りしたことが始まりで、ここで村中揃ってお祭りを行い、やがて小さな社をつくりました。昔の村の単位は明治になってからの村の単位より遥かに小さいです。たとえば近くに元片柳村の典型的な鎮守の森神社があります。そこに12所権現が祀られていますが、明治になり村落合併と神社合併の結果、12の郷社が統合された神社ですが、合併前は現在の字地名が村だったようです。

氷川女体神社は形は鎮守の森の村社や郷社のイメージがありますが、平安時代の決まりを記した延喜式神名帳では神社の最高の位である官幣の明神大社です。
官幣とはヤマト朝廷の神祇官が幣を奉納する神社で、明神大社とは官幣大社の中でも特に歴史が古い神社に与えられる称号で、女体神社はまた武蔵国一宮の扁額がかかっています。
鎌倉幕府の執権北条泰時は官幣大社の伊豆国一宮の三島大社に三鱗の紋入りの刀を奉納していますが、泰時はこの女体神社に三鱗の紋入りの刀を奉納しています。
今は鎮守の森の小さな神社ですが、鎌倉時代には出雲神を祀る武蔵一宮として武威高らかな神社だったのでしょう。
古い歴史は、今の形や視点で見てはいけないことを、この神社を前にするとよく分かります。

ご神木のタブノキです。タブの木、ツバキはクスの木、シイの木、カシの木、と共に、常緑広葉樹林帯(照葉樹林帯)の代表的な木で、特にタブの木はクスの木とともに
大木となり船舶はじめあらゆる木製品の材料となるため、大事にされてきました。
特に鎮守の森の神社のご神木はクスの木が大半であり、タブの木もこれに次ぎます。常緑樹林帯は日本列島の中部以西に広がり、関東平野の植生も含まれます。
子供の頃の周りの植生は、常緑樹が主体で農家の屋敷林や雑木林には自然に生えた落葉広葉樹がが多く、そのミックスでした。
以前は落葉樹の方が樹形や新緑、紅葉が美しいため注目していましたが、近年では私の興味は常緑広葉樹に向いています。寒冷地や高山以外の本来の植生はカシやシイ、クスノキ、ツバキなどの常緑広葉樹で、雑木林の落葉広葉樹や杉は人手によって植林された2次林です。ですから関東以西は常緑広葉樹が本来で、これらの森を見ていると太古が容易に想像できるからです。

古代の歴史を想像すると、日本列島はアジアモンスーン地帯に属し特に夏は熱帯以上の高温多湿の気候になります。
薔薇栽培を始めた時、日本の夏(6,7,8月)の平均気温と雨量を、薔薇導入国のロンドン、パリと比較したら、平均気温では10度高く、雨量は数倍でした。ということは温帯でなく夏は熱帯になる気候です。この熱帯のような夏の気候で先祖たちが水稲耕作を選択したのは賢明でした。というより水稲耕作の適地を求めて海を渡って江南の民が集団で移住してきたと言えるでしょう。水稲耕作と漁労に長けた民は、川や海に強く舟に強い関心を持っていました。彼らが日本列島で見出したのは、深い森と成長が早く幾らでも繁殖できる樹々でした。樹を切り出し扇状地に田んぼをつくり家や舟を作るためには、木を加工する鉄が必要です。その鉄も鋳物でなく鍛造鉄が必要でした。
我が国は東アジアの資源大国でした。その資源とは樹種に富んだ豊富な木材であり、岩山から流す砂鉄で、山の尾根には自然のたたらをつくる場所はいくらでもありました。

ヨーロッパのゴシックのカテドラルを眺めていると、真っ直ぐ天に突き上げる北ヨーロッパの森の高木をイメージしていることが分かります。ゲルマンやケルトは森の民族で森から大きな恩恵を得て生きてきました。彼らの本来の神でないキリスト教に代わっても、教会は森の高木のイメージです。鎮守の森のクスの木やタブの木を見ていると、私たちが古来何に頼って生きて来たか良く判ります。

氷川○○公園です。それぞれ○○と行政が名づけていますが、覚えられないのは歴史が無いせいでしょうか。ここは武笠三が昔の三室の風景を詠んで唱歌山田の案山子を作ったことで、像がありますが、氷川山田の案山子公園とすれば、子供でも覚えるのにと想います。

行きに農家の庭先で、自家製のしっかりとしたみかん2袋と太いネギと大きいカブ、そしてフキノトウを購入しました。それを下げて女体神社に行きましたが、公園で食べたミカンはおいしかったので帰りにまた2袋を購入しました。ミカンは自家製で1月に収穫し冷蔵保存したようです。これで私のミカンの季節は未だ伸びました。ただ袋が重くて家内の片手も借りて2人でぶら下げて帰りました。道々梅と盛りが過ぎた蝋梅に出会いました。