山と自然のエッセイ・国見の山・筑波山
今から約15年ほど前、開通したばかりの東関東自動車道で香取神宮と鹿島神宮に行きました。その時未だ1車線の高架の高速道から生まれて初めて茨城県の緑の野を眺めながら走りましたが、その時の印象では倉庫とかヤードなど無かったらまるでフランスやドイツの田園地帯と似た美しい耕地が広がっていました。茨城県は常磐線、埼玉県は東北線と高崎線で関東は東京起点で分断されています。横に移動する交通機関は余りないため、同じ関東でも埼玉に産まれ育つと栃木や群馬は身近ですが、千葉や茨城は外国のような見知らぬ印象がありました。ドイツの田園は集落が教会を中心として集合し広大な畑には家がなく美しい緑を構成していますが、高速道から眺めた茨城の田園地帯も点在する家々を見ないようにすれば、驚くほど美しく見事な畑が広がっていました。
近年利用している地元のどの大手スーパーの青果売り場の野菜は北海道産、熊本産、茨城産の野菜で占められています。大型チエーンを構成する大手スーパーの青果の品ぞろえは、
鮮度が良く、高品質で価格も安定し、量が確保できることが条件のため、首都圏の大量消費される野菜は、生産が大規模化され安定した品質で量が確保できる生産地に物流コストをかけても品ぞろえが傾斜していくのでしょう。熊本県に行くと農家一軒のビニールハウスの広大さと量が埼玉の田園地帯と比較にならず、農業経営をおこなっているなと感じがします。茨城もあの美しい広大な田園の生産者たちが本格的な農業経営に乗り出しているのでしょう。

なぜ茨城県の田園地帯に驚いたかというと昔、司馬遼太郎が水戸藩について触れた書で、水戸藩は尾張65万石、紀伊55万石に次ぐ御三家で面高35万石でしたが実質20数万石に満たず、御三家の体面を保つために、徴税は厳しく藩民や下級藩士は窮乏していたとありました。まだ中年前の頃、司馬遼が言うと何でも信じていたため、茨城というと貧しい地位というイメージが抜けきれませんでした。そんな先入観念を持ちながら、高架の高速道から眺めた美しい田園地帯の豊饒さに驚いたのです。
佐竹氏は金山を持っていたので、秀吉に可愛がられていましたが、佐竹氏の城下は水戸だと想っていたら、やや北部の常陸太田でした。水戸藩も佐竹氏の領土を継いだので領地は久慈郡、那賀郡、多賀郡の常陸北部の山地が中心で、あの広大な常総台地には水戸周辺の東茨城郡の一部だけで、新田開発が困難な地が多かったようです。
常陸風土記はこうも語っています。常陸の国は堺も広く地もはるかなり。土うるおい原野肥えたり、切りひらくの処山海の利、人々豊かに家賑わえり。中略。古人の常世の国というのはこの地なり。
この常世の国というのは南部の常総台地であり、その中心のやや北に聳えるのは独立峰筑波山なのです。
筑波山は万葉集では22首も詠まれています。
丹比真人国人の歌

鳥が鳴く東の国に高い山はたくさんあるけれど、二神が並び立つ高貴な山をぜひ見たいものと想っていたが、神代より国見する山と言い継がれて来た筑波の山を、冬の季節時季外れと想って何も見ないで去ってしまうと、後で一層後悔するかと考え雪解けの道ではあるが、私は苦労して登って来たのだ。
丹比真人国人によって万葉の奈良時代に神代より国見する山と詠まれたたこの歌で、神代時代から時の為政者や住民によって崇められて来た筑波山の存在に感銘を受けました。
和歌森太郎はその著作「花」において、私たちの花見のの起源について、春初めに人々が神聖な山の頂上に登って、下界を眺め自分たちの田畑や住むところがいかに素晴らしい所か、お互いに褒め合う国褒めの行事を行う事によって、その年の作物の豊穣な実りや自分たちの健康長寿をもたらす呪術として尊ばれて来たと言っています。
また大和は国のまほろばや仁徳天皇の故事の国原は煙り立ち立つのように為政者が聖なる山頂から下界を眺め国情を判断する国褒めの儀礼は天皇の国見でした。
また春初めの国褒めの行事は「歌垣」の行事となって、男女が山に集い春の祭典が繰り広げられました。図説茨城県の歴史では常陸国風土記で書かれた筑波山の歌垣は坂東各地から1万員が集まって盛大に行われていた行事であると触れています。
万葉集には有名な高橋虫麻呂の筑波山歌垣が詠まれており、丹比真人国人の神代より国見する山は為政者の国見の儀式でなく歌垣の国見行事のことかなと想います。いずれにしても筑波山は弥生時代より豊穣を齎す神聖な山の存在であったことは間違いはありません。
筑波の岳に登りて 反歌

筑波嶺を遠くから見ているだけでは済まず、雪解けの道を苦労しながらやっと登って来たのだ。この春の初め私にも良いことが訪れるに違いない。
筑波山の行程
筑波山は筑波男大神を祀る男体山(871m)と筑波女大神の女体山(877m)があり女体山登山が人気があります。
ただ山頂に登るために筑波山は存在しているのではなく、筑波山は神代の時代より登られて来た関東一の深い歴史のある山であり、深い歴史を刻んだ筑波山神社と筑波山寺いわゆる大御堂を参拝しないで登ることは、筑波山のニ神に対して失礼に当たります。

筑波山は中腹の標高250mに大御堂と筑波山神社がありそれぞれ参道に旅館や店が点在しています。
山頂の鞍部には標高差600mで2時間強、そこから20分ぐらいで女体山や男体山に登れます。またケーブルカーとロープウエイがあり、簡単に山頂近くまで行くことができます。
朝早く秋葉原から筑波まで列車で、筑波から数少ないバスで大御堂下までくると既に9:30を回っています。ここから徒歩で登ったとしても往復休みを入れると6時間以上かかります。今回は大御堂、筑波山神社をゆっくり参拝し登頂と下山はケーブルカーを使用し、女体山に登り帰途梅園で梅まつりを堪能する予定です。
大御堂(知足院中禅寺)筑波山寺
筑波山は明治の廃仏稀釈を迎える前までは、筑波山知足院中禅寺と筑波山神社の神仏習合の大寺院でした。大御堂は高野山と善光寺と並び筑波山知足院中禅寺に名づけられた名称で、中世には日本に3つしかない大御堂の名にふさわしい大伽藍が林立していたようです。大御堂は江戸の鬼門に当たり江戸を守る寺院として家康から500石を認められ、江戸中期には江戸別院を設け将軍家の祈禱寺になり更に1000石が加増されて1500石取りの大寺院になりました。

大御堂は創建時は徳一の法相宗でしたが、その後天台宗になり更に真言宗豊山派に代わり、真言宗総本山長谷寺から宥俊が入寺し家康の関東入府と共に、500石の寄進を受け、更に江戸別院開設によって1000石が加増されました。明治の廃仏稀釈により、寺院は破壊され元々に大伽藍後に筑波山神社が建立され、大御堂は現在の地に移されました。
現在では真言宗豊山派大本山護国寺別院で、ご本尊は千手観世音菩薩で坂東第25番札所です。
高野山、善光寺と共に大御堂と呼ばれた知足院中禅寺が破壊された敷地に筑波山神社が建立され、大御堂はその横に建立されました。
薩摩藩と並んで水戸藩は明治になり最も激しい廃仏毀釈がなされた地でした。廃仏毀釈が激しい山は神奈川の大山ですが、今は大山祇神社は盛況ですが歴史の古い大山寺は、かなり寂れています。筑波の大御堂は坂東第25番観音霊場であり、真言宗豊山派大本山の護国寺の別院でもあるため、筑波山神社に劣らぬほど盛況です。

いずれにしても現在では共存していますが、明治の廃仏稀釈は乱暴な行為でした。私は登山を続けて来たので権現という言葉が好きです。権現は本地垂迹説に基ずく思想で仏や菩薩が人々を救うために神という仮の姿をとって現れることで、熊野権現、蔵王権現、山王権現、箱根権現、伊豆山権現、など特に山を背景とした山岳宗教で民衆に親しまれてきました。
さしづめ筑波山も江戸時代までは筑波権現、筑波ニ所権現などと呼ばれてきたのでしょう。
知足院中禅寺建立者、徳一の事(会津磐梯山)


昔、会津の徳一が最澄と論争を行っていたことを知り、南都仏教法相宗の僧が全員最澄との論争に敗れ、最後に登場したのが会津の徳一でした。論争は大乗仏教と小乗仏教との相違点ですが、なぜ山深い会津の地に法相宗のエースがいたのか長い間気になっていました。
当時徳一に関する資料はあまり見かけない頃でしたが、約10年前山仲間同期4人で阿賀野川舟運探訪の旅のついでに再建された会津の慧日寺に行きました。
慧日寺資料館において、徳一が会津に下向した理由は、磐梯山の大噴火により猪苗代や会津近郊の住民の心が荒廃し、住民自らの心を直さないと地域の再建は不可能と考えた強大な修験教団が、仏教の教えが必要と考え、南都仏教のエースを招いたとありました。
資料館での会津地方の模型を見ると修験教団は広大なネットワークを持ち、未だ正式な仏教の取り入れに未熟な会津地方に正統的な仏教を取り入れ神仏混合の修験教団の力で民衆を導こうとした大事業でした。
15年会津慧日寺を訪れた時

徳一はこの要請に見事に応え、巨大な金堂を初めとする慧日寺を創建し、修験教団の強大なネットワークのもと慧日寺の神仏習合教団が産まれました。
余談になりますが、その後慧日寺勢力は会津18万石を領有し、武士団の存在しないこの地で強大な僧兵集団を要し会津地方に君臨する勢力になり約400年間会津慧日寺王国としてこの地に君臨しました。
その夜阿賀野川舟運の会津側の街津川に泊まり宿の女将から東蒲原郡史をお借りして3時に起床し読みふけりました。読み進むうちに、前日訪れた慧日寺の僧兵と、越後守護の城資永が連合軍を組み、信州篠ノ井で、木曾義仲の上洛軍に大敗したという記述を発見し興奮しました。
慧日寺の衆徒頭の乗丹坊は越後守護の城資永の美人の姉を貰い親族関係にあったため、慧日寺の僧兵数千を率いて多分阿賀野川から日本海経由で城資永軍と篠ノ井で、北陸経由で上洛する義仲軍と激突し乗丹坊は戦死してしまい慧日寺勢力は急に衰え、その後鎌倉幕府を開設した頼朝により三浦一族の佐原氏に会津を封じました。
もう一つ越後守護の城氏は平氏ですが、城の姓は鎮守府将軍に次ぐこの秋田城介の官位からきており、前九年の役で安部貞任と鬼首で戦った秋田城介平の重成が先祖で、子孫は越後守護となり代々城氏を名乗りました。鎮守府将軍に次ぐ部門の誉れ高い秋田城介の官位は、その後安東氏に引き継がれ秋田氏となり明治まで続きました。

大観堂からの眺めは抜群ですが、年寄りはこの階段を上がってお参りするのは厳しいでしょう。
この大御堂の建立者が徳一だと知り、俄然大観堂に興味が湧いてきました。
徳一は会津に行く途中、筑波山の修験教団に招かれて正式な南都仏教をし指導する傍ら知足院中禅寺を建立したのでしょうか。恐らく筑波にも会津にも徳一一人でなく、寺院建築者、法典伝道者、法具製作者など大勢のスタッフを引き連れて行ったのだと想います。奈良時代末期の徳一集団の筑波から会津の行程も気になります。恐らく三浦から房総に船で渡り、上総、下総を経由して国府の石岡から筑波山に至り、会津には久慈川沿いに奥州棚倉経由で白河の関から白河、会津と行ったのはと想います。徳一集団は石岡から巨大な筑波山を眺め、猪苗代から磐梯山を望み、改めて自己の使命に強い決意を持ったに違いありません。
筑波山神社

筑波山神社は廃仏毀釈により元あった大御堂の大伽藍跡に建てられています。

この階段も中々です。昔は麓からここまで歩いて登りました。

古い隋神門ですが、造りが寺院の山門のようなので良く見たら左右の金剛力士像は亡くなっています。多分大御堂知足院中禅寺の山門だったのでしょう。

お札のお焚き上げを行っています。古いお札のお焚き上げは、大体が年末か新しいお札を発行した時に納められた古いお札をお焚き上げするものですが、量が多いため今も行っているのでしょう。お焚き上げは良い風景です。

樹齢800年のご神木の大杉です。

筑波山神社の拝殿です。本殿はなく男体山と女体山頂上の祠が本殿なのでしょう。


筑波市の天然記念物マルハクスです。要は丸い葉のクスノキです。

忠魂碑です。
ケーブルカーで鞍部へ

筑波山鞍部

見えるのは男体山です。
女体山御本殿

鞍部から女体山ピークまで12分程度ですが、角がすり減った岩は蛇紋岩のように良く滑る岩道です。班れい岩と云うそうです。まだ雪が残り日陰の道は凍り付いているので、みな難儀しています。
見事なピーク


良く滑る下り道

画像の彼女のようにハイクの装束で軽快に降りてくる人もいるし。

画像のハイカーのように慎重に降りてくる人もいます。

鞍部から日光方面の山々を望みます。男体山は目立つ山です。

鹿島の釼と関係ありませんが、このような店があると筑波は武道豊かな地のように想えます。

参道を歩いて梅園に向かいます。

ようやく梅園に着きましたが、梅は5分咲との事ですが、梅は地味なので3分咲のように見えます。

やはり五分咲なのかな。
つくばの街に出て、おいしい茨城ソバの店に入り、太郎良兄は地酒と盛そばを、私はカレー蕎麦を満喫しました。
