映画「雪風」と太平洋海戦孝
映画「雪風」は8月15日に封切られました。今まで見たい映画でも直ぐには映画館に行くことはしませんが、今回の映画「雪風」は早く見たくて翌週シネコンに行き、久しぶりの海戦映画にすっかり興奮してしまいました。
子供の頃から西部劇と戦争映画はことごとく観てきたました。私の趣味の中で、艦船や航空機は一番長く70年も続いていて、大人になってからはそれほど熱中していませんでしたが、必要な書籍や写真集などは手に入れており、他の多くの書籍を処分してきた中で未だこれら厳選された写真集などは手元にあります。
今までの日本の海戦映画は、特撮模型が十分でなくても、映画が訴えようとする製作者の意図と、それを演じる俳優の真剣な様相や雰囲気が素晴らしく、「外れ」はありませんでした。恐らく俳優たちも、海戦は多くの死者を背景としているために、戦史上の人物に成りきった最高の演技ができたのでしょう。

今回の映画「雪風」は、そんな我が国の海戦映画の伝統を受けて本流を歩んだ映画のような気がします。そして今後の我が国の海戦映画の系譜の中で、金字塔に輝く作品になるのは確実です。
映画「雪風」が、我が国の今までの海戦映画と少し違っていたのは、映画のトーンで一番強調していたことですが、普通の日常世界で生きて来た人々が、海軍の職業軍人としてでなく、駆逐艦という海軍の小艦艇の船乗りとして、どう国家の戦争に関わって来たか?、海戦という特殊な状況下で普通の人間としてどうふるまって来たか?、そういう普通の人々の行為の集大成が、稀に見る雪風という幸運艦を舞台として描かれていたことです。
映画「雪風」を観ながら、子供の時から見て来た日本の戦争映画も、とうとう海軍軍人として教育を受けて来た特殊な人々でなく、市井の普通の人々が、たまたま戦争という極限に出会った風景を描くようになったなと感慨を感じました。これは米国の海戦映画「眼下の敵」や「ケイン号の反乱」と同じスタンスでした。
この映画「雪風」で描かれた世界は、大日本帝国海軍の特殊なものでなく国際的に普遍性があり、多分艦船好きな外国の人々にも身近に理解できるように感じたし、映画会社がソニーピクチャーズなので多分日本以外に配信を予定して制作したのかも知れないと想いました。
久々に大好きな海戦映画でしかも秀作だったため、心は戦争映画などあちこち飛んだため、ブログは長くなってしまいました。

出版共同社・福井静夫日本の軍艦より
歴史ある東宝の海戦映画を除いて、従来の我が国の戦争映画は、実際の当時の年齢と同じ若者を主役に配して興行成績を狙いました。たとえば航空映画では裕次郎や加山雄三などあまり軍服が似合わないが当時ときめくスターを主役にしたり、近年の若者主体で構成されていた特攻映画は見ていて感銘を受けませんでした。
ハリウッド映画の伝統は、決して若者を主役にせず、ある程度年齢のある俳優を主役にして、映画のリアリティと存在感を醸し出し作品に厚みを表現していました。ポール・ニューマンなどは実際に60歳なのにベッドシーンを演じていました。
映画「雪風」では実際の艦長より遥か年上の竹之内豊や玉木宏を主役に配し、砲術長、航海長や水雷長、機関長、主計長など駆逐艦の戦いを表現するに絶対必要な士官を、人生経験豊富な個性豊かな活き活きとしたベテランで固め、太平洋戦争という近年我が国が決断し遭遇した最大の歴史の重みを最前線で支えた、艦隊駆逐艦の戦場での臨場感を高めていました。
こうした「雪風」の配役も駆逐艦の船乗りが、特殊な人々でなく普通の市井人であり、しかも自身の職務に忠実に立ち向かうプロフェッショナルな人々です。ビジネスで言えば雪風が普通の企業のどこにでもある一支店のような人員構成で成り立っていた印象を受け、実際に現場で自身の肉体を呈して戦争を遂行する人たちが、自分たちと同じ普遍性のある普通の人々という印象を強めたものと想います。
彼らは誰も国家のためとか、天皇のためとか言わず、故郷の家族との平凡な日々を想い、少しでもそれを守ろうと戦っていました。
朝ドラ「あんぱん」で好演していた艦長の竹之内豊も、新渡戸稲造が米国で英語で書いた普遍性のある哲学「武士道」の日本版を座右の書とし、その生き方をたんたんと演じていたし、帆船時代の英国海軍から始まり、日米海軍に今も引き継がれている伝統ある先任伍長の役職を、玉木宏が見事に演じ切っていました。
玉木宏は「のだめ」の時から役を演じ切る役者として評価していましたが、軍人役には不向きな「タレメ」ですが、いまやいなくなってしまった軍服の似合う俳優の数少ない一人となっています。映画と軍服については後で触れたいと想います。
沖縄に向けて大和の水上特攻(第二艦隊第一遊撃部隊)
艦船ファンの中で、太平洋戦争を生き延びてビキニ水爆実験で標的にされて沈没した戦艦長門を、幸運艦と云う人は誰もいません。航空戦が主体となった太平洋戦争で大和、武蔵と長門、陸奥など戦艦部隊は、速力が遅く空母部隊に同伴できないため足手まといになるため出撃せずに生き残っただけです。
それでも長門以外戦艦部隊は最後の艦隊決戦を目指しレイテ沖海戦に出撃しましたが、武蔵、扶桑、山城、航空戦艦の伊勢が沈没し大和と榛名、そして横須賀にいた長門が健在でした。
沖縄戦が始まり、航空攻撃の特攻ばかりでなく艦船も特攻すべきだとの意見が多くなり、その結果菊水作戦の一環として大和を水上特攻として沖縄に座礁させ陸上砲台として活用する案が連合艦隊首席作戦参謀神大佐によって起案され、豊田司令長官によって決定されました。
草鹿参謀長が呉を訪れ第2艦隊伊藤整一司令長官に連合艦隊の命令を伝えました。伊藤長官は反対しましたが、軍令部と連合艦隊の一億特攻の考えを知らされると、作戦中止命令は自身の判断で行うとの確認を経てから甘んじて命令を受け、沖縄特攻の命令を第二艦隊の各艦長に伝えました
大和の最も美しい画像

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全長263m、巾38,9m、公試排水量69,000トン、出力153、000馬力、27,4ノット、46㎝3連装砲3基9門、15㎝3連装砲4基、12㎝高角砲6基、25mm連装機銃多数、搭載機4機、乗員3300名、1941年12月就役
伊藤整一第二艦隊司令長官は米国駐在武官も長く、海軍内ではリベラルな合理的思想の持ち主で、子息もパイロットとして特攻要員でした。大和の沖縄特攻では、リベラルな伊藤長官が、この理不尽な命令を受ける場面が、毎回ハイライトとなります。
映画「雪風」で伊藤整一長官役は中井喜一が演じました。中井貴一は司令長官役としてかなり太りましたが、改めて鶴田浩二が名演したこの役を見事に演じ切り、今や軍人役の最高峰に位置づけされました。かっての名作映画「連合艦隊」で零戦パイロット役を初出演した中井貴一が、伊藤整一役で登場したことは、映画「雪風」スタッフは戦争映画のことをよく知っているなと感じました。
「トップガン・マーベリック」が上映され時、家内と娘と観に行きましたが、これでトム・クルーズは米国を代表するスターになったと家族に印象を話しました。
トム・クルーズのダントツ的な存在感はジョン・ウェイン以来です。ジョン・ウェインの存在感は彼自身の能力に加えて、歴史の浅い米国の伝統をよく知るジョン・フォ-ドによるものと思います。「長い灰色の線」では、同じアイリッシュのモーリン・オハラの助けを借りて、大根役者のタイロンパワーを合衆国陸軍を体現する円熟役者に変えました。
「トップガン・マーベリック」では前作のトップガンのライバル、アイスマンのあの暴れん坊役のヴァル・キルマーが、本作ではマーベリックの親友となり、今や年老いた思慮深い海軍大将になり、瀕死の状態でマーベリックにアドバイスを送ったシーンが印象的でしたが、トップガンのヒットの裏には、こういうジョン・フォード的なアメリカ軍の伝統を描く手法が大事されていたことに、とても感銘を受けました。

今回の映画「雪風」は映画会社は異なりますが、東宝の海戦映画の伝統をよく引き継いでおり、非常に安定感のある映画でした。
また従来の日本の海戦映画と大きく異なる事は、撮影に協力した海上自衛隊が全面に出てきたことです。
これは実際に英国海軍やニュージーランド海軍、米国海軍を動員した海戦映画の大傑作の英国映画「戦艦シュペー号の最後」やハリウッド映画「眼下の敵」や「ケイン号の反乱」「荒鷲の翼」「東京上空30秒」「機動部隊」「トラトラトラ」「ミッドウエイ」など米国海軍が全面に登場していましたが、諸外国に比べて日本もようやく普通の国になったようです。
帝国海軍の伝統は海上自衛隊が引き継いでいることは明白で、映画「雪風」は初めてそれを語った作品でした。
大和に随伴する第二水雷戦隊旗艦軽巡洋艦矢矧

出版共同社・福井静夫日本の軍艦より
阿賀野型軽巡の2番艦能代、軽巡矢矧は同型で阿賀野型の3番艦、全長174、5m、巾15、2m、7700トン、出力100,000馬力、35ノット、15㎝連装砲3基6門、8㎝連装高角砲2基4門、25mm機銃多数、61㎝魚雷発射管2基8門、爆雷、零式水偵2機、乗員700名、司令部要員26名、1943年12月竣工新鋭艦
第2水雷戦隊旗艦矢矧で伊藤司令長官から沖縄特攻の命令を受けた駆逐艦の各艦長たちは、どうして豊田連合艦隊司令長官が大和に同乗しないのかと反対意見が続出しましたが、伊藤長官が一緒に沖縄に突入しようと説得したため、各艦長は覚悟を決めたそうです。第二艦隊の乗組員は5.500人でしたが、良くこれだけの乗組員が覚悟を決めたか感慨に耐えません。
戦国の世の時代、砦の籠城戦だったら生き延びる確率は高いでしょう。また近代戦でも陸戦だったら負けたら逃げることも可能でしょう。また陸戦では部分的に勝つ確率もありますが、海戦では物理原則が確実に働く世界で、兵器の数や能力で勝敗は確実視されます。
米軍の大編隊の航空攻撃によって艦がかなりの確率で沈没することは解り切っており、しかも軍艦は沈没確実の総員退艦の号令がかかるまで海に退避は出来ず、しかも救命具や救命ボートと無縁の世界です。また沈没艦に対して救助も全く見込めない海域で、沈没することは確実のため、5500人の人たちは何を想っていたのでしょう。
たった80年前のこの時、我が国は5,500人が負けが確実な戦に赴き、全員が海の藻屑になることを、怖かったと想いますが、全員わめいて反抗する者も無く静かに戦いに臨みました。
映画の雪風もその中の1隻でした。
第二水雷戦隊
第41駆逐隊(冬月、涼月)防空駆逐艦
第17駆逐隊(磯風、浜風、雪風)
第21駆逐隊(朝霜、初霜、霞)
駆逐艦はそれぞれの海戦の生き残りで作戦可能な艦を集めて戦隊を編成しました。21駆逐隊は全くの寄せ集めです。
第二水雷戦隊は開戦時帝国海軍の最精鋭の水雷戦隊でした。
沖縄海上特攻には、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧以下8隻の駆逐艦が、第一遊撃隊の一員として大和に随伴しました。冬月、涼月は秋月型防空駆逐艦、雪風、磯風、浜風は陽炎型駆逐艦、朝霜は夕雲型、初霜は初春型、霞は朝潮型駆逐艦です。
全艦沈没を前提の連合艦隊の最後の突撃に帝国海軍の象徴だった大和に、駆逐艦隊の最精鋭の第二水雷戦隊が随伴し、帝国海軍の最後の艦隊行動を行ったことは、世界海軍戦史に記憶されるべき出来事でした。一般には知られていませんが、真珠湾攻撃と共に多分世界中のマニアックな艦船ファンたちの記憶に留めた事と考えます。
雪風、霞は開戦時最強と言われた第二水雷戦隊に属し、磯風、浜風、初霜も開戦時第一艦隊に属した第一水雷戦隊の生き残りで、初霜はキスカ撤退作戦に参加しています。
雪風、霞、磯風、浜風、初霜は開戦時よりあらゆる海戦に参加してきた武勲艦で、防空駆逐艦の冬月、涼月と共に、大和、矢矧を中心に爆弾回避行動のために各艦1500mの輪形陣を取り、敵空襲に供え帝国海軍の最後の艦隊行動を行いました。
当初燃料は沖縄までの片道燃料でしたが、呉の海軍燃料廠の計らいで満タンにして出撃しましたが、これによって海軍は燃料が底をついたと言われています。
雪風は優秀な陽炎型駆逐艦の一員でした。

出版共同社・福井静夫日本の軍艦より 雪風と同型天津風
陽炎型駆逐艦天津風、雪風、磯風、浜風は陽炎型駆逐艦18隻の内の1隻で、ロンドン条約廃棄後に設計された優秀艦でした。
公試排水量2,500トン、全長118m、巾10.3m、52.000馬力、35ノット、12.7㎝2連装砲3基6門、61㎝魚雷発射管4連2基8門、乗員228名、
雪風と共に2隻が帰還した秋月型防空駆逐艦

出版共同社・福井静夫日本の軍艦より
防空駆逐艦秋月型、13隻、公試排水量3.470トン、全長134m、巾11.6m、52.000馬力、33ノット、10㎝連装高角砲4基、25mm連装機銃多数、61㎝4連装魚雷発射管1基、爆雷発射機、乗員273名 艦隊直掩の防空駆逐艦として戦争後期に就役し活躍しました。
冬月、涼月は新鋭の秋月型防空駆逐艦です。
鹿児島県坊ノ岬沖で航空攻撃により第一遊撃隊の艦隊は消滅しました。

毎日新聞社刊日本の戦跡より
呉を出て豊後水道を通過する頃から触敵を受け、4月7日鹿児島県坊ノ岬沖で米国海軍空母集団の艦載機400機の攻撃を受け、大和は多数の魚雷を受け、矢矧、冬月、磯風、浜風、霞と機関故障で随行できなかった朝霜が急降下爆撃による爆撃を受けて沈没してしまいました。
伊藤司令長官は大和の沈没が確実になり総員退艦の命令と共に沖縄特攻作戦中止命令を下しました。その結果雪風、初霜、冬月は沖縄突入を断念し僚艦の救助を行いました。涼月は艦首破損のため後進で佐世保に帰投しました。
雪風、初霜は敵潜水艦の攻撃を警戒しながら海に浮いていた大和乗員280人、矢矧乗員550人、磯風、浜風、霞の乗組員800人合計1630人を救助しました。この3艦の乗組員はそれぞれ270名程度でしたが1艦当たり500人以上も救助し多分人が溢れるようだったと想います。
この海戦で戦死者は駆逐艦532名、大和2740名、矢矧446名の合計3,700名に及びました。
第二水雷戦隊司令官と矢矧艦長は救助されましたが、伊藤整一第二艦隊司令長官と大和艦長は艦と共にしました。
この戦いで帝国海軍の全ての艦隊行動は終了したのです。
戦後復員輸送に従事した雪風、その後は戦時賠償の一環で台湾に引き渡されました。

毎日新聞社刊日本の戦跡より
昭和21年2月から12月まで南方各地からの復員輸送に従事し13,000人を内地に運びました。昭和23年戦時賠償の一環で抽選の結果中華民国に引き渡され丹陽と命名されました。
昭和41年雪風の返還保存運動が行われましたが、台湾で台風のため艦艇破損により沈没しスクラップにされ保存は実を結びませんでした。
江田島の海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)と江田島に咲く伊藤司令長官の親子桜
雪風の碇が展示してあるそうですが気が付きませんでした。


旧海軍兵学校の象徴だった赤レンガ館です。日清戦争の前年の明治26年海軍兵学校生徒館として建築されました。現在は幹部候補生学校庁舎です。英国製レンガを1枚1枚紙に包んで輸入したと言われています。
帝国海軍が大英帝国海軍から学んだ基本的な思想は2つあり、1つは見敵必戦、もう一つは指揮官先頭の原則だと言われています。
海の戦いは物理的な要素で勝敗が決定すると言われています。大艦は小艦に必ず勝ちますし、口径の大きい大砲の艦は小口径の艦に必ず勝つと言われています。しかし英国海軍の見敵必戦の思想は、敵を発見したら物理的に不利な場合でも、ひるむことなく戦いを挑み、そこに勝機を見出すことで、帆船時代の海戦から培われていた思想です。
指揮官先頭の原則は、帆船時代の英国艦隊は旗艦を先頭に単縦陣航行が原則で運動力で敵艦隊を撃滅しまし。我が国もこの伝統を受けて日清、日露戦争の帝国海軍は、横陣の敵艦隊に向けて、旗艦を先頭にした一糸乱ぬ単縦陣の艦隊行動で大勝利を収めました。
戦史を読むと見敵必戦の思想を最も忠実に行ったのは米国海軍で、それに比べると映画「雪風」でも描かれた栗田艦隊のレイテ湾突入のように、肉眼で米護衛空母から航空機が飛び立つ様子が見える位置まで肉薄し、マッカ-サーの上陸軍10万を壊滅できる位置に迫ったのに、航空攻撃を恐れるあまりひるんで謎の反転を行って帰国してしまいました。
このレイテ沖海戦で帝国海軍の西村艦隊の戦艦部隊が壊滅したのは、米国海軍の魚雷艇隊の勇敢な夜間攻撃でした。ケネディ大統領も太平洋戦争時、海軍中尉の魚雷艇の艇長の時、日本の駆逐艦に体当たりを行いました。
帝国海軍は兵と下士官、若手の将校は勇敢でしたが、将官には無能が多かったと米国海軍は評価しています。兵学校卒だけの狭い仲間意識の官僚組織が肥大化し、戦いより自己の保身が優先した結果が先の大戦でした。海上自衛隊は幹部候補生学校の学生は防大卒だけでなく、米国海軍と同じように一般の大学卒者と海上自衛隊選抜者と混成にしたのは旧軍の反省があったのだと想います
江田島の庭に咲く第2艦隊司令長官伊藤整一中将の父子桜です。
大和の沖縄特攻で大和以下最後の水雷戦隊を率いた第2艦隊司令長官伊藤整一中将は、米国に駐在し開戦直前軍令部次長に就任、スマートで温厚で家族思いの穏やかな性格で人望がありました。大和が特攻出撃後、宇垣纏第5艦隊司令長官は護衛戦闘機隊を出撃させましたが、その中に伊藤整一長官の長男叡中尉のゼロ戦も含まれていました。父親は海兵39期、長男は海兵72期でその後特攻で戦死してしまいました。
東京杉並の長官の自宅は空襲で焼けましたが、桜は残り根から新しい芽が育ち2本並んで花を咲かせ、父子桜と呼ばれるようになりました。この話を知った長官の出身地の福岡県みやま市の住民たちが、遺族から新しい枝を譲り受け、挿し木で苗に仕上げてここ旧兵学校の庭に校長と共に植えてあり偲んでいます。
戦争映画全般に話が飛んでしまいました。
小学3年生の時初めて見た記念すべき日本の戦争映画・新東宝映画「戦艦大和」


名著、吉田満著「戦艦大和の最期」の原作を忠実に映画化した新東宝映画です。大和艦長役藤田進と原作の吉田満役の船橋元です。
私の小学1年から4年まで、冷戦のたけなわで朝鮮戦争が行われていました。
私は子供の頃から新聞が好きで、分からないままに毎日読んでいましたし、家で世界画報も購読していたので朝鮮戦争などは写真画像で見ていました。
当時、冷戦の空気は現在より遥かに重く社会を包んでいました。連日北海道の漁船がソ連船に拿捕されているニュースが報じられ心を暗くしていました。
その頃いとこから戦時中の少年雑誌を纏めて貰い、ひまさえあれば読んでいました。その中に戦前の北氷洋の蟹漁船の記事があり、北氷洋では漁民保護のため海防艦が遊弋しているから拿捕の心配は無いとあり、日本は戦争に負けてしまったから漁民の人たちも辛くなるのだなと想いました。
そんな時代だった小学校3年の時、初めて日本の戦争映画を観ました。
そしてこの映画で、日本に民衆に秘密にしていた戦艦大和という世界最大の軍艦があったことを知り、しかも沈没することが確実なのに全員が静かに任務を遂行するために出撃して行く事実は、子供心に衝撃でした。
しばらく心の中でこの衝撃は収まらず、約1か月かけて紙芝居をつくり、担任の先生に頼んで授業中に上演しました。それほど積極的でない子供の私が、今考えると反戦意識が強い当時の教育環境で、中年の女の先生に無理やり頼んでこんなことをやるとは想ってもいませんし、担任の先生も良く許可してくれたものだと、今でも記憶に残っています。
この「戦艦大和」までの日本の戦争映画は、「真空地帯」とか反戦映画ばかりでした。
原作者の予備学生で大和から生還した吉田満は復員後日銀マンとして務める傍ら自らの体験を手記にして出版しました。子供の私は原作は知らず、大人になって読みましたが実に素晴らしい手記でした。
「戦艦大和」は戦後8年経った昭和28年1943年の上映でしたが、この年に、後の特攻映画もモデルになった鶴田浩二の「雲ながれる果てに」も上映されました。
また東宝映画は1953年太平洋戦争を描いた大河内伝次郎の「太平洋の鷲」が上映され、私の艦船の興味が航空機まで及び、小学校高学年から3本建ての映画館で外国映画も含めてあらゆる戦争映画を観ました。
映画の話はその映画を観ていない人にとっては苦痛以外にありません。また映画の印象は極めて主観的世界のため、他の人が語る印象は面白くありません。ということで私が感動した映画はたくさんありますが、最小限にします。
庶民の戦いを描いた名作、東映映画「203高地」


私が45歳の時、東映映画「203高地」を観て愕然としました。それまで戦争映画は自分の人生に置き換えることなく、自分とは別な次元で見ていましたが、この映画の基本はさまざまな職業の平凡な市井の人間が召集されて、いきなり白兵戦の戦場に赴く衝撃的な映画でした。余談ですがこの映画の戦場シーンの銃弾が飛び交う臨場感がものすごく、多分リアルな戦場シ-ンで話題になった「プラトーン」はこの映画を参考にしたのだと想いました。
この映画を観ながら第2次上海事変で家族を残して召集され、その一か月後突然弾雨飛び交う前線の戦闘に遭遇した父を想い涙が込み上げてきました。前線というのは心の準備が整わないままに遭遇するものだと。
私の父は,職業軍人でもないのに84年間の生涯の内、現役兵の2年間の台北第1連隊服務、昭和12年麻布第103連隊での第2次上海事変の4年間の出征、昭和18年の独立混成旅団の一員として敗戦後捕虜も含む4年間のビルマ出征の合計11年間に及び、私の誕生はビルマで知り、私が3歳になった時復員したのです。もし小隊の大半が戦死した上海事変の緒戦で父が戦死していたら、私は世に産まれることはなかったでしょう。
父は普通の市民として十分すぎるほど国家の義務を果たしました。
私は戦争を物語でなく具体的に想う時、いつも父を想い出します。もし自分の生涯で11年も家族と別れて戦地に行くと考えます。答えはノーです。国家の戦争とは、自分とは無関係な誰かが行うのでなく、自分か、自分の身内の誰かが行うことなのです。
多くの出征兵士がそうであったように、父は晩年になるまで戦争については多く語らなかったため、戦争については映画から学びました。ただTVドラマに出てくる日本軍兵士が必ず戦闘帽の後ろに日よけの棒垂布を下げているシーンを見ると、あんなものは誰も下げていなかったと言っていました。日除けの棒垂布は正式軍装でなく南方の前線で臨時に行っていたかも知れませんが、少なくとも大陸でもビルマでも現地の人と接触する地域において、着た切雀でも兵士は日本陸軍の正式軍装を守っていたように想います。それが軍隊の基本です。
東映映画「203高地」以降、日本の戦争映画は、職業軍人の行動や若者の恋愛だけでなく、平凡な家族で日常を送る人々が戦争に巻き込まれ、たんたんと任務を遂行していく姿が主流になりました。
映画「雪風」は駆逐艦という特殊な小艦艇が舞台です。護送駆逐艦を描いたアメリカ映画の名作「ケイン号の反乱」や「眼下の敵」など映画の歴史に残る名作は、小艦艇の人間模様や戦いを描いて戦争を語る手法を採っていましたが、日本の海戦映画は、大鑑を舞台として戦争全体を描く作品が主流でした。
映画「雪風」の主人公は艦長と先任伍長で個艦が舞台ですが、やはり「雪風」の幸運艦の特徴を生かすためには、連合艦隊全体を描くのが早道で、最後の幸運を物語るには大和が登場せざるを得ず、伝統的な我が国の海戦映画になりましたが、それはそれで見どころがありました。
敗戦後、呉軍港で無残な姿をさらす戦艦伊勢

毎日新聞社刊日本の戦跡より米軍の攻撃で呉湾で座礁した航空戦艦伊勢、敗戦時の姿です。
要塞艦隊という用語があります。
戦争になると軍港の奥にじっと身を潜め、その威圧感と潜在能力で戦う考え方で、歴史上あまり成功はしていません。戦史を紐解くとこの要塞艦隊の思想に馴染めず、広く大洋で戦うことを好んだ海軍は、日英米海軍と独のUボート部隊だけでした。反面第2次世界大戦では、ドイツの戦艦部隊、イタリー、フランス、ソ連など大洋に出て海戦を挑まず終戦まで艦隊を温存しました。大陸国家と海洋国家の国民性の違いなのでしょうか。
我が国も燃料が無く出撃しても戦果が挙げられない戦艦は無用の長物となり、長門は横須賀で、伊勢、日向、榛名は7月の米軍の空襲で着底してしまいました。
無傷の大和は生き恥をさらすことは潔くないとの思想から沖縄特攻を行いましたが、3700人の将兵が海の藻屑と消えました。
1隻も残さず完璧に滅んだ帝国海軍は世界史的に見ても唯一です。
戦艦大和の最期
映画「連合艦隊」ではこの最期のシーンに谷村新司の「群青」が流れます。

文春文庫半藤一利編太平洋戦争日本軍艦戦記より
しかし帝国海軍を代表した悲劇の「大和」と同行した「雪風」を含む第2水雷戦隊の記憶は、民族の記憶として残りました。
全くその存在を知らなかった私が1953年に新東宝映画「戦艦大和」で初めて大和の存在と最期を知り、1974年連続アニメの「宇宙戦艦ヤマト」によってアニメ世代が大和を知り、1981年、ハワイから大和の最期まで描いた東宝映画「連合艦隊」が登場し、2005年東映映画「男たちの大和」と、時代が変わる毎に新たに大和の映画が登場しました。
このように世代が変わっても「大和」を知らない新しい世代は「大和」の最期を知ることになります。映画館でこの映画を観に来た人たちを見ると、若い世代はいませんが、それでも私より若い人たちが大半で、中にはおばさんたちのグループもいました。
「大和」は、私たちの心の底に生き続け第2艦隊の3700人の人々が決して海の藻屑になって忘れ去られることはありませんでした。

太平洋戦争の幸運艦「雪風」を描く場合でも、「大和」の存在は必需で、描かれる軍人も政治的な思考の山本五十六元帥より、普通の軍人として多勢の部下に特攻を強いる苦悩を演じる伊藤整一中将役の俳優の方が重要になりました。
鶴田浩二はデビュー作「雲流る果てに」から数多くの航空隊長を演じて来ましたが、そのキャリアで映画「連合艦隊」で最高の伊藤整一中将を演じ、多分他の人が演じられないほど見事に演じ切りました。
映画「雪風」で伊藤長官を誰が演じるのかと思った、かって映画「連合艦隊」がデビュー作で、空から父親が乗艦する大和の最期を見届けてから、特攻に向かう見事な特攻隊員を演じた中井貴一が演じました。
こうなると、次にいつか登場する「大和」ものの映画では、「雪風」艦長を名演した竹之内豊が伊藤長官を演じるかも知れません。
海軍予備学生の手記、聞けわだつみの声を基にした鶴田浩二「雲流る果てに」
海軍戦争映画の傑作、東宝映画「連合艦隊」


東宝映画連合艦隊のパンフです。映画館で印象に残った映画の場合、パンフを求めて保存していたのですが、先日これらを処分してしまいましたが、「連合艦隊」と「203高地」「八甲田山」は捨てないで残っていました。
大和と連合艦隊を描いた映画では東宝映画「連合艦隊」が最高傑作でした。配役も円熟しているし森繁久彌の演技もこれ以上はありません。長門浩之が瑞鶴の整備兵役も映画に重みを与えたし財津一郎も映画のリアリティを高めました。映画「連合艦隊」に比べると映画「雪風」に重みが足りないのは、今の日本俳優界に渋く重厚な男優がいなくなってしまったからでしょう。
今回の「雪風」では、海上自衛隊の全面協力が印象的でした。最後の旧海軍兵学校の映像や、艦長の娘さんが海上自衛隊の救難隊員で活躍したシーンがあり、とうとう海上自衛隊も前面に出て来た印象を持ちました。
「ヨーソロー」「ヨーイテ!」以外、「前進微速」「前進強速」「砲戦魚雷戦!」「対潜警戒を厳にせよ」など帝国海軍の操艦用語が、初めて使用されたのは映画「キスカ」からでしたが、映画「雪風」では「ト-リカジ」「オモーカジ」など独特の抑揚での操艦用語が多用され、とてもリアリティを感じました。
海上自衛隊でも帝国海軍と同じ操艦用語が使われているようですが、長崎海軍伝習所時代の操艦用語「steady」が翻訳されて「宜しく候」「ヨウ・ソウロウ」に変わり明治海軍にそのまま引き継がれていますが、このような伝統を持たない国家にとって羨ましい存在と想います。
今はネットで何でも検索可能ですが、軍隊が伝統を重んじる例の余談です。
ハリウッド映画「哀愁」は好きな映画の1つでした。第1次大戦時のロンドンが舞台で英軍陸軍将校ロバートテイラーと貧しいバレーダンサーの風と共に去りぬのヴィヴィアンリーが主役の悲恋のドラマです。
ロンドンに初めて行った時、舞台のウォータールー・ブリッジが見たくてタクシーの運転手に告げたら怪訝な顔をしていました。多分運転手さんはこの映画を知らなかったのでしょう。
この映画で陸軍将校のロバートテイラーが、ヴィヴィアンリーに自分の軍服の腕章を見せながら「驚くだろうけど僕はフュージリア連隊なんだ」と告げました。
当時調べてみると、フュージリアというとオランダに関係しているかも知れないと想いましたが、それは謎でしたが、ある時この連隊は17世紀オラニエ公ウイリアムの時代に創設された英国最古の火縄銃連隊であることがわかりました。従って伝統を重んじる英国陸軍では、第1次大戦当時この連隊の将校団は貴族出身で編成されていたのでしょう。今でも英国陸軍でフュージリア連隊は当然主要連隊として継続されているはずです。
歴史の浅い米国陸軍でも第1騎兵師団や第82空挺師団、第101空挺師団など第2次大戦でおなじみの軍隊が戦後のあらゆる戦争に参加しています。日本軍と太平洋の島々で血みどろの戦いを行った第1、第2、第3海兵師団も現代でも形態は変わりましたが、有事出動の最強の第3海兵師団は沖縄に駐留しており、軍隊は戦歴と伝統を重んじる組織であることが解ります。
また余談ですが太平洋で帝国海軍と血みどろの戦いを行った米国海軍は、その最強の第7艦隊は横須賀を母港にしており、第7艦隊勤務が米国海軍の出世コースなのです。
我が国の海戦映画の特徴は、敵国が悪いために戦争になったとは決して描かれず、避けられれば避けられた戦争ですが、陸軍が強硬なため巻き込まれ、そして強大な米国の工業力に負け、次世代に未来を託し、自然災害に遇ったと同じように諦念を抱き、それぞれの職務の義務を果たしながら戦いに臨み阿鼻叫喚になることなく潔く死に向かうストーリーで、残された家族は、意思を継いで懸命に生きていくストーリーが主体です。日本人は戦争を自然災害と同じように諦念を抱いたのでしょうか。


中井貴一の20歳のデビュー作。ストイックな兵学校の特攻兵役を見事に演じていました。空母瑞鶴の飛行長役の平田明彦、瑞鶴艦爆隊長の永島敏行と偵察員佐藤允。数多くの東宝映画の空母戦の映画を観ましたが、平田明彦はいつも飛行長役で登場していました。空母では航海長、機関長と共に母艦航空隊を統括する飛行長の役職があり、母艦航空隊長を務めた中佐クラスが就任します。艦内では艦内帽を被らずいつも搭乗員と同じ航空帽を跳ね上げて被っています。平田明彦の飛行長姿もこれが最後の映画でした。
平田明彦は陸士から戦後一高東大と歩みましたが、飛行長の服装や動作など多分個人的に相当研究していたのではないかと思います。東映では実際の関大から学徒出陣し海軍航空隊の鶴田浩二と日大出身の西村晃、立教卒業後陸軍に召集され幹候から少尉になり、南方に異動中輸送船が撃沈され漂流後インドネシア戦線に従軍し中尉だった池辺良の軍服が板についていました。
突然ロバート・レッドフォードが亡くなりました。
昔からハリウッド映画は、若者より中年になって落ち着いた俳優が主役を演じる映画が主流でした。そこが若者ばかりが主役の日本映画と一線を画しているように想っていました。ジョン・フォードの騎兵隊3部作「アパッチ砦」「黄色いリボン」「リオグランデの砦」の主役を演じたジョンウェインはいずれも彼が40代の作品だし「リオ・ブラボー」や「捜索者」「アラモ」は50代の作品です。
「明日に向かって撃て」や「スティング」の小僧っ子時代にヒットしたロバート・レッドフォードが、「トップガン」のトム・クルーズと並ぶ、米国を代表するような俳優に近づいたきっかけは、独断ですが、彼が40代になった時の米英合作の国際戦争映画「遠すぎた橋」だったと思っています。

芳賀書店1977ヒコーキ戦争映画より
この映画は第2次世界大戦の後期、ノルマンジー上陸後連合軍が、ベルギー、オランダ経由で最短にドイツ本国に侵攻しようと、英陸軍空挺部隊が米陸軍空挺部隊と共同で実施した作戦を描いた国際戦争映画で、結果はドイツ軍の抵抗が激しく空挺部隊の橋頭保確保が不十分で、機甲部隊と歩兵が後続できず、いわゆる目標の橋が遠すぎた橋になってしまった映画でいわば「地上最大の作戦」の続編に位置していました。
この映画にはショーン・コネリー、ライアン・オニール、ロバート・レッドフォード、アンソニーホプキンス、ジーン・ハックマン、ローレンス・オリベイ、マクシミリアン・シェルやハーディークルーガーが出演しました。
この映画の圧巻はショーン・コネリーで英国第1空挺師団長を演じましたが、ベレー帽を纏った英国陸軍の軍服がよく似合い存在感が抜群で映画を圧倒しました。
一方米陸軍を代表する歴戦の米国第82空挺師団長を演じたライアン・オニールは「ある愛の歌」でハリウッドを代表する人気俳優でしたが、部下の少佐役の大隊長を演じたロバート・レッドフォードに完全に位負けし、映画を観ているとどちら上官だか分からなくなりました。この映画の印象ではショーンコネリーの英国陸軍が圧倒的で、かろうじてロバート・レッドフォードの存在によって米国陸軍は面目を施しました。
この映画の後、ライアン・オニールは銀幕から余り見なくなりましが、反面、それまでボンド俳優だけのイメージだったショーン・コネリーは英国軍服の最も似合う英国人を代表する俳優として国際スターとして確固たる位置を占めました。
ロバート・レッドフォードもこの映画で、行動力抜群の米国陸軍軍人を見事に演じ切り、この後米国を代表する俳優となりました。
レッドフォードにはファンが多く、好きな作品は評価が分かれますが、私は「幸せの条件」から彼の存在が気になり、監督として「リバー・ランス・スルー・イット」や「モンタナの風に吹かれて」など現代の哲学的な課題にも取り組んだ彼が好きでした。米国社会はトランプによって違う道に進んでいるのを観て、彼はあの世で残念に思っていることでしょう。

芳賀書店1977ヒコーキ戦争映画より
軍服の歴史は一方では服飾の歴史であり、更には軍服は国民性の表現でもあるように想います。戦いに臨むに当たり戦士は最も自己を表現できる衣装を身に着け、やがて国民国家の常備軍の軍服になり、その最高の形態はナポレオン時代でした。この時代の戦いは古代ギリシャのファランクスの伝統を引き継ぎ、派手な軍服で弾雨の中、鼓笛によってひるまず横1線で前進し敵に威圧感を与える非合理的な戦闘が主流でした。英国軍の真っ赤な軍装は植民地戦争では最も効果的でしたが、アメリカ独立戦争では、真っ赤な軍装の英国軍を合衆国軍の寄せ集めの兵士がバラバラになって物陰に隠れて狙撃する合理的な散兵線の思想によって、敵に威圧を与える目立つ軍服は儀式用になり、現在では迷彩服が主流になりました。
各国が国民軍を常備するようになると、軍服は兜や帽子と共に、自国民の体形や歴史に合わせて意匠や行進方法までが研究され、軍服の素材、敬礼の仕方や行進方法が、その国家を象徴するようになりました。
軍服の素材も国家に合わせて制定されました。毛織の国英国の軍服はウール製で、実用的なコットンのトレンチコートは第1次大戦の塹壕で誕生しました。プロイセン軍が主体で発展したドイツ軍は長い厚く外套を好み、軍服の多彩さは目を見張るものがあり、機能的、実践的なものを好重視する米軍は騎兵隊時代からの綿製品の略装を好みます。
「遠すぎた橋」の前作だった国際的戦争映画「地上最大の作戦」では、この映画も米軍、英軍、仏軍、独軍の軍服が似合う俳優の競演でした。米軍俳優は上陸作戦歩兵師団副団長に「眼下の敵」で駆逐艦長を好演したロバート・ミッチャムに他の歩兵師団長ヘンリー・フォンダ、作戦開始と同時に敵地に降下する勇敢な第82空挺師団中佐にジョン・ウェインなど、米国の数々の戦争映画で好演してきた俳優を揃えました。
英軍はコマンド部隊長ロバット卿役にアランの私的な白いセーター軍服を着て、バグパイプ奏者の部下を同伴し、部下がグライダーの強行着陸で確保した橋頭保に弾雨の中「スコットランド・ブレイブ」を演奏させながら、指揮棒を小脇に抱えて前進するシーンが、勇敢な英国軍人の理想の姿を演じて印象的でした。「眼下の敵」で潜水艦長となったクルトユルゲンスも独西部軍参謀総長として登場しましたが、総統に機甲師団移動の許可を睡眠中だからと側近に阻止されて、「ドイツは負けた」とつぶやくシーンもまた印象的でした。
軍服の美しい東宝映画「八甲田山」


東宝映画八甲田山パンフより
映画「八甲田山」は後に、美しい画像の最高傑作「剱岳点の記」の監督の木村大作が、カメラマン時代に撮影した映画です。
ジョン・フォードは一場面一場面を詩情あふれる絵画になるように撮影したと言っていますが、「剱岳点の記」はそれに近く、「八甲田山」で圧倒されたのは明治の陸軍の軍服の美しさでした。
特に弘前の第8師団司令部で八甲田遠征を計画する会議のシーンで、師団司令部の幹部たちが会議を終えて談笑しながら桜の下を歩くシーンの美しさが秀逸でした。一緒に観た家内も軍服の美しさに同調していました。
高倉健はこの映画で、北大路欣也と共に陸軍中隊長役を演じました。高倉健の戦争映画の経験は潜水艦長1回だけで、後は網走番外地と昭和残侠伝や日本侠客伝などで人気俳優でしたが、この「八甲田山」で多分多くの人が、彼のストイックな風貌が軍服にぴったりと合い、その後吉永小百合と共演した「動乱」で最高の陸軍将校役を見演じ切り、映画「鉄道員」では監督は、良く似合うに鉄道員の外套を脱がせたくなく家の座敷でも着たままの映像が続きました。
軍服と同じく戦いの装束に鎧兜があります。
日本では軍服と同じように、鎧兜が似合う俳優は大スターの近道になるようです。一番端的な例は渡辺謙でした。彼は大河ドラマ「伊達政宗」や「炎立つ」で藤原経清を見事に演じ、鎧兜の似合う俳優として第1人者になり、トムクルーズと共演した映画「ラストサムライ」で国際スターの押しも押されぬ存在となりました。
この映画で共演した真田広之も独特な日本の侍を演じ、ハリウッドTV映画「将軍」では国際的にヒットし大スターになりました。
NHK大河ドラマの歴史ドラマでは主演で鎧兜の武将を演じても、鎧兜が似合わなかったためその後主役にならない俳優が何人もいました。
鎧兜は5月の節句で鎧兜は似合う男の子になって欲しいと願うアイテムで、日本の武将に似合うように長い年月をかけて作られてきた意匠です。それだけ多くの人たちが、似合う役者はどのようなタイプか皆知っているのです。青葉城や山形城、川中島に行けば鎧兜に身を固めた伊達政宗や最上義光や信玄、謙信の像があり、誰もが鎧兜が似合う武将は日本人の英雄と想っています。
プラモで比較する機動部隊に随伴する艦の種類と大きさ
戦争映画から再び艦船の世界に戻ります。
40年ほど前に作った700分の1のウォーターラインのプラモデルを、30数年前引っ越ししてから開けなかった箱から取り出し、久しぶりに並べてみました。
1921年大正10年、ワシントンで軍縮条約が開催され、主力艦の戦艦の米、英、日、伊、仏の主力艦保有トン数比は5,5,3,1.75、1.75と制限され、更に1930年昭和5年にロンドン条約において補助艦の軽巡洋艦、駆逐艦、潜水艦の定義と割合が決まり、我が国は補助艦艇では対米英7割の保有が認められました。
この軍縮条約は昭和12年には無条約になり、再び建艦競争が始まり、大和、武蔵の建造、航空母艦の翔鶴、瑞鶴の建造、軽巡洋艦の大型砲換装による重巡洋館に転嫁、新軽巡洋艦の整備と駆逐艦と潜水艦の大量建造が開始されました。
この間、航空機が大幅に進歩し、複葉の固定脚の航空機から、全金属の戦闘機、爆撃機、雷撃機と兵器や運用方法が進歩し空母も変わりました。ワシントン条約によって造艦中の巡洋戦艦赤城と戦艦加賀は3段甲板の空母の変更し、昭和10年に全通甲板に改装し零戦、99式艦上爆撃機、97式艦上攻撃機が搭載できる近代空母に変わり、真珠湾作戦主力として生まれ変わったのです。

空母は航空機を発信する際は航空機の揚力がつくように風上に向けて30数ノットの全速力で走行します。
帝国海軍は開戦前空母個艦でなく、空母の隻数全体の航空機の運用を一元化し、戦闘機の母艦制空隊、攻撃隊、急降下爆撃の艦上爆撃隊、魚雷攻撃の艦上攻撃隊、水平爆撃の艦上攻撃隊と目的ごとに集合運用しました。これは世界に初めての画期的な試みで、ミッドウエー作戦でも米側は運用が不十分でした。
甲板の広さの問題で空母搭載機の全機発信は不可能でした。滑走距離のため最初に軽い零戦隊から発信し、次に250㌔爆弾を抱いた艦爆が発進、最後に800㌔の魚雷を抱いた艦攻が発信します。海軍は指揮官先頭の原則があるため一番滑走距離に短い先頭機は戦闘機隊長が発進します。

上の画像は一番上のアリューシャン作戦参加の小型空母龍驤を除いて、ミッドウエー作戦時の第1航空艦隊の編成の一部です。
第1航空艦隊の空母は上から第2航空戦隊の飛龍、(蒼龍はなし)、第1航空戦隊の赤城、加賀の4隻で、零銭84機、99式艦上爆撃機84機、97式艦上攻撃機93機、計261機の編成でした。
重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦の大きさの比較

巡洋艦はワシントン軍縮条約では巡洋艦以下の補助艦は合計トン数の枠は設定されませんが、それまで巡洋艦の定義は各国で異なっていた定義を定めました。巡洋艦は8インチ(20.3㎝)以下の主砲を搭載した艦は重巡洋艦、6.1インチ(15.5㎝)砲以下を搭載した艦は軽巡洋艦と定められました。。
我が国は開戦時には18隻の重巡洋艦を保有しました。上の画像の重巡洋艦妙高は同型艦那智、足柄、羽黒と共に平賀造船中将の傑作艦で10.000トン級重重巡洋艦の世界のモデルとなりました。
中段は5.500トン級の軽巡洋艦阿武隈、軽巡洋艦は4隻1組の駆逐隊が4個16隻からなる水雷戦隊の旗艦として運用されました。排水量5.500トン、全長158m、巾14m、90.000馬力、速力36ノット、14㎝砲7門、魚雷発射管14門、航空機1機
下段は陽炎型駆逐艦、公試排水量2,500トン、全長118m、巾10.3m、52.000馬力、35ノット、12.7㎝2連装砲3基6門、61㎝魚雷発射管4連2基8門、
駆逐艦は夜間敵艦隊に向けて全速で突進し敵前で急回頭し、90度に固定した発射管から1艦8門、駆逐隊32門の魚雷を発射するため、全速で小回り可能な艦形と大きさです。
上空警戒のための第一警戒航行序列

駆逐隊の航行方法
戦艦や空母に随伴する駆逐隊は、中央に主力艦を置いて周りに円を描くような輪形陣を取りながら航行します。
水雷戦隊が単独の場合、上空警戒での航行は第1警戒航行序列とし、各駆逐隊は縦に4隻ずつ各艦距離1.000mを維持し、更に各駆逐隊の隊との間隔は4.000mとします。個々の駆逐艦が最船戦速35ノットで回頭した場合、直径が1.800mにもなるからです。
模型は間を開けず置いていますが、実際は広大な海域を使用して航行します。
日米開戦前の双方の海戦プランと日本独自の水雷戦隊
日露戦争の勝利と一次大戦の結果によって、大砲の威力が海戦結果を端的にもたらすことで、世界の海軍は大鑑巨砲主義に向かいました。
米国海軍はオレンジプランを策定し、来るべき米日艦隊決戦には主力戦艦や空母を真ん中に重巡洋艦と軽巡洋艦で輪形陣を作り、さらに駆逐艦で周りを囲んだ大輪形陣でマリアナ諸島近海で、日本海軍と一大艦隊決戦を行う予定でした。軍縮条約で戦艦を減らされた帝国海軍は。米海軍がマリアナ近海に接近する前に敵主力艦を減らす必要がありました。
そのため、補助艦の充実に務め、太平洋を往復できる航続力に加え索敵力のある水上偵察機を搭載した航洋型大型潜水艦部隊と、航洋性のある大型艦で夜間敵に高速で肉薄し、魚雷戦を挑める強力な魚雷兵装を持った大型駆逐艦からなる水雷戦隊、更に準主力艦の敵巡洋艦と渡り合える強力な重巡洋艦戦隊、そして航空偵察や戦艦の弾着確認に加えて航空魚雷で敵主力艦にとどめを刺す空母部隊などが整備されたのです。
駆逐艦は高速を出すために機関は細い船体の6割を占めていました。

帝国海軍には秘密兵器の93式酸素魚雷がありました。酸素魚雷は米国や英国の魚雷に比較すると重量は2倍でしたが、射程は米国が48ノットで4,000m、英国は46ノットで3,000mであるのに比較して、50ノットで20,000mの長射程を誇り、炸薬量は1,6倍でしかも雷跡が目立たないという優秀兵器でした
予定決戦場の前方に展開し敵主力艦を漸減させる作戦の主力としての駆逐艦の役割は、海軍が誇る長射程の93式61cm酸素魚雷を敵大型艦に浴びせることにありました。レーダーが無い時代、夜間夜目が利く見張りが一早く敵を発見し、高速で敵艦に肉薄し、各艦扇状に数10本にも渡る必殺の酸素魚雷を放ち、敵主力艦を3隻でも4隻でも撃沈させ、主力艦同士の決戦に戦力を対等に持ち込むことが最大の目的だったのです。
敵艦に肉薄して必殺の酸素魚雷を放つ駆逐艦には、35ノットの速力が求められます。この速力を出すために駆逐艦は排水量2,000トンでありながらも鉄板1枚の艦体の大半に、出力52,000馬力の巨大なタービン2基2軸を備え速力を維持しました。
駆逐艦雪風もこの目的のため建造され訓練を重ねてきたのです。
水雷戦の花形第二水雷戦隊

kkベストセラーズ福井静夫日本の軍艦より 第2水雷戦隊
太平洋開戦時帝国海軍の主力駆逐艦保有数は第1水雷戦隊から第6水雷戦隊の79隻が主力ですが、「雪風」は敵主力艦漸減作戦の艦隊決戦用の最精鋭の第2水雷戦隊に属していました。
水雷戦隊の旗艦となったのどかな艦形の5,500トン型軽巡洋艦

敵主力艦を漸減するためには集団で多数の魚雷を浴びせるために、帝国海軍独自の水雷戦隊の思想が産まれました。水雷戦隊(戦隊司令官は少将)とは、駆逐艦(中佐艦長)各4隻から成る駆逐隊(司令は大佐)4隊編成の合計駆逐艦16隻で編成し、一度に合計160本の魚雷を発射し確実に仕留めます。
16隻からなる高速の水雷戦隊の旗艦として、大正時代の古い外観ながらも61cm酸素魚雷を4基8門を備え36ノットの高速を誇る5,500トン級軽巡はうってつけだったのです。
軽巡はのどかな艦形に反し駆逐艦より高速で水上偵察機も搭載していました。

水雷戦隊の旗艦の軽巡は、自身強力な魚雷兵装を備えているだけでなく、敵駆逐艦を粉砕できる砲力に加え、水上偵察機を搭載していますした。
水雷戦隊は、敵主力艦との決戦の前日に予定海域に到着し薄暮に旗艦搭載の水上偵察機を射出して敵主力艦を索敵発見し、この敵情報告の元に、日没と同時に水雷戦隊は敵主力艦隊に全速で接近します。
敵艦隊の上空では、索敵していた水偵が吊光弾を投下して、敵艦隊の艦影が明らかにし、それに向けて全艦150本の魚雷を発射します。雷撃は1回で終りでなく、夜間何回も戦隊全体で雷撃を繰り返し、少しでも敵艦を撃滅し主力艦決戦を有利に進める戦法でした。

kkベストセラーズ福井静夫日本の軍艦より 手前に魚雷発射管が見えます。
この大正から昭和初期に建造された5,500トン級の軽巡洋艦の3本煙突の艦形は、その後に建造された重巡洋艦が、艦橋と傾斜を付けた煙突を、艦中央部にまとめて設置した精悍な姿と比べると、いかにも1時代前の古めかしいデザインでした。
しかしこの古めかしい5,500トン級軽巡がそのまま新型に代替せずに、太平洋戦争末期まで戦線の全域にわたって活躍した理由は、36ノットを越えるその高速力にあったのです。
この5,500トン級軽巡は、タービン4軸4基の90,000馬力の大出力で最大戦速36ノットの高速を誇りました。普通の艦形の船は水上で波を切って走る限り40ノットが最高と言われていますが、36ノットは時速換算で67kmになり車でもそこそこのスピードです。この90,000馬力の出力がいかに大きいか、たとえば他の軍艦と比較してみると、同時期の戦艦で31,000トンの伊勢は45,000馬力最大戦速23ノット、連合艦隊旗艦だった戦艦長門でさえ竣工時は39,000トンで82,000馬力最大戦速24ノットでしたが、この5,500トン級の軽巡洋艦の90,000馬力はとてつもない出力で、排水量が6倍以上の戦艦より馬力の大きい機関を持っていたのです。
太平洋戦争での実際の駆逐艦の戦い
太平洋戦争は、帝国海軍の機動部隊の航空部隊による真珠湾攻撃攻撃で米国海軍の主力戦艦が撃沈し、更にはシンガポール付近で帝国海軍の陸上攻撃隊により英国新鋭戦艦プリンセス・オブ・ウエールズと巡洋戦艦レパルスが撃沈されると、戦艦などの主力艦は組織的な航空攻撃から無力な事が判明されました。
海戦は複数の空母同士の艦隊が戦う海空戦が主流になりましたが、珊瑚海海戦やミッドウエー海戦、アリューシャン攻略戦など空母を中心とした機動部隊には戦艦は随行できず、唯一開戦前旧式戦艦の金剛、榛名、比叡、霧島は大出力の機関に換装し30ノット以上の高速で、この4隻は機動部隊に随行可能で大活躍しました。
日米の主力艦同士が激突する前、強力な酸素魚雷で米戦艦を漸減させるために、建造され訓練されてきた水雷戦隊の駆逐艦は、夜間敵航空機が飛来しない海を活動しその高速力で敵制空権下を離脱可能なため、雷撃より物資の輸送とか、水没した兵員の救助などの目的外の行動が主力になりました。
第2水雷戦隊によるガダルカナル輸送と、ルンガ沖魚雷戦
太平洋の戦いは、制海権は制空権がないと成立しなくなり、日米共にジャングルの南方諸島に航空基地をつくる戦いに変わってきました。南方のソロモン諸島のほぼ無人のガダルカナル島が米国とオーストラリアの結ぶ位置にあることから、ここに兵員を上陸させた米軍は航空基地を作りソロモン諸島の制空権を確保しようと動き多くの艦艇を派遣しました。日本軍はガダルカナル島を奪還するため陸軍部隊を逐次上陸させましたが阻止され航空基地は稼働したため、戦艦比叡と霧島を夜間飛行場を砲撃しましたが、機械力に勝る米軍は復旧が手早かったため、更に陸軍兵力を上陸し航空基地の占領を意図しましたが、上陸部隊への輸送船団による補給ができず、上陸部隊は弾薬はおろか食料も底を尽きました。


毎日新聞社刊日本の戦跡より
高速の第ニ水雷戦隊はルンガ沖夜戦を挟んでドラム缶輸送を続けましたが、昭和18年1月末から2月にかけて、高速の駆逐艦を使用してガダルカナル撤退作戦が敢行され、12,600名の将兵が収容されました。
海戦小説の最高峰

近代史の大家半藤一利が若い時書いた第2水雷戦隊の戦いの海洋小説で、戦記物というより海洋小説と呼んだ方がふさわしく、駆逐艦の戦史など皆無だった時代、活き活きと駆逐艦の乗組員を描写しています。この著作で帝国海軍の操鑑用語を知りました。砲術長から「右砲戦、魚雷戦!」の号令が聞こえて来るようです。
半藤一利は編集長が暇になって数々の昭和史の著作を出版してきましたが、私の中にいつも本書のリアリティが背景にあり、口だけの人では無いと思っていました、映画「雪風」の脚本家は本署をかなり読み込んでいるように感じました。
アリステア・マクリーンの「女王陛下のユリシーズ号」は海洋小説の最高峰と想います。マクリーンの他の著作は全て読みましたが、重厚さの観点では一番です。本書によっていわゆる大西洋のコンボイについて分かりました。米英はソ連を援助して西部東部戦線からドイツを挟撃するために、ソ連のムルマンスクに考えられないほどの武器、弾薬、車両を送りました。コンボイはニューファンドランド沖から北海近くまで米海軍の役割で、そこからムルマンスクまでが英海軍の担当でした。Uボートは狼群戦法で多数が連携して護送船団に襲い掛かりました。大西洋の戦いとは100隻を超す護送船団対Uボートの狼群の戦いでスカンジナビア沖からはドイツ空軍の爆撃機も参入しました。
戦後80年経って今でも第1線の海戦は、通商破壊戦と対潜水艦戦。空母を使用した海空戦、ミサイルに変わった小艦艇の砲戦で、いずれも第2次大戦で、いずれも日、米、英と独潜水艦隊が開発した戦法です。
第1水雷戦隊による、アリューシャン列島キスカ島撤退作戦。
この作戦は東宝オールキャストによる海戦映画「キスカ」に余すことなく描かれています。
三船敏郎の代表作で円谷特撮の最高峰でした。アナログ映画の記念碑作品と思います。

毎日新聞社刊日本の戦跡より
アリューシャン列島は昭和17年6月、ミッドウェー島攻略の陽動作戦としてアッツ島とキスカ島を占領しましたが、両島は米国本土であることから昭和18年5月に手前にあるアッツ島に米軍が上陸し、山崎陸軍大佐以下2,600名が玉砕してしまいました。キスカ島はアッツ島と米軍航空基地nあるアムチトカ島に挟まれていて、陸海軍6,000名が死守していましたが、制空権のある米軍上陸は必須でした。
キスカ島守備兵6,000名をガダルカナル島と同じように撤収収容作戦が計画されました。キスカ島周辺には米軍艦隊が封鎖している中を、撤収作戦には第一潜水戦隊の15隻の潜水艦が使われ傷病兵800人が収容されましたが、潜水艦2隻が失われてしまいました。残る5,200名を収容するためには、収容力のある水上艦艇が必須となり、木村少将指揮下の阿武隈以下第一水雷戦隊が撤収作戦を遂行することになりました。
撤収作戦を成功させるために第一水雷先隊には40ノットの速力とレーダーを持つ最新鋭駆逐艦島風を始め、響、朝雲、薄雲、夕雲、長波、秋雲、風雲、若葉、初霜、五月雨などガダルカナル撤収作戦n参加艦艇も含め11隻の駆逐艦で編成され、これに第二十一戦隊の5,500トン級の軽巡多摩と木曾が木村少将の指揮下に入りました。


毎日新聞社刊日本の戦跡より
7月の22日に再びキスカに向けて出港した第一水雷戦隊は、キスカ方面に再び濃霧が発生するとの予報が出されたため接近を試みましたが、霧が晴れてしまい、接近は出来ず遊弋していましたが、29日に艦隊司令部から濃霧発生の予報が出されたため、収容決行するために戦隊はキスカに突入しました。13時55分に投錨したった55分の間に、大発で5,200名の将兵を無事収容し、急遽幌莚に帰投したのです。
日本軍が撤退したと知らず米軍は、8月15日に戦艦ミシシッピーとアイダホの艦砲射撃後、船舶100隻に分乗した米兵34,000名が上陸し、同士討ちなどで100名の損害を出しながら、島には日本軍が残した犬が3頭残っているだけだと悟りました。
戦争末期、血みどろの戦い海上護衛戦
帝国海軍の潜水艦隊は駆逐艦と同じく敵主力艦低減作戦用として開発運用され、偵察のため水上機も搭載されており、独海軍Uボートのような潜水艦による通商破壊戦は全く考えていなかったし、米国潜水艦も南方と本国を結ぶ資源宇運送ルートの破壊戦も全く考慮していませんでした。
帝国海軍自体が艦隊作戦思想に凝り固まっていて、艦隊さえ強ければ商船を護衛して安全に南方から資源を輸送するか簡単な事だと考えていました。
太平洋戦争が始まって直ぐ見くびっていた米国の潜水艦が意外に強く手に負えないことに気が付きました。彼らは1次大戦時大西洋でUボートの通商破壊に手を焼いており、無防備な帝国海軍はたやすい相手でした。
こうして開戦半年後、九州から台湾を経てサイゴンやシンガポールの往復ルート、行きは兵士や軍需品、帰りはゴム、砂糖、油、錫、ボーキサイト、米の輸送の第1海上護衛隊、東京湾からサイパンを経由してトラック島、ラバウルを往復する第2海上護衛隊を新設し、旧型駆逐艦や2等駆逐艦を充てましたが、敵潜水艦による損耗が激しく、速力を遅く魚雷を減らし対僭兵器を増やし大量建造システムで就役し商船を護衛しましたが、商船の被害はうなぎのぼりに上がり、戦争継続が不可能になりました。
これら小型艦の艦長は兵学校出身でなく商船学校出身者が乗り組みました。
英米の護送駆逐艦は爆雷の他既に現代兵器のヘッジロックを搭載し強力な対僭兵器を備え、何よりもレーダーや優秀なソナーを持っていました。高角機銃のVT信管の発明により、帝国海軍の艦載機が輪形陣突破前に撃ち落されてしまいました。またマリアナ開戦時、鉄壁な輪形陣を組みながら、輪形陣の外から誰も気が付かず敵潜水艦の魚雷で旗艦が雷撃されてしまいました。これも駆逐艦が貧弱なソナーしか装備していなかったため、輪形陣のど真ん中に魚雷を受け逃走させてしまったのです。
太平洋戦争はアンバランスな技術のために沈没しなくても良い艦船が沈んでしまいました。
もっと大きな問題もありました。海軍と陸軍の航空機の機数です。海軍と陸軍は同じ機数を持ち毎年生産は同じですが、ソロモンで海軍は航空消耗戦を行っているのに、陸軍の航空部隊は参加しませんでした。理由は陸軍機が海の上を飛べないからです。しかし山本連合艦隊の一式陸攻を撃墜したのは米陸軍の戦闘機p-38です。また海戦当初空母ホーネットから東京爆撃を行ったのは米陸軍航空隊のB25でした。
陸軍知覧基地から特攻で飛び立った陸軍機5種、敵戦闘機と遭遇したら1連射で撃墜されました。



知覧の陸軍特攻隊基地を訪れた際、公表されていない特攻機の使用機種が手書きで表示し知覧から特攻に出撃した機種別の数量が掲出されていました。今までこのデータは見たことが無かったため衝撃を受けました。
圧倒的に多かった航空機は上の画像の97式戦闘機でした。固定脚で風防に覆われていない97戦はノモンハン事変の主力戦闘機で速度は400km台で大戦末期に戦場に出ていく機種ではありません。多分風防が無いから高度3000mを越えたら寒くて乗っていられないでしょう。
特攻出撃機数が二番目に多い航空機は一式戦闘機「隼」ですが、これも開戦時加藤隼戦闘機隊で大活躍しましたが、500㎞そこそこのスピードでは、米軍機の餌食になりました。三番目は上の画像の三式戦闘機「飛燕」です。これは新鋭でもありませんが許せられる機種です。


左の画像は99式襲撃機です。陸軍独自の航空機で支那事変後半に導入され、その後大陸、マレー、ビルマ、フィリピン、ニューギニアなど各地で地上攻撃、偵察で活躍したと言われていますが戦史では登場しません。大戦後半では、最大速度420㎞では米軍の陸軍機ムスタングの700㎞、海軍のグラマン・ヘルキャットの650㎞の重武装の戦闘機に遭遇すると一撃で撃墜されてしまいました。この99式襲撃機の車輪は引き込み式でなく、剥き出しの固定脚の見るからに旧式機です。複座で後部座席には7,7㎜旋回銃が装備されていますが、後方から重武装の戦闘機に連射されたら、機銃を撃つ前にやられてしまいます。
97戦や隼や、この99式襲撃機も、残してもしょうがないから無理やり特攻に出撃させたとしか思えません。
右のこの前世紀の遺物のような2枚羽の98式直協機も相当数特攻で出撃したのです。主に陸上戦の偵察、弾着観測用に開発された航空機で、最大速度349㎞でしかも複座の機体です。
おそらく大陸で戦いと関係なく参謀や司令官の移動の脚代わりに使われた機体なのでしょう。こんな参謀たちの乗用車の旧式機が特攻に使われるほど大量に残っていたことも不思議でなりません。
特攻記念館のホールに開聞岳の大きなパネルがあり、開聞岳を背にして離陸する98式直協機の模型が展示されていました。
本土決戦の航空戦でこれら残しておいてもスクラップになってしまう旧式機に乗って、前夜母上様へと手紙を残し、この世の名残に美しい開聞岳を眺めながら飛び立った陸軍特攻隊員を想うと本当に涙が込み上げてきました。
そして、人の確実な死まで予想できる特攻出撃にまで、員数合わせを行っていた軍部の血も涙も武士の心のかけらも無い官僚機構に強い憤りを憶えました。これがもののふが作った国家のなすべきことでしょうか? 大日本帝国は怖い国家でしたが、日本国はどうでしょう。
戦争末期、血みどろの海上護衛戦は、帝国海軍の官僚機構的な発想の結果生じたのかも知れません。
本当の太平洋戦争は、末期の護送船団の戦いでした。
大西洋の戦いにおける米海軍は100隻の護送船団を組んで護衛に、短期建造の大量の護送駆逐艦と護送空母を駆使し、Uボートとの狼軍戦法との戦いでした。
帝国海軍も遅ればせながら船団護衛に、護送駆逐艦や小型の海防艦、駆潜艇を短期に建造しましたが、護送空母の建造は大幅に遅れました。またレーダーやソナーなど電子機器の開発が遅れ、目視にたよる対潜警戒から発展せず、10隻を越える護送戦団は、沈没隻数を見るといわゆるなぶり殺しの状態で、半数以上が撃沈され内地から南方に向かう兵員輸送では、1回の船団で護衛艦が救助しても5,600千人が死亡し、船員は兵士と運命を共にしました。
護送駆逐艦松クラス18隻と橘クラス14隻 木の名前が付けられ雑木林と呼ばれました。

出版共同社・福井静夫日本の軍艦より 丁型駆逐艦桃
排水量1260トン、19.000馬力、27.8ノット12.7㎝高角砲3門 4連装魚雷発射管1基、松型駆逐艦は優秀な護送駆逐艦で速力も早く、帝国海軍としては最新のソナーを装備していました。松型は主にフィリピン海域で駆逐艦の代わりに広範囲に使われました。
海防艦(740トン)1型、2型,その他合わせて171隻が建造され、75隻が沈没しました。
開戦前北氷洋警備のために海防艦は作られましたが、開戦後商船護衛のために10か月という短期間で大量に建造され、戦争末期サイゴン、シンガポール、台湾、北九州間の船団の護衛に使用され、米国潜水艦は「まず護衛艦をしとめ、その後ゆっくり商船を始末する」合言葉の通リ攻撃を受けましたが、懸命に反撃し船団を守りましたが、多くは沈没し戦史に残ることのない本当の太平洋戦争が繰り広げられたのです。

出版共同社・福井静夫日本の軍艦より
甲型海防艦 四坂 排水量740トン 2.500馬力、17.5ノット 12㎝高角砲2門 爆雷発射機2基
駆潜艇は64隻建造されました。

出版共同社・福井静夫日本の軍艦より 駆潜艇25号
排水量440トン、1700馬力、16ノット、12㎝高角砲1門、爆雷発射機2
鈍重な双発爆撃機B25に攻撃を受ける海防艦

文春文庫半藤一利編太平洋戦争日本軍艦戦記より
米陸軍爆撃機B25などは海上で船舶攻撃ややらないのに航続距離があるため、至近距離から爆撃を行います。被爆した海防艦は沈没しますが戦史には残りません。
おびただしい商船の損害
横浜に日本郵船歴史博物館があります。同期と氷川丸を訪ね横浜を散策した際、たまたま日本郵船博物館に出会いました。
館内の展示の最後に大きなパネルがあり太平洋戦争で沈没した日本郵船所有の船舶一覧が表示されており、これを観た時、心が凍り付くような衝撃を受けました。
太平洋戦争の戦史では戦艦、空母、など大型の軍艦の戦史は華やかですが、小艦艇やまして商船の戦史は一般にはほとんど見た事はありません。図録を購入して帰宅後じっくり眺めました。戦前我が国は世界第3位の海運国として646万総トンの商船を保有していましたが、敗戦によって150万総トンに減少してしまいました。また主な商船の88%が沈没してしまいました。
隻数で言うと官民合わせて7240隻の汽船、漁船が沈没し、多くは米軍潜水艦の雷撃によるもので、6万人の船員が命を落とし、船員の死亡率は43%で陸軍や海軍の兵員の死亡率を遥かに超えていました。





開戦の前年、我が国の機械、石油、鉄鋼の輸入の71,5%を占めていた米国に
宣戦布告した事実。
下記データは山川出版社「詳説日本史図録」の第2次世界大戦の項に記載されている図録ですが、初めてこのデータを見た時、我が目を疑いました。
開戦の前年の昭和15年の我が国の軍需物資の輸入データです。1940年(昭和15年)における日本の軍需物資の国別輸入額では、
1)機械類の総輸入額2憶2500万円の内訳 ①アメリカ1億4900万円 ②ドイツ5600万円
我が国の機械類の総輸入量の66%を米国から輸入していました。
2)石油の総輸入額3憶5200万円の内訳 ①アメリカ2億7000万円 ②蘭領東インド5100万円
我が国の石油の総輸入量の76%は米国から輸入していました。
3)鉄類の総輸入額3憶8500万円の内訳 ①アメリカ2億6900万円 ②中国6000万円 ③インド2900万円
我が国の鉄鋼の輸入量の69%を米国から輸入していました。
小学生でも解る過ちを我が国は決断してしまいました。米国に代わる機械や鉄を国産するために、石油や資源を南方に求めた結果世界3位の海軍と世界3位の商船隊と多くの人員を海の底に沈めてしまいました。
叙事詩な感慨とは別に、この事実は歴史の教訓として、ifすることなしに、心に留める必要があると思います。
参考文献
著作はキリがないので、愛用のビジュアルな写真集と画集を紹介します。



出版共同社福井静夫著日本の軍艦は、私が中学1年の時に購入したもので、当時から所持している唯一の艦艇の著作です。内容は中学1年生では難しいですが、マニアックな子供は大人の著作を平気で読んでいました。この他中学時代は航空情報を購読していましたが、こちらの方が難しく感じました。帝国海軍の美しい艦艇の写真の大半は、造船中佐だった福井静夫が公試運転の際、全速の姿を撮影しています。真ん中はKKベストセラーズの日本の軍艦で、写真の大半が出版共同社の福井静夫撮影の画像です。一番右は呉の大和ミュージアム出版の艦艇アルバムで、戦艦、巡洋戦艦編、空母・水蒸気母艦編、巡洋艦編、幕末明治の軍艦編で、明治を除いて福井静夫の美しい写真で構成されており、我が国の艦艇写真集の最高峰に位置付けられます。


上記2冊は近年発刊されたもので艦艇発達史はCG画像の変わったアングルの画像が多く、とても新鮮です。帝国の艦船はイラスト画集ですが、私たちが余り目にすることのない特殊な補助艦の画像が多く、主力艦に飽きたマニアにはぴったりです。右の上の世界の艦船は神田の古書店で探した本で、特に開戦前に艦種として消えてしまった大好きな巡洋戦艦の特集は圧巻です。大英海軍の栄光と黄昏も中々ですし、意外に米国空母特集はあまり見かけません。


輸送船の船員で南方との船舶輸送に従事していた上田氏の輸送船の絵は、本著でも記しているように思い入れもあり圧巻です。


神田の古書店で手に入れた市川章三著帝国海軍戦史のペン画イラストは普段見た事のないアングルから描かれていて、その迫力には眼が釘付けになります。福井静夫氏の監修を受けておりイラストは正確で、軍艦の美しさを余すことなく表現しています。スリガオ海峡の夜戦で駆逐艦1隻を残して全滅した悲劇の西村艦隊の戦艦山城、扶桑の最期を誰が語ったでしょうか。山城と扶桑の浮かべる城の頼りない画像を眺めていると涙を禁じ得ません。