秋の風景・濃霧の見沼田んぼ

朝目覚めて雨戸を空けたら深い霧が出ていました。
見沼田んぼは年に数回、直ぐに晴れますが、深い霧に覆われる時があります。
着替えていつものように早朝のウォーキングに出かけました。

遠くの通りを見ると、バスや通勤の車がヘッドランプを点灯し低速で列を作って走っています。霧が深い時は先頭の車が極端にスピードを落として走るために、後続の車は列車のように授受つなぎになって走ります。
遠くから、ヘッドライトやフォグランプを点灯しながら列を作って走る車列が見えると、ごくろうさまという気持ちになります。振り返ると雪道や深い霧の朝、極端に神経すり減らして運転した記憶が蘇り、今の通勤とは無縁のリタイアの身の幸せを感じます。

社会の生産活動に参加しなくなって消費活動ばかりになり、少し寂しい気持ちもありますが、こういう時はリタイアの身の気楽さを味わいます。

壮年期、骨折して10日ほど仕事を休んでいたある月曜日の朝、寝坊して窓を開けて何気なく外を眺めていたら、子供を自転車に乗せて幼稚園に送る若いお母さんが眼に入ってきました。その時当たり前の事ですが、月曜日の朝、3歳になったら行きたくなくても、全国の幼稚園児が一斉に所属する幼稚園に向います。幼稚園は子度にとって組織社会の始まりだからです。
当然小学生も中学生も、高校生や公務員、ビジネスマンや会社社長も皆、家を出てそれぞれの所属に向かいます。また専業主婦を除いて主婦たちも一斉に仕事場を目指します。心なし空に眼を転じると鳥までどこかに向かっているように見えます。


休日明けの朝になると、現在社会に生きる人々は子供も含めて、自分の意思にかかわらず、同じ時間にそれぞれの所属に着いて社会活動することが、近代の組織社会の1員となる条件です。そう思うと自分だけが、社会活動から取り残されているような感じになって来た記憶があります。

でもまたこうも想いました。ヨーロッパから近代社会が始まってたかだか300年しか経っていません。我が国ではもっと遅いでしょうし、まだ世界中では近代社会に入っていない国や地域もあるでしょう。
たかだか300年位で、何千年も営みを続けて来た人類のDNAが一人残らず近代社会に適合できるのだろうかかという疑問も湧いてきます。近代社会は便利で効率が良く、多くの人々が安定した社会活動が送れるように、子供の時から訓練や教育システムができていますが、さてどうなのでしょうか?

しかしミツバチや魚、野生の動物などそれぞれ集団で生きる上でのしきたりもあります。とても難しい問題です。

盛りを過ぎた曼殊沙華。毎年飽きるほど咲いているので、撮影しませんでしたが、今朝の濃霧の中、撮りたくなってしまいました。背後の黄色い花はルドベキアです。

土手を除草する業者は、今は慣れて来て茎が登る寸前に斜面全帯を除草します。以前は雑草の除草の際、花芽を切ったりして咲かないものもありました。

濃霧の際、楽しみは芸術的な蜘蛛の巣を観ることです。あちこち蜘蛛の巣だらけですが、濃霧の時以外は気が付きません。

見沼田んぼに濃霧が訪れると標高1000m以上の山に行った気分になります。

葛が生茂って木の枝を覆って来ました。あの優雅な葛切りの材料が、こんな姿になるとは知っている人は多くはないでしょう。

この1画に市がヒマワリを植えています。隣は小さなコスモス畑があります。

曼殊沙華は均一に開花するのでなく、場所によって開花がズレます。個々の花は未だ盛りを過ぎたばかりです。

霧は川面の上が濃いです。芝川方面は未だ晴れていません。

市民が菜園を行っていた場所ですが、撤去されてもミントだけが広がっています。このぐらい広がれば雑草刈する必要はありません。