歴史紀行、松本平への古道の想い出・保福寺峠,和田峠越え
先日、松本平の美ヶ原温泉から、美ヶ原を横断して上田小県に下った時、律令時代の古代大和と東国を結ぶ幹線道路だった東山道の上田小県から保福寺峠を越えて松本平への古道と
時代は下がって、江戸時代の軽井沢追分から旧中山道の和田峠を越えて塩尻に至る古道を、上田長久保から上諏訪、塩尻まで歩いて越えた2010年と2019年の11月の思い出が蘇ってきました。それぞれの峠越えでは今は故人となってしまった友がいます。そんな彼らを想い出しながらしたためました。
明治後期ウェストンが越えた東山道保福寺峠

幕末皇女和宮が将軍家に嫁入りのため三千人の行列が越えた旧中山道和田峠

東国や江戸から京への街道、明治時代までは甲州街道を除いてマーカーの2本の道しか無かった。

明治時代までは江戸から京都に行く街道は紫のマーカーの軽井沢追分から和田峠を越えて塩尻に行く旧中山道、そして茶色のマーカーの軽井沢追分から北国街道を通り、上田から青木村の山中に入り、保福寺峠を越えて松本平に入り塩尻から旧中山道で木曽から京に向かう東山道の2本しかありませんでした。
甲州街道は高尾山中の小仏峠を通過するために、甲府勤番が利用するだけで、松本藩の参勤交代は東山道の保副寺を利用し、大多数の参勤交代や旅の往来は、和田峠経由軽井沢追分の旧中山道が利用され、まさに平安末期から東海道と共に日本の大動脈でした。特に軽井沢を上州に下り利根川に出会うと倉賀野宿から日本橋まで大規模な河川舟運網が発達していたので大規模な物流が可能でした。
上高地線の奈川戸は尾張藩領で、そこには通し輸送の牛400頭がいて、尾州岡船の鑑札を下げて上州倉賀野まで上高地産や木曽の小割りした木材を輸送し、日本橋の白木屋の名の材木問屋まで運び、江戸の町の住宅建築に貢献しました。
古代東山道

律令時代、我が国に初めて国家の統一した法律が制定され、畿内、東山道、東海道、南海道、山陽道、山陰道、北陸道、西海道と全国8つに区分されそれぞれの道内に国と行政府の国府、郡府が置かれました。そしてそれぞれの国府を結ぶために東山道、東海道、山陽道など主要幹線がつくられそれぞれ決まった距離に駅が置かれ、馬が用意され、朝廷の役人が移動できる体制が築かれました。
東山道は大和から美濃を通リ、当初伊那谷を通過しましたがその後距離の短い木曽道が開発されました。信濃国府は当初信濃の駒牧場の先進地上田小県に置かれましたが、時代は下がって後により京に近い松本平に移転しましたが、小県地方は長らく有力な地域でした。東山道は木曽から松本平に入り上田国府まで最短距離で保福寺峠を越えて山中に道が開かれ上田国府に至りました。
画像の浦野駅は上田国府から分かれて山中に入る盆地の中にあります。

かっての律令時代の東山道は平野で幅12mあり、山中でも律令軍団が迅速に移動できるように幅は4mを維持していたと言われています。現在の東山道はかっての主要幹線の面影は見ることができません。道の真ん中を狸がのんびりと散歩しています。

いよいよ保福寺峠に至る山中が目の前に迫ってきました。古代はこの辺りは軍馬の生産地の古代牧だったのでしょう。

前年、青木村の村役所を訪ねて東山道の保福寺峠の道を尋ねましたが、現在は地元の人でも松本へはこの道を使っていないとの事で、状況はよくわかりませんでした。レンタカーで入って行きどまりだったら困るため、そこで東山道を研究している地元の人の連絡先を教えていただきました。そして年をあらためてその方に友人がTELで状況を確認したところ
ご一緒に保福寺峠まで行っていただけることになりました。
この年は台風で千曲川が荒れて別所線の鉄橋まで流されましたが、峠の入り口は封鎖されていましたが、この方の運転で無事峠までたどり着けました。

ウエストンの著作では、上田まで汽車に乗り、朝上田で人力車を雇い日暮れに峠に到着したそうです。ズームを使用してウエストンが感嘆した北アルプスを遠望しましたが、想ったより迫力不足でした。右に槍、三角は常念、そしてキレットが続き、北穂、涸沢岳、奥穂、前穂が望まれます。

下りは古道跡を探しながら歩きましたが、道はほとんど判読できず、方角だけを目指してかなり苦労して下りました。

青木村には律令時代の古寺、大宝寺があります。この美しい三重の塔がなぜ、小県の中心でなくそこから外れた青木村に存在するか謎でしたが、保福寺峠を案内していただいた方が、大宝寺という名は大宝律令を記念して建立したのだとお聞きし、その謎が解けました。
東山道を大和から来て松本平を過ぎて、保福寺峠を越えて麓の青木村に入った位置に、信濃の人々に律令の威信を見せつけるために建立したとの見解になるほど!と想った次第です。
旧中山道

旧中山道は信濃国に入って軽井沢を過ぎると信濃追分で北陸に向かう北国街道と、塩尻経由木曽に向かう旧中山道と2つに分かれます。
北国街道はその昔、木曽義仲が海野宿白鳥神社で、諏訪と小県の武将を従えて兵を挙げ、北国街道を北上し北陸の倶利伽羅峠で平氏を破ってから一気に琵琶湖を経て京に向かった道です。
旧中山道はここ和田宿から和田峠を越えて諏訪に出て塩尻から木曽を経て京に向かいます。古代から諏訪の神は武神で名高く、佐久、小諸、上田の小県の武士団はみな諏訪明神の信者で、和田峠はその往来で昔から使われていました。義仲は木曽の山猿と呼ばれていましたが、養育されたのは狭い木曽の山中でなく、諏訪でまた配下は諏訪と小県の武士団で、その挙兵は木曽でなく小県の海野宿でした。
真田氏は海野一族の牧を管理する豪族でしたが、小県に固執し村上氏に小県を追われて上州に逃げてから、その版図を取り戻すために信玄の配下になり、武田家滅亡後、沼田、上田を結ぶ小県地方で勢力を築き、関ヶ原の合戦では兄弟は兄は徳川方につき沼田城を守り、幸村と父親は上田城で関ヶ原に向かう徳川秀忠と戦い秀忠に恥をかかせました。幸村は高野山麓に蟄居されましたが、大阪の陣で奮闘し戦死しましたが、兄は幕末まで松代藩10万石で存続しました。

途中猟友会の人たちが大鹿をしとめ車に乗せていました、鹿の脚がはみ出て車のドアが閉まらないのでナイフで足を切り落とすところです。
この奥の山道を辿りましたが、1時間以上も奥まで鹿を引きずって来た跡がありました。

和田峠です。皇女和宮が越える際、この峠で休息したそうですが、何百棟もの仮屋が建てられたそうです。この峠は急峻で駕籠に乗っているだけで大変なようです。

上諏訪の宿に泊まりました。諏訪大社下社の御柱です。道中御柱を切り落として崖から落とす場所も通過してきました。

11月下旬だったので野沢菜の漬ける作業で大わらわです。

こんな中山道もありました。

ここは旧中山道がしっかり残っています。どの家も庭木が冬の剪定が終わっておりきちんとした街並みがとても印象的でした。各お宅には旧中山道に面している誇りのようなものを感じました。

塩尻峠です。ここは日本中心の分水嶺に当たります。諏訪湖の水は天竜川になって浜松近郊で太平洋に注ぎます。峠を降りた松本を流れる梓川はやがて賽川と名を変え千曲川と合流し、千曲川は飯山を過ぎると越後に入り信濃川となって新潟で日本海に注ぎます。

火の見櫓が遠くに見える典型的な信濃の晩秋の風景です。

地方はタクシーは走っていません。バス停来たらバスはもうありませんでした。ここから塩尻駅まで延々と歩きました。全行程30数キロでしたが、和田峠までは上高地から涸沢までの標高差と距離は変わらず、けっこぅ強行軍でした。
