下野、大田原城址と大田原神社

那須の森田さんの山荘に行く途中長浜兄と、思い立って以前から気になっていた大田原城祉を訪れました。大田原市も大田原城址も偶然では決して訪れる地ではないため、思い切って行かないと訪れる機会は永遠にないはずです。大田原城は龍城と呼ばれ、城址には大田原龍城公園の碑が建っていますが、桜の季節以外訪れる人も少ない城址です。

地元を除いて大田原城の名を知る人は少なく、格別に景色が優れているわけでもなく、城址として見るべきものがある訳でもありません。また大田原城の歴史でも戊辰戦争の会津戦史に大田原城の名が出てきますが、白河城址に比べると、学芸大名と言われた城主の老中松平定信のネームバリュー、戦略上の重要性、景色、城址としての遺構、戊辰戦争での激しい攻防戦など、全てにおいて比較にならないほどの相違があります。

大田原龍城公園碑



大田原市そのものが那須に比べて観光地でもなく、風光明媚でもない、城下町としての風情に乏しくありふれた家並みの地方都市です。その街に位置する大田原城祉を訪れて戊辰戦争時の歴史を調べて知ったところで、私の人生に何かプラスになるのだろうか?等と、実際は想っていないけれどそんな気分で緑深き城址を散策しました。
しかし人は何か明確なメリットを求めて行動を起こすわけでなく、戊辰戦争という私が興味を持つ内戦の1つの現場の歴史に触れる、些細な楽しみが私にはありました。日本列島で生きている人それぞれに歴史があるのと同じように、地域には地域特有の歴史があります。

気になった地域の歴史を辿りながら、その時代そこで生きて来た人々を思い起こすことは、我が国で生きる私にとって、今まで過ごしてきた私の人生を重ね合わせながら、大げさに言えば同じ日本で生きて来た人々のアイデンティティを、私なりに確認する作業でもあるのです。

司馬遼太郎の思想の全てに共感する訳ではありませんが、30年数年ほど前から「街道をゆく」を愛読し全巻揃え、同じ地域を旅する際は必ず持参し車中では読んでいました。「街道をゆく」は多忙な彼が1泊2日で旅した時の思索を1冊の単行本の半分に纏めています。私も彼のように旅する地を俯瞰的に把握し印象を感じたいと願っていましたが、それには豊富な歴史知識と深い思索が必要になります。

各地の街道を訪ねた「街道をゆく」での思索は、結局彼の「日本人とは何か」という問いの答えでもあり、司馬遼自身のアイデンティティを確認する旅だと解釈しています。今まで全国各地の紀行でこれに代わる書籍はありません。
司馬遼太郎は「竜馬がいく」や「坂の上の雲」を執筆していた時代は、進歩思想の近代合理主義でジャーナリスト的な印象でしたが、「街道をゆく」を書くに従って徐々に断定的な文体や内容も変わって来たように想われます。初期に執筆した「北のまほろば」では、触れて欲しかった恐山はなぜかスルーしていました。畿内出身者の司馬遼太郎は、結局東日本社会への肉薄が不十分だったと想いますが、それは個人のアイデンティティを形成するにあたってふるさとが大きな部分をしめるため、当然なことと想います。

私も旅をしながら司馬遼が思索したように、私なりに無い知恵と歴史観を動員して「日本人とは何か」を問いながら過ぎ去りつつある自己のアイデンティティを確認しているような気がします。

以前はこのように考えることはありませんでしたが、歳を重ねてだんだん残り少なくなった人生を想う時、今まで知らなかった、あるいは気が付かなかったことに気づき、新たに知る喜びに浸れることになるのです。歳を重ねることは、自分で様々なことを見つける楽しみが増えてくるのです。

また訪れる先は、自分自身が好ましく想えるような地を選択し、好ましくない地は自然に避けているような気がします。大田原城という観光地には程遠い街の市街地近くの何の変哲もない城址は、華やかな那須の牧場に比べて、案外私が好むような地だったような気がします。



旧奥州街道

旧奥州街道

下野国の最北端の大田原城は、奥州白河を経由して陸奥に至る大動脈の奥州街道(旧陸羽街道)に面した交通の要衝に位置します。大和朝廷の陸奥の拠点多賀城が設置されるまで、陸奥の南端白河口に対峙する地域として那須国造が置かれた重要地域でした。那珂川の畔の大田原市湯津上笠石に残る我が国三古碑の一つ国宝、那須国造の碑が、古来からのこの地域の重要性を物語っています。

私たちは源平合戦で活躍した弓の名手那須の与一の名は知っていますが、では那須の与一はどこに住んでいたのか、那須町なのか那須塩原なのか、知りません。私も那須岳に登り始めてから気になって調べてみたことから、那須野の歴史が少しずつ分かるようになりました。もちろん那須の与一は那須高原の別荘地に暮らしていたわけでなく、麓の大田原市が拠点でした。

しかし、かっての那須野が原の中心地である大田原は、東北本線の鉄道路線から外れてしまったため、栃木県以外の人々にその名を知られることはなく、まして大田原城にはわざわざ訪れる人は皆無な城址で、歴史上ひっそりと登場しひっそりと消えてしまい、今かろうじて城址の痕跡を留めている古城祉です。。

近年私も岳友の那須の山荘を起点として、那須の各ルートをくまなく登り始めるまで、広大な那須山麓に位置する大田原市の存在や太田原藩や黒羽藩の存在は知りませんでした。

那須三本槍ヶ岳

                  那須三本槍ヶ岳 21年6月

那須の三本槍ヶ岳の名の由来が、三国の境のピークでそれぞれ3つの藩が槍を交差させて、藩境を確認したことから名づけられたとされていますが、その3藩とはどれかと言った場合、会津藩、白河藩は直ぐその名が出てきますが、もう一つ那須側の藩の名は?と問われたら黒羽藩と答える人はよほどのマニアックな人でしょう。
黒羽藩は大田原藩と共に戊辰戦争で新政府軍として戦いましたが、現在では大田原市に合併され、黒羽の旧名は地図上から消えつつあります。

また那須野に存在した大田原藩と黒羽藩は、会津戦争を巡る戊辰戦争で、藩を挙げて関わり合ってきたことを多くの人は知りません。この2つの藩は、新政府軍の中でも唯一那須周辺地域を熟知しているため、同じ那須岳周辺を熟知し経験豊富な会津軍と渡り合って戦いました。薩摩、長州を始め芸州など西国主力の新政府軍の中で、旧会津中街道と西街道が主要な戦場となったこの地域の戦いで、開明な藩主が近代装備に熱心だった黒羽藩は那須峰の茶屋まで大砲を担ぎ上げ、我が国では珍しい山岳戦を展開し、旧三斗小屋に展開する会津、幕府軍を攻めました。一方大田原藩は旧式の火縄銃の装備だったため、旧三斗小屋から出撃した会津、幕府軍によって大田原城を襲撃されたのです。

もし大田原藩、黒羽藩が参戦していなかったら、会津藩は地形を熟知していない新政府軍に対して強力なゲリラ戦を展開できていたように想います。その意味では会津藩は可哀そうでした。

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旧奥州街道です。現在の奥州街道に当たる国道4号線は、この街道よりもっと西の東北本線に平行して走っています。
城祉公園の掲示板で、我々が矢板からやってきた大田原城の前の通リが、旧奥州街道だと知り、ゾクゾクしてくると同時にこの城がここに存在する意味が解りました。

現在の那須は、那須町、那須塩原町が中心ですが、那須山麓は伏流水で地表に川が流れていないため、明治以前の那須高原一帯は未開の原野で、人が住んでいませんでした。
ですから那須与一が活躍した那須の地は、現在の那須高原とは全く異なる場所にあり、それは現在の大田原市一帯の地域でした。

下野国(現在の栃木県)と常陸国(現在の茨城県)の境付近には那珂川が流れ、この流域がいわゆる古代の那須郡で、ここに大規模な水田がつくられ郡庁が置かれました。やがて律令制度が揺らいでくると、豪族によってによって荘園が開かれ都の貴族に寄進して管理する者の中から有力武将の那須氏が台頭し、源平の戦に参加した那須与一に代表される武士団の地として、中央にも名が拡がるようになったのです。

また那須は、都から信濃国、上野国、下野国を経由して陸奥多賀城に至る古代幹線道の東山道が通る地でもありました。この旧東山道、いわゆる奥州街道の那須野の通過ルートは、時代を経るに従って西に移動しています。

たとえば下野国府の栃木市、宇都宮、氏家までは古代も今も変わりないルートですが、古代東山道は白河を通らずその東を進みます。下野国と陸奥国の境には有名な白河関があり、ここを過ぎると古代幹線東海道の延長である常陸から棚倉を経た街道と合流します。頼朝は奥州藤原征伐時に白河関を越えましたが、秀吉の奥州仕置には奥州街道が西に移動したため白河関でなく境の明神を越えました。
大田原城の前にある奥州街道(旧陸羽街道)は何時頃からここを通るようになったか知りません。現在のいわゆる奥州への主要幹線の国道4号線は大田原市内を走らず、ずっと西よりの東北本線と平行して走っていますが、東北道になると東北本線や東北新幹線より更に西の那須岳山麓を走っています。

このように古代から、那須山塊と那須高原は水もなく人も住めない原野で、陸奥(みちのく)への街道は、那須高原を避けて切り開かれて来ました。現在では那須といえば
那須高原のことであり、那珂川が流れる旧那須の地は鉄道も無く他県人には知られない地になりました。その代表が大田原市であり大田原城でした。

大田原城址

旧奥州街道を挟んだ対岸から大田原城を望みます。城は小高い山に築かれています。今は土塁が中心の山城的な城址ですが、江戸時代は樹木に覆われてなく、木塀や屋敷の瓦が連なる堂々たる城だったように想います。この撮影位置には侍屋敷が並んでいたのでしょう。

会津藩が切り開いた那須岳裏側を通る、幻の会津中街道

                  会津中街道会津大峠にて 22年7月

古代から那須山塊は下野国から奥州の玄関口の白河への大きな関門でした。白河からは安達太良山山麓の安達ケ原を過ぎると多賀城までは比較的緩やかな街道が続きます。江戸時代米どころの会津盆地の会津藩から江戸に廻米するルートは白河経由、奥州街道では距離が遠いため、宇都宮から日光口を通リ五十里を越え、会津田島から会津に出る会津西街道が利用されてきました。更に西街道より東側の那須山塊の奥地を通る会津中街道が開発されました。

戊辰戦争では会津藩と幕府軍は新政府軍の会津攻めに対して奥州街道の白河城の白河口に1、500人、会津西街道の日光口に2、100人、中街道の三斗小屋口1,000人の3カ所に出撃して防備を固めました。これに対して新政府軍は主力を白河口、準主力を日光口と定めそれぞれ攻略にかかりました。
期先を制したのは会津、幕府軍で、慶応4年5月1日に会津中街道の那須旧三斗小屋に進出した会津、幕府軍連合軍1,000人が、那須山中を南下し板室から平野に出て翌5月2日大田原城を襲撃しました。
幕軍、会津藩兵はミニエー銃を装備していましたが、太田原藩兵は旧式の火縄銃と家康から貰ったとされる大筒で応戦しましたが、戦いに敗れ城を明け渡してしまいました。本丸に侵入した幕軍、会津藩兵は本丸の火薬庫が大爆発し本丸屋敷も炎上し、敵陣の中で城を維持することは得策では無いと判断し、城を占領せず板室から旧三斗小屋に引き揚げました。これが大田原城の戦いです。大田原藩にとって不運だったのは、ちょうどこの辺りの日が、白河城攻略の前進基地であった大田原城に新政府軍が誰もいなかった事でした。

幕軍、会津藩兵によって大田原城が襲撃したことが分かると、薩長の新政府軍は大垣、忍藩兵に命じて板室に駐屯している幕軍、会津藩兵を攻め、板室の集落400戸を焼き払いました。そして本格的な白河城の攻略に着手したのです。白河城には仙台藩を始め会津藩、二本松藩など奥羽列藩同盟軍が防備を固めていましたが、薩摩、長州、大垣、忍藩兵は薩軍の名将伊地知正治の四季の下、3分の1の兵力で白河城を攻略してしまいました。会津戦争は白河城の攻防戦が転機でした。以後会津藩は防勢に入りました。

白河城が落城し新政府軍主力は会津盆地に侵入しましたが、残る日光口と旧三斗小屋口から会津攻略のため新政府軍は、既に黒羽藩は白河口に動員されていましたが、新たにこの辺りの地理に詳しい大田原藩と黒羽藩に動員を命じました。
その結果8月後半に大田原藩兵は塩原経由で薩摩、佐賀、宇都宮、今治、人吉藩兵と共に会津西街道に進軍しました。更に黒羽藩兵と舘林藩兵は旧三斗小屋に進軍しました。黒羽藩兵は舘林藩兵は2手に分かれ、那須岳中枢から旧三斗小屋攻撃のため、現在の那須登山道の峰の茶屋まで大砲を担ぎ上げて旧三斗小屋に達しもう1隊は中街道を旧三斗小屋に進撃、その結果旧三斗小屋の会津、幕府連合軍は大峠を越えて会津西街道の下郷に退却しました。
日光口の新政府軍と旧三斗小屋の黒羽、舘林両軍は会津田島で合流し、但馬付近、大内宿付近での戦闘の上、幕軍、会津藩兵は会津若松城に撤退しました。

22年度にかねてから通って見たかった幻の街道を辿ってみました。獣の匂いが立ち込める登山道でした。この街道は、大半が街道という名に反して細く急な上り下りの登山道で、流れの急な沢を渡ります。この登山道を重い大砲を分解して牛に乗せ移動した苦労が偲ばれました。

会津藩は藩発足当時から、豊富な産米の一部5万俵を、阿賀野川舟運を使用して日本海から大阪に運び販売し、江戸へは山間の会津西街道を使用して、氏家まで陸送し、そこから何とか舟運でつなぎ日本橋まで最短距離で運びました。しかし江戸初期の日光大地震で、会津西街道の五十里付近が水没し、現在の五十里湖になって、このルートは使えなくなってしまいました。

三代藩主松平正容は、新たに廻米ルートを作る必要に迫られ、会津西街道の下郷から観音川沿いの谷の道を整備して、三本槍岳と流石山との間の標高1524mの大峠を越えて、下野国に入り那須茶臼の裏側から板室宿までに通じる道を開きました。そして街道を行く廻米荷駄をサポートするため、会津側の観音川沿いの谷に野際新田を開墾し募集して旅籠宿をつくり、下野側には同じく募集して三斗小屋宿をつくりました。この街道は会津中街道と名付けられ、完成した翌年と翌翌年、藩主 正容 は自ら参勤交代でこの街道を使用し、次いで越後村松藩主も利用しました。
現在の人気の那須の山小屋三斗小屋温泉は、同じ名前を使用していますが、旧三斗小屋と場所も内容も異なります。

会津中街道、旧三斗小屋跡

会津中街道旧三斗小屋跡、21年7月、前方は奥会津流石山、ここは街道の中のオアシスのようなところです。

しかしこの無理して作った山中の会津中街道の廻米ルートも、会津西街道の五十里付近で水没した旧道に代わり新道が整備されたなか、中街道は開通して数年後に暴風雨のため通行不能になり脇街道に格下げされ、廻米は再び西街道を使用するようになりました。

江戸初期、僧宋海が板室温泉の案内人を伴って修行のため、那須西側の深い森に入り、御沢を辿って茶臼岳登山を試みました。その途中温泉が湧き出ている滝を発見し、お宝前の滝と名付け、そこに白湯山大明神を開基し、下山して板室に修験道場を開設しました。その後羽黒修験の出身者が 宋海 の跡を継ぎ、出羽三山に倣って白湯山、月山(茶臼岳)毘沙門岳(朝日岳)の三山巡りを唱え、多数の信者を募りました。

会津中街道が整備されたのはこの頃で白湯山の山開きの際は、三斗小屋宿に1000人もの参拝者が集まったと云われています。この白湯山信仰は江戸末期が一番ピークで、板室からの中街道からの参拝は白頭山信仰、湯元温泉側からは高湯山信仰と呼ばれました。

この会津中街道が、修験道と離れて注目されたのは、会津藩が旧三斗小屋を拠点として、幕府歩兵第1大隊と会津砲兵隊、回転隊、計1000人が会津藩境の防備を固めることから始まりました。1度目は先に触れた大田原城攻めです。
板室付近に大田原城を襲撃した幕府、会津藩兵が駐屯していることを知った新政府軍は、忍藩、大垣藩を先鋒に薩摩、長州藩が2番隊と続き、板室で双方遭遇し戦闘が始まりました。新政府軍は板室の村の家々を焼き払い攻防を続けましたが、その結果旧幕会津連合軍は旧三斗小屋宿に撤退しました。

その後三斗小屋宿には会津藩兵が少数が布陣しましたが、新政府軍により攻撃を受け大峠を越えて会津側に撤退しました。この戦闘で三斗小屋宿14戸は全戸焼き払われてしまいました。

黒羽藩兵が大砲を担ぎ上げた峰の茶屋、ここから旧三斗小屋に砲撃を行った。

峰の茶屋避難小屋、23年8月 黒羽藩はこの峰の茶屋まで大砲2門を担ぎ、ここから旧三斗小屋宿の会津軍、脱走幕軍陣地に砲撃を加えました。我が国唯一の本格的な山岳戦でした。

戊辰戦争を会津藩に味方して戦った郡上藩凌霜隊

左の画像は息子がまだ小学生だった頃の会津飯盛山の白虎隊の墓の傍にあった郡上藩凌霜隊の碑です。

私はこの頃、今ほど歴史に興味はありませんでしたが、歴史好きな息子と2人で会津を旅した時のスナップです。
会津若松城、武家屋敷、藩校日新館を見学した後、白虎隊の墓がある飯盛山を訪れた時、墓の一角に郡上藩凌霜隊の碑を見つけました。

遠い美濃の郡上八幡の郡上藩が新政府軍でなく、なぜ会津まで来て形勢不利な会津藩と脱走幕府軍と共に戦ったか不思議でなりませんでした。当時凌霜隊の資料もなく、調べる内に凌霜隊をわざわざ会津まで転戦させた戊辰戦争や会津藩に興味を持ち始めた最初でした。

凌霜隊は郡上藩江戸屋敷詰めの藩士が脱藩の形をとり、会津軍に加わったもので、会津西街道を転戦し、大田原兵など新政府軍と戦ったことは後から知りました。

この辺りから司馬遼太郎の歴史小説の歴史上名高い人物本位の歴史でなく、歴史に名を残すことのない人々など、もう少し別な観点からの歴史に興味が湧いてきたのです。

郡上八幡城

17年11月郡上八幡城

凌霜隊碑

郡上八幡は3つの点で興味がありましたが、不便な場所にあるため中々訪れることはありませんでした。郡上八幡の興味の1つは凌霜隊のことをより知りたかったこと、2つ目は加賀白山は3国にわたる巨大な山で、古来修験の登山道として3つあり、加賀白山神社からの加賀禅定道、越前平泉寺からの越前禅定道、美濃白鳥神社からの美濃禅定道があり、加賀白山神社、越前平泉寺は行きましたが、郡上八幡奥の美濃禅定道の起点には行った事はありませんでした。3つ目は郡上八幡は水の都で鮎の産地で、高校の恩師が毎年鮎釣り行っていましたが、釣りの嫌いな私を運転手にして誘おうとしていたことでした。

郡上八幡城は山の上にあり、雨降りのためタクシーで登りました。タクシーの運転手さんは私がわざわざ凌霜隊の碑を見に来たことを知ると、大喜びで街も案内してくれました。城では地元出版社の凌霜隊の書籍も購入することもでき、20年以上経ってその全貌を知ることができした。

戊辰戦争は頼朝の鎌倉時代以来江戸末期まで続いた地方分権の制度から、奈良、平安の律令制の中央集権制度の時代に回帰させようとした内乱でした。
戦国時代が終わり、島原の乱以降幕府が武断政治から文治政治に変えてから平和な270年間、互いに殺し合う時期がありませんでした。尊王攘夷の嵐が吹き始め、再び殺し合いが始まり、それが全国規模の内乱に入りました。それが戊辰戦争です。平和な270年間が過ぎ、平和を楽しんでいた武士たちはいやおうなしに内乱に巻き込まれ、戦国時代以来切腹者が増加し、更には年若い人々や婦女子迄巻き込まれ、戦いに負けた会津藩の婦女子の自害や二本松少年隊、百虎隊の悲劇が生まれました。

そして戊辰戦争に勝利した西国諸藩による律令制度に戻ったような天皇親政の中央集権の明治新政府が誕生し、富国強兵政策のもと、藩のバッファが無くなり国民全体から直接、税を徴収し、国家目的遂行のため秀吉以来の対外戦争を敢行して行きました。
この間、武家文化や江戸時代の文化は否定され、新政府に抗った東北諸藩は白河以北一山百文とさげすまれ、国家神道推進のため各地の神社の合祀を行い、中世からの村の中心であった鎮守の杜は破壊され、人々から日常の平安を奪い、西欧的な合理主義を基本とした経済社会が優先されて行きました。

私たちはこの間、多くのものを手に入れた代わりに、かけがえのない多くのものを失いました。更に戦後の急速な工業化は、農業も放棄し世界の先進国はいずれも農産物の輸出大国ですが、日本だけは珍しい農産物の輸入大国になってしまいました。農業の放棄は国土の風景の崩壊を意味し、耕作放棄地は太陽光パネルの集積地に変わりました。
我が国の歴史を俯瞰した時、比較的目立つことのない戊辰戦争が、歴史上大きな転換点だった気がします。戊辰戦争は我が国の歴史の中ではほんの1コマに過ぎませんが、歴史の転換点としては同じ内戦状態にあった戦国時代の20倍位重要な変革だったような気がします。

大田原城祉

大田原城祉の概念図

城址を訪れると、実際に戦いがあった城址と何も無かった城址と、私自身の勝手な感覚ですが、その趣が異なります。平和な城址はそれなりに美しいのですが、戦いの在った城址では、兵の叫びや硝煙の匂い、砲弾や小銃弾の炸裂の音などが遠く響いてきます。

誰もが戦いなどしたくはありませんが、時代の変転で戦いに巻き込まれてしまい、わが身を守るより必死になって城を守る、見方を守る兵の想いが伝わってきます。

ここまでは、今まで古代那須野の歴史や、戊辰戦争の三斗小屋の戦い、黒羽藩や大田原藩の行動など、いろいろな文献を探しながら調べていた結果を掲載してきましたが、今回ネットで大田原市の歴史を検索していると、とんでもない詳しい資料に出会いました。それは大田原市地域史資料ジタルアーカイブで、今まで文献を探しながらコツコツ調べていたことが一気に解決してしまいました。地域史の資料の大半は、地元の図書館に行き地方自治体が発行する膨大な史書を見るしかありません。ネットで気軽に市史がみられるようになった便利な時代になりました。

この市史で大田原藩と黒羽藩の戊辰戦争での行動が詳しく判りました。また秀吉が奥州仕置のため、大田原城で2泊したこと、家康が関ヶ原開戦時家康が上杉攻めを断念し関ヶ原に向かう際、大田原城を上杉防衛の拠点としたことなど初めて知り、改めて歴史から忘れ去られたというより、重要拠点として余り問題にされなかった大田原城の生きた歴史が伝わってきました。

この階段を登り本丸に向かいます。

大田原城は古城の多くに存在する松がありません。丘の上の周囲を土塁で囲み、中の広場を本丸や二の丸とした構造は、棚倉城そっくりで、よく考えて見たら佐倉城祉の本丸も同じ構造でした。

本丸跡

大田原城は那須7騎と言われた大田原氏(大俵氏)たち那須氏の重臣たちが、主君那須宗家が秀吉の小田原攻めに参集しなかったため、家を守るためにそれぞれ小田原に参集し、その結果太田原氏は7000石で本領安堵され、黒羽の大関氏も同じく安堵されました。関ヶ原の戦い寸前には大田原氏や大関氏は一早く家康側に立ち、上杉の背後を守りました。その結果家康から篤く用いられそれぞれ5千石が加増され幕末まで移封なしに続きました。

戊辰戦争ではいち早く新政府軍につき、奥州戦争の白河口攻略の拠点となったのです。

本丸を取り囲む土塁

明治新政府の那須原野の大開拓により、原野に用水が張り巡らされ東北本線も那須野側を通ると、奥州街道の宿場であった大田原も交通の要衝から外れていき、那須塩原市、那須町の那須高原の都市が脚光を浴び、更に追い打ちをかけるように東北道、東北新幹線など全て那須高原を通る様になり、律令制度以来の要衝で耕作地の中心だった大田原は、地元ではわかりませんが、首都圏から見ると次第に忘れ去られた都市になって行ったように想えます。

美しい本丸跡

以前から下野国の存在が気になっていました。
たとえば聖武天皇が全国3カ所の国家認定の僧認可の戒壇院を東大寺、筑紫の観世音寺、下野薬師寺に設定したことを考えると、なぜ下野薬師寺が選ばれたのか不思議に想っていました、国家公務員僧を認定する戒壇院はいわゆる東大のようなものです。
那須野の歴史を知るにつれ、古代は那須野が陸奥の最前線であり、陸奥には歴代安部貞任、藤原三代、伊達氏、上杉氏、奥羽越列藩同盟など歴代政権にまつろわぬ勢力の拠点だった歴史があります。
江戸時代には白河がその拠点でしたが、戊辰戦争では白河城が奥羽越列藩同盟の最南端の拠点となったため、大田原城は白河攻略の新政府軍の拠点となったのです。

大きく考えれば古代律令時代から我が国における下野国の存在も小さくなっているように感じます。

城跡から退出する際、1組の熟年夫婦と出会いました。埼玉加須の人で、これから付近を回り那須あたりに泊まると話していました。古城めぐりが趣味のようです。

大田原神社、(大田原護国神社)

奥州街道を挟んで対岸の山に大田原神社がありました。
通常古城には招魂碑があるのに、大田原城には見当たらす不思議だなと想っていたら、大田原神社が護国神社も兼ねていることが解りました。

大田原神社の創建は大同6年(807)と古く大田原の総鎮守として創建され、当初は温泉神社とよばれました。

主祭神は大巳貴命(大国主命)、少彦名命、更に七福神を祀っています。護国神社として戊辰戦争の太田原藩の戦死者も併せてお祀りしています。

太田原神社は長い参道の奥の深い森の中に鎮座しています。