早春の浜松の旅その2、小堀遠州作庭・井伊谷龍潭寺

奥山公園の枝垂れ梅を愛でてから、井伊谷(いいのや)の龍潭寺(りょうたんじ)に回りました。
私は井伊谷について今まで「いいだに」と呼んできましたが、井伊谷は遠江国引佐郡の古い地名で井伊の野と記されていたこともあったそうです。

興味深いもので、遠江国の語源は浜名湖を現わす遠淡海から来ていますが、同じ広大な淡水湖の琵琶湖は京から近いため、琵琶湖周辺は近江国と呼ばれ、琵琶湖より遠い浜名湖周辺は遠江国と呼ばれるようになったそうです。

前回で触れましたが、今まで私は井伊谷(いいだに)は伊那谷(いなだに)地方の一部と想っていましたが、井伊谷は信州の伊那谷から遠く離れた浜名湖北の内陸街道である姫街道に面し、井伊谷と言っても谷間のような地形ではありません。
井伊谷は、古代から信濃への古道である秋葉街道が交差する交通の要衝にある広大な扇状地であり、多分弥生時代から水田耕作が行われていた先進地のように想えました。

しかし古代の稲作の先進地には共通して、山に水源の神を祀った有力な神社が残っていますが、井伊谷の周辺には有名な三岳城跡のある三岳城がありますが、小さな神社マークがあるだけです。多分この辺りの神信仰は、天竜川沿いの東日本にその名を轟かせている秋葉神社に収束して行ったのでしょうか。


井伊谷は、榊原、本多、酒井氏と共に徳川四天王と言われ徳川家臣団の筆頭だった井伊氏の出身地です。井伊氏は徳川幕府の西の備えとして譜代筆頭の彦根藩主となりましたが、幕末井伊直弼が大老として幕府に君臨し、安政の大獄を行った結果、桜田門外で襲撃されたことは有名です。

井伊氏は平安時代よりこの地を領し、しかも南北朝の戦乱で後醍醐天皇の第4皇子の天台坐主かつ征東将軍の宗良親王を、井伊谷でその子を産ませたほど支援を続けていました。宗良親王は井伊谷に永らく滞在した後、吉野から陸奥霊山を目指して伊勢より出航した際、遠江沖で難破し再び井伊谷の井伊氏に身を寄せました。
その後井伊城は北朝方に攻められ落城したため、宗良親王は秋葉街道の大鹿村に約30年間拠点を置き日本各地を転戦しましたが、最期は様々な説があるものの、現在では宮内庁管理で井伊谷宮に墓があり、井伊氏が長年にわたり宗良親王に尽くして来たことが理解できます。

家康の祖先は念仏僧として三河に流れて来てやがて有力な豪族になり、その子孫の家康が天下をとりましたが、その覇者となった歴史は後世作られて、さまざまな物語になりましたが、多くは支配者家康を称える内容になることが自然です。家康と少年の井伊直政の出会いは偶然で、家康は直政を知らなかったとあり、また井伊家の歴史もそのように記述しています。
長い家門の歴史を持つ名門武将に比べて系図の無い三河の家康が、名門武将を配下に置くことは、大名として世に認められるための基本条件でした。家康は井伊谷の位置と存在と、宗良親王を擁立して戦った名門豪族であった井伊氏を知らないわけがなく、遠江の完全支配を狙っていた家康は、遠江の名門井伊氏を臣従させることが、今川氏の亡き後遠江支配の条件であることを容易に想像ができました。

徳川家康は好きでないため、家康が主人公の大河ドラマも見たことがなく、家康が三河からどのようにして世に出たのか、今川での人質くらいしか知りませんが、井伊氏が宗良親王を支援しその墓まであることを知り、三河の家康が遠江と三河の覇者になった要因が、井伊氏の臣従にあったことは容易に想像できました。

井伊谷(いいのや)の龍潭寺(りょうたんじ)は井伊氏の代々の菩提寺であり、禅宗である臨済宗妙心寺派の格調高い寺院で、小森遠州が作庭した遠州きっての名園があります。井伊氏が徳川の世になり幕府の筆頭家臣にになり、菩提寺を整備したことは想像できますが、それでもなお遠江の片田舎で格著高い臨在禅の菩提寺を持つこと自体、井伊氏の家系の存在の重みを知ることができました。

龍潭寺(りょうたんじ)の駐車場の前にあるお蕎麦屋さんです。雨降りで寒かったので天ぷらそばを食べましたが、そのおいしいことにびっくりしました。
店内の通路には、大変な量の吊るしびなと布びながびっしりと飾られていました。家内も吊るしびなを作っているので、女将に尋ねたら店の従業員の方が作られたとの事でした。キットでないオリジナルな吊るしびなをつくるためには、様々な柄の和生地が必要になり、常日頃から集めていないと作れません。見事な吊るしびなと布びなを見ていると浜松は遠州綿織物の産地で、綿織機づくりからオートバイや楽器産業に発展したと言われています。織物が好きで親しんでいる人たちが大勢いるのでしょう。

龍潭寺(りょうたんじ)は室町時代20代井伊直平が帰依した京都臨済宗妙心寺派の黙宗瑞淵禅師が龍泰寺を開山し、遠州地方に臨済宗妙心寺派を広める拠点となりました。

禅宗は唐時代末期に仏教の根本思想である空を直接に体得する独立の体系として成立し、やがて南宋禅と北宋禅が生じましたが、南宋禅が栄えるようになり12世紀初頭の南宋の時代、臨済宗と曹洞宗が生まれました。

禅の考え方は奈良時代や平安時代に導入されましたが、本格的な禅宗は鎌倉時代初頭に栄西によって臨済宗、道元によって曹洞宗が導入して始まりました。
栄西は2度にわたる入宋によって、中国の新しい仏教である臨済宗を導入し、公家の文化に対抗心を燃やした坂東武士に迎えられ北条政子の本願によって鎌倉に臨済禅を取り入れた天台宗寺院の寿福寺を開創し、更に鎌倉幕府の支援で京都に建仁寺を開山しました。更に栄西は宋で行動を共にした重源と共に東大寺勧進職となり、再建を果たしました。栄西の臨済宗は鎌倉幕府の手厚い保護を受けて栄え、武士層の思想、人生観に抜きがたい影響を与えました。

臨済宗の興隆は大陸禅の本格的な導入が行われ、建長寺や円覚寺など鎌倉の五山文化の展開に大きく貢献しました。

栄西に続いて道元が曹洞禅を導入しましたが、世俗化した禅修行を批判し唐時代の厳しい禅を理想としひたすら座禅を治めて悟りに到達する道を説き、白山天台の牙城の越前に永平寺を開山し道場とし、道元の没後加賀国と能登国布教のため総持寺を開山しました。
曹洞宗は南北朝時代から室町時代にかけて下級武士と地主層農民の間に広まり、それにつれて道元以来の哲学的な思想は失われ現生利益信仰が強調されました。

長門の大内義隆最期の地大寧寺を訪れましたが、大寧寺は中国地方の曹洞宗寺院の拠点で、大内氏と島津氏は西日本に曹洞宗を広めるためにさまざま行動したようです。曹洞宗はその活動の結果、現在では浄土真宗系寺院21,000以上に対して曹洞宗は14,600の寺院を抱え、臨済宗系寺院は5,500を遥かに凌駕しています。
現在の臨済宗妙心寺派の寺院数は3,380ですから、同じ禅宗でも鎌倉や室町幕府が保護した臨済宗は臨済将軍と言われ、大衆的な曹洞宗と比べて大きく広まりませんでした。

ちなみに寺院数では真言宗系は12,600、浄土宗系寺院数は9,100、日蓮宗系寺院6,600、天台宗系寺院4,000となっています。

鎌倉幕府の臨済宗寺院の格は鎌倉五山として表し、室町幕府の臨済宗寺院は京都五山として格付けられています。特に京都五山の臨在禅寺院は、室町幕府が宋との外交官事務所の役割を果たし、中国文化の導入拠点となりました。

鎌倉幕府と室町幕府は臨済禅を重視しましたが、地方武士にとって臨済宗寺院を菩提寺にすることが、大いなるステータスだったのではと想像します。寺院は最先端の建築と、僧の学識と人格と修行経験そして美学がキメ手になり、更に京都五山のように臨済宗では修行と美術空間として庭園も極めて重要です。寺院を開山するだけでも大変なのに、禅を究めた高僧を招くことは容易でありません。恐らく当時氏寺として臨済宗寺院を開山することは、個人で有名大学をつくることに匹敵するほど大変なことだったと想います。

龍潭寺には井伊氏40代の位牌を祀っていますが、井伊家の墓は井伊直正までで、井伊家が彦根藩主となってから井伊家の墓は彦根、世田谷の豪徳寺に分かれています。
龍潭寺は、天文1年(1532)に直平によって龍泰寺として開山されましたが、天正4年直盛が桶狭間の戦いで戦死したことから、直盛の法名を採って龍潭寺と名を改めたのです。

家康は永禄12年(1569)弱体化した今川氏の堀川城と掛川城を攻め今川氏が滅亡しました。それまで遠江は今川氏の勢力下にありましたが、今川氏が滅亡してから、遠江、駿河が空白となり俄然遠江は慌ただしくなりました。
元亀3年(1572)信濃南部を完全掌握した信玄は西進を開始し、これを迎え撃った家康は、浜松郊外の三方ヶ原で合戦が行われ、家康は歴史に言う完敗しました。翌、天正1年(1573)に武田軍は井伊谷に乱入し、龍潭寺は焼かれてしまいましたが、この侵攻時に信玄は病没してしまいました。

井伊谷は武田軍が甲州から、信濃国の高遠、大鹿村(大河原)遠山、青崩峠、秋葉神社、天竜二股から浜松に出る秋葉街道の入り口に当たります。南北朝時代南朝の宗良親王が、井伊氏や大河原氏の支援を受けて、30年間大鹿村を拠点として各地に転戦していましたが、古来井伊谷を領する井伊氏にとって、山深い信濃国が脅威となったのは信玄の信濃制覇からです。その意味で対武田の先鋒と運命づけられ、南北朝時代から信濃国で戦って来た遠江を代表する家名の歴史を有する井伊氏は、家康にとって世に出る一つの大きな要素となりました。また井伊氏歴代の中で井伊氏家長が有能な直政だったことが、井伊氏にとって大きな飛躍のきっかけとなりました。

龍潭寺の現在のように再建されたのは江戸初期と言われていますが、いつか定かでありません。恐らく井伊直孝が彦根藩主となり30万石に加増され、徳川譜代筆頭になってからだと想像します。

本堂釈迦三尊の間には龍虎の左右の障壁画があります。

井伊氏は南北朝時代は、後醍醐天皇の南朝方について、足利一門の今川氏と戦いましたが、足利幕府開設後北朝の時代になると一時今川氏に臣従しましたが、戦国の世になると遠江守護斯波氏と共に今川氏に反抗しましたが、再び今川氏に臣従し22代直盛は桶狭間で戦死してしまいました。この時龍泰寺は直盛の法名ををとって龍潭寺に改名したことは、先に触れました。この間井伊氏は今川氏の抗争で不遇な状態におかれ、信州に逃れたりして井伊谷領有もままならない時期が続きました。また桶狭間で戦死した直盛以降も井伊家は内紛が続きましたが、直盛の娘直虎が井伊家を支え、虎松、後の井伊家中興の祖直政を養育しました。

家康と虎松(直政)の出会いは、桶狭間で今川義元が討ち死にしてから不安定だった今川氏を永禄12年(1569)家康が堀川城、掛川城を攻め今川氏を滅亡させたことから始まります。

元亀3年(1572)12月、信玄は上洛を開始し、信濃国から秋葉街道を南下し家康の浜松城を無視して姫街道から三河に進軍しましたが、家康は城を出て追撃しましたが信玄はきびすを返して三方ヶ原で家康軍を大敗させ浜松城に逃げ帰り門を閉ざしてやり過ごしました。不思議なことに信玄軍は井伊谷の入り口の細江に陣を敷き10日ほど動かず、この間、井伊氏の井伊谷に乱入し龍潭寺も炎上させました。武田軍が動かなかった理由は信玄の病状が悪化したためだったと後世歴史書は述べています。
その後2月に武田軍は家康の三河の野田城を落とし、長篠城に移って養生を続けましたが、4月に帰国することになり伊奈街道から三州街道を北上しましたが、信玄は阿智村駒場で病没したと言われています。

信玄の病没と武田軍の撤退は三河の家康と遠江の井伊氏に日本史上最高の僥倖を与えました。この僥倖後の家康と井伊直政の歴史を列記します。

井伊家はたった58年で300石から30万石に1,000倍に加増されましたが、この加増は戦功による加増だけとはとても思えません。

家康の天下取りに従って、敵対する多くの名門武将を臣従させるためには、名門武将に匹敵する歴史を持つ井伊家が筆頭家臣であることが必要だったと言えるのでしょう。

幕府開設時の名門外様大名のルーツを列記すると、
盛岡藩南部氏(甲斐源氏南部氏)久保田藩佐竹氏(源義光)仙台藩伊達氏(藤原北家)米沢藩上杉氏(足利家家宰)相馬藩相馬氏(鎌倉御家人千葉氏)平戸藩松浦氏(平家水軍)佐賀藩鍋島氏(佐々木源氏)柳川藩立花氏(鎌倉御家人大友氏)宮津藩京極氏(佐々木道譽)萩藩毛利氏(鎌倉幕府官僚大江氏)熊本藩細川氏(室町幕府管領)
唐津藩小笠原氏(武田一門)人吉藩相良氏(北条執権御家人)飫肥藩伊東氏(鎌倉御家人)薩摩藩島津氏(頼朝御落胤)
上記は信長、秀吉に取り立てられ大名になった有力武将は除きました。


天正2年(1575)井伊直政、家康に臣従 300石取りになる。
天正4年(1576)家康、掛川高天神城の武田から奪取、直政手柄を挙げ3千石に加増
天正6年(1578)直政、1万石に加増
天正7年(1579)家康、信長の命により築山御前刺殺、松平信康切腹
天正8年(1580)直政、2万石に加増
天正10年(1582)本能寺の変、直政、家康と共に甲州入国、4万石に加増
天正12年(1584)家康、秀吉との小牧、長久手の戦い、直政、先鋒の大将として戦功を挙げ6万石に加増
天正14年(1586)家康、浜松から駿河に移り、直政も同行する。
天正18年(1590)直政、小田原北条攻めで先手を務める。秀吉からも6万石加増され箕輪12万石の大名となる
慶長3年(1598)直政、高崎城築城し箕輪城から移る
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで直政先陣を切って活躍
慶長6年(1601)直政、佐和山18万石城主となる
慶長7年(1602)直政、関ヶ原の鉄砲傷が元で病没、42歳
慶長8年(1603)家康、江戸幕府を開く
慶長12年(1607)直継、彦根城を完成させる
元和1年(1615)大阪夏の陣、直孝、彦根城主となる。直継安中城に3万石で移封、直勝と改める
寛永10(1633)直孝、大阪の陣の功により30万石に加増、徳川幕府譜代大名筆頭となります。


     
家康と井伊直政は武田との抗争に全力を挙げました。武田家滅亡後、武田領の北条氏との交渉に臨み優れた手腕を挙げ、家康に信頼され侍大将として多くの武田家臣団を召預けられました。
武田家臣団は戦に強く、井伊直政は武田軍の象徴であった赤備えを取り入れ、武田家滅亡後井伊の赤備えとして小牧、長久手や小田原北条攻め、関ヶ原の戦いで先鋒を務め井伊の赤鬼として恐れられてきました。

稀代の武将信玄と謙信には数多くの逸話があります。海音寺潮五郎の「天と地と」にこんな描写がありました。
川中島への行軍中、謙信は道の傍らに生えていた細い竹を、馬上から切り取り馬の鞭を作りました。謙信はこれを気に入り以後、戦にはいつも手放さずに携行していたそうです。謙信にあやかろうと景勝もこれを真似して同じような細竹をいつも携行していたようです。

大阪冬の陣では、関ヶ原で家康に敵対した上杉氏と佐竹氏は先鋒を命じられました。既に謙信は亡くなり景勝の時代でしたが、鴫野での前線では謙信以来の伝説的な上杉軍法を見ようと、多くの名だたる武将が密かに見学に押し寄せたと言われています。

景勝は青竹を杖にして床几に腰を下ろし、脇目もせず城を睨み付け、その左右には馬回りが槍を斜めに突いてひざまずき、微動だにせず無言で戦場を見てたと言われています。紺地に日の丸の旗と毘の旗に扇の馬印を押したてた本陣は、戦いの最中なのに静まり返っていて、その粛然とした光景は、密かに訪れた多くの武将に多大な感銘を与え、その様子は語り草になっていたようです。

伝説的な武田の赤備えは徳川の先鋒を務める井伊家に継承されたように、当時から信玄と謙信の軍法は伝説的かつ哲学的だったようです。

信玄と謙信の名は彼らが出家した際の戒名であり、稀代の2人の武将はいずれも仏に帰依しており、この世に人知を超えた世界があることを知っていました。戦いに臨む姿勢は個人の存在を遥かに超えて、何万という自己の集団の生きるか死ぬかの命を預かっており、自ら仏教思想の空の概念を直接体得していないと判断が不可能だったのでしょう。信玄は不動明王に謙信は毘沙門天にその心を委ねていたのでしょう。

大名茶人であり小堀遠州は庭園づくりを始めとする作事の名人であり、茶の湯も遠州流茶道をの創始者として茶道にも明るく、茶道具の名物のコレクターでもあり、華道や和歌にも明るい当代きっての文化人でした。

今まで私が観た庭園でも清水寺成就院庭園、南禅寺方丈庭園、二条城庭園、西教寺庭園、高台寺庭園、日光輪王寺逍遥園があり、昨年訪れた備中松山城御根小屋跡庭園は道が狭いため断念しました。
小堀遠州は近江国出身で父親が秀長と関係していたことから、幼少の頃から英才教育を受け千利休、古田織部の茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となり、後水尾天皇のサロンの有力なメンバーになり、我が国を代表する庭園の桂離宮建築にも関係しました。

心字池の中心に座禅石を設置し、その上に鳳来岩島を配し、その上に亀の形をした亀出島を設けました。築山の中央には安定感のある守護石を配しています。

庭の左側は鶴のような鶴出島を配し、巨大な仁王石を立てています。

庭の右側は同じく巨大な仁王石を配し、左右のシンメトリーな安定感を演出しています。

庭のデザインは禅寺の方丈庭園の直腺を取り入れ、自然のやわらかさだけでなく、禅の厳しい修行を表現する直線を多用し、この庭が安らぎの空間でなく禅の修行の場としての意味を与えています。

禅寺特有の庭も修行の場である緊張感のあるデザインです。この自然と一体となったやわらかなデザインと、自然の中に無理やり緊張を強いる直線のデザインは、古今東西作庭の理想的なデザインと想います。この砂利の上に落ち葉が落ちていたら緊張は一挙に緩みます。禅寺の庭園は個人宅の庭とは概念が異なりその維持は修業とはいえ大変です。

ガーデニングの日常経験のない人は、自然風な光景と感じるでしょうが、経験者にとってはこの光景は自然そのものでなく、手入れをしながら自然風を維持していることが判ります。今は早春ですから維持は容易ですが、4月半ば過ぎたらメンテナンスは大変です。

見事なつくばいです。また竹の腰かけの隙間にも埃や汚れが全く見受けられません。

雨に濡れて藪椿が効果的に咲いています。印象深い光景です。

直線と曲線がミックスした美しい光景です。いつまでも見ていたい風景です。

歴代住職の位牌をお祀りしている開山堂です。銀閣寺のような大陸の風を受けたエキゾチックなデザインです。

仁王門です。朝鮮通信使の書の扁額が掲げられた山門は工事中で覆いに覆われています。

浜松駅に帰る途中、三方ヶ原にある航空自衛隊浜松基地を見学するため寄りましたが、残念ながら月、火と休館でした。

小学生高学年から、航空雑誌の航空情報を購読していました。浜松基地は航空自衛隊が発足した最初の練習航空隊で戦闘機は無く、T33の練習機の画像をいつも眺めていた懐かしい基地です。当時海上自衛隊も鹿屋基地で米軍供与のレシプロのアベンジャー雷撃機が就役していました。やがて画像のF86Fセイバーが供与され始めてジェット戦闘機を保持してからは、その後の航空自衛隊の装備のスピードは速く、F104、F4ファントムで世界の一流空軍の装備に伍するようになり第4世代のF15、F2、から第五世代のステルスのF35を装備するようになりF2の後継機、軽戦も英国、イタリーと共同開発を行うようになりました。

かっては艦船は米国、英国と三大海軍と言われ、海軍航空機は米国と2分し、陸軍航空機は米国、英国、ドイツと伍した我が国が、戦闘機の共同開発は当然の事だと想います。