見沼たんぼの自然、いよいよ春本番へ桃畑
先週朝のウオーキングで木蓮が開花している光景を見ました。木蓮は遠くから見ると蕾は目立たないため、突然開花したように見えます。
木蓮が開花すると桃は満開を迎えるのが常で、先週桃畑で確認した3分咲きの桃はどうなっているのか気になりました。
私は毎年桜の開花より桃の花の満開が気になっていました。なぜなら桜は、蕾から開花しても3分咲き、5分咲きまでが時間がかかり、8分咲きで満開のような感じがあり、散り始めても桜吹雪が楽しめるため、桃に比べて開花期間が長いように感じています。そしてほとんど開花の際必ず花冷えの時期がやってくるのであせりません。
また桜はどこにでもあるため、満開の桜の花を見落とす心配はまずありえません。また桜は、ソメイヨシノ以外にも開花期間の異なる品種はたくさんあり、早咲き品種が多いのが特徴です。先日浜松では満開の河津桜が観られ、掛川では掛川ザクラの満開の光景にも接しました。その意味で桜は私にとって満開を見逃すリスクのないとても安心できる花木なのです。
しかし桃は違います。満開の桃が連なるいわゆる桃源境は、我が国ではいわゆる絵葉書的風景で、どこでも見られる風景ではありません。実際各地を旅していても桜の名所は随分と訪ねることができましたが、桃源境に接したことは1回もありません。桃の産地の山梨や山形や福島に行くと桃源境が見られるのでしょうが、桃の花はリンゴの花と同じく満開時が一瞬で、良い果物にするために摘花を行うため満開は一瞬で終わってしまいます。また桃もリンゴもたった2~3日の満開の日々が予想できないため、桃源境もリンゴ畑も観光地になりにくいのです。
幸運なことは見沼田んぼでは数少ない満開の桃畑を見ることができます。見沼田んぼの桃畑は切り花として出荷するためもありますが、どちらかと言えば地主農家の趣味で栽培しているようです。ソメイヨシノは剪定しなくても毎年木が成長し新しい枝を大きく広げて見事な光景を作りますが、桃畑を見ていると、剪定に非常に手がかかります。
地主農家の人の手が掛かった無償の行為によって、見沼田んぼで桃源境に出会えることは、春の季節私にとって無上の喜びとなっています。
木蓮はなぜか突然満開になるような気がします。意識の上であまり注目することの無い花木ですが、まだ緑の少ない見沼田んぼに突然白い花が満開になると、なぜか心が動揺します。この動揺はなぜだか分かりませんが、目に見えて変化が見えない冬から、日々変化の激しい春を迎えるため準備する心の動揺なのでしょうか。
春の野を鮮やかに彩るのはやはり黄色の花木です。見沼田んぼの昔には、エニシダやレンギョウの黄色が目立ちましたが、今はほとんど見かけません。代わりによく見るのはサンシュです。サンシュの黄色は楚々として、低木のエニシダやレンギョウに比べると目立ちませんが、黄色の花木なのにこの楚々とした姿は魅力的です。しかし大型になるので庭木としては人気はありません。
昔、我が家でミモザを植えていましたが、春の始まりはミモザが一番強烈な印象を与えてくれます。
満開の木蓮に気が付いて、先週確認に行った2度目の桃畑です。仔細に見るとまだ6~7分咲きだと分かりました。
画像に撮ると満開のようにみえますが、平均すると6~7分咲きでした。
私が見沼田んぼの桃に拘るようになったのは、愚犬との10年の想い出があるからです。
亡くなってからもうすぐ20年になりますが、見沼田んぼが今より美しかった春の季節の画像がたくさん残っています。当時現役だったので春の季節の画像は週末しか採れず、満開の桃畑や桜回廊の画像は全て家族が映っており、桃と愚犬だけの画像は唯一上の画像だけで桜に比べると遥かに少ないです。
私は愚犬と過ごした10年の間、犬から多くのものを学びました。
犬には5分前も5分後もなく、今、この1瞬が全てでした。愚犬は絶えず私との遊びを狙っていました。こちらがその気にならない時は「後で」と言ってその場を回避しますが「後で」の時間の概念は犬には無く、それに比べると人間はずるい存在だなといつも想っていました。
犬は人間と比べると約7倍のスピードで生きています。ですから人間のように悠長には生きられないのでしょう。
さらに犬から学んだことは、飼い犬のため自由に歩き回れない犬にとって、散歩こそ命であり、毎日同じくりかえしでも決して飽きることが無い生き物でした。
散歩の途中道端のマーキングされた匂いを嗅ぎながら、散歩コースで自分のいなかった12時間の出来事を、アイツが来たとかあれこれ思い浮かべ、自分の存在感を誇示しなくてはならない大事な場所には、念入りにマーキングをしていきます。
たったそれだけの出来事ですが、毎日、毎日飽きずに同じことを繰り返しています。
車に乗せると毛が残って掃除が大変なので医者以外は余り乗せませんが、ある春、広大な荒川の河川敷に連れて行ったら、ちっとも喜ばずマーキングもおざなりでした。やはり犬は自分のテリトリーの毎日の巡回を何よりも生きがいする欲の少ない動物です。犬に比べると人間は欲の動物と想います。
我が犬は決して賢くありませんでしたが、1瞬、1瞬をひたむきに生き、人間のように後回しにするずるさもなく、毎日同じドッグフードを主食にして飽きることがなく、毎日の変化の無い習慣こそ生きがいとする極めて欲のない動物でした。
もう一つ北極圏で19世紀英国の北極探検隊に発見されるまでは近代社会に姿を現さずサモエド族と暮らしを共にしていた極地犬のため、家族が留守中でも決して食べ物には手を出しませんでした。多分厳しい極地でサモエド族と猟を行い食べ物を分け合って食べていたため、何千年間ものDNAが続いているのでしょう。
家内と愚犬のいない見沼田んぼを散策していると、愚犬と接していた時の情景が良く浮かびます。
大型犬の一生は薔薇とよく似ているなと想ったり、満開の期間が短く1瞬の内に咲く桃は、犬とよく似ている花木だなと想います。
満開の桃畑を眺めていると、雛祭には桃の花が咲かないのに、なぜ桃の節句というのか不思議ですが、現在は桃の切枝をハウスで加温すれば、雛祭りの季節に十分間に合うので不思議に想う人はいないでしょう。
食べられるケモモ(現在の桃)が我が国に導入されたのは奈良時代でした。中国では古来桃は除魔力があるとされており、この考え方がケモモの導入以前に我が国に伝えられ記紀のイザナキ、イザナミ神話でイザナキが桃を投げて鬼の攻撃を防いだという記述があります。
平安時代大晦日の鬼やらいの行事に桃の木で作った弓で鬼を射る行事が節分のもとになりましたが、ひな祭りは新たに産まれた女の子が初めて迎える節句で、中国の節句と同じ旧暦の3月3日に行われるようになりましたが、一般に普及したのは江戸時代幕府が五節句を定めてからで、その内今でも続いているのは3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の7夕です。
3月3日の上巳の節句が雛祭となったのは様々な意味がありますが、桃の花と結びつき桃の節句となったのは、桃には除魔力があり桃の枝を飾ったことから来たものだと想像します。3月3日では桃の花は咲いていませんが、その際の桃の枝は必ずしも花が咲いている必要がなく、満開の薔薇と同じように満開の桃を想像できる枝の花芽に、美しい花と美味な桃の実を生み出す生命力とパワーを感じ、産まれた女の子に桃にあやかって美しく力強く生きて欲しいとの願いを込めたのだと想像しています。
元々我が国に自生していた桃はヤマモモであり、奈良時代に唐から今日のような果実の表面に毛がはえた皮が薄く食べやすい毛桃が入ってきましたが、唐では春と言えば桃であり、桃季として多くの漢詩に詠われています。ヤマモモは暖地しか栽培できませんが毛桃は広く適応するため我が国では普及は広まりました。満開の花の美しさは、この世と思えぬ桃源境となり、しかも果実もおいしい桃は、奇跡的な花木だと信じられていたのだと想います
春の苑紅にほふ桃の花 下照る道に井で立つ少女 大伴家持 万葉集
桃を詠った歌の中でこの家持が詠った歌が、最高傑作と言われています。桃は幹から真っすぐ上に伸びる緑の若枝にびっしりと蕾をつけ、一気に開花します。
その開花のさまはあでやかで、いかにも匂い発つような雰囲気ですが、桃は実際には香らないまでも、大伴家持の歌のように、何よりも桃の木はの開花はあでやかな初々しい乙女を感じさせてくれるのです。
愛読書である哲学者山田宗睦の花の文化史には、山田宗睦は湘南に新居を構えて庭に2本の桃の木を植えたとあります。桃の木はなかなか栽培がやっかいで数年で挫折し植木屋さんに引き取ってもらったとあります。
本書で江戸時代の本草学者小田蘭山の本草綱目啓蒙の記事を紹介しています。
木早ク老ス 故に十年ハ保チ難シ 因テ五年ニ刀ヲ以皮ヲキリ 脂ヲイダストキハ数年延トイエリ
桃の木は幹が太くなるにつれて、樹幹にひび割れが生じ、そこから出る樹脂は桃の実の甘く水気の多いのに似て、指の先ほどにもなる。虫もつく。この樹脂を追い出せば、10年の寿命がさらに5年伸びると山田氏は小野蘭山の記述を紹介しています。
1列ごとにきれいに剪定しています。剪定した桃の木は切り花として出荷したのでしょうか。
桃の花の圧倒的な美しさは桜の比ではないように感じます。毎年この光景が見られるだけでも幸せです。
桃畑の中に足を踏み入れました。靴がズボッ!とめり込みました。腐稙に飛んだ土壌です。相当多量な堆肥を入れ続けなければこのような土壌を維持できません。
桃源郷の秘密はこの土壌にありました。
サンシュと桃のコラボです。
梅は白梅に限りますが、桃は梅と美の概念が異なります。真紅の桃の花も好きです。この後ろに純白の桃もありますが、畑に入ることができません。
薄い桃の花もあります。
木瓜も大好きです。
もう少し暖かくなると真紅の木瓜の畑は満開になります。
私は辛夷が大好きです。我が家には山の花である辛夷の木を植えましたが、枝を広げて大きく伸びるため、そうはさせ時と剪定を繰り返してきましたが、いつも花芽を摘まんでしまうため花には恵まれませんでした。薔薇のため切ってしまいました。狭い庭では辛夷は無理なのでしょう。
春になると5月初旬の安曇野の風景が目に浮かびます。白馬三山や唐松岳や五竜岳は雪に覆われていますが、白馬山麓では春が一時にやってきます。水仙、チューリップ、
梅、桃、桜、辛夷など春の花が一斉に咲き始めます。田植えは雪国のため関東と同じこの時期で、松川の雪解け水が灌漑の水路を水しぶきを挙げながら勢いよく流れています。
見沼田んぼの灌漑水路を見るとあの美しい安曇野を思い出します。雪国は春が一時にやってくることは共通していますが、安曇野と津軽の美しさは双璧ですが、白い岩木山と比べた場合、やはり白馬、五竜連峰の北アルプスと、あの灌漑水路の雪解け水の美しさと迫力では安曇野の方が勝るような気がします。
こう書きながら安曇野を思い出すと、今年はあの風景をぜひ見たくなりました。
見沼たんぼにも本格的な春が近づいてきました。灌漑用の土管を覗いてみると、水が流れるようにバルブの点検を行った跡が見えました。
コンクリートの溜枡を覗いてみたら既に水が張っていました。
冬の間埋まっていた水路を埋めた土砂や枯草を取り除いた痕跡が見られます。
市民農園の水田に水を溜める作業を既に済ましているようです。
冬の間埋めていた草や土砂を取り除き、順調に灌漑水路が機能しています。
能登ではこれら農業水路が全て破壊されてしまったのでしょう。灌漑水路はあまり話題にならないけれど、戦後政府が灌漑水路と農道に費やした予算は膨大なものだったようです。日本全国の農地に張り巡らせた灌漑水路は、まさに世界に冠たるものと想像していますが、文化面を除いた真の日本遺産は灌漑水路と想っています。
先日、見沼田んぼも以前は水田だったそうで、稲の作付けが変更になり水田が畑に変更になったことを聞きました。野田に鷺山がありましたが、遠足のコースでした。高校時代の生物の先生が鷺を研究していたので皆で見に行きましたが、今では鷺は見られなくなって記念館だけで剥製だけが展示しています。
鷺がいなくなったのは、見沼田んぼの水田が無くなって来たこともあると想います
見沼田んぼの灌漑水路は水田時代の名残でしょうか。
太い水路は灌漑もありますが、見沼田んぼは東京の荒川の洪水を防ぐ広大な遊水地の機能を果たしており、水路は灌漑目的だけではないのでしょう。
東西の見沼代用水は利根川から取水し、流域の灌漑用水路の役割を果たしていますが、余った水は絶えず真ん中にある芝川に流しています。芝川は川口市内では大河になりますが、もともと水源のない川で上尾付近で自然発生した小河川が芝川となります。
灌漑用の余った水を集めて芝川はとうとうと流れています。この土手も4月に入ると菜の花でまっ黄色に変わります。
高校の同窓会
早朝、見沼田んぼで桃畑を堪能した日、埼玉県立浦和高校の14期の同窓会が10年ぶりに新都心のホテルで開催されました。
80歳になった14期の同窓は、卒業時360人の内75人が集まりました。皆よく80年も生きて来たなという感慨あふれた日でした。
クラス会は50代の後半から、恩師を囲む会として媒酌人をお願いした関係で恩師と関係が深かった私が幹事で毎年行っていましたが、恩師が亡くなった後は持ち回りの幹事で行って来ました。しかしコロナ禍のためここ数年中断していました。今回は10年ごとの学年同窓会で学年幹事のお世話で開催されました。
学年の同窓会は他のクラスの旧友と会えるのがとても楽しみです。
男子ばかり8組ありましたが、クラス毎に自己紹介がありました。学年をまたいだ総合的な同窓会では、有名人が挨拶することになりますが、多少世間に名の知られた仲間はいるにはいますが、それは極めて少なくほとんどが無名人のため学年同窓会は皆平等で挨拶は機能的に幹事が務めます。人生はレールの上をただ走るのではなく、世間に名を残すか無名で終わるかは、能力でなく本人の意思次第という自由な個の意思を大切にする校風のためで、たとえ世間に多少名を知られた仲間でも皆謙虚です。
我がクラスは13人が出席しました。級友たちはそれぞれ年輪を重ねそれなりの風格がにじみ出ています。
旧友と昔話を語るのは楽しいものです。何人かの旧友と近直の再会を約しました。歳をとると会える時には会っていたいものです。