四国の旅その4、阿波池田、JR徳島線トロッコ列車、徳島市街、徳島城祉

祖谷渓のかずら橋や大歩危峡を楽しんでから、阿波池田駅に行きここから観光のトロッコ列車で徳島に行きました。

大歩危峡から阿波池田、そして河口の徳島市まで吉野川に沿って鉄道や道路が走ります。平野は吉野川の流域と海岸近くのみで後は山また山です。

紀伊水道に面した平野は行ったことがないので分かりませんが、祖谷の木材、池田の煙草、藍、半田そうめん、麻、和傘、和紙、米など塩を除いて阿波国の産業のほとんどが吉野川の流域で産まれているようです。

まさに吉野川は阿波国にとって母なる川で、四国の旅その4は阿波国の母なる川、吉野川に沿って走る徳島線の旅です。

江戸期、徳島藩は淡路島も含んでいたため257,000石の大藩でしたが、吉野川流域の藍や煙草、海岸デルタ地帯の製塩収入によって実質40万石以上の石高収入があったと言われています。これも海運の商都大阪と近いことが最大のメリットでした。

近代では、位置的に瀬戸内の海運と外れた地域のため、隣の香川県と違って重工業や造船も発展しなかったようですが、代わりに化学工業やLEDはじめ電子工業が盛んなようです。

阿波国にとって吉野川が切っても切れない関係ですが、吉野川の長さを調べたくなり、長い川順に並べてみたら1、信濃川、2利根川、3石狩川、4天塩川、5、北上川、6,阿武隈川、7,最上川、8,木曽川、9,天竜川、10、阿賀野川と続きました。
天塩川を除いていずれもその流域を訪れたことはありますが、吉野川の長さと流域への依存度は最上川クラスかなと想えますが、調べてみると長さは12位でしたが、15番目で大して長さが変わらない地元埼玉の荒川と比べてみると、地域の吉野川に対する依存度は荒川とは、比べ物にならないくらいの重みがある河川のようでした。


阿波池田駅

大歩危の遊覧船を楽しんでから昼食を採り、阿波池田駅に向かいました。大歩危の船乗り場から阿波池田駅まで距離はありますが、路線バス到着時刻まで時間があることと4人乗車のため、多少費用はかさみますがタクシーを呼んで阿波池田駅にやってきました。

山高く水筋長し冬の月  池田は古来白地と呼ばれていた地でした。阿波の白地番所の役人を務めた白地村の庄屋三木又蔵の池田を詠んだ句は、四国を良く表した有名な句です。

古代幹線道は大路、中路、小路と3つのランクが決められ重要度を表していました。ちなみに最も重要な大路は大和と大宰府を結ぶ山陽道で、次に重要な中路は東国への東山道と東海道でした。四国への南海道は重要度の低い小路です。

阿波池田は讃岐国の隣に位置しますが、伊予国、土佐国は距離があるものの、四国の辻と呼ばれ、南海道淡路島から四国の玄関の阿波徳島に上陸し、讃岐、伊予、土佐国に向かうためには必ず通過する街でした。長曾我部元親も秀吉との戦いで白地に本陣を置きました。

現在の阿波池田駅は岡山、坂出から土讃線の高知行と徳島線が交差する鉄道の重要拠点です。

駅前に大きなアーケードが掛かっています。発車の時刻まで少し時間があったので、息子と街を歩いてみました。

池田は四国内陸の中心地で吉野川舟運の拠点でした。江戸時代は煙草の産地で、また木材の集積地でもありました。
春に天竜川と秋葉街道が浜松平野との出会う街天竜二股を訪れました。天竜二股も天竜川沿いの木材の集積地で、かっては買い付けの商人たちが泊まったり、或いは街の商店に商品を卸しに来る人たちの古い商人宿がいくつかありました。天竜川の木材は浜松にピアノ産業を生みました。

池田の街を歩くと商人宿が目立ち、この町が商業と産物の集積地であることが良く判ります。

ビジネスホテルや学習塾がありました。

以前、釧路、根室、知床、網走を旅した時、北見市で大学予備校の看板があり、北見は大都会なのだなと想ったことがあります。札幌、函館、旭川はもちろんのこと、北見や釧路、帯広に予備校があっても当然でした。

甲子園3度優勝の名門、徳島県立池田高校

かって蔦監督の元、甲子園で3回優勝しその名を轟かした徳島県立池田高校です。戦前から四国は高松商、松山商、徳島商、高知商と野球の名門がしのぎを削り多くの名選手を輩出してきました。昭和の時代、蔦監督の池田高校の活躍は日本中を沸かせたものです。

今の時代、あらゆるスポーツで公立高校が全国制覇することがほぼ不可能になりましたが、蔦監督のあの時代も選手集めに制約のある公立高校は、大変だったと思います。まさに時代の記念碑でした。

池田高校の通学区域を想うと平野のない西阿波地域でもあり、今のような野球留学の無い時代、当時の池田の野球部員には足腰の骨格と筋肉を所持する遺伝子が流れていたのかなと想います。

英会話スクールを見つけました。なぜか池田の街の奥行きを感じます。

洋品店の看板でしたが、中は木工の専門店でした。中に入って見たかったけど、目の毒なので諦めました。もう歳なので陶器など目の毒になりそうなものは避けることにしています。

JR徳島線、藍よしのがわトロッコ列車

徳島線は、季節の土日祭日を選んで不定期に観光のトロッコ列車を走らせています。徳島から午前中到着した列車は午後徳島に向かいます。

トロッコ列車にはJR職員のガイドさん、車掌、土産物販売員がセットでもてなしていただけます。特にガイドさんの駅ごとの説明は出色です。
おかげで吉野川と沿線の街々の産業や名物などよく分かりました。

JR東日本や東海と違って損益ぎりぎりの企業JR四国の皆さまの献身的な姿勢には感動させられます。

トロッコ列車は窓がないため、解放感はありますが、立ち上がると猛烈に風を受けます。美濃田大橋でしょうか。

山が迫った吉野川流域の僅かな平野でも、隅々までキチンと活かし懸命に農業を営んでいる光景は、山陰の海岸の僅かな平野とおなじです。
家の近所の見沼田んぼの数多くの耕作放棄地を想うと、いろいろ事情があるかと思いますが、何とか意欲ある農業法人に集約した方が良いと思いますが、遅々として進んでいないようです。

夏になると素麺はよく食べますが、半田そうめんの産地が、吉野川流域とは知りませんでした。スーパーに行くと、三輪素麺、揖保乃糸、半田そうめんが3大ブランドとして素麺の棚を賑わしていますが、家内に聞くと購入するのは揖保乃糸だそうで、半田そうめんはあまり購入していないとの事です。

半田そうめんの産地を知ったので、今年の夏は半田そうめんを多くしようかと家内は言っています。以前12月に奈良の古社巡りが終わって三輪素麺の工場直売所に寄ってみたら勧められるままに、年越しに三輪そうめんを食べたことがありました。産地が身近になるという事は良いものです。

徳島と言えば染料の藍の産地です。徳島鉄道は藍と木材の輸送のために敷かれたと言います。

徳島県立つるぎ高校生徒さんのおもてなし

トロッコ列車ではオリジナルブランドのビールやサイダー、つまみやお菓子の車内販売、さまざまなイベントが行われます。
沿線のつるぎ高校の生徒さんたちの、クイズなどのおもてなしもあります。

阿波半田の隣駅の貞光という駅につるぎ高校があります。
このつるぎ高校の生徒さんたちが、月1回、土曜日にトロッコ列車のおもてなしをしてくれました。

祖谷地方が世界農業遺産認定の地だと初めて知りました。

つるぎ高校の地域ビジネス科3年生の生徒さんたちは、西阿波の三好市、東みよし町、つるぎ町、美馬市が、世界にも珍しい傾斜地農耕システムで世界農業遺産に認定された地域であるとのPRをされました。

祖谷渓ではあの急な斜面で良く農耕をやって来たなとの想いが募り、祖谷渓の歴史に想いを馳せましたが、あの傾斜地の農耕が世界農業遺産に認定されているとは全く知りませんでした。

新祖谷温泉の宿では、女将の粉曳き節の哀調に感動し、イタドリの山菜初め山の素朴な素材料理に、平地の無い祖谷渓の厳しい農業の歴史に想いを馳せました。

しかし手元にある道中入手した三好市の総合観光パンフでも、祖谷渓観光マップでも祖谷渓の傾斜農業が世界農業遺産に認定されていることは一言も記していません。

つるぎ高校地域ビジネス科の生徒さんたちから頂いた手づくりの世界農業遺産のパンフによって、棚田も作れない祖谷渓の農業努力の歴史を知りました。
かずら橋も、祖谷渓の厳しい農業の歴史を想わなかったら、大半の観光客はただスリルに満ちた吊り橋があって面白かっただけで終わったでしょう。

ただ面白かったねという場所は山に行けばいくらでもあります。しかし旅は景色だけでなく、その地域に住むひとびとの営みの歴史に触れることで旅は深まります。地酒や食材はそれらを探る素材なのです。祖谷でしか食べられないものが貴重なのです。

帰宅してから、三好とつるぎの世界農業遺産のHPを見ました。

西阿波は米が採れず主食は粟と蕎麦とイモで、阿波国の名はアワからきたとも言われていると記していました。また安易な焼き畑農業でなく、斜面の榧を切って乾燥させ。村の鍛冶屋が作った斜面用の農具で、細かく砕き堆肥としてすき込み、地力を維持してきたことが判りました。

祖谷渓に入る時、祖谷渓が世界農業遺産に認定されていることが知っていたら、もう少し見方が変わっていたかも知れません。

大歩危の駅にたむろしていた外国人の若者たちは、祖谷渓が我が国に15カ所しかない世界農業遺産で、しかも傾斜地農耕の代表的な地であることを知っていて訪れていたのかも知れません。

今回改めて我が国の行政が最も得意とする縦割りの弊害を知ってしまいました。それを教えてくれたのは高校生たちでした。
地域の観光全般を管轄するのは自治体の観光課でパンフ制作は観光協会に丸投げしているように見えます。
我が国の観光を総括するのは国土交通省の観光庁で、その方針で県や市町村の観光セクションが動いているのでしょう。

しかし世界農業遺産、日本農業遺産認定の所管は農水省で観光庁ではありません。

他にも所管が異なる、地域の認定項目で観光の重要要素になる制度があります。
たとえば日本遺産と伝統的建造物保存地区は文化庁の所管。ジオパークの所管が文部科学省。国立公園は環境省所管。
それぞれ概念が異なるため所管の役所も異なりますが、地域の観光PRは一元化した方が良いと思います。

世界農業遺産や日本農業遺産、は地味な制度で、興味のない人たちにとって物見遊山の観光対策には地味すぎますが、SDGsの観点から、世界農業遺産は食の持続的確保の視点から、地域の人々の歴史を探る上で大切な遺産であり、飽食の時代と地球環境を考える上で、これからの若い人たちが見るべき場所と想います。
つるぎ高校の生徒さんたちから教わりました。

トロッコ列車の沿線の人々は、この列車の運行時に良く手を振ってくれます。
沿線やすれ違う列車から手を振ることが習慣となっている鉄道は、たくさんあると想いますが私が体験したのは熊本の肥薩線沿線の人々でした。

徳島線の人たちは鉄道と地域を愛している人が多く、もっともっと阿波に来て欲しいのでしょう。
世界農業遺産と日本農業遺産は地元徳島県が申請して認定されたものでしょうから、地味で観光要素にならないと先入観念を持たないでPRするべきです。

私たちは日常大規模農業による農産物を食べて暮らしており、その反面家庭菜園では手作り野菜のために、経済効率を度外して自作の野菜を食べています。
旅の目的が日常を離れて非日常の空間でリフレッシュしながら、大量生産でない地元食材の食の魅力を味わうとしたら、農業は最大の観光資源であり、どこの
道の駅も混雑しています。


吉野川はさらに支流が加わり、河口の徳島に近づいてきたように感じます。このトロッコ列車の旅は、社会の風潮であるコスパやタイパと無縁な異空間ののんびりとした旅でした。また川と沿線の村や町の産業や名産とのかかわりとその歴史、もし私が小学生の時代に乗っていたとしたら社会の歴史に眼を開かされたかも知れないし、或いは商学部の学生の時に乗っていたとしたら、計量経済が嫌いだった私に、経済学の分野で地味な講座だった産業史や農業史、交通史、物流史にも目を向け勉学好きな学生に変貌したかも知れません。
それはあり得ませんが。

徳島駅に着きました。九州に帰る息子とはここで別れ、明日用事があるため本日中に帰宅するそうです。
今回息子のプランで旅を行いましたが、複雑な旅程の予約など助かりました。昨春家内と岩国から宮島、広島、呉、大三島、鞆の浦、吉備まで4日間の旅を行いましたが、
複雑な旅程の予約やプランで消耗したことがあり、今回はとても楽な旅でした。
道中、スマホで様々検索と確認しなければならないことがあります。瀬戸内の旅では私が全て行いましたが、今回2人の子供たちのスマホでの検索能力は、私たちの比ではなく、それだけで世代の違いを感じました。


しかし旅先で強く感じたことは家族共通していて、感銘を受ける事項には世代の違いは無いことが確認できました。でもこれは子供の頃から家族共通の価値観を共有していたことなのかも知れません。
前回家族4人だけの旅は、息子が大学院受験直前で娘も結婚前でした。あれから大分年月は経ちましたが歳を経て家族揃って仲良く旅に出られることは、幸せだと思います。

徳島市内

徳島は息子が駅のJRホテルを予約してくれました。東京と違って地方都市の駅周辺のホテルは高くないので、夜の食事や翌日の移動に便利なため、旅での観光地以外の宿では駅構内か駅近くのホテルを良く利用します。
夕食の前に前方に見える眉山にロープウエイがあるので山上に夕日を見に出かけます。

徳島市は吉野川の河口のデルタ地帯で、吉野川から分かれた支流もいくつか流れています。支流でも広いです。

土曜日の夕方なのに大通リには人影が見当たりません。このビルの店舗はほとんどシャッターが閉じられています。

県庁所在地とは見えない土曜日の夕方なのにどうしてこんなに人通リが少ないのでしょうか。冬の秋田や山形の方が人はもっと歩いています。
徳島市の人口は25万人で、盛岡は30万ですが、盛岡の街の方が倍ぐらい歩いているように感じます。
人口減のせいだけでは無いような感じがします。

歩道が空いている分、自転車が歩道の上を猛スピードで通過するため交差点では身の危険を感じます。
広島の歩道の通行者は外国人が半分ほどで、歩道走行の自転車も多く徳島の倍以上の数はありますが、猛スピード走行は皆無で、外国人も日本人も全く危険を感じることなく歩いています。
徳島の自転車の人々はなぜタイパで走るのでしょうか。

眉山の麓によさこい会館があり、その建物内にロープウエイの駅があります。

眉山の頂上に立ち徳島市内を一望します。左上の広い河口が吉野川です。左のこんもりとした森の山は徳島城址の城山です。
長崎や函館に比べてスケールは小さいですが、この夜景も素晴らしいと思います。

夕陽が沈もうとしています。

この後、家内や娘と別れて別々な店に行きました。娘と家内は息子から徳島は魚がおいしいと聞いていたので、娘がスマホを検索しておいしそうなお寿司屋さんを見つけました。私は中華が食べたいので、家内や娘と別れて駅周辺に向かいました。
家内と娘は満足してホテルに帰ってきました。

徳島城址

翌朝、私も家内も早起きのため6時前に駅の反対側にある徳島城址に散歩に行きました。

昔、夜型だった娘も、今や完全に朝方になり出社も7時台と早く変われば変わるようです。また私の時と時代も変わったのかも知れません。

徳島城址は徳島駅に隣接していますが、駅から直接行けず、線路に沿って大きく迂回して線路の歩道橋を渡って行きます。何やら不思議な設計です。
多分明治になり城郭は完全に破壊され、一部石垣だけが残ったため、徳島の人々は城址でなく単なる日常の公園と想っていて、観光客が訪れる施設ではないと想っているとしか考えらません。

大手門が復元されているようですが、線路を渡る便宜上の歩道橋を渡って城址に行ったため、結果的には城址の正面から行ったわけでないので、大手門とは出会いませんでした。徳島城址資料館ですが、早朝のため開館前です。

徳島城を1年の突貫工事で築城した蜂須賀家政の銅像です。蜂須賀家政の父蜂須賀小六(正勝)は尾張の土豪で。小田家、斎藤家に仕えた後秀吉と出会い、秀吉の股肱として秀吉に従い戦いました。
家政はそれまで無かった阿波の産業に藍や塩づくりを導入させました。

室町時代、四国の讃岐国や阿波国、土佐国は足利幕府の管領細川氏が守護をつとめ、家宰の三好氏が実務を担当していました。戦国時代になると三好長慶が登場するや勢力を拡大し讃岐や阿波国を領有しました。また土佐の長曾我部元親は讃岐国や阿波国にも勢力を広げ、信長、秀吉と対峙しましたが、秀吉に敗れ阿波国は秀吉の臣下蜂須賀氏が領有することになりました。

城山の徳島城は、蜂須賀家政が初めて築城したものでなく、室町時代細川氏が讃岐と連絡の良い板野郡に勝瑞城を構え都と行き来していましたが、ある時、城山付近の地形が絵で見た長安の渭水ににていたことから渭津となずけ城山に築城したものですが、阿波国を領有することになった蜂須賀家政は、すぐさま無人となった勝瑞城の石垣から石を運び徳島城の石垣を作りました。

城と城下町のシリーズが本棚にあり、その四国編に徳島城について書かれた瀬戸内寂聴のエッセイがありました。そのエッセイを読んでも、この朝散歩した徳島城の光景と少しも変わりません。彼女は徳島高女に通っていて、校歌の歌い出しは、渭の山陰の松の翠 雨にも雪にも色はうつらじとあり、徳島城が渭城と呼ばれていたことが判りました。



城山の植生はこの辺りでも珍しく続いており、きびしく保存管理されています。
樹齢600年の大楠です。

徳島城の石垣は城郭でよく使われる花崗岩でなく緑泥片岩です。この岩の最大の産地は埼玉西部で中世の武蔵武士の信仰の板碑として残っています。
四国のこの辺りも産地なのでしょう。花崗岩のような大型の石は少ないですが自然の緑とよく合って美しい石垣を形成しています。

日曜日のためこの公園は市民ランナーのメッカなのでしょうか。中には危ないからどいてくれと並走して走る驚くべきランナーもいました。大会が近いのでしょうか。


城山を石垣に沿って裏側に回ると、城山に登る小道がありました。その小道は意外に傾斜と距離があり容易なのぼりではありませんでした。
やがて樹々の間から本丸に上がる階段が現れました。

広い本丸です。何もありませんが美しい広場で、年配の劇団らしい方たちが発声練習を行っていました。

表側から下山しますが思った以上に急傾斜です。

二の丸を横目で見て城山を下ると白鷺の群生地がありました。この白鷺の群生地の様子は瀬戸内寂聴のエッセイの内容と全く変わりません。

薔薇園がありました。昔の薔薇園なのかハイブリッド・ティばかりです。

瀬戸内寂聴のエッセイで彼女は徳島城の石垣以上の美しい石垣は見たことがないと記しています。たしか緑泥片岩の石垣は緑とよく合います。彼女は毎朝堀を横目で見ながら、遅刻しないため右の道を走って女学校に通っていたそうです。

彼女の仏道を究める晩年の穏やかさは、思春期に毎朝このような美しい光景に触れて暮らしていたことも、要因としてあったのかなと勝手に想像しています。

徳島駅発9:30の高速バスで淡路島を経由して神戸に向かいます。

この画像は鳴門海峡でなく吉野川の河口です。こんな広い河口は見たことがありません。
デジカメの電池が無くなり予備電池も忘れて来てしまったので、昨日の旅の途中からスマホで撮影しましたが、スマホは片手で撮れないので不便で、いきおい撮影枚数も少なくなってしまいます。