梅の開花
1月28日、いよいと待望の立春がまじかに迫ってきました。昔早朝、犬の散歩で大寒から立春の間が一番寒く感じ、立春を過ぎると心なしか少し暖かくなったように感じたものです。
またこの季節は日の出が遅く中々夜が明けません。暦で確認すると1月は徐々に日入りは遅くなりますが、日の出時刻は、元旦の初日から20日の大寒まで1分しか早くならず夜明け時間は年始から同じです。しかし立春の直前から急速に日の出は早くなります。毎朝何人か懐中電灯を照らしながら犬の散歩の人と行きかいますが、私と同じように皆さんも立春の訪れを心待ちにしているようです。
立春がまじかになり、早朝のウォ-キングを止めて、午前中、コースを変えて気になっていた梅の開花を見に散歩を行いました。
この日、見事予感が的中して梅が咲いていました。
「初春の令月にして気よく風和ぎ、梅は鏡前の粉をひらき、蘭ははいごの香を薫らす。」
万葉集に収録の大伴旅人の大宰府における梅の宴で詠まれた梅花の歌三十二首の序文で、令和の語源となったものです。梅は当時唐から導入されたばかりの外来種のはいからな花木で、旅人は格調高い漢文で梅の花を表現しています。
歳をとると以前には余り興味が無かった梅の花が気になってきます。春は梅、桃、桜と花が続きますが、どれが一番か答えることは難しいですが、近年梅の花が、私の心の中では桃、桜と同格の位置づけになったことは確かです。
梅の種類は300種に及ぶと言われほど数が多いです。梅は桃や桜と違って、花や咲き方は地味ですが、芳香があることが特徴です。
枕草子で「木の花は、こきもうすきも紅梅」と書かれたように、清少納言の平安時代には梅は紅梅が好まれていましたが、奈良時代、唐から導入された梅は白梅でした。従って万葉集で詠まれている梅の花は白梅で、平安時代に入って紅梅が導入され、紅梅が人気を集めました。
紅梅を詠んだ歌で名高い歌は、百人一首にもとられ古今集の紀貫之の歌、初瀬の梅があります。初瀬寺とは奈良初瀬の長谷寺のことで、紅梅の前に歌碑があります。
人はいさ心も知らず古里は 花ぞ昔の香ににほひける 古今集 紀貫之
この歌に前書きもあり、それがあっても内容をくみ取るには難しい歌です。貫之が長谷寺に行く度ごとに泊まっていた宿にしばらくぶりで寄った時、宿の主人が相変わらず宿はありますと答えた所、貫之はそこに立っていた梅の一枝を折り、あなたの心はわかりませんが、梅の花は昔と変わらない香りを漂わせていますよ。という歌です。
長谷寺は我が家の宗派である真言宗豊山派の大本山ですが、桜の季節にこの梅の木と対面したことがあります。
今は、残っていませんが、昨年梅の季節に梅を詠んだ代表的な歌を記したことを想い出しました。古典的な花を記した著書では、古書店でまとめて安く購入した植物文化史の大家、松田修の「花ごよみ図譜」15巻と異能の哲学者山田宗睦の「花の文化史」を書棚から必要な時に取り出しています。
松田修氏は万葉集、古今集、古今和歌集で詠まれた植物を列挙し、植物の流行の推移を調べています。氏の調べでは、万葉集の中で梅の花は萩に次いで多く読まれています。
古今集ではサクラ、モミジに次いで第3位、新古今集ではサクラ、マツ、モミジに次いで第4位で、時代が下るにつれて梅の花は花そのものよりも香りが詠まれるようになったと述べています。
春さればまず咲く宿の梅の花独り見つつや春日暮さむ 万葉集 山上憶良
というように私たちの心に立春を迎える季節に、真っ先に梅が咲くとのイメージはこの歌が作ったのだと想います。私も大寒が過ぎてもうすぐ立春と想うと、梅が気になりこのように探索に来たのも、節分の豆撒きと共に梅の開花が気になるのは、間接的に山上憶良の歌に影響を受けているのでしょう。古典とはこういうものです。
東風ふかばにほいをこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ 宝物集 菅原道真
平安時代、菅原道真が大宰府に左遷され都の紅梅殿を離れる時、庭の樹々との別れを惜しむ中で、特に愛でいた白梅の木に語り掛けて詠んだ歌です。
そしてこの梅の片枝が主を慕って大宰府まで飛んでいったという天神の飛梅伝説まで生まれました。
そろそろロウバイも終わりです。
ロウバイの香りも素晴らしいです。
梅の花を求めて1時間ほどそぞろ歩きました。北風がだんだん強くなって来ました。武甲山を中心に右は奥武蔵の山々、左は奥多摩と奥秩父の山々が重なり、更に右では丹沢山塊が望まれます。
普段通らない小道の傍らにアオキが何本かありました。子供の頃、どこの家にもあったアオキは、今ではとても珍しく新鮮でした。腑が入った照葉の美しい葉に赤い実が付けば中々の小低木の庭木になりますが、いつの間にかあまり見かけなくなりました。
アオキを見ると幕末来日した英国のプラントハンター、ロバート・フォーチュンの幕末日本深訪記を想い出しました。英国は開国したばかりの幕末、ケンペルやジーボルトによって知られていた植物の宝庫の我が国に英国園芸協会から派遣されると同時にロンドンの種苗商の依頼で、英国に無い植物を探しにやってきました。フォーチュンはアヘン戦争後中国に入り茶の木をインドに移植し、英国の紅茶文化を作った人物として知られており、単なる植物採集者でなく、英国民のニーズを把握したプラントハンターとしての鼻の持ち主でした。
当時英国では産業革命の最盛期で、人々は工場が存在する都市に集中し、ロンドン初め都市はスモッグに覆われ、これに耐える緑が望まれていました。その中で斑入りのアオキは観葉植物として室内でも栽培できることから人気をあつめていました。アオキは雄、雌2種あり、英国に存在するのは元々日本産の斑入りの雌木だけで、赤い実を付けるアオキは皆無でした。フォーチュンの日本深訪記ではアオキに1章を設け、アオキの雄株を大量に入手することが来日の最大目的であると記しています。
フォーチュンは江戸染井村を始めて訪れた時の印象を驚愕を込めて描写しています。染井は村中がガーデンセンターで村全体の規模はロンドンを遥かに超えており、とてつもなく種類は多いと記しています。
30年前ガーデニングを始めた時、ガーデニング大国の英国を色々調べました。子供の時何ら珍しくもなくどこでもあった実付のアオキを英国国民が熱望していたことに奇異を覚えましたが、調べてみると元々緯度が高く貧弱な土壌の英国では小説嵐が丘に登場するヒースを代表として英国原産の植物は33種しかなく、美しい植物に英国全体が覆われるようになったのは、世界中から植物を集め人工的に植え込んできたことを知りました。海外から移植した樹々の数も半端でなく一例をあげると植民地の北米から苗木を5千万本移植したと言われています。
英国において植物の種の収集は国家事業であり、プラントハンターが世界中から英国に無い植物を収集しキュー植物園に集めました。植物園の中の小さな建物に入ると、植物画の小さな部屋いっぱいに保管されているのを見たことがあります。写真の無い時代プラントハンターたちは植物画の画家も同行し、採集しなかった植物を記録したようです。輸送にはウォードの箱という名のウォードが開発した小型温室で運びました。フォーチュンの記録を見ると箱は横浜の大工に作って貰い、帆船の甲板に収容し、上海から英国迄水をあげないと記していますが、どのような仕組みなのか分かりません。
こうした植物移植の経験が、天然ゴムを南米からマレー半島に大量移植し、マレーがゴムの世界的産地なったり、前述の茶の木を中国からインドに移植しインド、セイロンが紅茶の世界的産地になりました。カリブ海の諸島に一大砂糖プランテ-ションを作ることにもこの技術が役立ちました。戦艦バウンテン号の反乱という映画がありましたが、これはタヒチからパンの木をハンティングする物語でした。
小道の傍らに何気なく生えて居るアオキにも歴史のドラマがあったのです。英国は放っておいても自然に緑に満ちる我が国と異なって、荒涼たる貧弱な土壌の国土にほぼゼロからグリーンを増やしてきた歴史があるため、国民の環境意識は我が国と比べられないほど高いです。ややもすると我が国では自然はタダという思考があることと比べr、英国と同様にアルプス以北の西欧の国々の環境意識は高いのは、自然の維持にはコストがかかることを身をもって知っているからです。
もう一つ、少し昔、英国の市民はキュウリのサンドイッチが最も嬉しいもてなしと聞いたことがあります。また犬養道子の古い著作では、ドイツの八百屋さんは日本では捨ててしまうような菜ッ葉を売っていたそうです。私はEUが結成された隠れた動機には、北ヨーロッパでもいつも地中海沿岸の新鮮な野菜を食べたいという欲求があったのではないかと密かに想像しているのです。