佐倉城址

前回、歴博に来た時、佐倉城址を見ることを忘れてしまいました。

天守や大手門が、或いは石垣が残っている城址は、決して見ることは忘れませんが、佐倉城址は見ることを忘れるほど、完璧に遺構が残されていない珍しい城址でした。
それでも江戸の東方を守る重要な城として、或いは幕末老中首座としてハリスと交渉した堀田正睦の居城を訪ねたいと想っていました。

また佐倉城址は、明治新政府の2番目に設立された佐倉歩兵第2連隊の衛戍地で、後年麻布、本郷の第1連隊、第3連隊、甲府第49連隊と共に、首都圏を守る第1師団を構成した佐倉57連隊の衛戍地でもあり、軍都佐倉の象徴でもありました。

佐倉57連隊の兵舎の跡地に国立歴史民俗博物館が建てられ、佐倉城跡、57連隊跡を示す遺構は全く残っていない珍しい城址です。

おそらく江戸期の佐倉城は、戊辰戦争が終わってまもなく明治新政府の山県有朋は首都圏の不平分子の反乱を恐れて、第1連隊を麻布に、第2連隊を佐倉に設置したもので、連隊の衛戍地にするためには、幕府の城の痕跡を無くまで破壊する必要がありました。

そして太平洋戦争の敗戦で進駐軍が首都圏の旧陸軍の歴史ある駐屯地の痕跡を、当然破壊する必要がありました。

こうして佐倉城址は2度の占領軍によって、江戸幕府と明治国家の痕跡を全く残さず破壊したのです。まして佐倉城は石垣でなく土塁であったため、城址としての風格は丘の雰囲気しか残りませんでした。さらに戦後独立し進駐軍は引き揚げても、佐倉連隊の遺跡を表示することは戦後民主主義の風潮の中、地方自治体としては手を触れぬ事項だったと想います。

本棚にある城郭と城下町、関東編に掲載されていた明治初年の大手門の写真です。城内のサインにもこの写真が掲載されていました。明治初年というと写真師も東京にしかおらず、わざわざ連れて来てガラス乾板で撮影したものでしょう。

幕末蘭学は、西の長崎、東の佐倉と言われ佐倉順天堂がその拠点でした。

幕末の老中堀田正睦は蘭癖大名と呼ばれるほどオランダ文明に傾倒していました。当時佐倉藩は房総御備場御用を務めており海防のため蘭学の知識が必要でした。

佐倉には佐藤泰然が城下に藩主の肝いりで順天堂を開設、全国各地から蘭医学を目指す入門者が多く集まりました。泰然の養子瞬海は長崎に遊学し、幕府の医師松本良順の呼びかけでオランダの医師ポンペから医術を学びました。瞬海はポンペから外科医としての技術を高く評価され、佐倉に戻った瞬海の佐倉順天堂の名声は全国に鳴り響き、多くの塾生が佐倉で学びました。そして藩営病院の佐倉養生所を開設、維新後は東京帝大医学部の前身である大学東校に招かれ活躍しました。

順天堂大学は佐藤泰然が日本橋薬研堀に居を構え蘭医学塾「和田塾」が前身です。

佐倉城址公園は何も遺構はありませんが、美しく手入れされており、地元の人たちの犬の散歩やウォーキングコースになっています。

城内の深い空堀です。

老中堀田正睦の銅像です。向いにハリスの銅像もありましたが、ハリスは領事館のある下田の印象が強いため、佐倉城跡では似合いません。

広い土塁に囲まれた本丸跡です。ここに五層の天守があったそうですが、土塁に囲まれているため城外からは三層にしかみえなかったそうです。

あまり何もないのも不自然だからと近年明らかに作った天守跡の標識です。

旧佐倉57連隊

戦後世代の私たちは陸軍連隊区司令部について身近ではありませんが、戦前生まれで徴兵年齢以上だった人たちにとって、徴兵検査が行われる連隊区司令部は重い響きを感じていた筈です。各連隊区は師団の下部組織で各県に1か所づつおかれ、大体が県庁所在地におかれましたが、千葉県は佐倉に第2連隊が設置されたため、県庁所在地の千葉ではなく連隊司令部は佐倉に置かれました。そのため千葉県における徴兵は佐倉で行われました。

日露戦争前の明治21年の帝国陸軍の配置図です。この時点では師団は近衛、第1東京、第2仙台、第3名古屋、第4大阪、第5広島、第6熊本の6個師団ですが、日露戦争に備えてこの後直ぐ第7旭川、第8弘前が増設され9個師団編成で日露戦争を迎えました。連隊司令部も東京、佐倉、高崎、仙台、青森、新発田、金沢、大津、豊橋、名古屋、大阪、姫路、広島、小倉、丸亀、松山、福岡、熊本だけで、佐倉は関東の重要な軍都でした。

各国陸軍歩兵師団は、アメリカ、ドイツと同じく、同一地域の住民から編成されました。陸軍歩兵連隊が郷土部隊と言われるゆえんです。

首都圏から編成された第1師団は、麻布連隊区の歩兵第1連隊、本郷連隊区の歩兵第3連隊、佐倉連隊区の歩兵第57連隊、甲府連隊区の歩兵第49連隊の4個連隊で構成されていました。佐倉連隊は千葉県民だけで編成されましたが、麻布連隊は東京と埼玉西部、本郷連隊は東京北部と埼玉東部、甲府連隊は山梨と神奈川県との混合でした。

旧陸軍の徴兵区域など戦後の歴史には登場せず、全く忘れ去られてしまう要素です。しかし想像するに懲兵制が施工されていた戦前の男性市民にとって、連隊区司令部は軍と個人が直接結びつく極めて重い存在だったと想います。

84年の生涯で11年にもわたる外地での戦役に従事した父が晩年よくこの軍隊編成について話していました。
父は現役招集では台北第1連隊、第2次上海事変では予備役師団の編成で第101師団、第103連隊に緊急招集を受け、招集1か月後に橋頭保を確保したばかりの上海に上陸し、連隊長、中隊長が戦死するほどの苛烈なクリークの前線に投入され4年間転戦しました。
そして第2次上海事変からビルマまでの間、予備役訓練で短期招集され甲府49連隊で訓練を受けました。太平洋戦争がはじまると、昭和18年多分インパール作戦の留守を預かる独立編成の部隊で招集されビルマに派遣されました。
敗戦後英軍の捕虜となり昭和22年復員しました。私は4人兄弟で、長女が生まれたばかりの幼児の時、第2次上海事変に招集され、復員してから次女が生まれ、私の誕生はビルマで知りました。戦後復員して妹が生まれました。父が復員した時、私は3歳でしたが、変な人が来たと想って2階に逃げたそうです。

普通の市民だった父にとって連隊区司令部は重い存在だったと想います。
第2次上海事変の際は、予備役で招集されたのは浦和町でたった2名だけで、駅前に黒山の人だかりの見送りの写真を見たことがありました。生前父になぜ他に大勢人がいるのに招集を受けたのかと聞いたら、軍縮時代の徴兵検査で甲種合格で、しかも外地の台北一連隊に徴兵された経験が原因かも知れないと話していました。父の父親は騎兵で習志野連隊に招集され日露戦争に従軍したことも、思想的な判断の材料になっていたのでしょう。

いずれにしても山県有朋が創始した徴兵制度は、連隊区という個人と軍の組織の関りが、徴兵記録によって1生涯消えることなく逃げることが不可能な国家意思を個人に強いるのです。
私は子供の時から軍事が好きでしたが、私が晩年になって、自分の生涯と重ね合わせて、父の生涯を想い出すようになりました。働き盛りの時期、11年間も兵役に従事し戦線に投入され、国民としての義務を充分過ぎるほど果たしてきた父を想い出しながら、もし私自身が若い時から11年も兵役に採られていたとしたら、とても想像ができません。
このことを考えると戦後77年の平和がいかに貴重だったか、為政者たちがいかに外交で平和を維持して来たか、その努力を大いに感じます。
多分、朝鮮、満州から中国へと国土を広げようと想わなかったら、父の戦役の大半は生ずることは無かったでしょう。

父は最晩年になると昔の行軍の話をよく語り、毎年新年には亡くなった戦友に会いに行くと靖国神社に出かけていました。



子供の頃、父は私に戦争の話はほとんどしませんでした。私が子供の頃から軍事少年だったのは、当時北洋で日本の漁船がたびたび拿捕され、そのニュースが新聞やラジオで報道され子供心に胸を痛めていました。
ちょうどその頃年上のいとこから戦前戦中の少年雑誌を大量に貰いそれを読んでいたら、北洋漁業について漁船の記事が書かれていました。
戦前は北洋に帝国海軍の海防艦が遊弋していたため、ソ連の警備艇は日本の漁船に近づくことは皆無だったとありました。
その記事を読んでから日本が負けてしまって海軍が無くなったため、漁船が拿捕されることが分り、以来いとこから貰った雑誌の帝国海軍の記事をむさぼるように読み、我が国が世界3位の海軍国であったことを知り、また平和と軍備は矛盾しないことも、矛盾することも知りました。
当時日本漁船が度々拿捕されていても、ソ連フアンは大勢いる時代でもありました。

たまにスーパーの店頭で牛肉の大和煮の缶詰を購入します。それは父を想い出すからです。以前に比べると缶のサイズは小さくなり価格も大分上がりました。

生前父は良く話していたことを2つ憶えています。一つは上海事変ではこの牛肉の大和煮の缶詰が行軍中の何よりの御馳走だったこと。多分ビルマでは食べられなかったかもしれません。もう一つはアルミフォイルを触りながら、戦時中貴重だったアルミがこんな包装用の消耗品になるなんてと言っていました。

それともうひとつ、旧陸軍の軽機関銃の鉄の品質が悪く直ぐ弾が詰まってしまうこと、反面蒋介石軍のチェコ機関銃は優秀だったこと。このエピソードは同じ戦線で戦った金沢第9師団の元兵士が、TVの回顧番組で語っていました。残ることな無いささいな記録ですが、敗戦後世界最高の鉄を生み出した戦後生産体制も大したものです。