古代史の謎、奈良葛城の古社紀行
データを消してしまった昨年末の奈良紀行の2日目です。
京都下賀茂神社(1昨年11月)のルーツは葛城、鴨氏
京都の初夏を告げる葵祭は下賀茂神社と上賀茂神社の祭礼です。
賀茂社は先史時代、山城国京都に初めて移住し水稲耕作を始めた鴨氏の祭神で、葵祭は京都の守護神としての賀茂の神のお祭りです。
下賀茂、上賀茂神社は一体であり、どちらが先に誕生したか明らかではありませんが、いづれにしても神を祀り始めたのは弥生時代の出来事で、葛城から加茂氏(鴨氏)の支族が、初めて山城の地に移住した場所が下賀茂神社の地で、いわゆる京都の最初の住人が鴨族でした。
鴨族は、弥生時代水稲耕作の良き地を求めて、水利が良い賀茂川と葛野川(高野川)の合流点の地に定住し下賀茂神社を祀りました。多分この地は縄文時代から営みが行われていた住みやすい地だったのでしょう。そして下賀茂の地に定住した後、北方に連なる清涼な山に、新たに上賀茂神社を祀ったと想像します
京都の初めての住人で下賀茂神社、上賀茂神社を祀った加茂族(鴨族)のルーツは、弥生時代奈良盆地の西側の葛城山に居住し、南の金剛山麓には鴨族、北の葛城山には葛城族が焼き畑や陸稲耕作を行い、やがて平野に降りて大規模な灌漑技術を伴って水稲耕作を行い勢力を高めました。その支族が新たな水稲耕作の地を求めて山城(京都)移住したのです。
今回の旅は、海人族の葛城・鴨氏が葛城山麓に居住し、最初に祀った高鴨神社を初め、葛城一言主神社、鴨都波神社を巡ります。
いずれも大和第一級の古社であるばかりでなく我が国におけるもっとも古い神社です。平安時代に制定され神社の格式を定めた法令の延喜式で、いずれも官幣大社の中で明神祭の対象となる名神大社で、神社として最高の従一位の位を持っていた神社ばかりです。
古代史は日本書記や古事記に基づいていますが、これらはかなり時代が下がって作られたため謎に満ちた部分が多いです。古事記や日本書記の神話となって語られている時代は弥生時代中期から後期です。
近年の研究で稲作開始が紀元前10世紀頃と判明したため、弥生時代は1200年の長さになりましたが、これら神話は、古事記や日本書記が作られる1000年以上も前の出来事なのです。
私の小学生時代、弥生時代は300年間と言われていましたが、稲作開始がどんどん遡り600年間から近年1200年間に伸びたのです。弥生時代初期は稲作と狩猟採集を同時に行っていた時期が長く続いたと言えます。
古代史は謎に満ちています。我が国には大和王朝以前に出雲王朝が存在し国譲りを行った神話があり、また神武の東遷以前から大和は葛城氏や三輪氏、物部氏などが勢力を築き、神武の大和入りに反抗した部族や協力した部族など様々存在しました。八咫烏は神武を案内して神武軍を大和に導いたとされていますが、葛城、鴨族は八咫烏をルーツとしています。
京都下賀茂神社の本殿です。山城国一宮として京都の守護神である加茂建角身命(かもたけつぬみのこと)をお祀りしています。加茂建角身命は農業神であり
八咫烏の伝承もあります。
京都賀茂川と高野川の合流点、出町柳です。鴨族はこの合流点で灌漑設備を設け大規模な水稲耕作を始め下賀茂神社を祀りました。近くに京大や同志社女子大があるため、いつも若い人たちでにぎわっています。
下賀茂神社の摂社河合神社です。神武天皇の母、玉依姫命をお祀りしていて、玉のように美しい美麗の神として多くの女性の人気を集めています。
方丈記の随筆家鴨長明は河合神社の禰宜の息子として、幼年時代をここで過ごしました。境内には長明が晩年過ごした庵が再現されています。
初めて足を踏み入れた葛城地方
年末の凍り付くような寒い日、奈良の宿から鉄道で葛城を目指しましたが、都市交通の便が良いのは市内だけで郊外に行くと突然車社会に変わってしまいます。
御所から葛城に出ようと想い、近鉄高田からJR大和高田に乗り換えようと意図しましたが、JR和歌山線のダイヤが少なくタクシーも拾えないため、再び近鉄高田に戻りタクシーで回ることに決めました。
葛城山麓に近づくと昨夜降った雪が深くなってきました。タクシーの運転手さん曰く、昨日スタッドレスタイヤに変えたばかりだったので良かったと言っていました。
道中長いのでタクシーの運転手さんといろいろ観光客についてお話をお聴きしました。今回予定した高鴨神社は山の中の寂しい神社で、以前1回だけ行ったことがあるそうですが、他は行った経験が無く、東京からどうしてそのような場所に行くのか不思議がっていました。
高鴨神社です。正式には高鴨阿知須岐詫彦根命神社で、鴨族発祥の地で全国加茂系の神社の本宮で、我が国最古の神社の一つです。
葛城山麓というより人里離れた山中にある古社ですが、大雪の日にもかかわらず、土曜日なので駐車場には10台以上の車が駐車していました。車のナンバーは大阪が多く中には福井ナンバーもありました。
雪道のため年配の参拝者は見かけず、子供つれの若い世代の人や中年の御夫婦が主体です。首都圏ではこんな雪の日には神社参拝を行う人は見かけませんが、首都圏に比べると関西圏の人々は、神社仏閣に対して信仰心が篤いのではないかと感じます。
鴨氏一族はこの地から全国に広がり、加茂を郡名にするものだけでも安芸、播磨、美濃、三河、佐渡の国々に見られます。
阿知須岐詫彦根命を祀る神社は、青森県から鹿児島県に至るまで約300社にも及び、阿知須岐詫彦根命の妹を祀る神社も全国に150社あると、神社の説明板で述べています。
高鴨神社の背後に聳える金剛山や葛城山は霊力の強い神々が住み、そこで修行すれば、その神々の験力を得られるとされ、験力を修めた者のことを修験者(行者)と呼びました。金剛山や葛城山で修行した修験道の開祖役行者、行基、円光、そして道鏡など、金剛山や葛城山は多くの人物を輩出しました。
葛城や御所出身のシナ事変や太平洋戦争での戦没者に対する慰霊碑です。
高鴨神社の境内図です。古い神社のため18の神々も合祀しています。
狛犬も古社の雰囲気にピッタリです。
池に神楽の舞台があります。若い時から多くの神社仏閣を見て来た玉置さんも、高鴨神社の古色蒼然とした雰囲気に思わず「これは凄い!」と唸っていました。
恐らく鴨族の祖先は筑紫辺りの海人族だったのでしょう。縄文晩期の海退によって内陸に陸地が拡がったころ、瀬戸内から浪速経由で大和川を遡り、巨大な湖だった大和盆地を葛城山塊沿いに定住地を探しながら南下し、この地に辿り着いたのでしょう。その定住への移動は何年、或いは何十年かかりで奈良盆地の紀州との境の風の森峠の下に定住地を見つけたのでしょう。
鴨族はここ高鴨神社の地に定住し狩猟や漁労と共に段丘の斜面を利用して焼き畑農業を行い、陸稲や稗、粟など畑作を行いました。その集落の中心に阿知須岐詫彦根命を祀り、それが高鴨神社となりました。
やがて人口が増えるとともに鴨の支族が山を下って平野に進出し、水利の良い場に定住し大規模に水稲耕作を行いました。そうして一族は身に着けた灌漑のソフトを伴って水利の良い地を目指し、山城や尾張にも進出して行きました。
葛城、鴨氏の末裔の大和の豪族は巨勢氏、平群氏、蘇我氏が挙げられます。
平安時代中期に律令時代末期の法令延喜式が発布され、全国のあまたの神社の格式が制定されました。
その中で毎年朝廷や国司から幣を受ける神社を官幣社、国幣社の式内社2861社を選び、その中で歴史的に重要な神社を大、中、小に分類し、その結果最高の格式を誇る官幣大社198社が制定されました。
そして更に古より霊験が著しいとされた明神を祀る神社が特定され、それらは明神大社として更に高い格式を誇りました。
古い本ですが朝日文庫の鳥越憲三郎著「神々と天皇の間」において氏は、大和朝廷の成立以前、大和には葛城王朝が存在していたことを論じています。
その論拠のひとつに、今回訪れた葛城山麓に明神大社が異様に集中している事実があると述べています。
〇印は今回訪れた神社です。
〇鴨都味波八重事代主命神社(鴨都波神社)並明神大社
葛木御歳神社 明神大社
〇葛木坐一言主神社 明神大社
葛木水分神社 明神大社
高天彦神社 明神大社
〇高鴨阿知須岐詫彦根命神社 明神大社
葛木坐火雷神社 明神大社
鳥越氏は、大和国において、以上の葛城山麓の神社と同格の神社は以下の7社しかなく古代からの神社は5社しかないと述べています。
金峯神社 吉野山の神社で古代には無い
飛鳥坐神社 飛鳥に都をおくようにしてから社格をあげた
多坐弥志理都比古神社
大神大物主神社(三輪神社)
穴師坐兵主神社
大和坐大国魂神社
石上坐布留御魂神社(石上神宮)
大和盆地の東西に明神大社が偏っている事実は、古代王朝が葛城から東の三輪山麓に移動していることを意味していると述べています。
3年前の冬、玉置さんと神武が大和平定のため八咫烏の案内で宇陀を越え、三輪神社を参拝し三輪山麓の山辺の道を歩き、崇神天皇の守護神穴師坐兵主神社を訪れ纏向の大和朝廷の首都とされた地を散策しました。そして今回は大和盆地が縄文晩期でまだ内海だった頃、定住したと想像できる葛城、鴨氏の発祥の地を訪れたのです。
古代史は謎に満ち満ちていますが、想像するだけで空想が拡がってきます。
神社は撮影禁止のためこれ以上は近寄って撮影できません。
葛城一言主神社(変わった名の神社)
高鴨神社を後にしますが、道路上にはまだ雪が積もっています。
奈良郊外の飛鳥や葛城山麓には重厚な家が多いです。
古事記の天皇記の雄略天皇記に一言主の神との有名な神話が描かれています。
雄略天皇がある時、紅い紐を着け青ずりの衣をまとった百人の部下を従えて、葛城山に登っている時に、向いの尾根つたいに山上に登る行列を見かけました。そも行列の装束は自分たちの行列とそっくりだったので、行列に向かって雄略天皇は「この倭の国には自分を除いては君主はいるはずがないので、かような形で行くのは誰か」と問うたところ、先方の答えも全く同じ問でした。
天皇は非常に怒り、弓に矢をつがえたので部下たちもそれに倣いました。
天皇は「それなら名を名のれ。各々の名を名乗って弓を放とう」と叫びました。
そこで尾根の行列の主が「先に問われたから先に名乗りしよう」と答え「我は悪事も一言、善事も一言で収める神、葛城の一言主の大神なり。」と答えが返ってきました。
答えを聴いて天皇は畏れかしまり、部下の太刀や弓矢とともに部下たちの衣服を脱がせて一言主大神に捧げました。一言主の大神も贈り物を受け取り、初瀬の山口まで天皇を送りました。
葛城一言主の大神はこの時初めて現れたのです。
葛城一言の神は、一言の願いであれば何事もお聴きくださる神として「一言さん」の呼称で多くの人々の信仰を集めています。
平野に降りて来たせいか、参拝客が多く広くない駐車場は満杯です。
悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神の重厚な拝殿です。本殿はこの奥にあります。
樹齢1200年の銀杏です。木は乳銀杏とも宿り木とも呼ばれ、この樹に祈願すると子供が授かり、乳が良く出ると言われています。
詠み人知らずの万葉歌碑があります。
葛城の襲津彦 真弓新木にも 頼めや君が我が名(の)りけむ
葛城族の英雄の葛城襲津彦が愛用した新材の弓と同じように、あなたは私を信じ切って、私の名を他人に教えたのでしょうか
一言主神社の境内から里を眺めると弥生時代の耕作地の光景が目に浮かんできます。奈良盆地は古代の灌漑設備だったのでしょうか溜池が目立ちます。
鴨都味波八重事代主命神社(鴨都波神社)
かもつみはやえことしろのぬしを祀った神社です。
鴨氏支族が高鴨の地から御所市の市内を流れる葛城川と柳田川の合流点に移動し、本格的に大規模に水田耕作を始めた地に祀った神社です。
鴨都波神社は御所の駅近くなので、ここで葛城山中を回ってくれたタクシーと別れます。運転手さんは、高鴨神社以外仕事でも行ったことが無い神社を、東京からわざわざやってて参拝したから、きっと来年は御利益があるでしょうと笑いながら別れました。
鴨都味波八重事代主命神社(鴨都波神社)は鴨氏の都味波(水辺)の八重事代主(田の神)という意味です。
規模は小さいですが柳田川と葛城川の合流地の地形は水田耕作の灌漑に適しており、京都の葛野川と賀茂川の合流点にある下賀茂神社の地形と良く似ています。
古代人が新たに水稲耕作の地を探す場合、部族の地形を定めるソフトが重要だったのでしょう。それは既に灌漑設備や土木・農耕用具作成など集団行動が必要でした。
住宅街の中にぽぅかりと空いた森の空間です。
規模は大きくありませんが、拝殿の前に小拝殿が設けられています。古社の雰囲気に満ちており、入り口の由緒書きには高らかに、明神下鴨社とうたっています。
拝殿の横を歩くと様々な摂社が並んでいます。この社の形は、崇神天皇の守護神穴師の里の穴師坐兵主神社を彷彿させてくれます。
拝殿の後ろにやはり別棟で古色蒼然とした本殿がありました。古社の貫禄十分です。
御所の街で遅い昼食を採るために商店街を歩きましたが、シャッター通りで、なかなか見つかりませんでしたが、やっと見つけた蕎麦屋さんのカレーうどん定食はGOODでした。玉置さんとの旅は宿と昼食では外れたことがありません。彼は旅慣れているからでしょう。
めったに来ないJR和歌山線の御所の駅では、余り待つことなく電車が来ました。
この日はクリスマスイブの日で奈良の街は若者たちで賑わっていました。玉置さんは猿沢の池が好きで奈良に来ると必ず寄ります。4年前家内と池近くの奈良きっての老舗料亭菊水楼でトラベルクーポン全額叩いてランチを食べた気分の良い思い出がありました。
この後いつもの通り商店街に出て、玉置さんは骨とう品店を覗き、最後にいつも寄るレトロなメニューの喫茶店で甘いものを食べて、帰宅しました。
今回奈良の宿で蕨餅と食事の締めにほうじ茶のお茶漬けを食べ、以来ほうじ茶が好きになりました。奈良の商店街を歩いているとほうじ茶の専門店が何軒かあることに気が付きました。帰りの新幹線はいつもの例で柿の葉寿司の夕食です。