鋸山 日本寺紀行

今年1月にブログデータを初期化したため、それまでの薔薇とガーデニングの記事や、昨年の登山、そして11月から年末に行った山陰旅行、奈良紀行、そしてこの鋸山紀行などは全て消えてしまいました。

以前触れましたが、このブログとは別に2003年から登山と旅、そして途中から薔薇も加わったホームページを作成しています。ホームページでは途中から登山とは別に寺院巡礼、神社紀行、城と古戦場、峠と街道、古き美しい街並み紀行など、個別にページを設けており、ここ10数年間で寺院巡礼では100寺、神社紀行では69社、城と古戦場は71ヶ所、街並み紀行は港町紀行を入れると45カ所になりました。

1昨年春にブログを始めてから、登山と旅はブログを先行してUPしてから、ホームページの制作にかかりましたが、両方たえず更新していくのは時間的に容易でなく、ホームページ更新は遅れがちでした。
そうした中で突然のアクシデントによってブログの初期化を余儀なくされ、ホームページに未だ記録していない寺院や神社や城郭紀行のデータを消してしまいました。
20年間継続しているホームページの寺院や神社、城、などの記録を継続するために、面倒でしたが過ぎ去った旅を想い出しながら山陰旅行は3度目、奈良紀行と鋸山は再度ブログにUPしました。

この鋸山日本寺をUPすると、ようやく解放されます。

初めての海ほたる

東京湾アクアラインの休憩地海ほたるです。川崎から東京湾のトンネルを潜りここから地上の橋に出ます。

運転嫌いなため東京湾アクアラインに来る機会は無くこの日が初めてです。海ほたるから東京湾の海を眺めていると、人類は土木で不可能な事は無いのだろうなという気がしてきます。
東京湾アクアラインは川崎と千葉県の袖ケ浦を結びますが、律令時代の国家幹線の東海道は、横須賀から富津までこの東京湾を舟で渡り、市原の上総国府から市川の下総国府、そして石岡の常陸国府に至りました。頼朝も石橋山で敗れ三浦水軍の手助けでこのルートを渡って逃れたのです。

律令時代、朝廷にとって武蔵国より千葉の安房国、上総国の方が重要だったのでしょうか。武蔵国は湿地帯だから街道は通さないと言われていますが、東山道は諏訪を避けて設定されているし、古代武蔵国はなぜ主要街道から外されたのか私にとって謎なのです。

771年に東海道は海を渡らずに平塚の相模国から陸路町田、大井、豊島を北上し、市川の下総国府から石岡の常陸国府に至りました。その時まで武蔵国は東山道に属し、足利付近から国府の府中迄連絡路が通じていました。この連絡路は後世鎌倉街道の上ツ道の主要街道になりました。

地上に現れた道路が壮大です。

鋸山 日本寺

日本寺は神亀2年(725)聖武天皇の勅詔により行基が開山した法相宗の寺院です。
日本寺は開山当時七塔十二院百坊を備えた大寺院でした。その後天台宗、真言宗を経て家光の時代曹洞宗に変わり現在に至っています。

本尊は薬師瑠璃光如来でご本尊とは別に、鋸山の中腹で海に向かって岩に巨大な薬師瑠璃光如来が彫られています。

安房に逃れた頼朝は、鎌倉幕府開設後、荒廃した日本寺の復活に力を尽くし薬師本殿を再建しました。

鋸山は日本寺の境内のようで、入り口で入館料を払います。入り口を入ると遠くに日本寺の伽藍が望まれ、帰りに寄ることにします。

年末近くなっているのにここ日本寺は美しい紅葉に覆われています。俳句の季語で冬紅葉(ふゆもみじ)があり、冬紅葉を使って鋸山の様子を句にしたら誰も理解しませんでした。

岩に掘られた巨大な薬師瑠璃光如来です。この如来の存在もここに来るまで、よくある観光大仏だと思っていました。
実際に見てみると、そこいらにある観光大仏なんかではありません。大体、日本寺という寺名自体が嘘っぽいこともあるのかもしれません。

瑠璃色の海と大仏が良く似合います。これも句にしたらこの大仏の存在は知られていないため、誰も評価してくれませんでした。

鋸山へはひたすら階段、階段、階段が続きます。ピークしたまで道路があり車で来る人も多いですが、やはり寺社詣では苦行が伴うと満足度が数倍になります。900段の階段の山寺や800段の女人荒野の室生寺など、苦行が伴う寺院は印象深いものがあります。

奈良の当麻寺に行った時、平日の夕方でしたので、参拝客は4組ほどで半分の参拝客は、拝観料がかかるからといって講堂や金堂に参拝せず朱印帖の印だけ貰って直ぐ車に戻っていました。他の人のことはどうでも良い事ですが、せっかく遠い寺院に来て素晴らしい芸術品があるのに、とてももったいない気がします。


当麻寺は国宝の五重塔や当麻曼荼羅や中将姫像で有名な寺院ですが、奈良市内から遠く離れた二上山の麓にあり、不便なため参拝客が少ないけどアットホームな寺院です。
寺院ではご住職とお話する機会など中々ありませんが、当麻寺の若い副住職とはいろいろお話をお聴きする機会がありました。副住職が住む塔頭の庭園の水琴窟の音色も忘れられないものでした。私たちにとって当麻寺は余りに遠く、もう訪れる機会は無いと想い、一期一会の気持ちで参拝しました。

昨年、さきたま古墳群に行った際、その中の将軍山古墳では横穴式石室が保存されていました。その石室を構成する天井は、埼玉秩父地方、特に長瀞周辺で産出する緑泥石片岩を使用していました。緑泥石片岩は鎌倉時代、武蔵武士たちがこの石材を使用して建てた板碑が有名ですが、大きな板状に割れることが特徴です。

壁材には、驚くなかれ房州石と呼ばれるこの鋸山から産出する凝灰質砂岩が使われていました。石切り場跡に大きな観音様が彫られていますが、この石切り場跡を見ると房州石は大きな一枚岩のまま切れそうです。房州石は明治になって石造りの西洋建築に良く使われていたそうです。

さいたま史跡博物館の図録によって房州石が古墳時代に船で行田まで運ばれたことを知り驚きました。こんなどうでもよいことに興奮するのも歴史の楽しみです。

房州石を残した展望台です。房州石の特徴が良く表れています。

下から見上げた房州石の展望台です。

展望台から東京湾を眺めます。山から海を眺めるのも別な感慨があります。

鋸山を下って日本寺に向かいます。歴史が古いため石碑に彫られた文字は、何が刻まれているかわかりません。右は中国の禅宗寺院を模した石のお堂が残っています。荒れていますが珍しいもので、室町の中国文化に憧れていた時代を彷彿させてくれます。室町幕府の京都五山の禅宗寺院は勘合貿易の明の外交官である禅僧と交渉する外交官事務所であり接待所でした。

日本寺の伽藍は建築修復中で立ち入り禁止です。残念です。頼朝が再興したと言われる薬師如来堂です。

樹々の間から本堂が望まれます。立ち入り禁止のため仕方ありません。われわれは中腹の駐車場から日本寺境内に入りましたが、駅から歩いて麓から仁王門を潜り上ってくるのが正式でしょう。そしてこの広場に大伽藍群があり、そこから歩いて岩に彫られた薬師瑠璃光如来を参拝し鋸山のピークに行くのが最上のコースです。

日本寺は聖武天皇と光明皇后の肝入りで建立された官立寺院でありながら、その後の歴史の変転で保護者が変わり、特に昭和14年の登山者の火の不始末から生じた山火事で伽藍や本尊が焼けてしまった不幸な出来事がありました。戦時中には軍の要塞にもなりました。

今回鋸山には初めて登りましたが、この鋸山の南の安房勝山の海岸で、高校一年の時1週間近く臨海学校が行われました。現在は新潟の海に変えていますが、旧制浦和中学以来、毎年継続している大事な行事でした。勝山の海岸から毎日鋸山を望みながら過ごした1週間は今でも忘れられません。
一年生は50人ずつ10クラスあり、クラス毎に勝山の街の寺に分宿して、毎朝男子校のためふんどし姿で上にシャツを着て、大太鼓の合図と共に行進しながら海岸に集まります。そこで「我は海の子」を合唱しそれぞれ初級、中級、上級に分かれ訓練を行い、最終日は中級以上は隣の保田海岸まで往復4キロの遠泳を行いました。

改めて想い出すと、不思議なことにあの小さな勝山の街に、もちろん大広間に雑魚寝ですが、生徒50人を収容できる寺が10カ所あったことです。他のクラスは旅館に泊まったことは聞いていないので、400人全員が寺に分宿していたのでしょう。

このことは今でも謎です。或いは日本寺が存在したように房総安房の地が仏教の盛んな土地だったのかも知れません。