瀬戸内紀行その8、古代吉備王国

我が国は弥生時代には100余国の王国があり、やがて大和王国、出雲王国、筑紫王国、吉備王国の古代王国にまとまり、更に古墳時代を経て大和朝廷の国家になったと言われています。ただこの辺りの歴史は、遺跡の発掘によって神話が事実であると実証しつつありますが、まだまだ広大なロマンの世界の只中にいます。
岡山県を中心とする古代吉備国は飛鳥時代、備前国、備中国、備後国に分割され、更に備前から美作国が分れ、明治になり備後国が広島県に編入されました。

多分、首都圏や関東地方の生まれの人は備前、備中、備後や美作国がどの地域で分かれているか、分かりにくいと思います。私も古代吉備地方の歴史にについては何も知らず、昔、岡山や倉敷には何回か行きましたが、いわゆる吉備地方の概念の基に出かけた訳でなく、現代都市の倉敷、岡山に行っただけでした。

古代の国は、今の世にその痕跡を見せているところは少ないですが、国府跡、国分寺、国分尼寺跡、一宮がかろうじて現在にその痕跡を示している場所です。

今回の瀬戸内の旅の最後に、私に取って全く未知の地の吉備国に足を踏み入れましたが、初めて訪れた壮大な吉備津神社、吉備津彦神社、備中国分寺跡など、飛鳥を訪れた時と同じように、古代の時間が一直腺に私を貫くような心のときめきを感じました。

備前国一宮、吉備津彦神社

吉備の国に来て見ると、初めてその名を聞く吉備津神社と吉備津彦神社の2つの神社がありました。吉備津、吉備津彦と同じような名の神社の違いは、良く判らないままに、吉備津神社を目的地にしてナビをセットしてレンタカーを走らせたら、吉備津彦神社に着いてしまいました。
2つの似たような名の神社が、隣り合わせのような位置に存在する吉備の国は、深い歴史のある地故に、こういう形になるのだろうなと感じたのです。

吉備津彦神社の駐車場に着くと、鯉のぼりが駐車場いっぱいに飾られており、なぜ神社に鯉のぼりがあるのだろうと不思議に感じました。
それは吉備津彦神社のご由緒によって、その意味が分かりました。

地図を見ると岡山駅から山陽本線と別れて、桃太郎線が小さな山を巻くようにして北上しています。この小さな山は吉備の中山といって岡山平野から最初に聳える山で、地形を見ると明らかに弥生時代初期、集団で水田耕作を開始した当時から、春、山桜が咲く頃、水源の山の頂上で、秋の豊作を願ってお祭りを行った山見の山、国見の山だったように感じます。神社説明を読むと、やはり山頂の磐座に神が祀られ、やがて麓に社殿が作られそれが吉備津彦神社となったようです。

吉備津彦神社の主祭神は大吉備津彦命です。
大吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子で、日本書記によれば第10代崇神天皇の時代、四道将軍の1人として大和朝廷に従わない部族の平定するため西国に派遣され、やがて吉備国を平定しました。大吉備津彦命は、吉備の中山の山頂の磐座の神に、吉備国の平和と安定を願っていたこともあり、やがて麓の大吉備津彦命の屋敷跡に社殿が作られ吉備津彦神社となったと言われています。


大吉備津彦命の吉備国平定の活躍は、昔話桃太郎のモデルとなり、冒頭の画像にあるような5月の節句には鯉のぼりが飾られ、若いお母さんたちが、男の子の赤ちゃんを連れてお参りに訪れる神社でした。

吉備国はやがて備前、備中、備後、美作に分国され、備前と備中の境が吉備の中山のため、備前国に位置する吉備津彦神社が備前一宮になりました。

創建は吉備津神社が先で、吉備津彦神社が後という事になっていますが、岡山平野の突端の吉備の中山の頂上の磐座が吉備津彦神社の御神体とすると、吉備津彦神社は各地の古社がそうであるように、弥生時代水源山を山見の山として祀ったように、もしかしたら吉備津彦神社の前身の神社は、大和朝廷の吉備平定によって創建された時代よりも、はるかに古くからこの地に祀られた神社だったかも知れません。

これは平野のきわにある水源の山見の山の神社や古寺を見て来た印象の勝手な想像ですが、山頂の磐座伝説から想像すると吉備津彦神社の前身は、おそらく弥生時代、岡山沖は内海でその岸辺で水田耕作が行われた頃から、祀られた古社のような気がします。恐らく3千年も前から海人族によって、この地に神が祀られていたのでしょう。

なぜなら吉備津彦神社は別名「朝日の宮」神社と呼ばれ、岡山藩主池田公が建立した社殿は、夏至の日に旭日が正面鳥居より登り、その光が拝殿内に差し込むように建てられており、毎年夏至の日に「日の出祭」が行われています。
これは、太平洋岸の各地にあるかって旭日の名所に祀られた神社に共通していると想像していることですが、縄文海退によって新たに陸地になった場所に海人族が定住し、彼らが信仰する旭日の名所に神を祀りました。
吉備津彦神社は、その想像上の要件にぴったりで、かってな想像ですが恐らく吉備に人が住み始め水田耕作を始めた頃から存在する、古社中の古社と思われます。



隋神門から拝殿を望みます。

真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけき 

古代吉備は出雲の山地と隣り合わせで、たたら製鉄の盛んな地域でした。真金吹くとは鉄の事で、吉備津彦神社は備前国一宮として製鉄の神様の金山彦もお祀りすることから、我が国きっての名刀の産地でもある備前一宮の吉備津彦神社は、備前刀の聖地でもあるのです。
また歴代の岡山藩主の崇敬あつく岡山城鉄砲隊による様々な神事も行われています。

参道を中心に左右拡がる神池です。

参道は桃太郎線備前一宮駅付近や国道から1直線に通っています。

日本一の大石灯篭です。

堂々たる拝殿です。

寛文8年(1668)岡山藩主池田光政公が造営に着手し30年近く要して、嫡男綱政公が元禄10年(1697)完成させました。
拝殿と祭文殿です。

その後ろには渡殿と本殿があります。本殿は三間社流造りで、圧倒されるほど格調高い本殿です。

尾道から来たという若いお母さん方は、まだお子さんたちと記念写真を撮っていました。

備中一宮、吉備津神社

吉備津彦神社と吉備津神社の祭神は同じ大吉備津彦命です。

大吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子で、日本書記によれば第10代崇神天皇の時代、四道将軍の1人として大和朝廷に従わない部族の平定するため西国に派遣され、吉備国を平定し中山の麓に茅葺宮を建て、そこで吉備国の仁政を行ったと言われています。
その後第16代仁徳天皇が吉備国に行幸した際、大吉備津彦命の霊夢により茅葺宮跡に社殿を建立し、お祀りしたのが吉備津神社の始まりと言われています。



大化の改新後、大宝元年(701)の大宝律令によってそれまでの慣例による決まり事を体系的な国法に定めた、いわゆる律令制度がスタートしました。冷制国もその一つで、日本各地の行政区分が改めて定められました。それによって吉備も吉備国から備前国、美作国、備中国、備後国と改められました。

吉備津彦神社のある吉備の中山は、備前国と備中国の境にあるため、吉備津彦神社は備前国一宮に、吉備津神社は備中国一宮に、更に備後国には新たに吉備津神社が建立されました。

平安時代に制定された延喜式の神名帳では吉備津神社は官幣の明神大社で備中一宮とされています。

第10代崇神天皇は、初代天皇の神武天皇と同じ「ハツクニシラススメラミコト」称号を得ていますが、神武から崇神天皇までの8代の天皇は記紀にも記載がなく、欠史8代、と言われており崇神天皇が初代天皇ではないかと言われています。
大和に朝廷を開いた崇神天皇は、周辺各地を平定するため北陸、丹波、東海、西海の四道に、大彦、丹波道主、武淳川別、吉備津彦を将軍として派遣し平定しました。
恐らく四道将軍は崇神天皇一族の皇族であり、吉備平定後現在の吉備津神社の地に茅葺宮を建立し、吉備津彦を名乗りそこを拠点と吉備を統治したものと想います。

時代は下がって16代仁徳天皇は吉備を巡幸した際、遠い先祖の吉備津彦の茅葺宮跡を訪れ、吉備津彦の吉備平定の故事を偲び、茅葺宮跡に吉備津神社を建立したと言われています。

吉備津神社は大和朝廷が吉備国を平定した事実を記憶に残す意味で建立した神社かもしれず、当然官幣の明神大社に列せられる存在となり、吉備国総鎮守、備前、備中、備後の三備一宮と称せられました。

北隋神門です。堂々たる神門をくぐります。国重要文化財です。

ここから国宝の拝殿、本殿への階段が圧巻です。この豪壮さというか、表現しきれない神域の荘厳さは、関東の神社にはありません。古代吉備国の地に足を踏み入れたという、圧倒的な感覚が迫ってきます。

拝殿です。これ以上近寄って撮影は余りにも恐れ多く、ここでストップです。

拝殿をお参りしてから改めて、横の広場で国宝の拝殿と本殿を見上げます。大きすぎて近くで見ると首が上がりません。木造の日本建築はとても優しい雰囲気がありますが、吉備津神社の社殿の豪壮さにただただ圧倒されてしまいます。この豪壮さはカメラでは表現できず、眼球の底に映像として残っています。

旅は着て見なければ分からないことを実感として感じます。

このとてつもない豪壮というか神秘というか、吉備津神社や吉備津彦神社の社殿を実際に見たことが、今後の旅での神社・仏閣に接する際の映像の大事な要素になるような気がします。

祈祷殿です。見事な御殿づくりの入り口です。この祈祷殿の庭も見事です。

ご神木の大銀杏です。樹齢600年と言われています。

拝殿・本殿は足利義満が25年の歳月をかけて再建しました。大きさは八坂神社に次ぎ、出雲大社の2倍以上です。入母屋造りの屋根を前後に並べ、棟と棟を繋いで大きな屋根にまとめた様式で吉備津造と呼ばれています。

吉備津神社の圧巻は本殿から続く長さ400mの回廊です。

国重文の南隋神門をくぐると回廊は山の下に下がって行きます。

余りにも長く続くため途中で回廊から降りて、駐車場に向かいます。

駐車場には犬養木堂(犬養毅の大きな銅像があります。吉備津神社正門前まで戻り、お蕎麦屋さんで名物桃太郎蕎麦を食べました。桃太郎蕎麦とは雉の肉と吉備ダンゴが入ったお蕎麦です。やはり土地のものはおいしく感じます。

岡山県古代吉備文化センター 

地図で岡山県古代吉備文化センターを見つけました。ネットで確認すると古代遺跡の発掘物が展示しているとの事、初めて訪れる古代吉備国の概念が全く分からなかったので、県の施設でもあり、吉備国に関するパンフなど有益な情報が手に入るかも知れないと、訪れました。

ナビは吉備津神社の後ろから細い山道を誘導しています。道はおそらく吉備の中山を登って行くのでしょう。1車線のくねくねとした山道で、車は小型のアクアでしたがで前方から対向車が来たら、路肩ではよけきれないため、対向車が来ないことを祈っていたら、突然山の上に古代吉備文化センターの駐車場が現れました。狭くない駐車場は満車で、かろうじて来客用のスペースが1台だけ空いていたので駐車しました。

来客用とは変だなと思いつつ、この施設は一般の博物館でなく、岡山県の考古学の発掘調査と研究センターだと分かり、たくさんの車は職員の通勤用の車と分かりました。一般の博物館だったらあの1車線のアプローチは極めてキツイと想います。

入館すると1階の1部屋だけが常設展示室でした。
室内の展示物を見ながら歩くと、ここはいわゆる同じような出土物が並べられた博物館でなく、厳選した出土物をコンパクトに展示し、さすが遺跡研究者たちの展示だと感心しました。
吉備国は大したもので石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、鎌倉時代、江戸時代の各時代の遺跡からの発掘物が展示されています。さすが吉備国1国に我が国の歴史が全て詰まった遺物があり、吉備のような国はそうはありません。

このことが眼で確認できたことが、古代吉備文化センターを訪れた最大の収穫でした。

更に館内にここが見どころと展示物を解説したパンフがありました。弥生時代後期の吉備では上の画像のような器台がつくられ、その上にタマネギの形をした土器を載せて祭事が行われました。この吉備で生まれた円筒形の器台はやがて大和に渡り円筒形埴輪のルーツになりました。

左は古墳時代の護岸工事の様子で、発掘の結果分かったそうです。右は縄文時代の出土物ですが、左に鳥の頭の形をしたものが見えます。これは鹿の角を利用して作ったアクセサリーです。

墓を守る兵士の埴輪です。胸に抱えた四角い板のようなものは盾を形どったものです。右は吉備最古の屋根瓦です。瓦づくりは飛鳥時代仏教伝来と共にもたらされました。蘇我氏ゆかりの吉備の寺院から出土したものです。

吉備風土記の丘 備中国分寺、国分尼寺跡

下記画像は岡山県古代吉備文化センターで手に入れたパンフの表紙で、現在の国分寺、昔の備中国分寺跡、こうもり塚横穴古墳、下端に映っていませんが備中国分尼寺跡を空撮したものです。真ん中の1本の道は古代律令の山陽道で、当時,山陽道は道幅6~12mの道で16キロ毎に、役人のために馬を用意した駅がつくられていました。

天文13年(741)大宝律令の令制国で全国五幾七道68か国の行政単位にわけ、情報管理のため七道に幹線道をつくりました。東山道、東海道、北陸道、山陽道、山陰道、西海道、南海道です。天平13年(741)に聖武天皇は我が国を蓮華世界を作ろうと全国68ヶ国に国分寺、国分尼寺の建立を命じました。

国分寺、国分尼寺跡は全国でも少なく、上田の信濃国分寺、国分尼寺遺跡を見て感動し、吉備でもぜひ見たいとやってきました。

吉備風土記の丘駐車場に車を置いて、まずは現在の備中国分寺を訪ねました。

のどかな野道を辿ると遠くに国分寺の伽藍が見えてきました。

国分寺前の旧備中国分寺跡の芝生に、遠足に来た小学生たちが楽しそうに昼食を採っています。子供たちは何をやっても愉快そうです。

日照山国分寺は真言宗御室派の寺院です。御室派と言えば門跡寺院の京都仁和寺が本山です。
仁和寺はかって皇族が僧となって入寺した門跡寺院で、菊のご紋章が使われた格調高い寺院です。鳥羽伏見の戦いで、突然薩長側の軍勢に菊のご紋章の錦旗が立てられ、それを見た各藩の幕府軍は反抗すれば賊軍になってしまうため、戦いを止めて恭順してしまいましたが、この錦旗は岩倉具視が仁和寺の幕を使って急遽作ったと言われています。

国分寺の五重塔で、吉備風土記の丘の象徴的な風景を作っています。もっとも旧国分寺の塔は七重の塔と決まっていて、五重塔が36mですが、旧国分寺の塔は70mあったそうです。

国分寺のお堂と本堂です。コンパクトで威厳を見せない古寺ですが、この吉備の風土記の丘の風景とこれほどぴったりあった寺院は見たことがありません。

吉備の里は飛鳥のように国家を背負った歴史もなく、のんびりとした光まぶしきところです。その象徴がこの国分寺です。

この国分寺の片隅に観光案内所を兼ねた茶店がありました。ここで地図を頂いてこうもり古墳や備中国分尼寺跡の行き方を詳しく教えてもらい、帰りに寄ると言って出かけました。

地図を見ただけでは良く概念が分かりませんでしたが、地図を基にいろいろお聴きしたら景色が立体的に見えてきました。

山陽道跡は狭くなりサイクリング道になっています。

家内は昔からレンゲが好きだと言っていました。大昔、家内と奈良の郊外を散策していたら美しいレンゲ畑と出会ったことがあります。関東では田植え前にレンゲの種子を撒き、育ったレンゲを堆肥にする風習はありませんでした。多分稲の裏作で冬に大麦を作っていたからでしょう。子供の頃農家ではうどんは皆自家製でした。

振り返ると国分寺の五重塔が見えてきました。今は奈良に行っても五重塔周辺は人家ばかりで、このように田園の中に五重塔が見える場所は、ここ吉備の里だけでしょう。

多分全国の国分寺、国分尼寺の七重の塔は幹線道に面した寺院に建てられ、街道を行く人々のランドマークになっていたでしょう。また吉備の里のように、国々の農民はときおり耕作の手を休めて、国分寺や国分尼寺の七重の塔を拝み家族の健康と豊作を願っていたかも知れません。

聖武天皇について歴史上さまざま批判がありますが、私は聖武天皇を歴史上最も尊敬している人の1人と想っています。
聖武天皇に初めて興味を抱いたのは、改めて東大寺の大仏殿の大仏を見た時です。大仏の蓮華座を見て、聖武天皇はどうしてこんなに巨大な大仏をつくったのだろうか?
そのことに興味を持ち、帰宅して蓮華教について調べたのです。
聖武天皇は我が国に蓮華世界を作ろうと本気で考えてたのです。その蓮華世界の象徴が東大寺大仏であり、全国各地68ヶ国にその分身である国分寺、国分尼寺を作りました。男僧と尼僧の両寺院を全国隈なく建立したことは、聖武天皇は現代の最新思想であるジェンダー平等思想の持ち主であり、利発な光明皇后の存在もあったかも知れません。

聖武天皇についても東大寺造営で民を苦しめたとか、藤原4兄弟の傀儡で何も意思を発揮できない人物だとか、斜め的に評価し、彼の成し遂げようとした国家建設の意図を誰も評価していません。

今でもそうですが我が国の歴史家や評論家たちは、物事を正面から評価せず、斜めから見る傾向があります。何か評価しても必ず、後に付け加えて危惧を述べる傾向があり、そういうスタイルが正しいインテリゲンチュアの姿勢だと思っている傾向が強いです。

東大寺造営では行基が動きました。鎌倉時代東大寺再建には行基を尊敬していた重源が動きました。そして、頼朝は東大寺再建に多大な貢献を行い再建筆頭功労者と言われています。多分頼朝は新国家を目指し鎌倉幕府開設に当たり、何を基本とするか、仏教国家建設を目指した聖武天皇を研究し尊敬していたのでしょう。
事実鎌倉以前の国家は、比叡山の僧兵が強訴する無法国家であり、上皇、天皇が一年の内2か月かけて大行列で熊野詣を行うインカ帝国的な古代国家そのものでした。古代国家は祭事こそ政治ですが、頼朝は法こそ政治であり、その法の基本となる思想を模索し、聖武天皇を研究していたのだと思います。東大寺の存在はその基本でした。


聖武天皇は本気で華厳世界の実現を願いその通リ行動しました。東大寺を建立し、全国に人や資材や技術が有るか無いか分かりませんが、全国68ヶ国に、国分寺と国分尼寺を建立し、華厳世界の普及を行うとともに、国家公務員としての正式な法典で正しく布教することのできる僧と尼僧を養成しました。

そして、今まで僧の資格制度がなく、野放しで私度僧が横行していた、我が国に初めて戒の制度を導入するために鑑真和上を唐から招き、戒壇院を下野、東大寺、筑紫に設立し、国家公務員としての正式僧の資格制度を設け正しい教えを導こうと試みました。東大寺戒壇院における鑑真和上の最初の戒壇には、聖武天皇自ら戒を受けました。

東大寺大仏、大仏殿、国分寺、国分尼寺建立は国家事業であり、瓦工房の設立から始まりましたが、この事業によって多くの雇用を生み、また全国津々浦々に平城京の技術を移転され、国土建設によって地方の技術や産業を育成しました。
その技術や産業は天平文化という後世の追従を許さない形で文化をも振興し、東アジアでも他国から侮られない国家の基礎を構築したのです。

前方に小高い丘が見えてきました。こうもり塚古墳です。こうもり塚古墳は横穴式古墳で、古墳時代最後の古墳です。

横穴が掘られ巨大な石を幾つも並べて天井をつくり、石の壁でそれを支えています。石の割り方は分かりますが、滑車の無い時代、古代人はどのようにして重い石を持ち上げたのでしょうか。

前方遠くに森が見えてきました。森の中に国分尼寺跡があるようです。

春の光り輝く緑野の散策で、しかも古代遺跡を訪ねる散策、夢のような空間です。

この辺りは大小古墳だらけの場所です。遠くに見えるのは作山古墳でしょうか。
吉備風土記の丘には上図のような石の案内サインが各所にあります。風景に溶け込んで素敵な空間を作っています。

信濃国分寺と国分尼寺の復元図です。

林の中の備中国分尼寺跡です。誰も訪れることもない静かな空間です。約1300年前この地に大きな伽藍の備中国分尼寺があったとは不思議な感覚です。
我が国の遺跡は全て木造のため、時間の経過と共に礎石を残して全て大地の中に溶けてしまいます。何もない空間を想像力を働かせて、自分の頭の中にイメージを膨らませていく作業はとても楽しいものです。
不完全なイメージは不完全なりに良いものです。自分で想像力を働かせ即物的でないのが日本の遺跡の良い所です。ただしこれには史跡の概要の勉強が必要で、そのための一部復元施設が各県毎にあり、子供の時から学べるようにしたら楽しいと思います。

子供の時、静岡の登呂遺跡を見たいと思っていましたが、静岡は遠くとうとう見ることはできませんでした。三内丸山遺跡を見た時、小学生たちが嬉々として縄文遺跡を楽しんでいる光景に出会いました。また佐賀の吉野ケ里遺跡を子供の時観たらどう感じたたのでしょうか。

備中国分尼寺跡は南北216m、東西108mです。

南門の前には道幅6mの山陽道が走っています。

国分尼寺には七重塔はないようです。

このサイクリングロードが古代山陽道です。

再び国分寺に戻ってきました。備中国分寺跡には現在の国分寺が使用している部分とそうでない部分があります。

備中国分寺の範囲は築地という土塀で囲まれ南北180m、東西160mで国分尼寺より大型です。

南門や中門は発掘されましたが、金堂や講堂、七重の塔は真言宗国分寺の境内になっているため分かっていません。

備中国分寺は平安時代には衰退し南北朝時代の兵火により焼失したとされています。現在の真言宗国分寺は江戸時代に再建されました。

飛鳥時代、我が国に渡来技術者によって初めての仏教寺院の山田寺が出来ました。当時我が国の建築物の屋根は板葺きか茅葺でしたが、仏教寺院の屋根は瓦ぶきで、まず建物を建築する前に瓦工房づくりから始めました。
木を細工する技術や木を細工する鍛造刃物は弥生、古墳時代から培われていたと想います。

飛鳥時代、初めての寺院山田寺建立から180年後、聖武天皇は全国68か国に国分寺、国分尼寺建築を指示しました。しかも50mの七重の塔付きです。

現代社会は大政奉還と戊辰戦争開始から、ちょうど180年です。飛鳥山田寺建立から全国68カ所の国分寺、尼寺建築指示までの期間も180年で、いかに当時のスピードが速く、聖武天皇の決断の偉大さが分かります。

  

国分寺横の小さな茶店でアイスクリームを楽しみながら、吉備風土記の丘を頭の中で振り返りました。
吉備の風土記の丘は、4日間の瀬戸内の旅の締めくくりにふさわしい場所でした。風土記の丘の光り輝く緑野を散策しながら、かっての古代遺跡を想像し、悠久の時を身体や頭いっぱいに感じました。人ひとりの営みは短いもので、それらが繰り返し繰り返し重なって時が流れて行く、悠久の時間とはそういうものだと、国分寺の五重塔は私に語り掛けてくれました。

茶店の女将さんに、良い旅の締めくくりが出来たとお礼を言って、一路岡山空港に向かいました。