瀬戸内紀行その7 福山城、岡山後楽園

普通は、城址は駅から離れた場所にありますが、福山城は全国の城でも珍しく、山陽本線と新幹線のJR福山駅前にあり、全国一のアクセスの良いお城です。

更に福山城は単なる観光城でなく、天守は復元しましたが、見事な2の丸の石垣は建築当時のそのもので、伏見櫓は伏見城から移設した古いもので国重要文化財です。また御湯殿も伏見城から移設したもので、かっては国宝の指定を受けており、広壮な石垣の造り、二の丸の規模、格調高い城址の雰囲気など、福山城は第1級の史跡です。

旅で訪れる予定の場所の内、城だけは事前に下調べを行います。観光目当ての単なる城址は少ないですが、期待して行ってもがっかりするため慎重になります。福山城は駅前にあることが最大の理由ですが、ペリー来航で対応に苦慮し何とか役目を果たせた老中首座阿部正弘の居城だったため、ぜひ訪れようと考えました。

今回、しまなみ海道のバスで福山駅に降りて、初めて福山市は薔薇の街としてPRしていることが分かりました。25年には世界ばら会議も開催されるようです。

よく見たら街路にも薔薇が植えてあるのが見えました。薔薇の街を標榜するには、栽培に余りにも手がかかるため大変だなと感じます。
薔薇は5月から10月まで、1週間何もしないで放置したら、花柄で根元は汚くなり、枝は伸びて不細工になり、黒点病に侵された薔薇は落葉して枝だけの棒のようになり、何よりもツルバラやランブラーの枝はジャングルになり通行を妨げます。
私も自宅以外の公共の施設に、ボランティアで大きな薔薇を15本程度、植えて10年になりますが、誘引剪定や施肥以外、絶えず気になるのは地上から確認できないコガネムシとゴマダラカマキリの幼虫の食害です。薬剤散布は誰もいない時を見計らって行っていますが、多分、街路では薬剤の噴霧、剪定、花柄積みなど誰かが行うにせよ、ばらで美しい町並みを作るには、大変な労力が必要でしょう。

私は薔薇の趣味の世界に首を突っ込んで20数年経ち、退職後はガーデンセンターで薔薇講師と薔薇の接客を仕事にしてきましたが、薔薇栽培は手がかかることを痛感しました。
薔薇は乾燥地帯が原産で、我が国に最後に本格的に導入された植物のため、高温多湿の気候に順応し日本の風土に完全に順応するまで、まだまだ時を要します。薔薇は放置したらグリムの眠り姫の物語でないけれど、確実に藪屋敷になってしまうため、絶えず覚悟を持ってかからないと断念せざるを得ない植物です。


薔薇は極めてリスクのある植物ですが、咲いた時の美しさは他の花の追従を許しません。
さいたま市の旧与野市には昔から薔薇で名高い与野公園があり、旧与野市は薔薇の街を標榜してからしばらく経ちましたが、近年はボランティアの人たちによって公園だけでなく駅前や役所、中学校まで薔薇が美しく咲いており、ようやく薔薇の街らしくなっているように感じます。
薔薇の街を標榜する福山市にエールを送りたいと思います。

しかし同じ福山市内の鞆の浦は、薔薇など1本もなくても街の美しさは際立っていました。



福山城は福山駅のコンコースを通るとすぐ目の前に広がっています。

福山城一帯は福山市の文化施設が集積され、広大な福山城址も上図の赤線の範囲の狭い部分です。福山城址の西半分の広大な敷地には、広島県立歴史博物館、ふくやま美術館、ふくやま書道博物館、北の広大な敷地にはふくやま文学館、備後護国神社、福山市人権平和資料館があります。

長く急な城壁の階段を登りきると、枡口が現れ筋鉄御門が現れます。左側の石垣の上に伏見櫓があります。右の筋鉄御門は福山城の正門に当たり、1622年の築城時から存在し国の重要文化財に指定されています。この門は柱と扉に数10本の鉄筋を打ち付けていたため、筋鉄御門と呼ばれました。

我々の前に先輩と後輩らしい企業は入りたての初々しい若い男女のビジネスマンとキャリアウーマンが、福山城を見学のため足早に登って行きました。もう17時近い時間ですが、福山に出張途中なのでしょうか、まもなく勤務時間外になりますが、寸暇を惜しんで城に寄ってみたのでしょう。春の夕方はまだ明るく足早に城に寄って降りて行きました。その姿はとてもさわやかな印象でした。
私も30代の頃、出張ついでに時間を見つけていくつか気になった所を寄ったことがあります。中国地方では倉敷の大原美術館、岡山の後楽園、津山城址など寄った記憶があります。今考えるとわずかな時間でしたが、それぞれかすかですが印象を残しています。

元国宝に指定されていた御湯殿。伏見城から移設したと言われており、石垣の上に張り出した珍しい建築です。

樹齢はどれくらいの松でしょうか。おそらく江戸時代のものと思われます。地面を這う古い樹木は日本では珍しいですが、気候風土の関係で木の成長の遅い英国の公園では、逆に木を大事にしているため多く見かけます。

復元された天守です。中はシアターまである近代化された施設ですが、閉館間際のため見ることはできませんでした。1966年に再建され令和になってリニューアルが行われました。天守北側はかってのように1階から4階まで総鉄板張に復元されました。天守閣の1面が砲による防御のため鉄板張りの様式だった城は、福山城が唯一です。

福山城は福山藩10万石の水野氏の居城でした。水野家には、江戸時代後に天保の改革を行った浜松城主の老中水野忠邦が登場しますが、水野家は元々家康の母方の実家刈谷城主で、初代福山藩主水野勝成は家康のいとこに当たる家系でした。勝成は各地をきままに流浪した後、家康に臣従し大阪夏の陣で勲功を挙げ、大和郡山6万石の藩主になりました。

関ヶ原でも家康に忠勤を励み芸備49万石の藩主を任された豊臣恩顧の福島正則は家康の死後、幕閣から狙われ、洪水で被害を受けた広島城の改修に難癖をつけられ改易されてしまいました。
芸備49万石の広島藩主には外様の浅野氏が就任しました。時の幕閣は、防長2州に閉じ込めた毛利氏や島津氏の備えとして、広島の浅野氏だけでは足りず、家康のいとこの水野勝成を新たに10万石で福山に立藩させ、福山城は1国1城制の下、備後に10万石としては異質な巨大な城が築かれたのです。

各地をきままに流浪していた水野勝成は、福山藩主になるや見事な名君の政治を行い、これだけの巨大な城を短期間に築城したのです。
勝成が福山に引き連れた家臣団は百数十人の少数でしたが10万石を維持するためには1,000人の家臣団が必要になります。勝成は改易となった福島家の牢人や地元の土豪の多くを新たに家臣団に組み込んだ絶妙な施策を取ったため、城普請に動員された牢人や土豪とその配下の人々に取って、城は他人の城では無く自分たちの城の意識が産まれたのでしょう。

やがて水野家移封後、福山藩主は宇都宮藩阿部正邦が入封しました。阿部家は家康と縁が深く、家康が今川家に人質としてなっていた竹千代に随行した阿部正勝が、その後重臣となり代々老中の家系を維持してきました。

水野忠邦失脚後、ペリー来航時、老中首座となったのは阿部正弘でした。正弘は閉鎖的だった幕府政治を広く意見を取り入れる開明的な政権にしようと試み、諸大名に意見を求める体制をつくりました。これが奏をなしてペリーの開港要求に対処が出来ました。攘夷論の最中で随分苦労したと想いますが、諸外国との対外交渉で幕閣の英知が尽くされた時代だったと評価します。

多分阿部正弘はこの福山城で、過ごした時間は少なかったものと想います。また西国諸藩と接する江戸の最前線だった城に産まれたため、島津斉彬などと交友する柔軟な思考が生まれたのかも知れません。

鏡櫓です。廃城時に取り壊されましたが、復元されました。

月見櫓です。これも伏見城から移設したと言われています。右は本丸の屋敷跡です。

本丸の城壁の上です。ここに回廊が築かれていたのでしょう。右は本丸からの裏門です。この手前に黄金水と呼ばれた井戸があります。水野勝成は余りにも貴重な井戸のため、黄金を撒いて水を清めたと伝えられています。井戸の深さは13メートルで今でも水をたたえていると言います。我が国は不思議な国でこんな高台にも井戸があるのです。

福山城を出て今宵の宿泊地岡山に向かいます。岡山の宿はJR西日本の駅中のホテルで、山陽本線は本数が多いため、在来線で岡山に向かいました。通勤時間帯の在来線に乗ると周辺の街の様子が良く判り、旅では好んで利用します。在来線の通勤、通学客の乗降の様子で、中心都市の街の広がりの規模が分かるからです。いわゆる通勤圏です。今回も広島、そして岡山、倉敷の規模が分かりました。

岡山後楽園

岡山駅前の少し先でトヨタレンターを借りました。当初メジャーな観光地には余り興味が湧かないため、昔訪れ印象の薄かった岡山後楽園には行く予定をしていませんでしたが、みんなが良いと思うと場所は行くべきという家内の希望で訪れました。

岡山後楽園は第2代岡山藩主池田綱政公が1700年に一応完成を見た庭園です。
後楽園は西欧の公園と同じように広く野芝に覆われた庭園で、我が国における大名庭園の代表格です。江戸時代は大半が田畑で芝は藩主邸から見える範囲でしたが、明治以後今のような野芝主体の公園になったそうです。

中国地方には広島城、福山城、岡山城、姫路城など、多くの巨城が残っています。いずれも城下町と一体となった平城で地域経済と一体となった城ですが、その巨城は防御を意識した造りであることは明白です。

関ヶ原合戦後、これら巨城は中国地方の覇者の毛利氏を防長2州に閉じ込めるための防御の城でもあり、そこに藩主としてどのような経歴の武将を配したか、それを見ると家康や初期の徳川幕閣の考え方が良く判ります。
また家康も、織田や秀吉配下の将来見込みのある武将に、娘を嫁がせ懐柔していたことが分ります。

岡山後楽園の着工は1687年ですから、時は元禄の世に差し掛かる時期でした、島原の乱が終わって約50年、保科正之の指導で武断政治から文治政治に変化しつつある時、第2代岡山藩主池田綱政は、その機運を盛り上げようとして作庭にかかったと想像します。

家康やその後の幕閣が、どのような人材を山陽道の藩主に宛てたか振り返ってみたいと思います。

前項で、初代福山藩主には、家康といとこの血脈がある水野氏を宛てたことを触れました。水野氏は老中を出す家系となり、後を継いだ阿部氏も老中首座を務めた家系でした。

山陽道の広島城、福山城の後詰の岡山には、初代岡山藩主池田家輝政を宛てました。
池田輝政は表向き外様大名ですが、家康の娘婿である徳川1門と同じ扱いでした。輝政は関ヶ原の勲功で播磨52万石の姫路城主となり、毛利氏3兄弟の小早川家が子が無く、秀吉が自分の縁戚を養子に入れ、岡山城主となった小早川秀明が改易されたため、池田輝政の次男忠継が備前28万石の岡山城主となったのです。一方姫路に残った池田氏は、因幡、伯耆2か国32万石の鳥取城主となり、山陰での毛利氏侵攻に備えました。かっての鳥取城は毛利氏守城で秀吉との攻防戦が有名です。

池田氏は元々美濃の国人でしたが末期の室町幕府に仕え、その後恒利が織田家に仕え、妻が信長の乳母になったことから、その子恒興は信長と乳兄弟となって小姓となり成人しては数多くの戦で戦功をあげ勇名を響かせました。
池田恒興は信長死後清須会議には宿老として加わり、秀吉と家康の小牧、長久手の戦いで重臣故、その去就が注目されましたが、結局秀吉方に付き、戦いで戦死してしまいました。

戦死した恒興の次男輝政は、兄も戦死してしまったため池田家の家督を継ぎ、秀吉の天下統一後三河吉田15万石を領し、加藤清正、福島正則、黒田長政と共に武闘派として三成と対立してきました。
家康も若き池田輝政をを見込み、自身の娘婿としたため、輝政は関ヶ原の戦いで東軍の主力として戦いました。先に述べましたが輝政は52万石の姫路城主になり、輝政の次男忠継が、小早川家改易後の岡山藩初代藩主となったのです。

家康は信長の宿老で秀吉と同僚の存在の池田家と縁戚関係とし、豊臣恩顧の武将や西軍の武将と切り離し、山陽道と山陰道の守りを固めたのです。岡山、鳥取池田家は幕末まで存続しました。
池田家が移封後の播磨姫路城主には、山陽道最後の後詰として、徳川譜代の本多氏、榊原氏、酒井氏、親藩の松平氏が幕末まで藩主を務めたのです。

もともと毛利氏の居城だった安芸広島城は、防長2州の毛利氏と境界を接する再重要城で、その後詰に水野氏による新たな福山城が築かれたことは既に述べました。
毛利氏の移封後、秀吉子飼いで広島城主だった福島正則が改易後、紀伊32万石の外様大名浅野長晟が安芸42万石広島藩主となりました。

浅野氏は毛利氏と同じ外様大名でありながら、どうして毛利氏との最前線の広島藩主になったのでしょうか。
物事に慎重な家康は、秀吉のように身近な身内の親族だからと言って、重臣には採用せず、その人物の家の歴史、あり方、能力に眼を配り、良しとしたら豊富な手ごまの中かから娘を選び、婿として縁戚関係を結びました。

浅野家は元々美濃の土豪で信長に仕えるようになり、浅野家の婿養子浅野長政の妻が秀吉の妻ねねと姉妹であったため、信長から秀吉の与力に命じられ、秀吉の下で活動しましたが、戦より政治の分野に才能があり、秀吉の出世と共に側近として活躍しました。太閤検地に力を発揮し、甲斐22万石となってから秀吉の東国経営を任され、奥州仕置を行い、後に五大老の1人に就任、家康とも良好な関係を結びました


関ヶ原の戦いでは家康側に付き、長政は秀忠軍に、家督を譲った幸長は家康に付きましたが、砲術の得意な幸長の活躍に家康は目を見張りました。

関ヶ原の戦いの後、浅野長政は隠居領として常陸真壁5万石を与えられ、この幸長は紀伊32万石藩主となりましたが病死したため次男の長晟が、福島正則改易後安芸広島42万石の藩主になりました。長政の次男、長晟は秀忠の小姓をつとめ、家康の三女を娶ったたため、秀吉の縁戚でありながら家康の親戚ともなり、幕末まで毛利氏との最前線の広島城主として存続しました。

笠間に行った時、大石内蔵助の銅像があり、変なところに赤穂浪士がいるなと想っていたら、笠間は茨城県真壁郡で、浅野長政の隠居領でした。真壁浅野氏は大坂夏の陣に参加し、この時大石家は勲功を挙げ1500石の浅野家永代家老に任ぜられました。この後、真壁浅野氏5万石は播州赤穂に移封したのです。赤穂は塩の産地のため財政は大きく潤いました。

中国地方の城とそれを守る藩主について、長々と触れてしまいました。

このように家康と家康死後の幕閣は、対毛利氏の鉄壁の布陣を敷きましたが、薩長を中心とした討幕派が戊辰戦争を開始した際、広島城の浅野氏、福山城、岡山藩はどのような行動を起こしたか、簡単に振り返ってみたいと思います。

浅野家の広島藩は新政府軍の要請で神木隊750人が幕府直轄地を鎮撫し、上野戦争と奥州戦争に参加しました。

老中を輩出した阿部家の福山藩は長州軍に攻められ半日の戦いの後恭順しました。その後新政府の要請で函館戦争に藩兵500人が参加しました。
池田家の岡山藩も新政府軍に加わり関東、奥羽、函館で参戦したのです。
徳川譜代の姫路藩も新政府軍に恭順しました。

もっとも徳川御三家の紀伊藩や尾張藩は真っ先に新政府軍に恭順してしまったので、外様藩が抵抗しないのは無理もありません。

誰も勝ち組に乗りたがる時の流れはそういうものですが、会津藩と会津藩を擁護した奥羽越列藩同盟の諸藩の行動は、我が国伝統の潔い美学を実践した事項として我が国の歴史に残りました。
上杉藩や仙台藩は幕府から仮想敵国化されていたのに新政府軍と戦いました。土方の新選組や古屋作左衛門や大鳥啓介の幕府歩兵隊、立見勘三郎の桑名藩兵、榎本艦隊、浦賀奉行所与力中島三郎助父子など幕府から大した恩顧を受けていないのに最後まで壮絶に戦いました。

歴史は功利と美学が様々に交差して展開します。功利のみで歴史が動くのだったら、何もドラマは生まれないでしょう。戦いの場合は戦う前から降伏してしまえば良いからです。しかし歴史には登場する人々固有の美学があります。我が国でも西洋でも映画や物語で残るのは美学を描いたものが圧倒的です。功利だけでは物語にもなりません。

山陽道の城は立派ですが、会津若松城、二本松城、白河城、など東北諸藩の城と比べて物足りないのは戦った歴史がないからです。

岡山城は後楽園と川を隔てた高台にあります。岡山城には訪れる計画はありませんでした。

岡山後楽園は物凄く良く手入れがされている公園です。植え込みを見ただけでもすぐ分かります。

入場料は15歳以上65歳まで410円ですが、シニアは140円でタダみたいなものです。ここで気が向いた時に、樹々や池を眺め、茶店でお茶を飲みながら吉備団子を食べる暮らしも悪くないなと思います。

半端な手入れではありません。高温多湿の我が国で、これだけの広大な庭園の木の管理や雑草処理は気が遠くなる行為です。

この庭園の特色は大きな築山があり、庭園全体が俯瞰できることにあります。人間は目線だけだと視界が狭く、視界の変化が変わりません。最初から築山があったのか、後から作ったのか分かりませんが、この庭園の最大の特徴であることは事実です。

庭園の藩主邸です。池田綱政は、優しい優美な自然の姿を好み、余り山水画の風景に拘らなかったかも知れません。