浦和宿の歴史、成就院(上寺)

今年もまたお盆とお施餓鬼の季節がやってきました。父母が亡くなってからのこの季節、我が家のお盆は11日に盆棚をつくり、12日に父母を迎えにお寺に行き盆法要を行い、そして16日にお施餓鬼を兼ねた送りを行うようになって30年以上になろうとしています。盆提灯を出し、ほうずきを吊るし、かって気合が入っていたころは近所の竹やぶから笹を切り出し、盆棚を華やかに彩ったこともありました。私にとってお盆は暮、正月と同じく毎年欠かせない行事となりました。
一度、16日に仕事で休めず帰宅してから夜のお寺に、盆の送りとお施餓鬼の塔婆建てを行ったことがありましたが、夜のお墓はとても不気味で送りどころでは無かったため、以来休みが取れないお盆でも12日と16日の2日は必ず休みをとってお盆の行事を行いました。

お施餓鬼はお盆の一連の行事の最後の儀式です。お施餓鬼とは六道の1つである餓鬼道に落ちた哀れな亡者や無縁仏など、全ての精霊のために施しを行って功徳を積む儀式で、通常は墓に塔婆を建てて法要を行います。

子供の時の記憶では、お施餓鬼は関東三大施餓鬼と言われた本寺の玉蔵院で、毎年8月23日に盛大に行われていました。
当時、お施餓鬼の意味は分かりませんでしたが、法要が終わると待っていた大勢の檀信徒たちが家族連れで塔婆を担いで、それぞれ末寺の菩提寺にあるお墓に向かう姿が見られ、1種の風物詩のようでした。
一般にはお施餓鬼は施餓鬼会とか施餓鬼と言いますが、玉蔵院の末寺だった菩提寺の成就院(上寺)は、玉蔵院に倣ってお施餓鬼と呼び、重要な儀式としています。


お施餓鬼の法要は12時からで、法要が済むとお墓に塔婆を建てますが、日射に弱い家内のため少し時間を遅らせて行きましたが、今年は時間を間違えお寺に着いた時は法要はとっくに終わっていました。
法要が終わるとそれぞれお墓に塔婆を納めるのですが、檀家の人たちは炎天下のため、陽がかげるまでみなさん時間をずらしているようで、例年に比べてこの時間に集まる人は少ないです。

これだけの塔婆の文字はどのようにして書くのか大変です。
子供の時、塔婆とは婆さんの塔と書き、変な名だなと思っていましたが、塔婆とは卒塔婆と呼びサンスクリット語でストゥーバを漢語で当て字したもので、釈迦の遺骨を納めた塔を意味します。従って五重塔もストゥーバで、法要で使用する塔婆は仏塔を簡略し板碑を建てます。

右の建物は大蔵経を納めるため建てられました。大蔵経のことは良く判りませんが、お経の全てを集めたもので1万巻を超えると言われています。想像ですが仏教の研究機関以外に、保有するる寺院は数少ないと想います。

お盆の期間、さすがの浦和市街の旧中山道も空いています。この旧中山道は家康が制定した五街道の一つですが、鎌倉幕府や室町幕府の鎌倉政権が滅亡してから埼玉県西部を通っていた鎌倉街道が衰退し、関東北部への交通は旧中山道に移って行きました。成就院(上寺)は、JR浦和駅から徒歩10分の距離にある旧中山道沿いに位置します。

 

成就院入り口手前に2と7の付く日に行われた浦和宿の六斎市の碑があります。小田原攻めの際、秀吉が浅野長政に命じた六斎市許可の定杭が埋められています。ここが戦国時代までの浦和宿の交易の中心地でした。ここから旧中山道を辿ると直ぐ成就院です。

江戸時代以来の成就院の碑があります。

成就院の正式名は、御殿山成就院(上寺)と言います。上寺は昔からの通称名です。
山号の御殿山は明治になって県都となり浦和地方裁判所と検察庁が置かれましたが、今は移転し公園になっている地の名です。その由来は、家康の江戸移封により直ぐに鷹狩の際に屋敷が作られたことから御殿山と名づけられました。多分鷹狩は、鷹狩と称した地域偵察の場だったのでしょう。やがて家康の鷹狩の宿は太田道灌が江戸城と共に築いた岩槻城に移転しましたが、おそらく当時御殿山は成就院と深い関係があったのでしょう。

浦和は中山道が制定される前から浦和宿と呼ばれ、古代創建の調神社と平安時代創建の真言宗寺院である玉蔵院の門前町として発展してきました。成就院(上寺)は、本寺である玉蔵院の隠居寺の存在でした。

浦和宿は北から上町、仲町、下町と呼ばれていました。浦和宿の北は東山道以来、京都に近いため、上寺は上町にある寺として上寺と呼ばれていましたが、もう一つ本寺の上に当たるため(玉蔵院)の用語を省略して上寺と呼んでいたのかも知れません。

江戸時代の浦和宿絵図

 さいたま市立博物館発行の文化8年(1811)浦和宿絵図、複製版を博物館で購入しました。

浦和宿の江戸時代の絵図の中央のオレンジ色の道は中山道で、左側が南で江戸方面、右側が北で京都方面です。左の広い敷地は玉蔵院、中央の敷地は本陣、右側に御殿山と接した成就院が見えます。
この浦和宿の絵図から、浦和宿での玉蔵院の存在、玉蔵院と末寺の成就院の関係が見て取れます。

成就院(上寺) は浦和宿の上町にあるから上寺と呼ばれてきたことが通説ですが、改めて浦和宿の江戸時代の絵図を見ると、成就院(上寺)は本陣を挟んで玉蔵院のすぐ横にあり、玉蔵院から、直ぐ上(京)方面にある寺として(玉蔵院)の名を省いて上寺と呼ばれたのだと推測します。

絵図を見た限りでは中山道沿いには公共的な施設は調神社(左に隠れている)、玉蔵院、本陣、成就院しかありません。本陣は庶民に無関係ですから、浦和宿の住民の意識にあるのは、神様は調神社、お寺は玉蔵院、お墓は成就院だけだったので、成就院は玉蔵院の上手にあるため単なる上寺と呼ばれていたように想います。

江戸時代初期、家康の鷹狩の宿、御殿山

御殿山とは、家康が関東移封後直ぐに設けた家康の鷹狩のための屋敷跡でしたが、鷹狩屋敷は直ぐに越谷方面に移転し、浦和の鷹狩屋敷は直ぐに廃され、江戸時代のは絵図のように森になっていました。明治新政府はここに旧浦和地方裁判所と検察所を設けました。今は裁判所は県庁付近の旧留置所跡に移転し、現在は古いレンガ塀だかけが保存され、敷地は常磐公園として開放されています。

成就院の山号はこの御殿山を差します。当時御殿山と成就院の敷地は接していて深い関係にあったのでしょう。しかし成就院も火災で消失したため当時の史料は残っていないそうです。

成就院について

        成就院(上寺)は真言宗豊山派の寺院で、ご本尊は玉蔵院と同じく地蔵菩薩です。

長い歴史を持つ成就院(上寺)は明治の排仏毀釈により廃寺になってしまいましたが、玉蔵院の境外仏堂として檀信徒の努力によって存続を続けました。関東大震災の直後から60年間ほどは、禅宗の尼僧が留守居役を務められていましたが、その前後しばらくの期間は全く無住の状態でした。

昭和63年に成就院を再興するために、玉蔵院の次男で大正大学大学院博士課程を終えてベルギー国立ゲント大学に留学し仏教の文献学を研究していたご住職が、尼僧さんが亡くなられたため帰国し成就院を再興するため玉蔵院から派遣され。10年をかけて宗教法人の資格も獲得されました。
ご住職はこの間、大正大学や本山長谷寺で教鞭を執りながら、成就院を見事に再興されました。

ご住職は現在大正大学仏教学部長を退官し名誉教授も務めておられます。また2018年には、我が国における密教界の最高賞と呼ばれる真言宗各派総大本山会学芸賞を受賞されました。ちなみにこの賞は上山春平や梅原猛氏など我が国が産んだ最高の京都学派の哲学者たちも受賞した密教学の最高権威です。


ご住職はこのような素晴しい事績も、海外での仏教文献学研究も、仏教学部長であったことも自らは決して語りません。多分成就院にお墓参りに来られるほとんどの檀信徒の人たちは、ご住職が豊山派を開祖した専譽僧正の伝統を引き継ぐ豊山派きっての高名な学僧であられることは誰も知らないでしょう。私もご住職に直接お尋ねした結果、近年初めて知りました。
息子さんの副住職も大正大学大学院で密教を学び学僧の伝統を保持されておられます。副住職のマスター認定証には、仏教学部長である御父上の名で認定されるという珍しいできごとになったそうです。 

本寺の玉蔵院について

 昔から隣町大宮の寺社の象徴が氷川神社であるように、旧浦和市は調神社と玉蔵院がその象徴でした。玉蔵院は明治の廃仏毀釈まで調宮神社の別当寺でもあり、一体となって運営されてきました。
玉蔵院は、平安時代に創建された歴史の中で、幾たびかの火災で焼失してきましたが、室町時代に学僧印融が再興してから活発になり、秀吉の時代には醍醐寺三宝院の直寺となりました。

江戸期に入ると家康から寺領10石を寄進されました。浦和市史によると鴻巣宿から浦和宿まで寄進すると言われましたが、手に負えないからと近隣のみの寺領で辞退したそうです。玉蔵院は関東の真言宗の学僧の拠点として、総本山豊山長谷寺から学僧が住職として入寺したり、また玉蔵院の高名な学僧が総本山長谷寺の管長になるという歴史があります。旧浦和市が文教都市のイメージを形作ったのは、明治以来の行政機関と言われていますが、私は平安時代に創建されこれだけの名刹でありながら信者拡大より学問を追及して来た、玉蔵院の存在によるところが大きいと想います。もし信者拡大を目指していたならば関東有数の初詣寺院となっていたかも知れません。

さきたま出版会青木義脩著「さいたま市の歴史と文化を知る本」によれば、江戸後期には快尊、快道、無相の傑出した僧が豊山長谷寺から玉蔵院に移りました。快尊は長谷寺留学34年の後玉蔵院に赴任、その後豊山長谷寺の管長になりました。快道は長谷寺から赴任、天明の3傑と言われましたが、本山に戻ることなく60歳で亡くなりました。無相も長谷寺留学36年の後玉蔵院に赴任、浦和の俳諧に大きな影響を与えましたが道半ばで亡くなり本山管長になりませんでした。
このように玉蔵院は、真言宗豊山派を創立した学僧専誉僧正以来の学問の薫り高い寺院の格を守りました。

真言宗豊山派は、真言宗智山派と共に新義真言宗と言われ、信長の比叡山焼き討ち以来、戦国武将の干渉を受けたり焼き討ちされ衰えた真言宗の中から、京都智積院を本山とした智山派と、奈良長谷寺を本山とする豊山派が生まれ、やがて真言密教をリードする真言宗の2大教団となり現在に至っています。

成就院(上寺)の歴史の古さを語る墓地

成就院の墓地には江戸時代の古い無縁仏の墓がたくさんあります。かって散在していた古い無縁仏の墓を集めています。ご住職はこれら無縁仏に対するお施餓鬼の法要も熱心に行っています。
彫られた文字が、薄くなって年代が判読できません。寛永、享保、天明、寛政など歴史上有名な事件が起きた年号の墓も見受けられます。土饅頭に木の塔婆が普通であった江戸時代、これだけ立派な石塔が集中していることに、浦和宿の人たちはハイカラだったのか、豊かだったのか判りませんが、現世利益より死者に対する仏教心が旺盛だったように想います。

市街地のど真ん中に位置するため、周りは高層住宅が多くなってきました。

現在のご住職が入寺するはるか前、成就院を安寿さまという尼僧が守っていた時代、時々本家の墓参りに母を車で乗せて来ていました。母は祖母を引き取って同居していた事から、時々本家の墓に眠っている祖母の墓参り行っていました。その頃、母は分家するつもりで墓地の1画を手に入れていました。やがて母が亡くなり父と墓石を建立し檀家となり、成就院の再建のため入寺したご住職と奥様の縁が生まれたのです。
当時ご住職は覚鑁上人伝を出版されたばかりで、本書を頂きました。

心の拠り所と命の拠り所

その街の中心をなす神社仏閣の存在は大きく、大宮であれば氷川神社であり、旧浦和市内ではヤマト朝廷時代の年貢の集積所といわれる調宮神社と平安時代からの真言宗の古刹玉蔵院でした。中世から江戸期の宿場町浦和村は、調宮神社と玉蔵院の門前町として存在していたと言われています。
私たちは子供の頃から、調宮神社での酉の市、七五三、受験祈願、神社の氏子の町内会が行う夏祭り、夏の縁日、サーカスの興行、お施餓鬼などで調宮神社や玉蔵院とは日々縁が深く、旧浦和市民の心の拠り所となってきたように感じています。

 個人的な想い出ですが、怠け者だった私は、高校受験の勉強を11月に入って押し詰まって始めましたが、それまで具体的に考えていなかった志望校にどうしても入りたくなりましたが、付け焼刃で始めた受験勉強では到底受験に間に合わないことが分かりました。1月元旦の初詣の日、誰かに見られるのは恥ずかしいので、誰もいない時刻を見計らい、夜9時に自転車を飛ばして真っ暗になった調神社に神頼みに行きました。今考えるとあの時の調神社は誰よりも私の願いを叶えてくれる心の拠り所だったのです。

さいたま市立病院の病室の窓から

                        病院の窓から秩父連山を眺めて、再び山に登れるだろうかと考えていました。

昨年冬、大病を患い生まれて初めて入院を体験しました。
かかりつけ医から紹介された医院では病名が判明せず、かかりつけ医の先生のご手配で、救急外来でさいたま市立病院に入院し、病名が判明し1か月の長期入院となりました。
その時初めて気が付いたことは、古くからある地域の神社仏閣が私たちの心の拠り所となっているのと同じように、かかりつけ医とネットワークで結ばれた地域の基幹病院は私たちの命の拠り所であることでした。これは殊更大げさに言っているのではなく、偽らざる気持ちでした。

国立大医学部の無い埼玉県で、69年前の昭和28年、県庁所在地でありながら人口も多くなく財政が豊かで無かったにもかかわらず、旧浦和市が市庁舎などにお金をかけず、結核病院を引き継いで旧浦和市立病院を開設したことに対し、その行政の先見の明に頭が下がり、旧浦和市に税金を払い続けて来て良かったなと感じました。



一般的には地域に住む人たちの心の拠り所は、鎮守の森の神社であったり、先祖が眠るお寺だったりします。それらを多くの人は意識はしませんが、神社の多くは地域の人たちが氏子となって地域の祭りが行われるため心に刻まれます。
お寺や墓地はお彼岸やお盆のお墓参りによって、無意識に心の拠り所の気持ちが醸成されます。普段は意識しませんが、今回初めて地域の基幹病院が命の拠り所だと意識しました。
神社については、毎年歩いて初詣に行く神社が心の拠り所になる場合があり、私の場合は歩いて行ける氷川女体神社に変わりました。、
寺院は何といっても父母が眠る菩提寺の成就院であり、やがて私もそこで眠るため、永遠の拠り所になるはずです。

各地を旅して古い街を歩くと、辻々にお地蔵さまがあります。また山の峠道で出会う仏さまはお地蔵さまと馬頭観音が圧倒的に多いです。
昔の人たちは朝起きると辻々のお地蔵さまに、庭の傍らに咲く花を手向けながらその日の心の拠り所にしたのでしょう。日常の日々は何事もなく変わらないことを、お地蔵さまにお祈りをしていたのでしょう。

拠り所を持つことは気持ちが安らぐ元となります。目まぐるしく変転する現代社会にとって拠り所は必須です。先週訪れた佃島住吉神社の氏子たちの祭礼も、月島の氏子たちにとって住吉神社が心の拠り所なのでしょう。彼らの興奮と陶酔は、神輿を担ぐ氏子たちに住吉の神々が彼らに憑依していたようです。

江戸時代、幕府の方針による寺受け制度で、日本中全ての住民が地域の寺院に属していましたが、現代では、地方は人口減少によって寺院のお墓を引き継ぐ人々は減りつつありますが、反面、戦後人口が急増した首都圏では寺院のお墓は入手が困難になっています。私の人生の後期、偶然のご縁によって成就院とご住職の存在により、仏教に惹かれ私の心の中に生じた拠り所は、偶然でなく必然だったような気もしますが、私にとってとても過分なありがたいことだとしみじみ想っています。