月島(佃島)住吉神社の祭礼

息子さんと5泊6日の朝日連峰の縦走を終えた太郎良兄から佃島住吉神社の祭礼が、月島で3年ぶりに行われるということで誘いを受けました。
私は月島は行ったことが無かったので、お互い別に行った夏山の報告を兼ねて二つ返事で答えました。

東京の下町の夏祭りは浅草の三社祭り、神田明神の神田祭り、鳥越神社の鳥越祭り、深川八幡祭りなど勇壮な神輿の祭りで有名ですが、佃島の住吉神社の祭りは知りませんでした。
佃島と言えば、家康が入府し江戸城を築き神田の山を切り崩し日比谷周辺を埋め立てて江戸の町づくりを行っていた頃、大阪の漁法を江戸に移転するため、家康の要請で大阪の西成郡佃村の漁師たち33人が、隅田川河口の干潟(180m四方)を拝領し、埋め立てを行い、正保2年(1645)故郷の村の名をとって佃島とした話は有名です。佃島住吉神社のご由緒には、この時大阪住吉神社の神職の弟が漁民と共に佃島に移住し住吉神社を創建したとあります。

大阪住吉神社といえば神功皇后が三韓遠征時祈願し航海の保護篤かった神様として有名で、あの住吉神社が佃島に勧請していたとは知りませんでした。佃島住吉神社は家康も祀っているため明治新政府からは、重きを置かれず格の低い郷社の扱いだったからかも知れません。

佃島に移住した漁民たちは、食料確保が難しかったために小魚の保存食として佃煮を考案、また江戸城納入の余剰魚を販売した場所が築地の魚市場の元となりました。また時代を経て住吉神社参拝みやげの佃煮が、おいしくしかも優秀な携行食料のため、江戸勤番の武士たちが帰郷する携行食として評判を呼びました。

佃島住吉神社の例大祭は広重の浮世絵に描かれるほど、江戸では著名なお祭りでした。

住吉神社は佃島住吉神社と言い、通称例大祭は月島のお祭りです。佃島と月島の名の違いは調べてみると江戸時代は小さな佃島だけでしたが、明治以降佃島の南が埋め立てられて築島と呼ばれていましたが後に月の美しい島の意味で月島と変えられました。多分家康肝いりの佃島の名は明治新政府は故意に使わず月島としたのでしょう。革命とはそういうものです。しかし月島の名は、おそらく政府指導者の指示でなく役人の忖度でなずけられたことが真実と想います。こういうことはたくさんあり歴史を歪める原因となるのです。

月島駅は東京メトロ有楽町線と都営地下鉄大江戸線が交差し、とても便利です。再開発が進みこの道はもんじゃストリートと呼ばれ左右に80軒のもんじゃ焼きのお店が軒を貫いています。お祭りのため9割の店が休んでいますが、1割の店には人が押し寄せています。

住吉神社の宮神輿です。八角形の神輿ですが。この形はどこかで見たことがあったなと想い出してみると、天皇陛下が即位したときの高御座が八角形でした。国立博物館での展示を見に行った際の印象が強かったのでしょう。
各町内の神輿とは別に、宮神輿は8月6日、豊海の海上、晴海、豊海、勝鬨に巡幸、7日は勝鬨から月島各町内を巡幸し、神社に戻ります。

各町内会の神輿も立派です。

宮神輿の巡幸は小休祭のため、次のスタートまで近所を探訪します。
もうあまり見られなくなった、下町の路地の光景です。家の前に高価なロードバイクがさりげなく置かれています。

江戸時代から続く路地裏園芸です。

緑は心を癒してくれるため、人々は緑をいつも身近に置くことが理想なのです。若い時は感じませんが、今はこれらのお宅の人の気持ちが痛いほど解り共感します。

いよいよ辺りがざわついてきました。宮神輿の巡幸の出発です。町内の巡幸は月島四ノ部、三ノ部、二ノ部、一ノ部、新佃の順で行われ、午後は三ノ部から始まり20:30に宮入りします。

宮神輿を担ぎ始めて通りを曲がったところで宮神輿を担いだまま止まりました。何で止まっているのか理由は分かりませんが、しばらく時間がかかりました。

やがて独特な掛け声とともに、足踏みに近い形で宮神輿が少しずつ進み始めました。
しばらく停止してから独特の掛け声を発しながら足踏みに近い形で進行する、担ぎ手の気の充実を図ったのでしょうか、この間合いと突然の独特の掛け声を発しながらのスタートにえらく感動を覚え、なぜか涙が込み上げてきました。

夏の神輿は水かけ祭りです。とくに古代、筑紫の海人族の神、住吉神社の祭礼ですから、神輿は海に入り現在でも隅田川に入りますが、その名残か神輿や担ぎ手に豊富に清めの水をかけます。その水のかけ方が豪快で、沿道の町民の人たちは高圧ホースまで使用し水をかけます。

担ぎ始めて間もないのに担ぎ手は既にびしょびしょです。担ぎ手は常に交代し随行するため、皆びしょびしょです。
宮神輿ですから蛇行したりゆすったりせず道路の真ん中を、品よく進みますが掛け声と水かけが迫力があります。

担ぎ手は女性も多いです。

担ぐ人たちも煽る人たちも興奮の極みにあるようです。

担ぎ手は直ぐに交代しひとしく担ぐ興奮を分担しているように感じます。担ぎが終わると疲れ切ったようです。

近代的なビルと祭りの風景は良く似合います。多分背景が水田でも、海でも、木造の家が連なる街角でも祭りの風景は良く似合うと想います。神輿、はっぴの装束、祭りに我を忘れて興奮している人々、これは我が国にとって普遍性のある光景であり、時代が変わっても生き続けることでしょう。

神輿を担ぐ人たちは等しく興奮し、陶酔に近い表情を見せます。おそらく神さまが憑依しているかのようです。
神社にお参りする際、神社の境内に神を感じますが、中々心が一体になることはありません。しかし祭りは参加する人たちもこれを見物する人たちも、氏子となる神社の神様と一体になる機会であることが解ります。

おそらく私たちは集団で暮らすようになった弥生時代の昔から、さまざまな形で、私たちの暮らしを守ってくれる海の神や山の神の祭りを行ってきたのでしょう。

お祭りにはお囃子がつきものです。お囃子のリズムと音が神を呼んで憑依の手助けとなるのでしょう。

佃島住吉神社

佃島住吉神社は佃島の突端にあります。昔は周りは海でしたが、今見る風景は埋め立てが進んで、新旧入り混じった独特の風景を形作っています。

住吉講の大神輿です。                 獅子頭です。宮神輿巡幸の前日町内を巡幸します。

住吉神社例大祭にはこの大幟が6本、住吉神社の周囲に掲げられます。幟を支える柱と抱木は神社の堀に埋没されており、例大祭の時に引き揚げられます。
この後ろは隅田川です。

江戸時代の佃島

10年以上前に我が国の舟運を調べていた際、家康が入府して江戸が100万都市になるまで、物資の入手や物流等江戸の舟運も詳しく調べHPにまとめていたことがありました。

図はちくま学芸文庫鈴木理生著「江戸はこうしてつくられた」から引用させていただいたものです。
グリーン線は無関係で日本橋クルーズ船のルートです。
ブルー線は家康が江戸に入府した当時(1590年)の江戸の海岸線で
日本橋、京橋付近まで海で、更に日比谷は二重橋迄日比谷湾と呼ばれる海でした。

家康は神田の山を切り崩し日比谷湾を埋め、台地となった神田の山に駿府城から家臣団を住まわせたために、後に駿河台と呼ばれるようになりました。この時土砂の運搬に初めて大八車が考案され使われたそうです。神田明神の明神は灯台の意味でした。

家康が江戸入府時は、利根川は銚子に流れず、関東の山地からの2大河川の利根川と荒川は隅田川や江戸川となって東京湾に注いでおり、流れ出る堆積物は隅田川や江戸川の河口に累積し大きな砂州を形成していたのです。

先に開発した石川島は石川氏が江戸の舟番所の開発で拝領し、地続きの佃島は大阪の漁民33人が180m四方の地を拝領し干拓を始めたのです。

石川島も佃島も隅田川河口の江戸港である日本橋を守る意味で干拓されました。


広重の名所江戸百景「佃じま住吉の祭り」    広重の名所三十六景「東都佃沖」

佃島住吉神社です。住吉三神はわが国の創世記に、筑紫の海の中から現れた神様と神功皇后そして、家康を祀っています。

我が国で海の神といえば、イザナギとイザナミの間に産まれたワタツミと、スサノオ、そしてスミノエ(住吉神)が代表的です。
恐らく縄文時代から弥生時代にかけて渡来した海人族たちは、これらの海の神を各地に祀ったのだと想います。特に住吉神は航海の神として信仰を集めています。

住吉神社の拝殿です。鎖国を続け航海に不熱心だった幕府に反して、江戸湾に住む漁民や船乗りたちは住吉神社に特別の信仰を抱いてきたのでしょう。

太郎良兄と銀座鳥せんでビールを飲みながら釜めしを食べ、本日目にした住吉の祭礼を想い出しながら、久しぶりに形而上世界まで話が弾み、歴史や宗教や人々の心の在り方にまで話が弾みました。
太郎良兄は都立中学の校長を務め、築地本願寺の壮年会会長を任じている仏教徒の重鎮です。私は真言密教の信者ですが、我々2人とも学生時代登山を行っていたため、自然をバックにした山岳宗教に惹かれており、今日見聞した祭りについての感想に話が進みました。

またアララギ派の歌人でもある彼との話の中で、スサノヲの最古の和歌が作られた時代は弥生時代初期で、我が国では文字が無い時代、言葉を歌にして交信した時代が長く続いたとも想像しました。文字が無い時代は記憶力のウエイトが大きく、古今伝授も記憶の伝授ですから、和歌には個人にしか伝授できない伝統が残っていたのでしょう。古代、集団で生活するため文字のない部分を補うために、祭りは記憶と体験のため盛んになったのではないかと想います。日本列島で人々が集団生活を始めてから1,000年以上、気が遠くなるほど長く文字のない時代を経た我が国では、共同体を維持するためにさまざまな祭りが欠かせなかったと想います。それは識字率100%の江戸時代になっても、全国6万以上の村々に存在した鎮守の杜の祭りに引き継がれてきました。こんな勝手な想像まで話が弾みました。

私は、昨年、出雲や古代吉備国、そして奈良葛城、鴨族の地に旅し、弥生時代の想像上の歴史を楽しんでいます。古代史は古墳時代から始まり飛鳥、奈良と続きますが、文献の事実だけを追う歴史に少し飽きています。実際古事記に描かれている神話は、みな弥生時代初期のもので、その1000年後に古事記に神話として描かれているに過ぎません。従って近年私の古代史の興味は弥生時代初期に遡っているのです。

祭りを考えた場合、神輿の形状は天皇の鳳輦からイメージされていますが、それだからといって祭りの神輿が奈良時代以降に発生したとは限りません。おそらく古代は別な形で別な方法で行われて、時代が下るに従っていろいろな儀式やしきたりが加わっていたに違いありません。
そういう意味で祭りは、私たちの祖先の共同体における心の原点を見ることができます。自然を畏怖し貴ぶ我が国の宗教の原点は、古代の自然崇拝の森羅万象の神にありますが、我が国の現代の祭りも古代に自然崇拝の象徴として様々な神を祀り、ただ崇拝するだけでなく、一年の主要な時期に、共同体として祭りという形で神と一体となり、共同体の経て来た歴史を共有することだと想います。我が国は島国ですから海を渡って来た共同体が多く、黒潮と海の記憶が引き継がれた祭りが多いです。
宗教にはさまざまな教義があり哲学が存在して成り立ちますが、祭は、神と一体になる意思と形式があれば教義等一切必要が無くなります。世界中で行われる祭りも同じような事なのでしょう。

友と佃島の住吉神社の例大祭に接し、とても刺激的な一日となりました。