峰の茶屋から那須茶臼岳

3人で登るのは昨秋、紅葉のど真ん中の日に、安達太良山に登って以来でした。
長浜兄は手術をしたため山から遠ざかっていましたが、術後の様子を見るために、今回は峰の茶屋から茶臼岳往復コースを選択しました。
ここ2~3年でいつの間にか那須岳周辺のコースの大半を歩いたので、一部を除いて未知のコースは無くなっています。

県営駐車場に6時半に到着しましたが、まだ少し余裕がありました。初夏、紅葉のシーズンでは前夜に来ないと止められません。

今回の茶臼登山は既に何回も登っているし、特別、山行の紀行も記することがないので、主に昨年や一昨年の那須登山の際に、ブログで那須登山のルートの歴史と、宗教登山の歴史について触れた内容を、ブログ再開の際、ブログ上から消してしまったため、同じ内容ですが改めて掲載しました。

登山中に、クラブの同期仲間と登山を再開して2年目の2005年、12月の下旬のクリスマスに大丸温泉から茶臼岳を目指して悪天候のため敗退した冬山、翌年3月ロープウエイ開通日を待つて登った春山など既に18年が経とうとしていますが、今は亡き杉村兄と病気療養中の小田兄、骨折の後遺症で登山を辞めた斎藤兄たちの元気だった頃を想い出しながら歩いていました。2004年から彼らと登山を再開してから、10年間で彼らとは100回近く登山や旅で行を共にしていました。
今回と同じコースなので、那須の冬山と春山の想い出にも触れて見ました。

ここ2,3年那須に通うようになって不思議に思ったことが2つありました。
1つは当たり前のように利用していた那須ロープウエイの開業は昭和37年ですが、それ以前はどのルートが茶臼岳登山のメインルートだったのか?
2つめは、麓から近くに望まれるこれだけの名山にしては、他の名山のように奥社もなく宗教登山(修験道)の匂いが全くしないのはなぜだろうか?
という事でした。

ヤマトリカブト(山鳥兜)キンポウゲ科

那須の宗教登山の始まりは、調べてみると17世紀の中頃江戸時代初期に、僧栄海が板室温泉の案内人と板室から入山し茶臼岳の裏側から茶臼登山を行った時、谷の下で温泉が湧き出ている滝(御宝前の滝)を発見し、そこに白湯大明神を感得し開基しました。そして板室に修験道場を開設し、白湯大明神の信仰の普及に務めました。

栄海の死後、羽黒修験の僧が後継者になり、出羽三山に倣って、白湯山(御宝前の滝)、月山(茶臼岳)毘沙門山(朝日岳)の三山掛けを唱え、多くの信者が集まり、板室の修験道場が那須山岳修験の拠点になりました。

オンタデ(御蓼) タデ科

これとよく似た雑草が近所にあります。北アでは立山に多く双六でもたくさん見かけました。

旧三斗小屋跡、復元された白湯山大鳥居(回想)

那須茶臼岳の裏側の白湯大明神(御宝前の滝)に至る参詣道の入り口に、那須の歴史を残そうと地元ロータリークラブによって大鳥居が復元されています。

この参詣道は現在廃道になっていますが、江戸時代の最盛期には、開山祭には三斗小屋宿14軒の宿に1,000人の信者が宿泊し、白湯山(御宝前の滝)茶臼岳、朝日岳の三山掛けを行ったと言われています。この三斗小屋宿は麓の大田原から丸2日を要する山中にあります。

碑にあるように元禄8年、表参詣口として大鳥居が築かれました。しかし戊辰戦争で破壊され大鳥居は崖下に転落し埋もれていました。 地元ロータリークラブが、那須の白湯山信仰を偲んで、平成19年この地に大鳥居を復元したのです。

今回の登山に戻ります。

白湯山(御宝前の滝)、月山(茶臼岳)毘沙門山(朝日岳)の三山掛けでは、板室からの三斗小屋宿を起点とした登拝は白湯山、湯元温泉神社から茶臼岳登拝は高湯山と呼ばれました。旧三斗小屋宿から白湯山(御宝前の滝)は現在廃道であり、そこから茶臼岳、朝日岳はどのようなルートを通ったのか分かりませんが、現在の姥が平登山道や鉢巻道が利用されていたように想います。

今では登山者が行きかうことの少ない茶臼岳の裏側の谷の下の奥の三斗小屋宿14軒の宿に、山開きの時には1,000人もの人々が、板室や湯元温泉神社から、山を越え白湯大明神に参拝していたようです。

日本各地の修験の山の信仰は、弥生時代の稲作開始の頃、水源の山として信仰が始まっていますが、那須の裾野は原野で稲作の水源の山としての信仰は発生しなかったようです。従って那須の宗教登山の歴史は比較的新しく、江戸時代初期の白湯山(御宝前の滝)への信仰から開始されたため、他の修験登山の対象は那須茶臼岳頂上ではなく、御宝前の滝、茶臼岳、朝日岳の三山掛けが主でした。


しかし三山掛けは容易でなく、実際には板室温泉から白湯山(御宝前の滝)参拝がメインで、従って那須の登山路は板室温泉から旧三斗小屋宿を基地として白湯山(御宝前の滝)参拝を行う登山路が主でピークまで行く人は少なく、湯本温泉神社から茶臼岳の登山路は従だったと思われます。

ロープウエイ開通以前の那須茶臼岳登山の古い紀行はなかなか見当たりませんでした。深田久弥の日本百名山の那須茶臼岳の項を呼んでも、那須の概念だけで登山紀行はなく、茶臼岳には彼は登っていなかったと想います。

峰の茶屋について

峯の茶屋からのルートは修験の三山掛けに入っておらず、このルートは明治に入って、峰の茶屋付近で硫黄採掘の鉱山が開設された際整備された道でした。

戊辰戦争では旧三斗小屋攻略のため黒羽藩が砲2門を担いで峰の茶屋で砲撃を行った記録がありますが、多分古い杣道があったのでしょう。黒羽藩がどんな砲を担ぎ上げたのか分かりませんが、各藩でよく使われた仏式四斤山砲は総重量218kgで砲身、砲架、車輪は分解して運ぶことが可能ですが砲身だけでも100kgあります。射程は2700mありますが、砲弾は4kgあり、50発携行したとしても200kgあります。後は射程が260mと短い2人で担ぐ小型臼砲がありますが、これでは射程が短すぎて使いずらいと想います。

ちなみに硫黄の精錬には焼取精錬法が採り入れられましたが、この精錬方法は釜で硫黄鉱石を燃焼させ、鉱石中の硫黄を気化させて導管によって沈殿器で凝固させると、純度99%の硫黄が採れると云われています。これには大釜など設備が必要ですが、24時間火を焚き続けるためには豊富な木材が必要になりますが、採掘地で精錬を行うことによって、確実に輸送が軽減されました。
このため三斗小屋付近から木材を峰の茶屋まで上げる牛道や、峰の茶屋から山麓まで、精錬された硫黄を運ぶために、現在の峰の茶屋登山道が開かれたのでしょう。

現在ではロープウエイを使用しない茶臼岳のルートはこの峰の茶屋経由が一番早く容易です。峰の茶屋は茶臼岳ピーク、鉢巻道、朝日岳、三斗小屋の分岐点のためいつも賑わっています。

敗退した18年前の那須茶臼岳の冬山

学生と異なって社会人の冬山は休みが限られているため、予定した休日が天候に恵まれないと登ることはできません。
学生時代の山行は天気が良い時も悪い時も両方あるという前提で計画します。そのため天候が当てにならない北アルプスの冬山では予備日を入れて最低12日程度、春山ではルートにもよりますが、最低18日間程度を予定します。
しかし社会人では、若い人ではせいぜい2泊3日我々年寄りでは1泊2日程度が普通です。
こういう短い休日で晴を期待できる雪山では、冬に西高東低の晴天が続く太平洋岸気候の山しかありません。その山は、奥多摩、丹沢、八ヶ岳、南アルプス、中央アルプス、浅間外輪山、東北では安達太良山ぐらいでしょうか。奥多摩、丹沢は樹林帯が多く雪山の魅力に乏しく、南アルプスは山が大きくアプローチ大変です。そうすると残るは八ヶ岳、中央アルプス、浅間外輪山、安達太良山になります。日光連山や那須山塊は地図上の位置づけを見ると、太平洋岸気候のような感じがしますが、実は那須連山、日光連山は越後の背稜山脈の一部のため、日本海気候に属し、山麓は太平洋岸の寒気が厳しい地域ですが、山腹高くは西高東低の気圧配置では雪の世界です。
冬の那須に行くため、連日那須の天候をウオッチングするまで、那須が日本海気候であるとは知りませんでした。

早朝の新幹線に乗り、那須塩原駅に着いたら地吹雪が舞っていました。余分な荷物を持ちたくなかったため、家からタイツを履きオーバーズボンで出かけました。
下山したら夜は湯元に宿を取っていました。
駅で乗ったタクシーの運転手さんは、こんな駅から地吹雪は珍しいので、山は断念した方が良いと再三引き留めようとしましたが、何とか大丸温泉の駐車場まで登って貰いました。駐車場の周りの店は全て閉鎖しており、閑散としていました。下山したらお願いするために、運転手さんの名刺を貰いましたが、タクシーは逃げるように下山して行きました。

我々はワカンを使うラッセルが必要な山は登らない主義でしたので、学生時代に親しんだワカンは所持していません。
大丸温泉から膝までのラッセルが始まりました。薄いトレースがありますが、登山者が少ないためズボズボ良く潜ります。

無雪期大丸温泉駐車場から車では直ぐですが、登山道をラッセルしながら辿ると結構時間を要します。樹林から出ると地吹雪が舞いラッセルして作ったトレースが、直ぐ埋まってしまいます。

普段賑わっている場所が、全く人が存在しない場所に変わっていますが、そんな光景は不気味です。学生時代の最後の冬山で河童橋の畔に幕営した時も同じ印象を受けました。

これではピークは無理だとしても、樹林帯を抜けて峰の茶屋まで行って見たいと考えていました。峰の茶屋の沢に出れば、斜面はクラストしていてラッセルから解放されると想像していました。

県営駐車場の上の無雪期の登山口まで来ました。ロープウエイ駅からここまでは大した距離ではありませんが、ここからは腿までのrッセルを強いられました。
っこから上は風を避ける場所が皆無なため、東屋の下で立ったまま昼食を採りました。

樹林が疎林に代わり森林限界が近づくと、今まで吹雪とは次元の異なる様相となりました。

雪は少し浅くなりましたが、強い吹雪のため身体が煽られそうです。森林限界が過ぎ峰の茶屋への斜面が近づいて来ているのが分かります。小田兄が撮影しましたが、良く吹雪の中でまめに撮影してくれたと想います。

峰の茶屋へ谷に出てきました。予想通リ雪はクラストしていてラッセルは無くなりましたが、吹雪が半端ではありません。この画像の間でも大声で話しても吹雪の音にかき消されてしまいます。
ここで皆学生時代の北アルプスの風雪の時を想い出しました。今の我々の体力では、この風雪の中では2時間位しか持たないでしょう。ここで撤退することに決めました。

翌年の3月下旬、リベンジの那須の春山

冬にラッセルで懲りたため、ラッセルすることなしに確実に茶臼岳に登るために3月下旬のロープウエイ開業を狙って、再度那須茶臼岳に挑戦しました。
ロープウエイ山頂駅から登山道は地熱のため雪が溶けていて、アイゼンは装着しませんでした。

あっという間にピークに着きました。もちろん登山しているのは我々だけです。今回はセルフタイマーでのんびりと撮影しました。

今年祠が新しくなっていると想いましたが、この画像ではすでにこの時新しくなっていました。人間の印象なんて当てにならないものです。

那須の背後に聳える会津の山々です。大峠からゆったりと寝そべる大峠山と流石山です。更に左には大倉山と三倉山が見えます。雪の付いた三倉山は鹿島槍のようです。
この時は、まさかこの10数年後にこれらの山に登るとは想っていませんでした。

茶臼岳から峰の茶屋までの斜面はクラストしていて遊んでいるように容易です。ただ峰の茶屋は晴天でも風が強く、油断していたら身体を持っていかれました。

再び今回の山行に戻ります。

茶臼岳に向けてゆっくりと登り始めました。お盆が過ぎたのに山はまだ暑いです。

背後に朝日岳がせりあがってきました。

軽く登れるという記憶しかなかった茶臼の登りも、結構長く感じます。急ぐ旅ではないのでピーク下で休みました。随分体力が衰えたものです。

イワオトギリ(岩弟切)オトギリソウ科

イワオトギリは双六でもよく見かけました。長いヒゲが特徴です。鷹の傷を治す薬草の秘密を洩らした弟を兄が切り血しぶきが葉や花の黒点になったと言われています。

朝日岳の奥に那須3本槍ヶ岳が望まれます。左下の丸い山は隠居蔵で、朝日岳の稜線から三斗小屋温泉へのルートです。

画像右のくびれが会津大峠でそこから大峠山、流石山(山腹に大きな落石跡が見える)、大倉山、三倉山と続きます。昨年7月に会津側から大峠、流石山に登りました。
倉とは越後、会津、中通リでは崖を意味する言葉です。

茶臼岳の祠が一新されました。

オヤマソバ(御山蕎麦)タデ科

下山にかかります。那須岳の歴史が気になって、それを探るためにここ2,3年でこの辺りはほとんどトレースしました。

シラタマノキ(白玉ノ木) ツツジ科

1昨年、那須の紅葉の名所と言われる姥が平も訪れました。この台地の奥の深い谷が旧三斗小屋宿のある会津中街道です。

下野国は古代から仏教が盛んな土地でした。古代我が国の仏教には戒律が導入されておらず、正式な資格のない私度僧が増え続けました。聖武天皇は我が国に戒律制度を導入するために唐で高僧の誉れ高い鑑真を招き、東大寺に戒壇院を建立し授戒を行いました、授戒を受けた僧は正式に国家の僧と認められ国家公務員となりました。
東大寺戒壇の5年後、西街道諸国のための戒壇院、筑紫観世音寺と東国の戒壇院として下野薬師寺が建立されました。

なぜ我が国に3か所だけの戒壇院を下野国に設置したのか、これは今でも謎になっています。
戒壇院は国家の僧になる資格を与える寺院で、例えば九州大学と京都大学、それと東大を下野国に置いたことに匹敵する出来事でした。これによって下野国は東国における仏教のメッカとなり、東国の多く授戒僧を目指す人材が下野国に集まりました。

やがて国家による戒壇院の制度が無くなり、奈良仏教から、最澄や空海の比叡山や高野山の新しい仏教が広まるにつれ、下野国の仏教に多大に影響を与えたのは、古来男体山を中心として山岳修行が行われた日光を、空海と交流があった勝道が開山したことです。そうして更に平安末期には熊野修験を導入し、日光三社権現の日光修験が確立し、日光山は東国における神仏混交の修験道のメッカになり,社領18万石の圧倒的な存在となったのです。

もう一つ下野国における仏教の歴史的に重要な出来事は、鑑真の高弟であった広智が都賀郡に大慈寺を創建したことでした。
 最澄の影響を受けた大慈寺は、東国仏教界で顕著な活動の場となり、 広智 と道忠によって天台宗布教のための東国の拠点となりました。その結果、最澄死去後、比叡山の天台教団座主は、円澄、円仁、安慧と下野大慈寺で活動した僧が務め、一大宗教教団の比叡山と下野国が結びついた事でした。

その関係はやがて天台宗と日光修験が結びつき、東照宮建立と相まって、朝廷、大名の日光詣でが続き、幕府と皇室、天台座主全ての仏教的権威が東叡山と日光輪王寺に集中したのです。言い換えれば那須の隣の日光山が日本の宗教的権威の拠点になったのです。

栃木県の歴史を紐解くと、那須茶臼岳が 八ヶ岳と同じように、岩木山、岩手山、早池峰山、鳥海山、羽黒山、月山、蔵王、磐梯山、安達太良山、男体山を始め浅間山、富士山、白山 など東日本の霊山に比べて、山岳宗教の匂いが少ない理由が解かりました。

山岳宗教は明治の廃仏希釈まで神仏混淆で発展し、仏は神の形となって現れる権現崇拝の修験道として確立しました。平安時代天台宗が、比叡山の山門派と密教を奉ずる三井寺の寺門派と分離し、寺門派が熊野修験を管轄することから京都聖護院が誕生し、全国の大半の巨大山岳教団が天台系密教教団に再編成されました。

江戸幕府は、全国の修験教団を天台密教系と真言密教系にまとめましたが、吉野金峯修験と羽黒修験は独立した仏教教団として残りました。

多くの霊山が、米作りを始めるころから水源の山として崇められていましたが、仏教が導入されると山の神は権現として祀られ、祭りを司る修験僧が生まれ、民に代わって深山渓谷に分け入り加持祈祷を行い、年に一度山開きには先達が村村の人々を率いて峰入りして、直接大自然の権現に祈祷したのです。

那須は原野で麓に住民がいないことから、山岳宗教が生じず仏教基盤がないまま明治の廃仏毀釈を迎えてしまいました。那須と同じく福島の安達太良山も名山でありながら麓に仏教基盤が無く修験道が発達しませんでした。

熊野修験の流れを汲む白湯山修験は、麓に住民が少なく仏教的基盤が無かったことと、隣に我が国有数の日光修験があったことなどのため、三斗小屋宿が消失すると同時に、隆盛だった三山掛けも行われなくなり、今では忘れ去られた存在になりました。

駐車場上に茶屋が再開されていて、待望のかき氷を楽しみました。

私は本格的に山を登るようになってから、麓から見える独立峰は登山の対象とせず、山と言えば重畳として峰が連なる山を意味し、容易に姿を見せぬ山に、より魅力を抱いてきました。
しかし齢を重ねていく内に、麓から仰ぎ見る霊山にも心惹かれ、それらの歴史にも興味が湧いてきました。昔から登攀史、登山史はたくさん読んで来ましたが、人が大勢登山者だけの山の歴史は浅く感じるようになり、次第に人々が大勢絡んだ歴史に興味が移りました。

その一部が山岳宗教いわゆる修験道です。山を恵みの地として崇める人々の思いは、霊山を産み、多くの神社や寺社が祀られました。 山を恵みの地として崇める 人々と山への想いは、私たちに自然と共存して生きるすべを教えてくれました。

 

那須登山の翌朝はペニーレーンでモーニングを採ります。パン屋さんのレストランですが、手作りのソーセージ、そして私のお気に入りはコンソメスープです。野菜を何時間も煮込んでスープ化したもので、お替り自由なので3杯は頂きます。