北茨城の海を眺める自然旅3、五浦海岸、勿来関

前日、磯原の海を堪能した翌日、隣の五浦海岸に行きました。
当初、特急が磯原で停まるため、磯原から海を眺めながらトレッキングで五浦海岸に行って見るのもいいなと思っていました。更に地図を見ると今までどこにあるか判らなかった勿来関が五浦海岸の隣町にあることが分かりましたが、勿来関までとても歩ける距離でなく、磯原から五浦海岸までの道も、ロングトレールの遊歩道などあるはずがないため、やはり日立でレンタカーを借ることにしました。
以前のように旅先でレンタカーを借りて走るのも、最近はしんどくなってきたので、鉄道とバスを利用しようと考えていますが、地方のバスは本数も少なく旅には役に立たなくなりました。タクシーも友人とだったら割り勘で負担は少ないですが、家内と2人では同一家計のため負担感がとても大きいし、大きな駅以外タクシーは待機していないためタクシー会社を調べて呼ばなくてはなりません。



北茨城の美しい海は、途中に温泉宿があり、漁港に寄れば新鮮な魚介類のランチが楽しめる絶好のロングトレールのコースですが、磯原の海岸以外、歩道は全く整備されてなく大型トラックが行きかう国道6号線を怖い想いをして歩かなければなりません。昔、中山道和田峠を歩いた時、後ろから大型トラックや車が猛スピードで来るたびに木の枝を振って跳ねられないように歩いた苦い思い出がります。そんなこともあるのでトレッキングは諦めましたが、レンタカーで走って見て正解だと知りました。

以前にも触れましたが、毎年北アルプスの飛騨側の平湯から登っていますが、平湯のバス停には、いつも大勢のヨーロッパの人々がいました。その人たちに行先を聴くと、木曽街道を鳥居峠を越えて奈良井から馬籠まで歩くそうです。ヨーロッパにもロングトレイルはたくさん整備されているのに、なぜ我が木曽街道を歩きに来るのかと聞くと自然が豊かで、道中宿や茶店が多く人々がやさしいからだと言います。しかし数年前東海道海沿いの興津から由井まで薩多峠を越えて歩きましたが、ポピュラーなコースだと思ったのにバスの運転手さんが入り口を誤って教えてくれたため遠回りを余儀なくされました。我が国にモータリゼーションが普及して60年にも満たないのに、もう車前提社会の発想から抜け出られなくなっています。
円熟した社会では、車で景勝地を急いで回る旅から、ゆっくりと足を使って辿るロングトレールが整備されると旅の楽しみが倍加します。宮島では7割が外国人でしたが、若者は大型の登山用ザックを背負っているのが目立ち、キャスター付きのバックを引いている観光客は日本人とアジア人だけでした。
四国や熊野の巡礼の旅を除いて、我が国では風光明媚な路や歴史の道をトレッキングして楽しむ旅はまだまだ先のようです。

五浦岬公園(五浦はいずらと読みます)

磯原から国道6号線を右折して大津漁港に寄ってから五浦岬に行こうと想っていましたが、大津港にナビを設定しなかったので、細い街道らしくない道を走り、樹々の間から漁港が見えると、直ぐに漁港は過ぎて細い山道に差しかかり五浦岬の駐車場に着いてしまいました。
通常漁港というと埠頭の周囲は平坦で景色の見晴らしがよい場所を想像しますが、大津港は狭くておまけに周囲に森が迫っているためあっという間に通り過ぎてしまいました。やはり太平洋岸の港は、わずかな地形の凹みを利用しているため狭いのです。
また五浦岬も、通常は岬の先端の切り開かれた芝に灯台が立っている風景を連想しますが、五浦岬は深い森に覆われて灯台も森の中に半分隠れています。

中央の建物は映画「岡倉天心」の撮影に使用したセットが保存されています。私はこの映画の存在は知りませんでした。

五浦海岸とは5つの美しい入り江から成り立っている小さな海岸で、今中心に見えるのは2番目の浦です。ズームを引いているので、遠くにある勿来火力発電所が間近に見えます。
草刈のおじさんだけで誰もいない岬でしたが1組のご夫婦と行きかいました。聴くと仙北しから昨晩仙台に泊まり、これから東京経由で名古屋に行き帰宅するとのこと。私より15歳くらい若いご夫婦ですが、1週間かけて車で旅しているとの事でした。

六角堂

中央が岡倉天心の六角堂です。手前の小さな入り江が最初の浦で、六角堂の向こうが二の浦です。五浦海岸観光ホテルが浦を覆って建っています。

灯台名は五浦岬でなく大津岬灯台です。

灯台は開けた岬の先端に孤高に経つ姿がとても趣がありますが、森の中の灯台は少し寂しいような気がします。この大津岬灯台は東日本大震災で被害を受け建て替えられました。電源は太陽光発電に切り替わっています。もともとの地名は大津岬ですが、地方自治体が観光用に五浦岬に変えたのでしょうが、灯台名は旧地名を変えていません。海上保安庁の矜持を感じます。

茨城大学五浦美術文化研究所(岡倉天心遺跡)

幕末開国し欧米の商人たちが開港したばかりの横浜に押し寄せて、関東の物産である生糸を奪うように買い求めました。開明君主の福井藩主松平春嶽は江戸勤番の下級藩士岡倉家に命じて、横浜で莫大な利益が見込める生糸商に従事することを命じました。天心は岡倉家の次男で、父の指示で外国人で賑わう横浜で6歳の時英国人の英語塾で英語を習い堪能になり、この英語力がその後の天心が社会に飛躍する原動力になったと想われます。
さらに本人の意思か父の命か分かりませんが11歳で東京開成学校(後の東京大学)に入学し理財を学びました。
その開成学校にモースの紹介でハーバードで哲学、政治経済を学んだ25歳のフェノロサがお雇い外国人として赴任しました。フェノロサは来日前ボストン美術館で絵を学んだこともあり、日本美術に深い関心を寄せており奈良や京都には度々訪れていました。一方子供の頃から英語に習熟していた未だ10代の若き天心はフェノロサの通訳兼助手として、奈良、京都に同行し、フェノロサから大きな影響を受けて日本美術に開眼し、美術行政を目指し文部省に入省したのだと想います。

明治初期は神仏分離令によって廃仏毀釈運動が全国的に生じ、多くの仏像が破壊され捨てら、興福寺の五重塔も建築材料として売りに出されようとした時代でした。フェノロサは法隆寺や東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺の荒れた寺院の破壊された仏像に哀しみ、天平の仏像がギリシャ彫刻に匹敵する美しさと評価しました。文部省も仏像が寺院の信仰の対象のみならず、ギリシャ彫刻に匹敵する美術品であるとの認識が始まり、フェノロサと文部省に入省した天心に奈良、京都の寺院の仏像を、美術彫刻の一環として調査を依頼したのです。その結果宝物目録を作成し、目録に指定された仏像が国宝にまりました。更にまたフェノロサは日本絵画にも関心が深く、狩野派に傾倒し自ら狩野派の雅号を得たほどでした。

20年10月法隆寺夢殿  フェノロサは200年間開帳を封じていた厨子を開けさせ救世観音に対面、その世界的な美しさを評価しました。

フェノロサは帰国しボストン美術館の日本部長に就任し、日本の仏像がギリシャ彫刻に匹敵することや、日本画など日本美術の素晴らしさを世界的に認識させるための活動を始めました。
天心はこのようにフェノロサから仏像や日本絵画の影響を受け、近代化による西洋絵画への傾斜から新しい日本絵画を想像すべく、東京美術学校設立に奔走し、開設後自ら校長になり副校長にはフェノロサに就任を依頼しました。

今日私たちが、優れた古寺の仏像や障壁画を最高度の美需品として鑑賞できるのは、フェノロサとその最大の弟子であった岡倉天心のお陰と想います。
北茨城の五浦海岸には、一仕事終えたと言ってもまだ40代の岡倉天心が、太平洋の美しい海を見つめながら、日本の美術を世界に問う拠点をつくりました。太平洋の荒い波が押し寄せる荒々しい小さな入り江から釣り船を漕ぎ出し漁をする天心の姿を想像するに、五浦海岸は決して隠居所の雰囲気はなく、後世大家になった日本美術院の画家たちの芸術が世界に問う場だったように想います。

事実、天心はボストン美術館の中国日本部長に就任した後も、半年毎にボストンとこの邸宅のある太平洋の五浦海岸の日本美術院を往復していました。

大昔、メトロポリタン美術館で、日本の刀剣や大名篭、屏風、仏像など大量に展示されているのを見ました。大半が調査できないで銘無しでした。多分明治になり廃藩置県で大名や旗本が大量に宝物を放出したものや、更には敗戦によってさらに大量に売られたものでしょう。当時ボストン美術館も銘の解らない大量の刀剣を保持していると聞いたことがあります。

茨城大学五浦美術文化研究所は、岡倉天心の40歳以後の拠点だった遺跡をそのまま譲り受けて開設した研究施設です。研究所という名が付けられていますが、机を並べて天心を研究する施設でなく天心時代の遺跡をできるだけ現状維持しながら、天心が太平洋の海の彼方を見つめながら想った日本美術の振興を、現代の私たちにも感じて欲しいと意図した施設のような気がします。

天心は明治36年40歳の時北茨城出身の画家飛田周山の案内で、初めて五浦海岸にやってきて、すっかりこの海岸が気に入って土地を購入しました。
そして2年後の明治38年40歳の時、この地に邸宅と六角堂を建築し、翌明治39年日本美術院の絵画部をこの五浦に移転しました。日本美術院は日本美術学校の大学院の役割を果たすために日本画の巨匠橋本雅邦と設立したものです。天心が設立に奔走し校長として任じた東京美術学校に入学し天津の薫陶を受けた横山大観、下村観山や菱田春草、木村武山は、日本美術院に進み、天心の勧めで五浦に家族ぐるみで移住したため、五浦の日本美術院が日本画の一大拠点となりました。

茨城大学五浦美術文化研究所は、昭和30年、天心偉蹟顕彰会の会長横山大観から五浦の天心遺跡の寄贈の申し出を茨城大学が受け設立された施設です。画像は当時の長屋門をそのまま研究所の入り口に使用しています。

天心は自身芸術家でもなく、英文の僅かな著書しか残しておらず、天心の功績を語るためには略歴だけが頼りです。

天心は1863年の文久3年、福井藩の江戸勤番下級藩士の家に次男で生まれました。岡倉家は幕末藩命で横浜で生糸商を命じられ反映し、天心も6歳で横浜の英語塾で英語を学び、明治7年11歳で東京開成学校(後東京大学)に入学しました。
明治13年17歳で東京大学を卒業しますが、学生の時お雇い外国人教師のフェノロサと知り合います。ちなみに東京大学は明治19年に東京帝大に改編されました。

明治17年東大卒業後文部省に入省後、21、2歳の時フェノロサと奈良、京都の寺社の古美術を調査し明治22年に帝国博物館理事兼美術部長に就任しました。

明治22年26歳の時、東京美術学校が開校し23年校長となり、多くの日本画家を育成しました。この後中国に渡り中国美術の調査も行いました。

明治31年35歳の時東京美術学校校長を辞め日本美術院を創立しました。
明治34年38歳の時インドに渡り1年かけて仏教遺跡を巡りました。
明治38年42歳、五浦の別荘と六角堂を建設、ボストン美術館の日本美術アドバイザーに就任。

明治43年47歳、ボストン美術館、日本美術部長就任
大正2年50歳、没

弱少の頃から明治の近代化路線を駆け抜け、西欧にただ染まることなく、西洋に拮抗する東洋という概念の中で生きてきました。西洋に拮抗する東洋という気宇の大きな哲学は、中央アジアの仏教遺跡の大谷探検隊を組織し築地本願寺を建設した登場した本願寺法主大谷光瑞に似ています。

茶の本は、大昔初めてのアメリカ旅行に携行した本の中の1冊です。天心は3冊のみ執筆していますが、新渡戸稲造と同じくいずれも英文で書いています。
本書を探したら書棚の片隅にまだありました。本書は茶の解説書でなく新渡戸稲造が欧米人に武士道を理解してもらうために執筆したと同じく、芸術の観点での日本文化と茶の解説書です。

天心記念館です。

天心像と晩年釣りに凝った天心の釣り船(龍王丸)と釣り人としての天心像が設置されています。

天心邸です。天心が五浦に来た時既に地元の実業家が建てた観浦楼があり、荒廃していたため主にこの料亭の材を使用し建築したそうです。明治の趣がある家屋です。

六角堂の岩場に下る崖の上から五浦海岸を眺めます。

六角堂です。東日本大震災で倒壊しましたが、再建されました。六角形の東屋は中国の文人庭園の岩を眺める様式から取り入れました。

細い入り江に太平洋の波が襲寄せ引いて行きます。波除のテトラポットの変わりは自然の岩が、波を砕いています。前方の崖は、先ほどまでいた五浦岬公園です。

六角堂の前の岩に、練り物の(セメント製)らしい灯篭が設置されています。いつ建てたのでしょうか。

東日本大震災の津波が研究所を襲った際の絵図です。六角堂では7,3m、天心邸では10,7mの高さになりました。磯原海岸は4,5mでしたが、狭い入り江の方が津波は高くなるようです。ちなみに数年前訪れた相馬の海岸の旅館は10mの高さに達しました。

茨城県天心記念五浦美術館

五浦岬公園、茨城大学五浦美術文化研究所、五浦海岸ホテルの対向車とのすれ違いが困難な細い道から、突如立派な路が現れ美術館の敷地に入ると幾つもの広い駐車場が現れました。駐車場に車を置いてから頭上の美術館まで長い坂を上ると、目の前に素晴らしい建築の美術館が出現しました。
笠間の県立美術館はアクセスも良く感動しましたが、自家用車や観光バスでしか行けない美術館も珍しいものです。岡倉天心については、茨城大学五浦美術文化研究所との整合性が気になるところです。

勿来の関(なこその関)

勿来関は実在したのか、はっきりしていません。古代の役所で使われていた実際の文書に「なこそ」の関が見当たらないことが、勿来関は無かった最大の理由です。

東国と奥州の境には鶴岡近辺の念珠関、白河関、そして太平洋岸の江戸時代の陸前浜街道には勿来関があり、陸奥の三関として古来知られて和歌に詠まれてきました。

「勿来」(なこそ)の意味は古語で「こないでください」と意味ですが、平安時代、遠く陸奥の「勿来関」は都人の想像を豊かにする歌枕の地になりました。勿来関の「こないでください」の意味は遠回しに「拒絶」に使える便利な地名のため「勿来関」を歌枕にしたたくさんの和歌が生まれました。

都人の和歌の大半がそうであるように「勿来関」に来ることなく想像上で歌を作りました。下記の歌はいわき市文学歴史館配布の資料からピックアップして引用させていただきました。

恋の歌
名古曽とは誰かに云ひしいはねとも 心にすうる関とこそみれ   和泉式部
(来ないでなんて誰が言ったというの。いいえ誰にも言ってはいないわ。あなたが勿来関みたいな心の隔て作っているから、私に会いに来ないだけでしょう。)

みるめ刈る海女の往来の湊路に 勿来関をわれすえなくに     小野小町
(私の心を奪ってしまったあなたが通ってくる路に もう来ないでという関所は設けていないのに)

春の勿来
あづま路は勿来関もあるものを いかでか春の越えてきつらん   源 師賢
(東路には越えるなという関もあるのに、どうやって春は関を越えて都に来たのだろうか)

惜しめども止まりもあえず行く春を 勿来の山の関も止めなん    紀 貫之
(惜しんでも過ぎ去ってしまう春を、来るなという関よ過ぎていくのを止めてくれないか)

その他
吹く風を勿来の関とおもえども 道もせに散る山桜かな       源 義家
(勿来関は吹いて来る風も来るなと、押しとどめる所だと想っていたが 風は来るなという関を越えて吹いて、山桜も道が狭くなるくらいに散ってしまった)

あずま路や忍ぶ里にやすらいて 勿来の関を越えぞわずらう     西行
(東路の忍ぶの里で穏やかな日々を送っていたが、勿来の関を想うと越えてしまおうかと悩んでしまう。忍ぶ恋の相手が思い浮かんで、心がみだれてしまう)

史跡がたくさんありそうですが建物は吹風殿と文学館だけです。

吹風殿(都の建物を模して)

ここに文学館の駐車場があります。観光というより震災関連でいわき市の文化施設で建てられたのでしょう。

いわき市立勿来関文学歴史館

ここが勿来関の史跡の拠点です。

内部はデザイン優先で落ち着きません。

文学歴史館員の人たちの勿来関に関する研究の熱心さには眼を見張りました。年報には時折地元の人たちの素晴らしい研究成果が見受けられます。

下段は勿来関に関する資料の数々です。勿来関に関する古文書の一覧や勿来関を詠んだ和歌129首一覧表、詩歌の小道にある歌碑一覧とその解釈、小学生観覧者のためのガイド、そして圧巻は常設展に掲示された歌人の系譜図です。

このように力のこもった公共団体の施設の学芸員の人たちの努力に頭がさがり、はるばる訪れて良かったなと想います。

古い石畳の街道ですが、実際に陸前浜街道がここを通っていたか不明ですが、古道の趣は十分すぎるほど感じられます。

勿来関の解説です。

吹く風を勿来の関とおもえども道もせに散る山桜かな  勿来関の歌の代表となる素晴らしい歌を詠んだ源義家像です。

白河関は以前行きました。白河関は鎌倉時代まで使われており、頼朝は越えていますが秀吉の奥州仕置きではより東のニ所関を越えています。それまでの白河関の場所は白河藩主で老中になった学芸大名の松平定信が比定しました。東国と陸奥の境のメインルートは徐々に東の内陸に移って多賀城に向かっているようです。
700年代初期には、常備兵力1千人の律令軍団の岩城団や白河団が設置されましたが、東海道の延長で常陸国から多賀城に向かうルートや東山道白河から北上して多賀城に至るルートも健在だったように思われます。
鎌倉を本拠とした源義家は父の多賀城の鎮守府長官だった源頼義の元に行く際、鎌倉、安房、上総、下総、常陸、岩城から多賀城を往復していたと想います。源頼義が鎮守府長官の際、本拠の鎌倉から多賀城往復の際、常陸太田の豪族の娘に産ませた系統が義光であり、後の常陸国守護佐竹氏になったと言われており、平安時代は浜通りもそれなりの往来があったのではないかと思われます。

いずれにしても勿来関は歴史の彼方に消えて行った神秘的な場所です。

日立のおいしいお蕎麦屋さん

日立に戻ってレンタカーを返却し、ついでにトヨタレンタリースの人においしいお店をうかがったら、駅の建物にあるお蕎麦屋を教えて頂きました。水戸にある建設会社のグループのお蕎麦屋さんでしたが、一口、二口食べて慌てて記録しました。食べたものはめったに記録することはありませんが、びっくりするほどおいしいものは記録したくなります。

テーブルにグループの農場の説明書があり、3つのたて(曳きたて、打ち立て、茹でたて)をモットーとしているそうです。蕎麦のおいしさはだし汁に寄ることが多いのですが、この二八蕎麦は圧倒的に蕎麦の味が異なりました。大好きな珍しいイカ天を注文したのですが、こちらも絶品でした。

お店は水戸にもあるそうですが、もう一度行きたいです。