北茨城の海を眺める自然旅2、野口雨情のふるさと

音楽の好みは人さまざまで極めて個人的な要素が強く、他人に語ることはとても恥ずかしさが覚えるし、子供時代の教育体験にも大きく左右されるため、音楽の話はとても難しいものです。
50代に入った時、30代の頃から行われていなかった小学校のクラス会の幹事を引き受けました。それまでは小学生時代を振り返ることも無く、あわただしく生きてきましたが、皆で会うと自分でも忘れていた小学校時代の記憶が蘇りました。クラス会での先生を中心として集まったクラスメイトの共通の想い出は合唱でした。合唱団で活動している級友の指揮とリードで、当時のNHK合唱コンクールのテーマ曲だった「花の回りで」を合唱しました。会の始まる前、先生に子供を持つようになって、ようやくわかった小学校時代の教えに対する感謝を申し上げました。これは長い間心の中で想っていたことでした。

私は唱歌、童謡や歌曲が大好きでした。それには、上記のように、私たちの小学校高学年時代は恵まれた稀有な環境にありました。
私たちの小学校は浦和市内の中心部にありましたが、戦後復員で児童が増加し2部授業が行われたため、3年になる時、急きょ分離独立した新設の小学校でした。小学校の高学年の担任は若い先生方が多く、多分相談してカリキュラムにない斬新な情操教育の実験を行ったのだと想います。特に担任の先生は音楽が好きで、音楽鑑賞、唱歌合唱、絵画、詩作、演劇などの情操教育に熱心で、クラスでは機会あるごとに唱歌を合唱し、クラシック音楽を鑑賞し、ウイーン少年合唱団や未完成交響楽、ここに泉あり、ビルマの竪琴など音楽映画が上映されると皆で見に行きました。また天気の良い日は学校の周りの緑の風景を写生しに行きました。更に学校ではNHK合唱コンクールや、器楽の学校音楽コンクール出場に熱心で私も頭を撫でられて参加しました。小学校の高学年の2年間は、音楽と風景絵画に包まれてたたため、通学途中の景色に触れると、自然と唱歌の歌詞を口ずさんでいた記憶があります。大人になって当時を思い出してみると、当時文教都市と言われた浦和の中心部の小学校でもピアノ演奏ができる者は学年には誰もおらず、唯一級友がヴァイオリンを弾けましたが、家庭での音楽教育などは皆無な時代であり、改めて私たちが恵まれた小学校の環境で学んだ事に気が付きました。

余談ですが、子供の時からラジオから流れてくる歌謡曲も大好きで、美空ひばりの「哀しき口笛」から「君の名は」の主題歌や劇中歌、ひいては後年のフランク永井、三橋美智也、春日八郎の歌も全て口ずさんでいました。しかし中学に入るとそれまで頭を撫でられていた素直な自分に反発し、音楽と絵画を捨てて日活映画や洋楽のポピュラー音楽に埋没して行きました。
しかし、この反発が中学1,2年生の多感な時期にプレスリーやポールアンカ、ロカビリー音楽などリズム重視の音楽や、ジェームスディーン、石原裕次郎など世の中斜めに見る若者スターに代表される世界的な若者文化の勃興にリアルタイムで出会うことができました。そのため後年ウエストサイド物語やビートルズの登場に世の中が沸騰しましたが、私はそれほど関心は惹きませんでした。

小学校のクラス会を企画している時、当時先生とクラス皆で映画館で見た市川崑の「ビルマの竪琴」と今井正の「ここに泉あり」の懐かしいビデオを手に入れたので、業者にダビング依頼し記念に配ろうと考えましたが、見積ったら費用が掛かりすぎるため断念しました。このことが事がきっかけになり、小学生時代をイメージだけでなく具体的に振り返ることも多くなり、昔唄った唱歌や童謡の歴史について改めて本格的に調べたり、野口雨情や中山晋平についての著作を読み、詩人たちや作曲家たちの記念館も訪れてきました。



日々、自室で読書やPCに向かう時は、必ず音楽を聴きながら行います。この習慣は既に40年近く続いていますが、オーディオで聴くクラシック音楽の中に、新たに唱歌や日本歌曲、童謡が入ってきました。
これにはソプラノ歌手鮫島由美子の日本の歌全集に出会ったことが大きく、その後彼女の様々なアルバムを入手しました。更に唱歌の研究家でソプラノ歌手の藍川由美の多くのアルバムとも出会いました。こうして野口雨情の童謡は鮫島由美子の美しいソプラノで堪能し、野口雨情が中山晋平とコンビで作った歌謡曲は、藍川由美のソプラノで聴いています。これらアルバムはストリングスではなく、ピアノの伴奏だけの歌曲独奏のスタイルを採っているため、唱歌と童謡と歌謡曲の持つ美しい日本語の詩と美しい旋律がそのまま心に沁み通ってきます。

改まって唱歌や童謡の歴史に踏み込んでいくと、私たちが当たり前のように口ずさんできた唱歌、童謡は、何となく自然に出来上がったものでなく、芸術の明確な目的のもとに作られてきたことが分かりました。
スタートは明治の近代化政策の一環として西欧音楽の導入から開始され、最初は文語調の翻訳唱歌から始まった歌が、大した日時を経ずに西洋音階での日本語を使用し日本人の琴線に触れる歌の歴史をつくりました。これら我が国の歌の歴史は、20世紀になって近代化を行った国々が等しくなされた歴史ではなく、世界的にも稀有な我が国だけの文化創造作業だったことが分かりました。
西洋音階のオリジナルな歌が大量に作られ国民の間に浸透して行ったその背景には、江戸時代から綿々と続く大衆文化の存在があったことに気が付きました。さらには先史時代からの言霊文化、万葉、古今、そして江戸の俳句文化が根底にあるありました。
長い年月を経て熟成された大衆の文化が土壌に無い限り、自らの近代的な新しい文化は生まれません。アメリカが新興国でありながら多彩な文化を持つようになったのは、移民の本国の土壌に、熟成された文化があったからなのでしょう。

野口雨情の故郷を訪ねる旅は、我が国固有の風土に接することであり、私自身のアイデンティティを確認することかも知れません。

故郷を作詞した唱歌の第1人者、高野辰之記念館(12年9月)

唱歌の高野辰之について、いつか触れたいと思っています。

12年9月 中野市、高野辰之記念館、故郷やおぼろ月夜の作詩家高野辰之は江戸歌謡史、江戸演劇史で学位を取り故郷に錦を飾りました。

文部省唱歌の歴史については、長くなるため今回触れることは避けますが、童謡運動は大正7年鈴木三重吉の雑誌「赤い鳥」から始まりました。そして直ぐに斎藤佐次郎が主宰する雑誌「金の船」が続き、これが童謡活動の決定版となりましたが、資金が続かず運動は短期間で終わりました。
唄は、詩と曲の絶妙のコンビネーションから成り立ちます、童謡も同じですが、童謡は大人が子供の心に還って詩を書き、そこに子供でも興味を持って歌えるように作曲家が曲を付けます。

この童謡運動が展開される中で、野口雨情、三木露風、北原白秋、西城八十などの我が国を代表する詩人が生まれ、作曲も国学者の家系で西欧音楽の作曲家の第1人者である本居長世と東京芸大の作曲科で長世と首席を争った山田耕作が参加し、西欧音楽の基本を踏まえた格調高い曲でありながらも、日本人の琴線に触れるメロディの童謡が生まれたのです。
先に触れたように、我が国における大正時代の近代童謡運動は世界にも珍しい出来事でした。童謡運動は政府の主導でなく純粋の民間の活動で、その全貌と背景から当時の人々の情熱を知るのに連れ、子供に芸術をという情熱がどこから来たのか不思議に思いましたが、その答えも江戸時代にありました。

少子化の危機を迎え政府も子育ての充実を力説していますが、幕末から明治にかけてやってきた欧米の外国人は、初めて見る我が国が、子供の楽園の様相を示しているのを驚きを持って記しています。市街は子供で溢れ、馬車や人力車に構わず遊びに没頭し、絶えず車夫や御者たちが子供を両手で抱え上げて、戸口の敷居の上に降ろしていたとあります。大森貝塚を発見したモースや英国の女流旅行家のイザベラ・バードはこの驚きを書いているし、初代英国公使のオールコックも「イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつある美点を日本の子供たちは持っている。すなわち日本の子供たちは自然の子であり、彼らの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ、大人ぶることがない」と述べています。

先日亡くなられた孤高の思想家渡辺京二著「逝きし世の面影」においても、幕末から明治初期にかけて来日した外国人たちは、本国と比べ当時の我が国の子供の情景がとても奇異に見えたらしく詳しく紹介していました。彼らが等しく述べていることは、日本の子供は泣かない。ことでした。そして日本の親は子供をひどく可愛がり甘やかす反面、子供に対して決して手綱を放さないし、子供らにそそがれる愛情はただただ温かさと平和で彼らを包み込み、性格の悪いところを抑え、あらゆる良い所を伸ばすように思われたことでした。日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、過ちを隠したりしない。青天白日のごとく嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりしていると。
しかし子供は、甘やかされて駄目になることはなく、分別がつくと見なされる6歳から10歳の間に、自ら進んでたった一日で大人になってしまう。と来日外国人たちは驚きを持って語っています。我が国の童謡は、このような環境の中で生まれ、育まれてきたことが分かりました。

大正期の童謡、童話運動は、大正デモクラシーが台頭する中、我が国の将来の芸術文化の担い手となる子供たちに、詩人や作曲家たちが良質な芸術文化を用意しようと始めた芸術活動でした。その運動は商業的な目算でもなく鈴木三重吉や市井の斎藤佐次郎が私財を投げ打って始めたものでした。

おそらく、童謡運動の中でそれを代表する詩人として野口雨情の名を挙げない人はいないはずです。野口雨情の詩がどのような資質で生まれたのか、あるいはどのような風景の中で育まれたのか?ずっと以前から北茨城の野口雨情の故郷を訪ねてみたいと思っていましたが、ようやく念願が叶いました。

野口雨情の故郷の海



教養としての音楽や教養としての絵画があります。
どちらかと言えばクラシック音楽や西欧絵画を教養として鑑賞する姿勢は、おそらく明治になり西欧文化は導入されていく過程で、それまでの江戸文化で親しんだ感性を、新政府や国立大学や私学の進歩的文化人によって文学、音楽、絵画、彫刻の分野で西欧的美学の観点に立ち振り出しに戻って、再構築されて行く過程で生じた現象だと想います。改まってクラシック音楽を聴いたり、西洋絵画を鑑賞することは高尚な教養としての一環であるという現象は、私世代を含めて今でも高年齢世代に引き継がれていますが、元々西欧でクラシック音楽はキリスト教会と共に発展した音楽であり、楽器の音色で神を感じ、歌で神を賛美した行為で、元々私たち日本人には馴染みは無い習慣でした。
明治になり、明治新政府の近代化路線の一環として、西洋音階のクラシック音楽教育が、小学校をはじめ学校教育や軍隊教育に取り入れられ、楽器演奏や歌曲、文部省唱歌を通じて急速に根付きました。

西洋音階の歌はまず学校唱歌として、まずスコットランド民謡やアイルランド民謡、アメリカ民謡に翻訳の歌詞を付けて始まりました。その後文部省主導により西欧音階による本格的な曲に美しい歌詞が付けられ、続々と文部省唱歌が生まれました。滝廉太郎や山田耕作など本格的な西洋の作曲法を学び、多くの詩人によって唱歌が作られましたが、このように沢山の西洋音階の歌が作られたのは、近代化が始まったアジアでは我が国だけでした。

欧米では近代西洋音楽は教会音楽と共に軍楽の側面でも発展しました。軍楽は烏合の衆の人間を一糸乱れぬ列を作り、敵前の弾雨の中を逃亡せずに戦闘に参加させるためには、鼓笛と行進曲が必需品でした。軍楽はオスマントルコで発達し、拿捕され育てられたキリスト教徒の子弟たちのイエニチェリの異教徒の軍楽はウイーン包囲戦で西欧人に恐怖を与え、後にベートーベンやモーツアルトのトルコ行進曲が産まれるきっかけとなりました。
列強の軍隊には、威圧感溢れる華美な制服を纏い一兵も落伍することなく、敵陣に横一線になって行進するために、勇壮な鼓笛と行進曲が必須でした。この揃いの軍服を纏った一糸乱れぬ行進は植民地戦で圧倒的な効果を齎しました。列強は数多くの自国オリジナルの行進曲を用意し、オーストリー・ハンガリー帝国がフランス王朝に勝利したラデッキー将軍を称える行進曲は、今でもニューイヤーコンサートのフィナーレの曲として熱狂します。軍歌はアメリカの南北戦争で多くが生まれました。以外に専門の軍歌が少ないのはドイツで、彼らは歌曲を唄っています。我が国も西南戦争でフランス人のシヤルル・ルーが作曲した抜刀隊(陸軍分列行進曲)が生まれ、今でも陸上自衛隊観閲式で使用されています。また日清戦争では海軍の軍艦マーチや数多くの軍歌が生まれ、西洋音階の歌は大人にも浸透して行きました。

こうして我が国には存在しなかった西洋音階の曲が、政府の指導で文部省唱歌、行進曲、軍歌として普及し、大正時代に入ると一転して民間主導の童謡と歌謡曲が誕生し、一世を風靡したのです。

改めて楽器から現代の音楽状況を考えて見ると、ピアニストの世界的な登竜門であるショパンコンクールで使用される世界の3大ピアノメーカーの2つがヤマハとカワイであり、多くの子供たちが習い事としてピアノを習っており、日々の暮らしの中でも家庭のリビングの1画でクラシック音楽の生の音が発せられている現実と無縁ではありません。また全国いくつあるかは分かりませんが、中学、高校の数ほどブラスバンド部が存在し、その楽器人口は世界に冠たる状態です。

この事実から改まって振り返ると明治新政府の富国強兵とか施策については異論はありますが、明治新政府の功績の一つに教育政策と文化政策が挙げられます。
しかし明治新政府の教育政策の土壌には、既に江戸時代、全国の寺子屋活動があり既に100%近い識字率の社会が存在していました。



野口雨情の詩の根底の我が国の大衆文化

幕末の開国前にパリで万国博覧会が開催され、知らぜらる神秘的な東洋の小国の美術や工芸がジヤポニズムとして、フランス初めヨーロッパに広まりましたが、印象派の画家たちに浮世絵のタッチや藍色のジャパンブルーが特に影響を与えたとされて、ジャポニズムが勃興したとされています。
しかし私はジャポニズム勃興の原因は、浮世絵だけでなく当時の庶民の家にあった緻密な工芸作品にも驚きを与えたものと思っています。それはモース展や長崎歴史博物館で見たときにそう感じました。
私は、印象派の画家たちを驚かしジャポニズムを勃興させた最大の理由は、浮世絵の画風という単なる技術的なものでなく、西欧では文明の後進国は文化の後進国であるという常識が、実は彼らが理想とする大衆文化の先進国だったという驚きから生じたものと想っています。

私たち世代は戦後教育を受けてきた中で、実は私たちも明治以前、文明はもちろん文化も後進国だと教えられてきました。我が国は資源が無く科学技術も遅れた封建的な社会で、明治になって近代化を成し遂げ欧米に負けないような国づくりを行ってきたと教わってきました。このため大人になるまで、江戸時代に存在していたものは全て遅れたものであり、近代的といえるものは全て明治になって入って来たと想っていました。
このことは私が50代になるまでそう信じていましたが、50代に入って興味あるものに出会うと、その都度その歴史を調べて納得する習慣が付き、様々な分野で、子供の時から教えられて来たものが、随分間違いのあることが分かりましたし、真理を追究する学者の人たちの中にも、私と同じように明治以前=遅れていた時代という解釈が蔓延しているように感じていましたが、逆に、近年では江戸時代信奉論も登場しているので軽々しく江戸時代信奉論に同調する訳にも行きません。

高山植物について触れます。私は50代の終わりに登山を再開しましたが、その時改めて登山史にも興味を持ち明治の登山記を読んでいる中で、当時の高山植物の存在に気が付きました。高山植物には加賀の白山の名を冠した高山植物だけでも、ハクサンアザミ、ハクサンシャクナゲ、ハクサンタイゲキ、ハクサンボウフウ、ハクサンイチゲ、ハクサンオミナエシ、ハクサンコザクラ、ハクサンシャジン、ハクサンチドリ、ハクサンフウロ、ゴゼンタチバナなど数多くあります。これら全て明治末から大正時代に名づけられたと想っていましたが、全ては江戸時代に発見され名づけられていました。更に調べる内、現在私たちが親しんでいる高山植物や山野草は、ほとんどすべてが既に江戸時代に発見して名づけられていました。江戸期は本草学の時代でもありました。我が国の本草学は中国の薬草の研究書「本草綱目」を基本に貝原益軒が日本版本草学「大和本草」によって本草学が盛んになり、全国の医者たちが村人や修験者たちと共に山に分け入って植物を研究したのです。牧野富太郎は江戸期の本草図鑑を基に、我が国の植物を西洋式分類を行い改めて図鑑を完成させたのです。

江戸は遅れた未開の時代の例は、舟運の歴史に明確に現れていました。江戸時代の舟は1本マストの帆掛け船で、陸地沿いを走らないと航行できないと教わりましたが、今でもNHKの番組ではカイで漕がないと風上は進めないという変な解説をしています。江戸期は陸上輸送の時代でなく河川交通と内航海運の時代でした。江戸時代の北前船は、帆柱1本の帆掛け船ですが舵以外では極めて合理的でたった11人の乗組員が標準で運用しました。西欧式帆船は大型ですが3本マストの桁ごとに帆を張るため百人以上の乗組員が必要でした。北前船は風を受けると松前から途中寄港せずに、佐渡沖、能登沖を一直線で敦賀迄航行しました。まだまだ例を挙げるとキリがないので、これぐらいに留めます。
別に私は江戸時代を全面的に信奉しているわけでなく、歴史は全て今まであった土壌の上に新たに築かれ、新たな歴史をつくる立場の人は以前の歴史を否定します。しかし土壌は長い時間かけて熟成され、更に新しい堆肥が施されて肥えて行くもので、明治の近代化の影に江戸期の熟成した土壌を探して見ているだけです。

近年江戸時代が見直されていますが、現代の私たちや世界の人たちを惹き付けている観光地は、全て江戸時代の遺産であることは明白です。


童謡運動の最初の童謡誌「赤い鳥」

豊島区立公民館  児童雑誌「赤い鳥」展より

童謡の最初の運動は、鈴木三重吉により大正7年創刊した児童雑誌「赤い鳥」を中心とし始まりました。鈴木三重吉は東京帝大で教授の夏目漱石の薫陶を受けた高弟として、文壇でも重い地位を占めていましたが、自分の文学を捨てて、新しい児童雑誌に賭け「赤い鳥」を主宰したのです。当時は子供向けの総合雑誌は「幼年世界」「少年世界」「幼年俱楽部」「幼年画報」など多数ありましたが、大正の自由主義の風潮を受けて小学生の芸術教育も注目され、子供向けの新興文学が台頭しつつあった時代でした。
「赤い鳥」には小川未明、宇野浩二、有島武郎、芥川龍之介、北原白秋、坪田譲二や画家の深沢省三たちが参画し昭和11年まで続きました。

児童雑誌「金の船」

児童文学雑誌「金の船」は鈴木三重吉の「赤い鳥」の発刊を受けて、斎藤佐次郎が発刊した雑誌です。
当時25歳の斎藤佐次郎は、鈴木三重吉のような文壇で名が知られた文学者でなく早稲田英文科を出て、父親の事業での遺産を活用し新しい児童文学を模索していました。「赤い鳥」が文学的な香りがあるものの、子供には難しく高踏的であることに反し、より子供目線の雑誌の発刊を意図しました。
佐次郎は、大学の先輩の西条八十と相談し早稲田で共に詩作の活動していて茨城に引っ込んでいた野口雨情を呼び編集主幹にし,島崎藤村と有島武郎の監修により、新しい童謡童話雑誌「金の船」がスタートしました。

「金の船」には若山牧水、本居長世、竹久夢二や画家の岡本帰一、更に窪田空穂、三木露風、など早稲田文人たちも結集しました。

「金の船」から青い目の人形、七つの子、十五夜お月山、赤い靴、証城寺のタヌキ囃子、でんでんむし、俵はごろごろ、あの街この街など、子供も大人も琴線に触れる不世出な童謡が産まれました。

日本文化の研究家松岡正剛は西条八十の「唄を忘れたカナリヤ」に触れて、「唄を忘れたカナリア」とは、日本の古来の心の唄を忘れたカナリアの事ではないかと論評しています。

北茨城市野口雨情記念館

北茨城の磯原は海岸沿いに昔の陸前浜街道(現国道6号線)が走っています。野口雨情記念館を併設する北茨城市歴史民俗資料館はこの国道6号線沿いにあります。
国道6号線は常磐高速道と共に水戸から茨城県の海岸沿いをいわきに北上する2車線の街道ですが、大型トラックがひっきりなしに行きかういわゆる産業道路で、陸前浜街道のイメージとは程遠く、野口雨情の詩とは無縁に感じるほど趣に欠ける街道です。
しかしこの6号線沿いから海岸に出ると、そこは全くの別世界が広がります。

この北茨城の海岸も東日本大震災の津波が4,5mも押し寄せ、海岸近くの住宅は皆波をかぶりました。今では爪痕は復旧し、海岸には6m程度ギリギリに抑え海岸の景観をかろうじて維持している低い防潮堤が続いています。歴史民俗資料館の2階から磯原海岸の素晴らしい眺望が拡がります。

三木露風(手前)と野口雨情、早稲田詩社の頃、右は東京専門学校(現早稲田大学)入学時の野口雨情(左端)皆生意気そうです。

雨情の雅号について興味があり、どういう経緯で決めたのか、記念館のパネルに雅号について説明があり納得しました。

右の画像は函館トラピスト修道院です。金の船で雨情と共に童謡の詩作を行った三木露風は、洗礼を受けトラピスト修道院で教師をしていた時、寄宿舎の窓から赤トンボを見て、子供時代を回想して「赤トンボ」を作詞しました。

雨情も22歳で結婚して直ぐ樺太に向かいました。そして今度は新聞社に入社して北海道に行き、そこで啄木と知り合いになりました。その後は、その都度新聞社を変え北海道各地を転々としたのです。彼の人生は漂泊そのものです。2度の結婚、1度の同棲、ほとんど生涯にわたって故郷磯原には戻りませんでした。その背景には生家は手広く回漕業を営み2代にわたって村長を務め、叔父は衆議院議員でしたが、常磐線が開通し内航海運が鉄道に置き換えられ、しかも船舶事故で、実家は多くの借財を背負いました。父親の死によって帰郷し結婚したものの、借金取りのため生家に居られず、好きな詩作のため漂泊人生を送ったのです。

野口雨情生家

野口雨情の生家は資料館を併設し公開しています。雨情の最初の奥さんである「ひろ」さんが雨情との協議離婚後生家を守りました。雨情と「ひろ」さんとの間の長男の子である雨情直系のお孫さんの「野口不二子」さんが館長です。

「野口不二子」さんは茨城県北生涯学習センター長をお勤めしていた際、祖母の「ひろ」さんが雨情の書簡を初めたくさんの写真や資料を大事に保管していた事から、生家を資料館として公開したのです。そして各地の雨情ゆかりの地からの講演の依頼も積極的に応じてこられました。

生家の前の太平洋の浜辺

東日本大震災後に作られた防潮堤で海岸と仕切られていますが、市の野口雨情記念館から防潮堤の遊歩道を辿ると直ぐに生家前に着きます。
歩いてきた方向を振り返ると右に、一つしか無いのに二つ島が見えます。
左端の白い建物は今宵の宿磯原シーサイドホテルです。遠くに見える岬は五浦海岸です。宿としては五浦海岸の旅館の方が大型で名が通っていますが、あえて磯原海岸の宿に決めました。この辺りの宿は皆温泉です。

若き雨情が詩作に耽った天妃山

海岸に突き出た小さな山が天妃山です。雨情は若い時、満月が登ると天妃山の麓の岩の上で明け方まで詩作に耽っていたと言います。

天妃山は日本武尊の奥さんの弟橘姫を祀っています。

低い標高ながら2段に亘る急登があり、頂上には小さな社があります。

天妃山のピークからの太平洋の眺めです。五浦海岸の先には気流に乗せてアメリカ本土を爆撃させた風船爆弾の発射所もあり、太平洋の向こうにアメリカの存在を自然に意識してしまう場所です。青い目の人形や赤い靴の原型はこの太平洋の景観だったのでしょうか。

良く手入れされている生家です。昔は観海亭と呼ばれ現在より海岸はもっと近かったようです。

銅吹き屋根の門です。

車は市の記念館に置いてきて海岸沿いを歩いて生家に来ましたが、生家に届けに来ていたクリーニング屋さん曰く、あいにくお留守のようです。
庭の写真を撮りながら帰ろうとしてたら、一台の車がやってきてクリーニング屋さんが戻られましたと伝えに来てくれました。

直系のお孫さん、野口不二子さんの雨情伝

坪内逍遥の書簡、雨情の達筆な書、早稲田詩社の人々。金の船の数々、そして家系図などを前にして、各地に講演を行ったエピソードを交えながらの直系のお孫さんの「野口不二子」さんの説明はとても説得力があり、雨情についての著作を何冊か読んだくらいのボリュームがありました。特に磯原の海を見て天妃山に登りここまでやってきた僅かな時間が雨情の理解にとても役立ちました。
帰りがけに「不二子」さん著の「野口雨情伝」を紹介され記念に著書のサインと共に2人で写真を撮りましたが、シャッターを押し込まないと撮影できず、帰宅して画像を見たら撮影した画像はありませんでした。
帰宅してから本書を読みましたが、「不二子」さんの文章はさすが雨情の血を引いて名文でした。既に講談社で10版も重ねています。本書で雨情の漂泊人生の全貌が理解できました。さらに本書によって世間的に言えば放蕩を続けた雨情の最初の奥さんであり、雨情の生家を守った著者の祖母の「ひろ」さんの明治の女性の生き方に感動しました。下野喜連川の上級藩士の娘だった「ひろ」さんの武家育ちの凛とした生き方は、本書が雨情伝でありながら「ひろ」伝になっているような気がします。

ちなみに雨情の「雨降りお月」は馬に揺られてお嫁に行く童謡ですが、この不世出の童謡は「ひろ」さんが生家の喜連川から2日かけて、馬に揺られて磯原までお嫁に来た時の情景を描いたそうです。

小林弘忠 「金の船」ものがたり

本書は斎藤佐次郎が金の船を創刊した経緯や、早稲田詩社のメンバーがこれに加わった事、中山晋平が小学校教師をしていたことから、童謡の作曲には加わることができなかった事、本居長世について詳しく書かれており、童謡活動の勃興と終焉が余すことなく描かれています。本書は12年頃購入しましたが、本書に寄り雨情の童謡活動をしり、先の野口雨情伝によって雨情の人生を詳しく知りました。

本書では、野口雨情の童謡の考え方を、彼の口調で余すことなく語っています。佐次郎が酒を酌み交わしながら10歳もの年上の雨情に「野口先生、童謡とは何でしょうかね?」と問うと、雨情は強い茨城弁で「童謡?それは文芸でやんしょう」と直ぐ答えました。
佐次郎はこれを継いで「文芸というと芸術ですか?小説とか絵画とか古典音楽とか。  これに対して雨情は「ええ、そうそう。でも狭い意味の芸術とはちがうでやんしょうね。童心芸術っていえばいいんかなあ、童心の発露、童心をことばにする芸術。心から湧き立ってくるものをあらわす。ですから芸術の範疇になります。」と。  
佐次郎はまた雨情に尋ねました。「唱歌と童謡はちがいますね。」  
雨情はこの問いに答えて「ぜんぜんちがうでやんしょうね。唱歌は教える歌、習う歌でやんす。だから雅語や文語を使って格式ばる。子供にはわからない。わからないままうたうんでやんす。
斉藤さん、足ね、足を子どもは足といわない。脚ともいわない。あんよといいましょ。目だって瞳などとは絶対にいわない。お目めという。教えてうたわせるのではなく、しぜんとううたうのが童謡でやんしょうね。唱歌はお目めではなく、眸なんでやんすよ。」
「金の船ものがたり」では雨情の考え方として以下を続けています。 民謡は土の中から生まれた歌謡であり、童謡は子供の心を映す歌謡と言っていた。唱歌に芸術を加味したものが童謡であり、科学、伝統、知識などいっさいをとりのぞいた自然体の魂をうたうのが童謡であると説明した。野口流にいえば、童謡とは童心をとおして見た事物を音楽的旋律のあることばで表現する文芸ということになると。

さらに本書について続けます。
関東大震災後、多くの支援をしてくれた米国駐在の日系人たちにお礼として、本居長世は2人の娘と共に、外務省の後ろ盾でアメリカ西海岸各地で演奏旅行を行いました。
演奏会は大盛況でしたが、サクラメントの演奏会にセネター・ビルズという児童教育家が訪ねて来て、長世に童謡の秘密を尋ねました。
ヒルズは「アメリカにも子供の歌はありますが、ごくあたりまえのことをあたりまえに唄い、子供の心を唄っているのではない単なる情景歌で、日本の童謡のようにファンタジックではない。アメリカの歌はプリズムのように屈折がなく、表現が平坦で感動が薄い。」「どうして子供の気持ちを曲に織り込めるか、教えて欲しい。」

この問いにたいして長世は「日本人は、古来から自然を大切にしています。自然には魂が宿っていると考えています。自然崇拝のいにしえからの精神を、詩人も作曲家も頭に入れているのです。それと・・・。」少し口ごもって言おうか言うまいか迷ったが、はっきり言った。
「ご当地は、ご婦人が家庭の中心となっています。それもレディーが柱となっています。日本はそうではありません。子供を交えた一家が家庭の単位、その中で一番大切なのは子供と言う考え方です。夫と妻の愛情をつなぎとめるものも子供であり、子供を常に念頭においているので、子供の気持ちをつかんでいる。詩人、作曲家も例外ではありません。」と。

歌謡曲の誕生と中山晋平

信州中野市 中山晋平記念館 12年8月

中山晋平も故郷の作者高野辰之と同じ中野出身でした。辰之が東京音学学校(現東京芸大)で日本歌謡史を講義していた頃、学生の中に中山晋平もいたことが判り、おそらく唱歌の作者と唱歌好きの青年が、同郷の好で少なからず交友があったものと想像できます。

晋平の生家は名主を務めた旧家でしたが父親を亡くし、唱歌好きの母親に育てられた貧しい農家の息子の晋平は、やっとのことで高等小学校に進学し、卒業と同時に小学校の代用教員を務めました。晋平は母親ゆずりの唱歌好きで音楽への情熱が芽生え、早大教授の島村抱月が書生を募集していることを知り、18歳で単身上京し抱月のもとで書生をしながら東京音楽学校に入学しました。そして卒業後小学校の音楽教師をしながら作曲を行っていました。

大正2年に抱月が松井須磨子と芸術座を旗揚げし、トルストイの「復活」を上演するに当たって晋平は、抱月と相馬御風が作詩した劇中歌「カチューシャの唄」の作曲を依頼されました。この「カチューシャの唄」は松井須磨子が唄って大ヒットし我が国最初の流行歌になりました。
抱月と松井須磨子主宰した芸術座公演のトルストイの「復活」は大成功となり、大阪、京都、中国、九州と連続公演され、当時、蓄音機が普及し始めた頃で、「カチューシャの唄」のレコードは4万枚の大ヒットを記録しました。

中山晋平記念館 カチューシャの像



抱月は劇中歌の作曲者に抜擢した書生の晋平に、カチューシャの唄は「罪人としてひかれてゆく恋の歌だから、小学唱歌でも困る。そうかといって西洋の讃美歌でもない、日本的な俗謡とリート(西洋的小唄)の中間的旋律」というものでした。

歌詞は全10節からなり、第1節のみ抱月、第2節以降は相馬御風が作詞しました。ちなみに相馬御風は25歳の時に早稲田大学校歌「都の西北」を作詞しました。
「カチューシャの唄」が大ヒットした後、晋平は、その同じ年トルストイの「生ける屍」の劇中歌で、北原白秋の詩「さすらひの唄」を作曲し、更に翌年公演を行ったツルゲーネフ原作「その前夜」の劇中歌、吉井勇詩の「ゴンドラの唄」も作曲し大ヒットにしたのです。
この「カチューシャの唄」「さすらひの唄」「ゴンドラの唄」は名曲ですが、特に北原白秋詩の「さすらひの唄」はこれ1曲で劇ができる傑作と想います。この唄は後の野口雨情とのコンビでの名曲が予感されます。

中山晋平生家 中野市 12年8月

改めてあの時代松井須磨子の「カチューシャの唄」がヒットしたことを考えると、大正時代のわが国の大衆文化のレベルの高さには驚きます。
抱月は晋平に芸術には、高踏芸術と共に大衆芸術の必要性も説いたと云われています。この「カチューシャの唄」によって、その意図が見事に実現できました。

明治になり西洋音楽が導入されて唱歌が作られ、学校教育の場でオルガンに合わせて子供たちが唄い始めてから、25年位しか経っていないにもかかわらず、この頃から急速に普及した蓄音機に合わせて西洋音楽の「カチューシャの唄」による流行歌が誕生したのです。

また当時の環境は良く判りませんが、今の感覚から考えるとトルストイ原作の「復活」が大衆演劇として上演された事自体も驚きますが、その劇中歌が全国ヒットし、さらにツルゲーネフ原作の劇の劇中歌の「ゴンドラの唄」や、トルストイ原作の劇の劇中歌の「さすらひの唄」がヒットしたことを考えると、あの時代の大衆文化のレベルの高さは同時代のフランス以上ではないかと想うのです。
こうして翻訳唱歌から文部省唱歌、童謡、歌謡曲と続いた歌の世界は、民謡や演歌も加わって戦後も圧倒的に大衆に引き継がれて行きました。
日本人は極めて歌の好きな民族だと想います。やはり先史時代から文字を持たなかった代わりに言霊が異常に発達し、文字を持ったと同時に万葉集ができたお国柄があるのでしょう。

明治から今まで振り返ってみると、現代ではメロディづくりが発達しましたが、スゴッ!ハヤッ!ヤバッ!など話し言葉を含めて、言葉が極めて貧困になっているような気がします。TVなどメディアの責任なのでしょうか?

書店が10年間で半分になったと言われています。映像があれば文字の重要度は減りますが、しかし後世になった時、文字か映像かどちらがたくさん残るかと言ったら、やはり文字のような気がします。なぜなら想像力を働かせるなら文字の方が圧倒的に優れているからです。

磯原の海

ホテルのベランダから遠く天妃山を望みます。
野口雨情の詩には山より海を感じます。また彼の詩は細やかであるけれど、チマチマした詩ではありません。この黒潮が流れる太平洋の潮の風景が彼の詩作の原点であるように感じました。黒潮は金華山沖で親潮とぶつかりますが、若い頃、彼は黒潮に乗ってさらに樺太、北海道に渡りました。形は漂泊ですが、太平洋の潮がもたらす内なる潮の衝動のような気がします。

黒潮が流れる太平洋の海はテトラポットを並べても、凪の日にはこれだけの波が押し寄せます。

子供の頃家族で茅ケ崎の海岸で家を何日か借りて家族で海水浴を行いました。4,5日間位でしたが、波が荒く期間中漁師さんの伝馬船に乗っても沖に出られませんでした。海岸から沖に出る伝馬船は波を受けて、垂直になったかのように舳先を上げ恐怖に包まれました。その時以来私の頭には、太平洋の海は波で荒いものだという印象がこびりついてしまいました。中学になって昔の海軍に憧れましたが、遅く生まれて良かったです。
25歳の時グァム島に行き、同じ太平洋でも黒潮の無いグァムの海はまるで湖のように波がなくどこまでも平らで、海には波がつきものと信じていた私を驚かせました。

その時ポリネシア人たちは、軽い双胴船でグァムやハワイやサモアなど湖のような太平洋の海を行き来できたことが分かりました。その時、もし太平洋沿岸に黒潮が無く、ポリネシアの海のように湖のように静かだったら、日本人はスペイン人よりも早く北米大陸に行っていたかも知れないという妄想まで湧いてきました。黒潮は我が国に海人族をもたらし、フロンティアの幕開けを行いました。また黒潮がもたらす海は世界に比類のない豊かな縄文文化を生みました。また黒潮は我が国を守る代わりに海外への進出を阻害しました。そして海洋民族でありながら、内陸に安住し内陸に拘りました。また海洋国家でありながら大陸や半島が生命線だと勘違いした歴史もありました。それらは全て黒潮の存在がなせる業なのでしょうか。

夜の海です。潮騒を全く久しぶりに味わいました。ベランダの窓を閉めても一晩中聞こえました。潮騒とは潮の満ちた時に生じる波の音の事だそうですが、そんな定義はどうでもよく、波の音は独特です。潮騒を聴きながら寝るのは、数年前の南紀の海以来です。

夜明け前です。

旭日が登ってきました。

磯原や五浦海岸は鵜飼いで使用する鵜の産地です。長良川の鵜もここで捕獲するようです。鵜たちが揃って旭日を迎えています。

雨情の「波浮の港」は雨情の歌の中でも最も好きな歌の一つです。磯の鵜の鳥りゃ、日暮れにゃかへる、の詩は大島の波浮の港で作られたものではないそうです。しかし磯の鵜の鳥の詩は、まさに磯原の風景です。数年前下田港に行った時、この「波浮の港」の詩が突然湧いてきて、頭から離れませんでした。「波浮の港」は小林旭の曲も好きです。

波は本当に美しいです。

海に慣れていないのでボキャブラリーが思いつきません。

旭日が登り終わると景色が平凡になってきます。