早春の浜松の旅、枝垂れ梅の名所・奥山公園

3月5日、45年ぶりに浜松駅に降り立ちました。レンタカーの営業所が連なる東口広場は広大で、浦和や大宮駅前のようにバス乗り場やタクシー乗り場が混在せず、タクシー乗り場と一般車の乗降場とバスターミナルは完全に分けられていて、駅広場はとてもすっきりしています。


最も近年の広島や熊本など政令指定都市のバスターミナルは、新宿のバスタのように駅近くの巨大なビルに収容されており、すっきりした駅前広場がトレンドです。
初めて浜松の駅前のすっきりとした光景を眼にして、さいたま市を愛する私にとっても、浜松の駅前の都市景観はさいたま市より上だなと感じました。さいたま市の主要駅は浦和、新都心、大宮と分散しており、さいたま市が新都心駅周辺に市役所を移転して都市機能の中核をつくりたいという意図も分かるような気がしました。

ちなみに浜松は人口順では15番目の政令指定都市であり、静岡県の政令指定都市では静岡市と2分していますが、さいたま市は政令指定都市の人口順では9位であり、埼玉県では唯一の政令指定都市です。ついでに触れれば、さいたま市は日本総研の政令指定都市の幸福度ランクでは、近年一位から三位の間を上下しており、駅前の都市景観だけが都市の要素の全てでないことは理解していますが、都市景観の象徴である駅前の景観はイメージ的には目立つものです。

浜松はホンダ、ヤマハ、スズキのオートバイとヤマハ、カワイ、ローランドなどピアノを始めとする楽器産業では世界に冠たる都市で、更に昔から遠州織物の中核的な産地です。浜松は広い意味で中京圏ですが、とはいえ浜松は名古屋の衛星都市というには余りに距離があり、これだけの国際的企業の工場が位置し東海圏の産業の中心地の浜松の駅前の景観が立派過ぎることは決してありません。むしろ東京の衛星都市のさいたま市は、地方の政令指定都市のように、政令指定都市の機能を果たせば、それほど主要駅の駅前の都市景観にこだわる必要が無いのかも知れません。

実は45年前浜松を訪れた際、駅周辺のホテルが満室のため、仕方なく舘山寺温泉まで行って宿泊した経験がありました。その時すでに浜松には世界的企業が存在しているにかかわらず、これらの企業の工場を訪れるビジネスのホテルが少ないことを感じていました。浦和、大宮は東京に宿泊すればホテルは必要ありませんが、浜松は独立した産業圏であり、東京の衛星都市と状況が異なります。今回浜松駅前の都市景観を見て、浜松の都市空間は、浜松独自の産業空間とのバランスが取れたのだなと想いました。

東京駅を8:03発のひかりで、途中品川、新横浜から仲間が合流し9:30に浜松駅に着きました。自由席は新横浜で満席になります。大人の休日倶楽部の割引キップは
JR東海、JR西日本、JR九州管内では、割引キップ購入の際は休日倶楽部手帳に記入し窓口でしか購入できません。また新幹線はこだまとひかりしか3割引できないため、京都や奈良に行く場合は早いのぞみは利用することが無いため不便です。

しかし大人の休日倶楽部の乗車券100㌔以上区間と特急券が3割引きになるため、この割引効果は多大で、既に20年間利用していますが、この制度が無かったら、今までこれほど山に行ったり旅することは無かったでしょう。

今回はオリックスレンタカーを借りましたが、駅前の営業所に行くために歩道を歩きます。駅の続きにホテルオークラが入居しているアクトタワーが立っています。

奥山公園

この企画は、少し暖かくなったら、梅を眺めに静岡方面にでも行こうということで始まりました。
我々は岳人ですから、ただ梅林に梅の花を見に行くわけでなく、軽い山に登りながら梅を愛でようとという事で太郎良兄が企画を立て新井兄と共に、浜松内陸の富幕山の山麓に梅林があり、そこを愛でながら、富幕山に登り、日帰りではきついので浜松周辺に泊まり鰻でも食べようと話がまとまりました。

奥山公園入口 今回の同行者、山の会の中間の新井兄と太郎良兄

実は富幕山の名は聞いたことが無く、ネットで調べてみたら東海地方は山が少ないため人気の山であることが判りました。富幕山の山麓は奥山と呼ばれ、中腹の奥山高原には桜や梅、アジサイ、ツツジなどの花で名高い公園があり、そこで梅を愛でながらのんびりとピークを往復する計画でした。

実は私の食わず嫌いの悪い癖のため、家康嫌いで今まで家康の匂いがする三河、遠江、駿河には足を踏み入れたことはありませんでした。
私の家康嫌いは、東海の出身者なのに関東の覇者になったことです。生粋の東男を任じている私にとって、家康が関東勢と戦うことなくタナボタ式に関東の覇者になったからです。関東は武蔵相模武士に代表される坂東武者の故郷です。坂東の地を巡って死闘を繰り返した上杉、武田が覇権を握れず、また伊勢の住人伊勢新九郎こと北条早雲が優れた統治能力によって坂東武士団を従え覇権を握りました。秀吉は小田原北条攻めを最後まで行わず、東北を平定してから25万の大軍を擁して小田原攻めを行いました。
秀吉は小田原本城攻めより、関東の平定には伝説の坂東武者の末裔たちが籠る関東の支城攻略のために、秀吉軍最強の前田、上杉、真田の連合軍によって、北条支城の鉢形城、東松山城、岩槻城、八王子城1個ずつ落城させ、その結果本城は大した戦いも無く落城しました。
家康軍は小田原本城攻めに加わっただけで、坂東武者とは戦わずタナボタ式に関東の覇者になりました。最も秀吉は滅ぼされた坂東武者に反乱が生じ関東は統治できないだろうと踏んでいたようですが、そこは家康はさるもので、落城した有力な坂東武士を旗本に取り立てたり、帰農した坂東武者たちを村三役に取り立てて、徳川自体小さな政府で村の自治を大幅に認め領地運営を行いました。

室町末期、扇谷、山内両上杉と足利の古河公方の三つ巴から始まった日本の戦国時代でしたが、関東の戦いは野戦と攻城が主体で、調略の戦が主な西国の戦いと異なりました。関東と九州はは畑が主体で騎馬戦を行っても農地は修復できるため戦いは激しくなりますが、西国は水田が多く騎馬によって灌漑設備が壊れると復旧まで多大な時間がかかるため調略とか水攻めなどが行われましたが、こうした戦い主とした織田信長や秀吉も好きでなく、まして家康がどのようにして三河から天下人になったか興味がありませんでした。従って三河や遠江、そして駿府の地も縁が遠い地域でした。

旅好きな息子も、私の食わず嫌いから来る家康嫌いを良く知っていて、東海の旅は余り私に勧めないものの、大井川鉄道と掛川城については、機会があればそれなりの所だからと薦めていました。大井川鉄道については南アルプスに関連しているので、これはまた別な想いもあるのです。

駅からレンタカーで1時間ほどで奥山公園に着きます。途中三方ヶ原とか姫街道とか三ヶ日方面とか聞いたことがある地名の標識を見ながら走ります。近代的な都市景観は駅周辺だけで、郊外に入ると埼玉郊外というより北関東の風景に変わりますが、北関東の風景に比べて表情が険しく感じないのは気候が温暖だからでしょうか。

道はやがて平野から丘陵地帯に入ると井伊谷の地名が現れ、太郎良兄からここが井伊家の発祥の地だと教えられました。徳川四天王の筆頭の井伊氏の出身は井伊谷であると知っていましたが、井伊谷は伊那谷の中の一地域だと漠然と想っていましたが、井伊谷が浜松郊外だと知ると俄然浜松に興味が湧いて来たのです。

山を越えて三河に出る道を井伊谷で左に曲がると本格的な丘陵地帯の道から山道に代わり、奥山神社、奥山小学校が現れます。奥山公園という名は近年観光用になずけた名前でなく古来からの地名であることが判りました。

そして新東名高速道のガードを潜ると奥山高原に位置する奥山公園が現れました。

奥山公園の駐車場から当初予定した富幕山は約往復2時間の行程ですが、雨降りのため登山は諦め、公園を散策することにしました。

この奥山公園の売りは1000本の桜だそうですが、今は桜のシーズンでないため、大して期待はしていませんでしたが、このしだれ梅を見た時から、この公園の印象が一変してしまいました。

実に見事なしだれ梅です。しかも白梅のしだれ梅でした。

しだれ梅といえば大宮第2公園での陶器市は梅園広場で行われますが、梅林でも1本のしだれ梅が大事そうに公園事務所の前に囲み付きで植えられており、私家族も含めて多くの人たちが眺めていました。

近年私は桜や桃よりも梅に興味が移っており、紅梅は眼に入らず数少ない白梅ばかり目に入っています。奥山公園の老木のしだれ梅は私にゾクゾクするような感動を与えてくれます。

水辺にしだれ梅が実に効果的に配置されています。

大好きな白梅の緑顎梅です。顎が緑色のため開花すると純白になるのです。

桃の花は未だ蕾も付けていません。

これは河津桜の仲間でしょう。

緑顎梅の林です。

河津桜と白梅のミックスです。

私の地元の区役所の横に1本の河津桜があり、2階に上がる時に正面の窓に大きく枝を広げています。今の時期、区役所を訪れる人は皆鑑賞しています。
今の季節、伊豆の河津は桜見物で訪れた人で賑わっているでしよう。

見事な枝垂れ梅ですが、老木なのか肥料が足りないのか花の量が少ないように感じます。

大宮第ニ公園の梅林(昨年)

大宮第二公園の唯一の枝垂れ梅です。未だ木が若いため花量が豊富です。少し枝の量が多く剪定不足のような気がします。

大勢の人たちが梅を愛でています。